第34話 公爵令嬢様、茶会前日にすでに泣きそうです
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
明日、俺とリリスは王子殿下との茶会に参加する。
場所は学園内の小応接室。
参加者は、エドワード殿下、オスカー・ベルク。
そして俺とリリス。
必要であれば友人の同席も認める、という形だった。
昨日、オスカーから丁寧な伝言を受けた時点で、俺たちは即答せず、それぞれの家へ確認すると返事をした。
礼法の授業で習った通りだ。
日時、場所、同席者、目的。
それを確認し、家にも伝え、改めて返答する。
うん。
対応としては間違っていない。
間違っていないはずだ。
しかし問題は、その相手が王子殿下であることだ。
ただのお茶会ではない。
王子殿下が、リリスの自由研究に興味を持った。
さらに、俺とリリスの関係にも興味を示している。
昨日の食堂で、殿下は笑った。
俺の発言にも、リリスの言葉にも、少なくとも悪い反応ではなかった。
だが、だからといって気を抜けるわけではない。
むしろ、次はもっと踏み込んでくる可能性がある。
父上は朝食の席で、いつもより低い声で言った。
「アルフレッド、明日の茶会は受ける」
「はい」
「断れば、逆に不自然だ」
「分かっています」
「殿下は、リリス嬢の研究を口実にしている。これは学園内の話としても成り立つ」
「はい」
「だが、本当に研究だけで終わるとは限らん」
「……でしょうね」
父上は紅茶を置いた。
いつもの軽さはない。
シェルザート伯爵家当主としての顔だった。
「昨日、殿下はお前たちを見た。リリス嬢が自分の言葉で立つところ。お前が隣で答えるところ。そして、お前たちの関係が、ただの家同士の婚約ではないこともな」
「はい」
「次は、それを確かめる」
「確かめる……」
「おそらくな」
胸の奥が重くなる。
リリスが俺を信頼していると言った。
婚約者であることを誇りに思っていると言った。
俺は、嬉しい涙まで止めるつもりはないと答えた。
その言葉が、どこまで殿下に届いたのか。
明日、それを改めて見られるのだろう。
母上は静かに言った。
「アル、難しく考えすぎないで」
「母上」
「礼を尽くすこと。リリス様を尊重すること。自分を必要以上に低く見せないこと」
「はい」
「それだけでいいの」
「それだけ、ですか」
「ええ。難しく見えるけれど、本質はいつもと同じよ」
母上は穏やかに微笑んだ。
「あなたはリリス様の隣に立つ。リリス様は自分の言葉で話す。困ったら、一緒に考える」
「……はい」
「そして、泣きそうになったら」
「ハンカチですね」
「ええ」
その瞬間、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
父上も小さく笑う。
「結局、そこは変わらんな」
「変わりませんね」
「だが、大事だ」
「はい」
大事なのだ。
王子殿下との茶会であっても。
公爵家と伯爵家と王家の関係が絡んでいても。
リリスが泣きそうになるなら、俺はハンカチを出す。
たぶん、それが俺たちらしさだ。
ライズは背後で鞄を確認していた。
「若様、本日は茶会前日のため、ハンカチ七枚でございます」
「明日じゃなくて今日も七枚か」
「前日の不安涙、準備中の緊張涙、アマリリス様と相談した際の安心涙、若様が不用意に励ました場合の感動涙が想定されます」
「最後、俺のせいじゃないか」
「最重要でございます」
「やはり」
「また、本日は返答を決める日でもございますので、決意涙も考慮しております」
「涙の種類が多いな」
「アマリリス様ですので」
「その一言で納得できるのが悔しい」
ライズはさらに小さな紙を差し出した。
「本日の想定返答でございます」
「用意したのか」
「はい」
紙には、丁寧な字でこう書かれていた。
『このたびはお招きいただき、光栄に存じます。明日の放課後、小応接室での茶会につきまして、謹んでお受けいたします。自由研究について、未熟ながらもお話しできれば幸いです』
かなり整っている。
俺は思わず感心した。
「ライズ、有能すぎないか」
「恐れ入ります」
「これをそのまま使えばいいのか?」
「若様の言葉として、少し調整されるのがよろしいかと」
「そうだな」
父上が頷いた。
「ライズの文は綺麗だが、お前の言葉も必要だ」
「はい」
「殿下に向ける言葉だからこそ、借り物だけでは弱い」
「分かりました」
ライズは静かに一礼した。
「若様なら大丈夫でございます」
「お前まで強いことを」
「本心でございます」
「……ありがとう」
少しだけ胸が軽くなった。
学園へ向かう馬車の中、俺は今日の流れを考えていた。
まず正門でリリスに会う。
昨日の伝言を受けた後だから、彼女も緊張しているはずだ。
おそらく、フルーラ家ではセレスティア夫人がきっちり準備している。
ガロウ公爵は五十歩だか三十歩だか、とにかく下がらされているだろう。
レオナルド先輩はいつも通り冷静に見えて、内心はかなり妹を心配しているはずだ。
リリス本人は。
きっと、怖いと言う。
でも、逃げないと言う。
そしてたぶん、泣きそうになる。
その時に、俺はどう声をかけるか。
強すぎる言葉は危険だ。
しかし弱すぎても支えにならない。
言葉の半歩。
今の俺に必要なものだ。
正門前に着くと、リリスはすでにいた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
いつも通り美しい立ち姿。
だが、近づく前から分かった。
かなり緊張している。
背筋は伸びているが、指先が胸元でそっと握られている。
俺を見つけると、ほっとしたように笑った。
そして歩いてくる。
走らない。
でも、いつもより少し慎重な歩き方だった。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日はとても丁寧に歩いていました」
「お母様に、今日は一歩一歩を意識しなさいと言われました」
「セレスティア様らしいですね」
「はい」
リリスは少し笑った。
だが、その笑みはすぐに不安に揺れた。
「アル」
「はい」
「明日の茶会、受ける方向になりました」
「うちもです」
「やはり」
「はい」
「……怖いです」
「はい」
「でも、断る理由はありません」
「はい」
「研究についてお話しできるのは、光栄なことです」
「そうですね」
「でも、殿下は研究だけを聞きたいわけではない気がします」
リリスはちゃんと分かっている。
俺は頷いた。
「俺もそう思います」
「アル」
「はい」
「私は、また聞かれたら答えます」
「はい」
「アルを信頼していることも、婚約者であることを誇りに思っていることも」
「……はい」
「そこは変わりません」
リリスの声は震えていた。
でも、言葉はまっすぐだった。
俺は一拍置き、強すぎないように、でも曖昧にしないように言った。
「俺も、リリスの隣に立つ気持ちは変わりません」
リリスの目が一瞬で潤んだ。
「……アル」
「強かったですか?」
「強いです」
「でも、今日言わないといけない気がしました」
「はい。ありがとうございます」
「小声版ですか?」
「はい。朝一回目です」
リリスは深呼吸した。
涙は出なかった。
受け取った。
ミラが後ろで静かに微笑んでいる。
「お嬢様、本日の一回目は耐えられました」
「ミラ、数えないでください」
「記録は大切ですので」
「記録するんですね」
俺が言うと、ミラは当然のように頷いた。
「セレスティア様への報告に必要です」
「報告されるんですね」
「はい」
もう驚かない。
フルーラ家では、リリスの涙と半歩と心の状態がかなり詳細に共有されている。
たぶん、今日の朝一回目もセレスティア夫人に伝わるだろう。
そしてガロウ公爵が泣く。
そこまで見える。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは今日は軽い笑顔を浮かべながらも、目は冷静だった。
「おはよう。返答は受ける方向?」
「はい」
「うちも同じです」
リリスも答える。
エレナ嬢がそっと彼女の隣へ立った。
「アマリリス様、同席についてはどうなりそうですか?」
「お母様が検討中です」
「そうですか」
「エレナ様がいてくださると心強いです」
「もちろん、許されるなら同席いたしますわ」
リリスの目が潤む。
「危険です」
俺が言うと、リリスは深呼吸した。
「受け取ります」
「はい」
「エレナ様、ありがとうございます。そう言っていただけて、安心します」
エレナ嬢は嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
ユリウスが俺へ小声で言う。
「僕も同席できるならするけど、たぶん全員は難しいかもね」
「やはり?」
「殿下、オスカー、アマリリス様、アルフレッド。そこにエレナ嬢と僕が入ると、茶会というより作戦会議みたいになる」
「確かに」
「でも、エレナ嬢だけなら自然かも。アマリリス様の友人として」
「ユリウスは?」
「僕は近くで待機かな。必要なら後で情報整理する」
「助かります」
「友人だからね」
その言葉に、俺は少し笑った。
ユリウスは本当に頼りになる。
軽く見えて、よく見ている。
教室に入ると、昨日よりさらに視線が多かった。
オスカーから正式な伝言があったことは、もう一部に広まっているらしい。
ニールがすぐに近づいてきた。
「シェルザート君、明日……?」
「はい。殿下との茶会を受ける方向です」
「そっか」
ニールは少し緊張した顔になった。
「僕が言うのも変だけど、シェルザート君なら大丈夫だと思う」
「ありがとうございます」
「アマリリス様も」
「はい」
リリスは丁寧に礼をした。
「ありがとうございます、バートン様」
「昨日も、その前も、ちゃんと言えていたので」
リリスの目が潤みかける。
「……ありがとうございます」
受け取った。
涙は出ない。
すごい。
一時間目は自由研究準備だった。
リリスは明日の茶会で研究内容を話すことになるかもしれないため、今日は発表用に簡単なまとめを作ることになった。
先生もそれを理解していたようで、リリスの席に来ると、柔らかく言った。
「アマリリスさん、明日、研究について話す可能性があるのですね」
「はい」
「では、長く説明しようとせず、三つに絞りましょう」
「三つ」
「小声版、半歩、ハンカチの橋。今の研究の柱はその三つでしょう?」
「はい」
リリスは真剣に頷いた。
「それぞれを一文で説明できるようにしましょう」
「一文」
「長く話すと、緊張した時に迷いやすくなります」
「はい」
「まず、小声版は?」
リリスは少し考えた。
「自分が泣きそうな状態であることを、周囲に静かに伝えるための言葉です」
「よろしい」
「半歩は?」
「近づきすぎた心や距離を、否定せず少し整える考え方です」
「よろしい」
「ハンカチの橋は?」
リリスは少しだけ目を伏せ、それから言った。
「支えられた経験を、誰かを支えるためにつなげることです」
先生は微笑んだ。
「とても良いです」
「ありがとうございます」
「それをそのまま話せば大丈夫です」
「……はい」
リリスは深呼吸した。
小声版にはならなかった。
先生は俺の方へ視線を向けた。
「シェルザートさん」
「はい」
「あなたも説明を求められる可能性があります」
「はい」
「自分が作った概念だと思いすぎないこと」
「……はい」
「半歩は、あなたがきっかけを与え、アマリリスさんが育てたものです」
「分かっています」
「それを忘れなければ、自然に話せるでしょう」
「ありがとうございます」
その言葉は大きかった。
俺は半歩を作ったわけではない。
言ったのは俺だ。
でも、それを礼法や感情の整理に広げたのはリリスだ。
そこを間違えてはいけない。
休み時間、リリスが俺の席へ来た。
「アル」
「はい」
「三つに絞れました」
「聞いていました。とても分かりやすかったです」
「本当ですか?」
「はい」
「……強いです」
「でも、これは伝えたいです」
「はい」
リリスは深呼吸した。
「受け取ります。ありがとうございます」
「できていますね」
「はい」
「明日も、その三つを話せば大丈夫だと思います」
「アルも、一緒に」
「はい」
「……一緒」
「危険ですか?」
「危険ですが、支えです」
「ならよかったです」
二時間目は礼法。
ベイル先生は今日、黒板にこう書いた。
『高位者との対話前の準備』
完全に今日のための授業だった。
もはや誰も驚かない。
教室全体が真剣に聞いていた。
「高位者との対話で大切なのは、完璧な答えを用意することではありません」
先生の声は落ち着いている。
「自分の立場、相手への敬意、話すべき内容。この三つを整理しておくことです」
リリスがノートに書く。
俺も書く。
「特に、個人的な感情を含む内容を話す場合、感情を完全に隠す必要はありません。ただし、感情だけで話してはいけません」
刺さる。
今の俺たちに必要すぎる。
「感情は、言葉の熱になります。しかし、礼はその熱を相手に届く形へ整えます」
リリスが小さく頷いた。
たぶん、自分の研究にもつながると思ったのだろう。
先生は続ける。
「緊張した時は、短く、正確に。必要なら一拍置く。沈黙を恐れない」
沈黙を恐れない。
セレスティア夫人との面談前にも学んだ。
明日も必要になる。
授業後半では、簡単な模擬対話が行われた。
俺の相手はユリウス。
リリスはエレナ嬢。
ユリウスが今回はかなり真面目に殿下役をしてくれた。
「シェルザート殿、半歩という考えは、君がアマリリス嬢を制御するためのものなのかな?」
少し踏み込んだ質問。
俺は一拍置く。
「いいえ。制御ではありません。最初は距離を整えるための言葉でしたが、今はリリス自身が自分の感情を否定せず整えるための考え方として使っています」
「君は、その半歩にどう関わっている?」
「必要な時に、戻る場所を一緒に確認するだけです」
「なるほど」
ユリウスは小さく頷いた。
「いいね。制御じゃないってはっきり言えた」
「そこは大事だと思いました」
「うん。殿下も聞くかもしれない」
リリスの方では、エレナ嬢が質問していた。
「アマリリス様、小声版という言葉は、恥ずかしくありませんか?」
リリスは一瞬止まった。
だが、一拍置いて答える。
「恥ずかしくないわけではありません。ですが、私が泣きそうな状態を静かに伝えることで、周囲も私も落ち着けるようになりました」
「それを、弱さだと言われたら?」
エレナ嬢の質問は少し強い。
だが、必要な練習だ。
リリスは深呼吸した。
「弱さの一部かもしれません。でも、私はそれを隠すだけではなく、整える方法を学んでいます」
「よろしいと思います」
エレナ嬢が優しく微笑む。
リリスの目が潤んだ。
「危険です」
「受け取れますか?」
「はい。ありがとうございます」
ベイル先生が頷いた。
「二人とも、よく整理できています」
その言葉で、リリスの肩が少し下がった。
昼休み。
食堂では、王子殿下の姿はなかった。
オスカーも今日は離れた席に座っているだけだ。
だが、視線はある。
明日の茶会があることは広まっている。
食堂のざわめきの中に、小さな注目が混じっている。
俺たちはいつもの席に座った。
リリスは食事を前に、少しだけ息を整える。
「リリス」
「はい」
「食べられそうですか?」
「はい。お母様に、緊張する日ほど食べなさいと言われました」
「正しいです」
「お父様は、私が食べるだけで泣きそうでした」
「ガロウ公爵……」
ユリウスが笑いを堪える。
「もう日常のすべてが感動なんだね」
「はい。お父様なので」
リリスが普通に言う。
エレナ嬢がくすくす笑う。
「でも、愛されている証ですわ」
「はい」
「距離は?」
「五十歩です」
「遠いですわね」
「でも廊下経由で戻ります」
「戻らないでください」
俺がツッコむと、リリスが笑った。
少し緊張がほどけた。
昼食後、ユリウスが真面目な声で言った。
「明日の同席、僕は外でもいいと思う」
「ユリウス様?」
リリスが驚く。
「アマリリス様にはエレナ嬢がいた方がいい。僕もいた方が楽かもしれないけど、人数が増えすぎると殿下も本音を出しにくい」
「……なるほど」
「僕は近くにいる。終わった後、すぐ話を聞くよ」
「ありがとうございます」
「アルフレッド、君もそれでいい?」
「はい。助かります」
エレナ嬢は静かに言った。
「私が同席できるなら、アマリリス様の隣におります」
「エレナ様」
「でも、話すのはアマリリス様とアルフレッド様です」
「はい」
「私は、必要な時だけ支えます」
「……ありがとうございます」
リリスの目が潤む。
「小声版です」
俺はハンカチを出した。
エレナ嬢が水を差し出す。
ユリウスが話題を軽く変える。
完璧な連携。
午後の魔法基礎では、リリスは少し揺れながらも、しっかり戻していた。
明日のことを考えれば当然だ。
教師もそれを分かっているのか、厳しくは言わなかった。
「アマリリスさん、緊張していますね」
「はい」
「明日、何かありますか?」
「少し、大切な茶会が」
「そうですか」
教師は頷いた。
「なら、今日の揺れは自然です。戻せているなら十分です」
「ありがとうございます」
リリスは深呼吸した。
俺も、自分の魔力を整えながら思う。
緊張してもいい。
揺れてもいい。
戻せばいい。
その考えは、リリスだけでなく俺にも必要だ。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日は、いつもより少し厳しい顔だった。
「リリス」
「お兄様」
「母上の判断が出た」
「はい」
「明日の茶会は受ける。君とアルフレッド、エレナ嬢が同席。ユリウスは近くで待機」
「エレナ様も」
「母上が、君の支えとして適切だと判断した」
「……はい」
リリスの表情に安心が広がる。
俺も少しほっとした。
「アルフレッド」
「はい」
「君の家にも正式に確認が行くが、基本は同じだ」
「分かりました」
「明日の返答は、僕から殿下側へも伝える」
「ありがとうございます」
「父上は五十歩地点だ」
「まだ」
「明日の話を聞いて二十歩戻った」
「戻りすぎでは?」
「母上が百歩を検討した」
「ついに百歩!?」
リリスが口元を押さえて笑った。
レオナルド先輩も少しだけ笑う。
「まだ検討段階だ」
「検討しないといけないんですね」
「父上だからな」
「便利な言葉」
緊張していた空気が、少しだけ柔らかくなる。
正門で別れる時、リリスは今日一日の疲れが少し顔に出ていた。
でも、昨日よりも覚悟がある顔だった。
「アル」
「はい」
「明日、受けることになりました」
「はい」
「エレナ様も同席してくださいます」
「はい」
「ユリウス様も近くにいてくださいます」
「はい」
「お兄様も、お母様も、皆さまが準備してくださいました」
「はい」
「私、怖いですが」
「はい」
「一人ではありません」
「はい」
「今日の宝物名は?」
「正式な茶会に備えた日の宝物です」
「良い名前です」
「でも、もう一つ」
「はい」
「相談することも礼だと分かった日の宝物です」
「……とても良い名前です」
リリスの目が潤む。
俺はハンカチを差し出した。
「明日、一緒に行きましょう」
言ってから、また強いと思った。
リリスは泣いた。
でも笑っていた。
「はい。アル」
「はい」
「明日も、隣にいてください」
「もちろんです」
「……小声版では足りません」
「今日は大丈夫です」
リリスは涙を拭き、深呼吸した。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が去っていく。
俺はその後ろ姿を見送りながら、明日の茶会を思った。
王子殿下。
小応接室。
研究。
婚約。
信頼。
半歩。
ハンカチ。
全部が、明日一つの場に集まる。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「返答は決まったな」
「はい」
「明日、受ける」
「はい」
「エレナ嬢同席、ユリウスは近くに待機」
「そのようです」
「よい判断だ」
母上も頷く。
「リリス様も安心されるでしょう」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『明日の茶会、受けることになった。私は五十歩地点から二十歩戻った。セレスティアに百歩を検討された。遠すぎる。だが娘のためなら受け入れる。アルフレッド殿、明日も娘の隣に。頼む。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『明日の茶会は、リリス、君、エレナ嬢同席で確定。ユリウスは近くで待機。母上の判断だ。リリスは緊張しているが、準備できている。君も落ち着け。父上は百歩を回避するため、現在五十歩地点で姿勢よく座っている。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。明日の茶会について、エレナ様の同席を認める形で進めます。リリスには支えが必要ですが、話すのはあの子自身です。あなたにも、いつも通り隣にいていただければと思います。相談することも礼であり、支え合うことも礼です。なお、夫には百歩を検討しましたが、あまりに遠くて私の声が届きにくいため、五十歩で保留いたします。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
百歩は遠すぎて声が届かない。
セレスティア夫人、現実的。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「距離とは声が届いてこそでございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸った。
明日。
いよいよ王子殿下との正式な茶会。
俺は心の中で呟いた。
公爵令嬢様。
明日は、ちゃんと一緒に行きましょう。
五十歩先のお父様にも届くくらい、しっかり立ちましょう。
★★★
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
ついに、王子殿下との茶会当日である。
昨日の夜、フルーラ家から届いた書状には、茶会の形が正式に書かれていた。
参加者は、エドワード殿下。
その側近であるオスカー・ベルク。
リリス。
俺。
そして、リリスの支えとしてエレナ嬢。
ユリウスは同席せず、近くで待機。
レオナルド先輩も、たぶん近くにいる。
いや、絶対いる。
自然に待機している。
もう分かる。
そしてガロウ公爵は五十歩地点で姿勢よく座っているらしい。
百歩では声が届かないため、セレスティア夫人に五十歩で保留されたそうだ。
遠い。
だが、五十歩でも戻ってくるのがガロウ公爵である。
たぶん今日も戻る。
泣きながら戻る。
そしてセレスティア夫人にまた下げられる。
ここまで想像できるのが怖い。
朝。
俺はいつもより早く目が覚めた。
窓の外は薄く明るい。
空はよく晴れている。
雲は少なく、春の光が庭の木々を淡く照らしていた。
穏やかな朝だった。
だが、俺の心は穏やかではない。
王子殿下との正式な茶会。
しかも、研究の話だけで終わらない可能性が高い。
昨日、父上は言った。
礼を尽くせ。
だが、譲るな。
母上は言った。
リリス様が話せる時は待ちなさい。
困った時は支えなさい。
セレスティア夫人は言った。
いつも通り隣にいてください。
いつも通り。
その言葉が、一番難しい。
王子殿下の前でいつも通りにできるのか。
食堂で突然声をかけられた時は、ある意味勢いで乗り切った。
だが今日は違う。
あらかじめ整えられた場。
正式な茶会。
こちらも準備して行く。
逃げ道はない。
いや、また逃げ道の話になってしまった。
セレスティア夫人の影響が強すぎる。
俺が制服に袖を通していると、ライズが静かに部屋に入ってきた。
「若様、おはようございます」
「おはよう、ライズ」
「本日は、いよいよ茶会でございます」
「ああ」
「ご気分は?」
「正直、緊張している」
「よろしいかと」
「いいのか?」
「緊張しないよりは」
ライズはいつも通り真顔で襟を整える。
「本日の心得でございます」
「聞こう」
「一、礼を尽くす」
「はい」
「二、必要以上に下がらない」
「はい」
「三、アマリリス様の言葉を奪わない」
「はい」
「四、困った時は一拍置く」
「はい」
「五、嬉しい涙は止めない」
「……それも入るのか」
「若様ご自身の御発言でございますので」
「まあ、そうだな」
「六、王子殿下の前でもツッコミの声量を調整する」
「そこも重要だな」
「最重要かと」
「最重要なのか」
「はい」
俺は少し笑った。
その笑いで、肩の力が少し抜けた。
ライズは鞄を確認する。
「ハンカチは八枚」
「増えたな」
「本番でございますので」
「そうだな」
「香草茶の小袋も入れております」
「ありがとう」
「また、返答用の簡単な要点をこちらに」
ライズは小さな紙を差し出した。
そこには、短く要点がまとめられていた。
・研究の主軸は、感情を隠すことではなく整えること。
・半歩は制御ではなく、戻る場所。
・リリス自身が育てた考え。
・自分は婚約者として、隣で支える。
・王家への敬意は忘れない。
・リリスの意思を尊重する。
俺はその紙を見つめた。
言葉は短い。
だが、今日必要なものが詰まっている。
「助かる」
「若様の言葉でお話しください」
「ああ」
「それと」
「ん?」
ライズは少しだけ表情を柔らかくした。
「若様は、すでに何度も隣に立ってこられました」
「……そうか?」
「はい」
「今日は相手が王子殿下なだけでございます」
「だけ、とは言い切れないが」
「本質は変わりません」
母上と同じことを言う。
俺は小さく息を吐いた。
「ありがとう、ライズ」
「ご武運を」
「だから戦じゃない」
「精神的には近いかと」
「否定できない」
朝食の席では、父上と母上が待っていた。
父上はいつものように笑っていたが、目は真剣だった。
「アルフレッド、座れ」
「はい」
俺は席につく。
朝食はいつもより軽めだ。
だが、温かいスープと柔らかなパンが用意されている。
緊張していても食べやすいものだ。
母上の配慮だろう。
「食べなさい」
「はい」
「今日は頭も心も使う日だから」
「はい」
俺はスープを一口飲む。
温かさが胃に落ちる。
少しだけ落ち着いた。
父上が言った。
「昨日話した通りだ」
「はい」
「殿下が何を聞いてくるかは分からん。研究の話かもしれない。婚約の話かもしれない。あるいは、リリス嬢が王家との縁談を断ったことに触れるかもしれん」
そこ。
避けては通れないかもしれない。
俺は静かに頷いた。
「もし触れられたら?」
「まずはリリス嬢が答えるべきだ」
「はい」
「お前は急いで割り込むな」
「はい」
「ただし、リリス嬢が言葉に詰まった時、あるいは誤解が生まれそうな時は支えろ」
「はい」
「支えるとは、言い訳することではない」
「……はい」
「リリス嬢の意思を、隣で補うことだ」
俺は父上の言葉をゆっくり噛みしめた。
言い訳ではなく、補う。
前に出すぎない。
でも、黙りすぎない。
本当に難しい。
母上が柔らかく言う。
「アル、難しくなったら、昨日までのリリス様を思い出しなさい」
「昨日までのリリスを?」
「ええ。あの子は、ちゃんと自分で立とうとしているでしょう?」
「はい」
「なら、信じてあげることも支えよ」
「……はい」
「あなたが信じて待ってくれるから、リリス様は自分の言葉を出せるのだと思うわ」
胸の奥が少し熱くなる。
信じて待つ。
リリスが言葉を出せるように。
俺は頷いた。
「分かりました」
「よろしい」
父上は少し笑った。
「それと、殿下に対してツッコミすぎるな」
「父上まで」
「昨日の『嬉しい涙まで止めるつもりはない』は良かったが、毎回あれでは心臓に悪い」
「俺もそう思います」
「だが、お前らしさでもある」
「どっちですか」
「ほどほどだ」
「結局それですね」
ほどほど。
半歩。
今日の俺に必要な言葉だ。
屋敷を出る前、母上が小さな包みを渡してくれた。
「これは?」
「小さな焼き菓子よ。帰りにリリス様と食べてもいいし、帰ってからでも」
「ありがとうございます」
「甘いものは、緊張した後に効くわ」
「リリスが喜びます」
「あなたも食べなさい」
「はい」
父上は玄関で俺の肩に手を置いた。
「行ってこい、アルフレッド」
「はい」
「胸を張れ」
「はい」
俺は屋敷を出た。
馬車に乗り込み、学園へ向かう。
窓の外を流れる景色はいつも通りだった。
だが、今日は一つ一つの景色がやけに鮮明に見えた。
道端の花。
店先で布を広げる商人。
馬車の車輪が石畳を叩く音。
遠くの鐘。
心が緊張していると、世界の音がはっきり聞こえるのかもしれない。
俺は鞄の中の紙をそっと確認する。
ライズの要点。
母上の焼き菓子。
ハンカチ八枚。
準備はできている。
あとは、リリスと会うだけだ。
学園の正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
ただし、今日の彼女はいつも以上に丁寧に立っていた。
公爵令嬢としての姿勢。
背筋は伸び、顎は少し引かれ、手は静かに前で重ねられている。
遠目には完璧なお嬢様だ。
だが、俺には分かる。
緊張している。
指先が少しだけ固い。
呼吸が少し浅い。
俺が馬車から降りると、リリスはこちらを見た。
目が合う。
その瞬間、彼女の表情が少しだけ柔らかくなった。
歩いてくる。
走らない。
一歩一歩を確かめるように。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日は、とても綺麗に歩いていました」
リリスの目が潤みかける。
早い。
だが、彼女は深呼吸した。
「受け取ります」
「はい」
「ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです」
「できていますね」
「はい」
リリスは小さく息を吐いた。
その横でミラが静かに一礼する。
「アルフレッド様、本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「お嬢様は、昨夜から何度も三つの説明を練習なさいました」
「三つ?」
「小声版、半歩、ハンカチの橋でございます」
「やはり」
リリスは少し恥ずかしそうに俯く。
「お母様が、一文で言えるようにと」
「先生も同じことを言っていました」
「はい」
「聞かせてもらっても?」
俺が尋ねると、リリスは一瞬緊張した顔になった。
だが、すぐに頷く。
「はい」
彼女は背筋を伸ばした。
「小声版は、自分が泣きそうな状態であることを、周囲へ静かに伝えるための言葉です」
「はい」
「半歩は、近づきすぎた心や距離を、否定せず少し整える考え方です」
「はい」
「ハンカチの橋は、支えられた経験を、誰かを支えるためにつなげることです」
言い終えた。
完璧だった。
「リリス」
「はい」
「とても分かりやすいです」
「……っ」
「強かったですね」
「でも、受け取ります」
リリスは深呼吸した。
「ありがとうございます。これなら、殿下にもお話しできそうです」
「できます」
言ってから、少し強かったかと思った。
だが、リリスは涙を落とさなかった。
代わりに、小さく笑った。
「はい」
その笑顔を見て、俺も少し安心した。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
今日は二人とも、いつもより少し早く来ていたらしい。
ユリウスは軽く手を上げる。
「おはよう。いよいよだね」
「はい」
俺が答える。
エレナ嬢はリリスの手元をそっと見て、微笑んだ。
「アマリリス様、今日はとても落ち着いておられますわ」
「実は、かなり緊張しています」
「そう言えるなら大丈夫です」
「……はい」
「今日は私も同席いたします。必要なら、すぐ隣に」
「ありがとうございます」
リリスの目が潤みそうになる。
エレナ嬢が微笑んだまま言う。
「感情の半歩ですわ」
「はい」
リリスは深呼吸した。
泣かない。
今日は、泣くことを我慢しているのではない。
整えている。
ユリウスが俺に小声で言う。
「僕は茶会の間、近くの廊下か図書棟側にいる予定」
「ありがとうございます」
「終わったらすぐ合流しよう。話を整理した方がいい」
「はい」
「殿下の言葉は、一つ一つ意味があるからね」
「怖いことを言いますね」
「でも本当」
「分かっています」
ユリウスは軽く笑った。
「まあ、アルフレッドなら大丈夫だよ」
「根拠は?」
「昨日、殿下の前であれを言えたから」
「それ、広まっていますよね」
「かなり」
「やめてください」
エレナ嬢がくすくす笑う。
リリスは顔を赤くした。
「私は、嬉しいです」
「リリス、ここ廊下です」
「はい。感情の半歩です」
深呼吸。
笑いが少し戻る。
それだけで、朝の緊張が少し和らいだ。
教室に入ると、いつもより静かだった。
今日、俺たちが王子殿下との茶会に行くことは、もうかなり広まっている。
クラスメイトたちも、そのことを知っている顔をしていた。
だが、以前の噂の時とは違う。
好奇心はある。
心配もある。
そして、応援のような空気もある。
ニールが控えめに近づいてきた。
「シェルザート君、アマリリス様」
「おはようございます」
「おはようございます、バートン様」
「今日、茶会なんだよね」
「はい」
「……頑張ってください」
ニールは本当に真面目にそう言った。
リリスは丁寧に礼をする。
「ありがとうございます」
「アマリリス様の研究、僕もすごく良いと思うので」
「……っ」
「危険」
俺が小声で言うと、リリスは深呼吸した。
「受け取ります。ありがとうございます、バートン様」
「はい」
ニールは少し照れたように笑って、自分の席へ戻った。
クラリス嬢も、少し離れたところからリリスに会釈した。
そして小さく言う。
「アマリリス様、応援しております」
リリスの表情が柔らかくなる。
「ありがとうございます、クラリス様」
短い言葉。
でも、確かに届いている。
一時間目は自由研究準備だった。
今日のリリスは、普段より明らかに緊張していた。
ペンを持つ手が、時々止まる。
それでも、三つの説明を何度も書き、読み返している。
小声版。
半歩。
ハンカチの橋。
先生が近づいてきた。
「アマリリスさん」
「はい」
「今日は、発表練習ではなく、確認だけにしましょう」
「確認だけ、ですか?」
「はい。何度も練習しすぎると、逆に言葉が固くなります」
「……はい」
「あなたはもう言えます」
リリスの目が潤んだ。
先生は続けた。
「ですから、今日は言葉を覚えるより、呼吸を整えなさい」
「呼吸」
「一文言ったら、一息。次の一文を言ったら、また一息。それで十分です」
「はい」
「シェルザートさん」
先生が俺を見る。
「はい」
「あなたも、アマリリスさんが急ぎすぎたら、言葉ではなく視線で合図するとよいでしょう」
「視線で」
「声をかけると、場を遮ることもあります。目が合った時に一つ頷く。それだけで落ち着くこともあります」
なるほど。
俺は頷いた。
「分かりました」
リリスが俺を見る。
試すように。
俺は小さく頷いた。
リリスも息を吸って、少し微笑んだ。
「落ち着きます」
「ならよかったです」
先生が満足そうに頷いた。
「それで十分です」
休み時間。
リリスが俺の席へ来た。
「アル」
「はい」
「目が合って、頷いてくださると、落ち着きます」
「本当ですか?」
「はい」
「では、茶会でも必要ならそうします」
「お願いします」
「はい」
リリスは少しだけ黙った。
そして、声を落とした。
「アル」
「はい」
「もし、殿下が、なぜ王家ではなくアルを選んだのかと聞かれたら」
来た。
その質問。
俺も考えていた。
リリスも考えていた。
「答えられますか?」
俺が聞くと、リリスは少しだけ震える手を胸元で重ねた。
「はい」
「どんな答えを?」
「王家を軽んじたわけではありません、と」
「はい」
「ただ、私はアルを信頼し、婚約者として隣に立ちたいと思いました、と」
「はい」
「そして、私が私らしく泣きながらでも学べる場所を、アルが一緒に作ってくださったから、と」
胸が詰まった。
リリスは真っ直ぐだった。
「……それは、かなり強いですね」
「はい。自分で言って、泣きそうです」
「小声版?」
「はい」
俺はハンカチを出した。
リリスは受け取り、一粒だけ涙を拭いた。
「でも、言います」
「はい」
「もし聞かれたら」
「俺は、待ちます」
「はい」
リリスは涙を拭いて、少し笑った。
「アルが待ってくださるなら、言えます」
今度は俺が少し照れた。
二時間目は礼法。
ベイル先生は、今日の授業を短い確認にした。
『緊張する場での所作』
黒板に書かれた文字を見て、教室の空気が少し引き締まる。
「本日は、茶会や面談など、緊張する場で最低限守るべき所作を確認します」
先生はまず、入室時の礼。
着席前の挨拶。
茶器の扱い。
質問された時の一拍。
答えられない時の返答。
相手の言葉を否定せず、自分の立場を示す言い方。
それらを一つずつ確認した。
すべて今日使うかもしれない。
俺もリリスも、エレナ嬢も真剣に聞いた。
ユリウスは同席しないが、彼もかなり真面目にノートを取っている。
授業の最後、先生は全体に向けて言った。
「完璧である必要はありません」
教室が静かになる。
「礼法とは、相手を尊重するための形です。そして同時に、自分を失わないための支えでもあります」
リリスが小さく息を吸った。
「緊張しても、間違えても、すぐに終わりではありません。大切なのは、誠実に戻ることです」
戻る。
半歩と同じだ。
先生は俺たちを見ていない。
でも、確かに言葉は届いていた。
昼休み。
茶会は放課後だ。
だから昼食はしっかり食べる必要がある。
分かっている。
分かっているが、俺もリリスも少し食が細くなっていた。
エレナ嬢が心配そうに言う。
「アマリリス様、少しでも召し上がってください」
「はい」
ユリウスも俺を見る。
「アルフレッドも」
「はい」
「二人して緊張しすぎ」
「しています」
「だろうね」
リリスはスープを一口飲んだ。
俺もパンを少し食べる。
それを見て、リリスが安心した顔をする。
「アルが食べました」
「リリスも食べましたね」
「はい」
ユリウスが笑う。
「お互いを監視……じゃなくて見守ってるね」
「見守りです」
リリスが即答した。
俺も頷く。
「見守りです」
「息が合ってきたね」
「からかわないでください」
エレナ嬢が微笑む。
「でも、本当に支え合っておられますわ」
リリスの目が潤みかける。
「エレナ様、それは」
「強い?」
「はい」
「でも、本当です」
リリスは深呼吸した。
「受け取ります」
涙は出ない。
その後、クラリス嬢が少しだけ席に来た。
「アマリリス様」
「はい」
「今日の茶会、どうか無理なさらず」
「ありがとうございます」
「もし、緊張されたら」
クラリス嬢は少し迷い、自分のハンカチをそっと見せた。
「一応、持っています」
リリスの目が一気に潤んだ。
「クラリス様……」
「す、すみません、余計でしたか?」
「いいえ。とても嬉しいです」
俺はすぐにハンカチを出す準備をした。
だが、リリスは深呼吸した。
「受け取ります」
「はい」
「ありがとうございます。クラリス様のハンカチの橋、とても心強いです」
クラリス嬢の顔が赤くなる。
「はい」
そのやり取りを見て、周囲の空気が少し柔らかくなった。
噂で始まった傷が、ここまで変わった。
リリスが作った橋だ。
午後の授業は、正直、かなり長く感じた。
歴史の授業では王家の外交の話が出た。
魔法基礎では集中が必要だった。
リリスの魔力は少し揺れていたが、深呼吸で戻していた。
俺も、自分の魔力が普段より硬いのを感じた。
緊張している。
それでも、戻す。
リリスだけではない。
俺も半歩が必要だった。
そして、放課後。
ついに、その時間が来た。
教室の空気が変わる。
リリスは静かに筆記具をしまう。
手が少し震えている。
エレナ嬢がそっと隣に立つ。
俺も席を立つ。
ユリウスが軽く肩を回しながら言った。
「行こうか」
「はい」
教室を出る前、ニールが声をかけてくれた。
「シェルザート君、アマリリス様、エレナ様」
「はい」
「頑張ってください」
「ありがとうございます」
クラリス嬢も小さく礼をする。
「応援しております」
リリスはそれを受け取り、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
泣かなかった。
受け取った。
廊下に出ると、レオナルド先輩が待っていた。
予想通り。
いや、予想以上に自然だった。
まるで、そこにいるのが当然のように壁際に立っている。
「リリス」
「お兄様」
「行けるか?」
「はい」
「無理は?」
「しています」
正直。
レオナルド先輩の眉が少し動く。
リリスは続けた。
「でも、必要な無理です」
「……そうか」
「一人ではありません」
レオナルド先輩の表情が少し柔らかくなった。
「よく言った」
リリスの目が潤む。
「お兄様、それは強いです」
「今日は泣くなとは言わない。だが、小応接室に入る前に整えろ」
「はい」
兄らしい。
厳しいが優しい。
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「頼む」
短い。
だが、重い。
「はい」
「エレナ嬢」
「はい」
「リリスをよろしくお願いします」
「承知いたしました」
エレナ嬢が丁寧に礼をする。
ユリウスが軽く手を上げた。
「僕は近くに」
「頼む」
「はい」
レオナルド先輩は最後にリリスへ言った。
「父上は五十歩地点で耐えている」
「本当ですか?」
「現在、四十二歩まで戻った」
「戻っていますね」
「母上が六十歩へ修正した」
「お母様……」
俺は思わず言った。
「歩数が変動しすぎです」
リリスが笑った。
緊張で固かった頬が、少し緩む。
レオナルド先輩は小さく頷いた。
たぶん、これを狙っていた。
「行ってこい」
「はい」
俺たちは小応接室へ向かった。
廊下はいつもより長く感じた。
窓の外では、夕方の光が校舎の壁を淡く染めている。
廊下の床には、細長い影が伸びていた。
遠くから部活動の声がかすかに聞こえる。
いつもの学園の音。
だが、俺たちの周囲だけ、少し静かだった。
リリスは俺の隣を歩いている。
距離は近すぎない。
だが、いつもより少しだけ近い。
支えの距離。
エレナ嬢はリリスの反対側。
ユリウスは少し後ろ。
小応接室のある廊下へ入る前、リリスが足を止めた。
「アル」
「はい」
「少しだけ、息を整えてもよろしいですか?」
「もちろんです」
リリスは目を閉じた。
一度、息を吸う。
ゆっくり吐く。
もう一度。
俺は黙って待つ。
エレナ嬢も。
ユリウスも。
沈黙。
だが、嫌な沈黙ではない。
リリスが自分を整えるための沈黙だった。
やがて、彼女は目を開けた。
「大丈夫です」
「はい」
「小声版は?」
「今は、必要ありません」
「分かりました」
リリスは俺を見た。
「アル」
「はい」
「もし、私が急ぎすぎたら」
「頷きます」
「はい」
「もし、困ったら」
「一緒に考えます」
「はい」
「もし、泣きそうになったら」
「ハンカチを出します」
リリスは少し笑った。
「いつも通りですね」
「はい。いつも通りです」
「……それが、一番安心します」
俺は小さく頷いた。
そして、俺たちは歩き出した。
小応接室の扉が見える。
扉の前には、学園の使用人が一人控えていた。
そして、その少し横にオスカー・ベルクが立っていた。
昨日よりさらに礼を整えた姿。
彼は俺たちを見ると、静かに礼をした。
「アマリリス様、シェルザート殿、エレナ嬢。お待ちしておりました」
「お招きいただき、ありがとうございます」
リリスが答える。
声は少し緊張している。
でも、震えていない。
俺も礼をする。
「本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
オスカーは少しだけ俺を見る。
その目には、以前のような棘はほとんどなかった。
むしろ、測るような静けさがある。
「殿下は中でお待ちです」
リリスの指が少し動く。
俺は彼女を見る。
目が合う。
俺は小さく頷いた。
リリスは息を整え、頷き返した。
オスカーが扉へ手をかける。
その直前。
ユリウスが後ろから軽く言った。
「終わったら、いつもの場所で」
俺は振り返らずに答えた。
「はい」
リリスも小さく頷く。
エレナ嬢が静かに彼女の隣に立つ。
扉が開く。
中から、柔らかな紅茶の香りが流れてきた。
夕方の光が差し込む小応接室。
その中央で、エドワード殿下が立ち上がる。
穏やかな笑み。
けれど、視線はまっすぐこちらを見ていた。
「来てくれてありがとう、アマリリス嬢、シェルザート殿、エレナ嬢」
俺たちは一斉に礼をする。
そして、リリスが静かに言った。
「お招きいただき、ありがとうございます。エドワード殿下」
声は整っていた。
半歩で、立っていた。
俺はその隣で、静かに息を吸った。
茶会が、始まる。
★★★
小応接室の空気は、思っていたよりも静かだった。
広すぎない部屋。
淡いクリーム色の壁。
磨かれた木の床。
窓際には、季節の花が控えめに飾られている。
中央には小さな丸テーブル。
その周囲に、五つの椅子。
紅茶の香りが、まだ会話の始まらない空気の中にゆっくり広がっていた。
エドワード殿下は、柔らかく微笑んでいた。
だが、その目は穏やかなだけではない。
人を見ている目だ。
言葉だけではなく、間や表情まで見ている。
俺は背筋を伸ばした。
リリスも、俺の隣で静かに立っている。
エレナ嬢は、リリスの少し後ろに近い位置。
オスカーは殿下の斜め後ろ。
全員が礼を終えると、殿下は穏やかに言った。
「どうぞ、座ってくれ」
「失礼いたします」
俺たちは席についた。
配置は、殿下が正面。
その隣にオスカー。
向かいにリリスと俺。
エレナ嬢はリリスの隣。
近すぎず、遠すぎず。
ちょうど良い支えの距離だった。
リリスの指先が、膝の上で少しだけ動く。
緊張している。
だが、崩れてはいない。
俺は一瞬だけリリスを見る。
目が合う。
小さく頷く。
リリスは息を吸い、静かに吐いた。
半歩。
ちゃんと戻っている。
殿下はその様子も見ていた。
「今日は来てくれてありがとう」
「お招きいただき、光栄に存じます」
リリスが答える。
声は少し硬い。
けれど、きちんと届く声だった。
殿下は微笑む。
「昨日の食堂では、突然声をかけてしまったからね。今日は改めて、落ち着いた場で話を聞きたいと思ったんだ」
「はい」
「君の自由研究が、少し気になってね」
殿下の視線が、リリスへ向く。
リリスは一拍置いた。
「未熟な内容ではございますが、お話しできることがあれば幸いです」
「未熟?」
殿下は少し首を傾げた。
「私には、なかなか興味深いものに思えたが」
リリスの目が潤みかける。
早い。
だが、彼女は深呼吸した。
「ありがとうございます。受け取ります」
言えた。
殿下が少し目を細める。
「受け取ります、か」
「はい」
「それも、研究の一部かな?」
「はい。誰かからいただいた言葉を、過度に否定せず、けれど浮かれすぎず受け取る練習でもあります」
「なるほど」
殿下は楽しそうに頷いた。
「では、まず研究の概要を聞かせてもらえるかな」
「はい」
リリスは膝の上で指を軽く重ねた。
昨日も今日の朝も練習していた三つ。
小声版。
半歩。
ハンカチの橋。
それを話す時が来た。
リリスは静かに口を開いた。
「私の研究は、礼法における感情表現と周囲の配慮についてです」
声は少し震えていた。
だが、言葉は明確だった。
「感情を隠すことだけを目的とするのではなく、感情が動いた時に、自分と周囲がどう落ち着いて向き合えるかを考えています」
殿下は黙って聞いている。
オスカーも真剣な顔だ。
「その中で、今は三つの考えをまとめています」
「三つ?」
「はい」
リリスは一息置いた。
俺と目が合う。
俺は小さく頷く。
リリスも頷いた。
「一つ目は、小声版です」
殿下の口元が少し緩む。
だが、笑いものにする気配はない。
「自分が泣きそうな状態であることを、周囲へ静かに伝えるための言葉です」
「泣きそうだと、先に伝えるのか」
「はい」
「なぜ?」
リリスは一瞬だけ迷った。
だが、すぐに答える。
「突然泣くと、周囲を驚かせてしまいます。私自身も、泣いてはいけないと焦るほど、かえって落ち着けなくなります」
「ふむ」
「ですが、小声版です、と伝えると、私も周囲も、これは今感情が動いている状態なのだと分かります」
「つまり、状態の共有か」
「はい」
殿下は深く頷いた。
「面白い。感情を隠すのではなく、周囲に分かる形へ整えるのだね」
「はい」
リリスの表情が少しだけ明るくなる。
「二つ目は、半歩です」
来た。
この作品……いや、俺たちの関係にとって、かなり大事な言葉。
「半歩は、近づきすぎた心や距離を、否定せず少し整える考え方です」
「近づきすぎた心?」
「はい」
殿下が興味深そうに身を少し乗り出す。
「詳しく聞きたいな」
リリスは頬を少し赤くした。
「私は、その……感情が強く動くと、相手との距離が近くなりすぎることがあります」
知っています。
とても知っています。
だが、ここでツッコんではいけない。
王子殿下の前である。
俺は声量を抑えた。
心の中でだけ叫ぶ。
公爵令嬢様、それを自覚できるようになっただけで大成長です!!
リリスは続けた。
「ですが、離れなさいと強く言われると、拒絶されたように感じてしまうことがあります」
「なるほど」
「そこで、あと半歩だけ下がりましょう、と言っていただけたことがありました」
殿下の視線が俺に向く。
「シェルザート殿の言葉だね」
「はい」
俺は姿勢を正す。
「最初は、ただ距離を整えるための言葉でした」
「ただ?」
「はい。ですが、リリスはそれを、拒絶ではなく戻る場所として受け取ってくれました」
殿下は俺を見たまま、静かに言った。
「戻る場所」
「はい」
「君は、そういう意図で言ったのか?」
「最初からそこまで考えていたわけではありません」
正直に答えた。
「けれど、リリスがそう受け取ってくれたことで、俺も学びました」
「何を?」
「距離を止めることと、相手を拒絶することは違うのだと」
部屋の空気が少し静かになる。
殿下の目が、少しだけ鋭くなった。
「君は、アマリリス嬢を止めることがあるのか」
「あります」
「はっきり言うね」
「ありますので」
言ってしまった。
エレナ嬢が口元を押さえている。
リリスは顔を赤くしている。
オスカーは微妙な表情で俺を見ている。
殿下は一瞬黙った後、少し笑った。
「正直だ」
「失礼いたしました」
「いや、よい。続けて」
「はい。リリスは、感情が強くなると距離が近くなることがあります。ですが、それは相手を困らせたいからではなく、大切に思う気持ちが強いからです」
リリスが俺を見る。
目が潤んでいる。
危険だ。
だが、ここは止まらない。
「だから俺は、困った時は止めます。でも、嫌だから離れろという意味ではなく、ここまでなら大丈夫だと伝えるようにしています」
「それが半歩か」
「はい」
殿下はリリスへ視線を戻した。
「アマリリス嬢は、それをどう思っている?」
リリスは少し俯いた。
だが、すぐに顔を上げた。
「安心します」
「安心?」
「はい。アルが止めてくださる時、私は嫌われたのではなく、戻る場所を教えていただいたのだと感じます」
「……」
「だから、また話せます。近づきすぎた自分を責めるだけではなく、次は半歩を意識しようと思えます」
リリスの声は、少し震えていた。
けれど、その震えは弱さだけではない。
自分の心を言葉にしている震えだった。
殿下は静かに聞いていた。
「そして三つ目が、ハンカチの橋です」
リリスは、自分の膝の上に置いた手を少しだけ見た。
「私は、よく泣きそうになります。その時、アルやエレナ様、ミラ、周囲の方々からハンカチを差し出していただきました」
エレナ嬢が柔らかく微笑む。
「最初は、恥ずかしいと思っていました」
リリスは続けた。
「でも、そのハンカチに助けられたからこそ、泣きそうな方に気づいた時、私もハンカチを差し出せました」
クラリス嬢のことだ。
名前は出さない。
でも、あの出来事が彼女の言葉の中にある。
「支えられた経験を、誰かを支えるためにつなげること。それを、ハンカチの橋と呼んでいます」
言い終えた。
リリスは一度、息を吐いた。
小応接室は静かだった。
紅茶の香り。
外から聞こえる遠い鳥の声。
誰もすぐには口を開かなかった。
殿下はリリスを見ていた。
オスカーも、少し表情を変えていた。
エレナ嬢は誇らしそうにリリスを見ている。
俺は、隣で静かに胸が熱くなるのを感じていた。
リリスは言えた。
ちゃんと、自分の言葉で。
王子殿下の前で。
その沈黙を破ったのは、殿下だった。
「見事だ」
短い言葉だった。
リリスの目が一気に潤む。
「……ありがとうございます」
「泣きそうかな?」
殿下が穏やかに尋ねる。
リリスは少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり頷く。
「小声版です」
殿下が微笑んだ。
「では、深呼吸を」
王子殿下まで!!
俺は内心で叫んだ。
でも声には出さない。
出したら終わる。
リリスは本当に深呼吸した。
一度。
二度。
涙は落ちない。
「落ち着きました」
「よかった」
殿下は静かにカップを手に取った。
「君の研究は、礼法としても興味深い。感情を隠すのではなく、共有し、整え、支え合う。これは、単に泣き虫の令嬢が自分のために作った言葉ではないね」
リリスの表情が揺れる。
殿下は続けた。
「人と人が、傷つけ合わずに近づくための考え方だ」
リリスの目から、一粒落ちた。
今度は止まらなかった。
「リリス」
俺は小さく声をかける。
すぐにハンカチを出した。
リリスはそれを受け取り、目元を押さえた。
「すみません」
リリスが小さく言う。
殿下は首を横に振った。
「謝ることではないだろう?」
優しい声だった。
「嬉しい涙なのかな」
「はい」
リリスは涙の中で頷く。
「では、止める必要はないね」
その言葉に、俺の胸が少し鳴った。
殿下は俺の昨日の言葉を、覚えている。
嬉しい涙まで止めるつもりはない。
それを、今リリスに返したのだ。
リリスも気づいたらしい。
ハンカチを目元に当てたまま、少し笑った。
「ありがとうございます」
殿下は微笑んだ。
「シェルザート殿」
「はい」
「君は、彼女のこういうところをどう見ている?」
どう見ている。
難しい質問だ。
だが、逃げる質問ではない。
俺は一拍置いた。
「最初は、正直、驚きました」
「だろうね」
殿下が少し笑う。
「泣きそうですと言われても、どうすればいいのか分かりませんでしたし、距離が近いことにも戸惑いました」
「アル……」
リリスが小さく声を漏らす。
俺は彼女を見る。
大丈夫。
これは責める言葉ではない。
そう伝えるように小さく頷く。
リリスも頷いた。
「でも、今は少し分かります」
「何が?」
「リリスは、感情が豊かな分、人の感情にも気づける人です」
リリスの目がまた潤む。
「自分が泣きそうになることを知っているから、誰かが泣きそうな時にも気づける。支えられたことを大切にしているから、誰かにも差し出せる」
俺は言葉を選ぶ。
強すぎないように。
でも、曖昧にしないように。
「だから、泣くこと自体を悪いことにはしたくありません。ただ、場に合わせて整える力を、一緒に学んでいけたらと思っています」
殿下は黙っていた。
オスカーも。
小応接室には、静かな空気が満ちていた。
やがて、殿下が言った。
「君たちは、本当に面白い」
「……面白い、ですか」
「悪い意味ではないよ」
殿下は少し楽しそうに笑う。
「王家に生まれるとね、感情を整えることは当然だと教えられる。公爵家もそうだろう。泣きたい時に泣くなど、幼い頃ならともかく、人前では許されにくい」
「はい」
リリスが頷く。
「けれど君は、それをただ隠すのではなく、礼として扱おうとしている」
殿下はカップを置いた。
「私は、それを弱さとは思わない」
リリスが息を呑んだ。
「むしろ、珍しい強さだと思う」
「……っ」
「リリス」
俺はすぐにハンカチをもう一枚出しかけた。
リリスは首を横に振った。
「受け取ります」
震える声。
でも言えた。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、とても嬉しいです」
涙は一粒落ちた。
でも、言葉で受け取った。
殿下は満足そうに頷く。
「上手だ」
さらに強い。
リリスは危なかったが、深呼吸で耐えた。
エレナ嬢がそっと水を差し出す。
「アマリリス様」
「ありがとうございます」
リリスは水を一口飲んだ。
少し落ち着く。
すると、これまで静かにしていたオスカーが口を開いた。
「アマリリス様」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
リリスの表情が少し引き締まる。
オスカーの質問。
以前なら、少し怖かった相手だ。
だが今日の彼の声は、以前よりずっと丁寧だった。
「どうぞ」
「半歩という考えは、近づきすぎた距離を整えるものだと理解しました」
「はい」
「では、遠すぎる距離には、どう向き合われるのですか」
遠すぎる距離。
部屋の空気が少し変わった。
これは、ただの研究の質問ではない。
王家とフルーラ家。
リリスと王子殿下。
俺とリリス。
いろいろな距離を含んでいる。
リリスは少しだけ黙った。
俺は待つ。
彼女が答えられるなら、待つ。
リリスは一度、俺を見る。
俺は小さく頷く。
彼女は息を吸った。
「遠すぎる距離にも、半歩が必要だと思います」
「遠いのに、半歩ですか?」
オスカーが尋ねる。
「はい。一気に近づこうとすると、相手を驚かせてしまいます。ですが、遠いままでは声も届きません」
ガロウ公爵の五十歩を思い出した。
いや、今は真面目な話だ。
笑ってはいけない。
リリスは続ける。
「ですから、遠すぎる時は、半歩近づく。近すぎる時は、半歩下がる。大切なのは、相手と自分がどちらも息をできる場所を探すことだと思います」
オスカーが黙った。
殿下も、興味深そうに聞いている。
「私は、以前、殿下との縁談をお断りしました」
来た。
リリスが自分から触れた。
俺の胸が少し強く鳴る。
エレナ嬢も息を呑んだ気配がした。
オスカーの表情がわずかに動く。
殿下は黙っている。
リリスは続けた。
「それは、王家を軽んじたわけではありません」
「……」
「ただ、私はアルを選びました」
静かな声。
だが、まっすぐだった。
「そのことで、王家との距離が遠くなってしまったのだとしたら、私は逃げずに、半歩ずつでも礼を尽くして向き合いたいと思っています」
リリス。
俺は、声に出さず彼女の名前を呼んだ。
すごい。
この子は本当に、すごい。
自分の選択を、逃げずに言葉にしている。
王子殿下の前で。
オスカーの前で。
「ですが」
リリスは少しだけ手を握る。
「私がアルの婚約者であることは、半歩下がりません」
部屋が静まり返った。
強い。
あまりにも強い。
俺の心臓が持たない。
リリスは顔を赤くしている。
目も潤んでいる。
でも、言い切った。
殿下はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと息を吐くように笑った。
「なるほど」
その声は、昨日の食堂より少し深かった。
「そこは半歩下がらないのか」
「はい」
「譲れない?」
「はい」
「シェルザート殿」
突然、俺へ向く。
「はい」
「君は?」
君は、そこをどう思う?
そう聞かれている。
俺は一拍置いた。
父上の言葉が浮かぶ。
礼を尽くせ。
だが、譲るな。
「俺も、そこから逃げるつもりはありません」
「逃げる」
「はい。リリスが俺を選んでくれたことは、とても重いことだと思っています」
リリスが俺を見る。
「王家への敬意は忘れません。殿下へ失礼な態度を取るつもりもありません」
殿下は黙っている。
「ですが、俺はリリスの婚約者です。その立場を、軽く扱うつもりはありません」
言った。
言ってしまった。
王子殿下の前で。
でも、これだけは言わなければならなかった。
殿下はしばらく俺を見ていた。
その視線は柔らかくない。
試すような目。
だが、敵意ではない。
やがて、殿下は小さく笑った。
「よく言った」
その一言に、俺の胸の緊張が少しだけ緩む。
リリスの目から涙が落ちた。
「リリス」
「すみません……嬉しい涙です」
「止めない」
俺が言う前に、殿下が言った。
また。
殿下が、俺の言葉を使った。
リリスは涙の中で笑う。
「ありがとうございます」
オスカーは黙っていた。
その表情は複雑だった。
驚き。
納得。
そして、少しの反省のようなもの。
彼はゆっくり口を開いた。
「シェルザート殿」
「はい」
「以前、私はあなたを少し軽く見ていたかもしれません」
突然の言葉だった。
俺は目を瞬かせる。
リリスも驚いた顔をする。
オスカーは続けた。
「伯爵家の子息が、フルーラ公爵令嬢の婚約者として本当に隣に立てるのか、と」
正直だ。
かなり正直だ。
「ですが、今日のお話を聞いて、少なくともあなたがその立場から逃げていないことは分かりました」
「……ありがとうございます」
「完全に納得した、と言うにはまだ早いかもしれません」
オスカーは少しだけ口元を引き締める。
「ですが、見方は改めます」
リリスがほっとしたように息を吐いた。
俺も、少しだけ肩の力が抜けた。
殿下が微笑む。
「オスカーがここまで言うのは珍しい」
「殿下」
「よいことだろう?」
「……はい」
オスカーは少し居心地悪そうに視線を逸らした。
その姿は、以前より少し年相応に見えた。
殿下は改めて俺たちを見た。
「アマリリス嬢」
「はい」
「君の研究、発表の時にはぜひ聞きたい」
「ありがとうございます」
「シェルザート殿」
「はい」
「君の立ち位置も、興味深い」
「立ち位置、ですか」
「支配せず、守りすぎず、隣にいる。言葉にすると簡単だが、実際には難しい」
その通りだ。
俺は頷く。
「まだ、できているとは言い切れません」
「だろうね」
殿下は笑った。
「だが、できるようになろうとしている。それは見えた」
「……ありがとうございます」
殿下は紅茶を飲み、少しだけ表情を柔らかくした。
「実はね、私は少し不思議だった」
「何がでしょうか」
「アマリリス嬢が、王家との縁談ではなく、君を選んだ理由だ」
来た。
しかし、さっきリリスが先に触れたからか、空気はそこまで鋭くない。
「家格だけで見れば、不思議な選択だ」
「はい」
「だが今日、少し分かった」
殿下はリリスを見る。
「君は、完璧な場所ではなく、息ができる場所を選んだのだね」
リリスの目が大きく開いた。
その言葉は、深く届いたようだった。
「……はい」
小さな声。
「そうだと思います」
「そして、シェルザート殿」
「はい」
「君は、その場所を作ろうとしている」
「作れているかは分かりません」
「謙遜しすぎなくていい」
「……はい」
「ただし」
殿下の声が少しだけ王族のものになる。
「フルーラ公爵令嬢の隣に立つということは、甘いだけでは済まない」
「はい」
「王家との距離、貴族社会での視線、家格の差。これから先、もっと面倒なこともある」
「はい」
「それでも?」
殿下の目が俺を見ていた。
俺は息を吸った。
そして答えた。
「それでも、逃げません」
短く。
それだけ。
殿下は満足そうに頷いた。
「よろしい」
隣で、リリスが完全に泣いた。
「リリス」
「すみません……小声版ではなく、普通に泣いています」
「見れば分かります」
思わず言った。
殿下が笑った。
エレナ嬢も口元を押さえている。
オスカーも、少しだけ笑っていた。
空気が緩む。
俺はハンカチを差し出す。
リリスは受け取り、涙を拭いた。
「アルが、逃げないと」
「言いました」
「嬉しいです」
「はい」
「王子殿下の前ですが」
「はい」
「嬉しいです」
「分かっています」
殿下が穏やかに言う。
「アマリリス嬢」
「はい」
「君は本当に、分かりやすいね」
「……申し訳ありません」
「いや、褒めている」
「褒めて」
「そう。感情が分かりやすいことは、時に周囲を安心させる」
「安心、ですか?」
「少なくとも、君がシェルザート殿を信頼していることは、疑いようがない」
リリスがまた泣きそうになる。
エレナ嬢がそっと水を差し出す。
「アマリリス様」
「ありがとうございます」
リリスは水を飲んで落ち着いた。
茶会はその後、少し柔らかい話題へ移った。
自由研究の発表時期。
学園生活。
クラリス嬢との関係修復。
殿下はその話にも興味を示した。
「謝罪を受け取った後、お茶をしたそうだね」
「はい」
リリスが答える。
「なぜ、そこまでしたのかな」
「終わりにすると言った後、気まずさだけが残るのは苦しいと思いました」
「君が?」
「はい。私も、相手の方も」
「なるほど」
「すぐに友人になれるわけではありません。でも、同じ場でお茶をすることはできると思いました」
「それが、終わりの後の始まりか」
「はい」
殿下は感心したように頷いた。
「君の研究は、学園生活から生まれているのだね」
「はい。皆さまに助けていただいたことばかりです」
「そして、助けを受け取れることも才能だ」
リリスは泣きそうになった。
だが、深呼吸した。
「受け取ります」
「上手だ」
「……危険です」
小さく言ったリリスに、殿下が笑った。
茶会の空気は、最初よりずっと穏やかになっていた。
もちろん、緊張は残っている。
相手は王子殿下だ。
言葉一つ一つに意味がある。
だが、少なくとも敵対する場ではなかった。
殿下は最後に、カップを置いて言った。
「今日は良い時間だった」
「こちらこそ、ありがとうございました」
リリスが礼をする。
俺も続く。
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
殿下は微笑んだ。
「アマリリス嬢、君の研究発表を楽しみにしている」
「ありがとうございます」
「シェルザート殿」
「はい」
「君も、隣に立つ者として、発表を支えてあげるといい」
「はい」
「そして、オスカー」
「はい、殿下」
「君も少し学べたかな」
オスカーは一瞬固まり、それから丁寧に頭を下げた。
「はい。大変、勉強になりました」
「それはよかった」
殿下は楽しそうだった。
オスカーは少しだけ悔しそうだが、以前のような棘はない。
茶会が終わり、俺たちは席を立った。
リリスは最後まで礼を崩さなかった。
泣いた後なのに、きちんと公爵令嬢として立っていた。
小応接室の扉が開く。
廊下へ出ると、少し離れたところにユリウスがいた。
そして、さらに遠くにレオナルド先輩もいた。
いた。
やはりいた。
「終わった?」
ユリウスが小声で聞く。
「はい」
「どうだった?」
俺は少し考えた。
「濃かったです」
「だろうね」
リリスは廊下に出た瞬間、少し力が抜けたようだった。
エレナ嬢がそっと支える。
「アマリリス様」
「大丈夫です」
レオナルド先輩が近づいてくる。
「リリス」
「お兄様」
「泣いたな」
「はい」
「嬉しい涙か?」
「はい」
「ならよし」
兄の判定が早い。
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「逃げないと言ったそうだな」
「もう伝わっているんですか!?」
「扉の外までは聞こえない」
「ではなぜ」
「リリスの顔を見れば分かる」
リリスが顔を赤くする。
「お兄様」
「よく言った」
レオナルド先輩の言葉に、リリスがまた泣きそうになる。
「今日はもう、涙が多いです」
「分かっている」
レオナルド先輩は俺に視線を向けた。
「父上は泣く」
「でしょうね」
「母上は微笑む」
「でしょうね」
「僕は」
少しだけ間があった。
「少し、安心した」
「……ありがとうございます」
短いが、重い言葉だった。
その後、俺たちはいつもの場所へ移動し、ユリウスへ茶会の内容を簡単に共有した。
ユリウスは何度か頷きながら聞いていた。
「殿下は、かなり好意的だね」
「そう思いますか?」
「うん。ただし、興味は続いてる」
「やはり」
「敵意ではない。でも、王族としての関心はある。今後も関わりは増えると思う」
「……はい」
リリスは疲れていたが、落ち着いて聞いていた。
「オスカー様は?」
エレナ嬢が尋ねる。
ユリウスは少し考える。
「見方を変えたなら、大きいよ。彼が周囲にどう伝えるかで、空気がさらに変わる」
「良い方向に?」
「たぶんね」
リリスは小さく息を吐いた。
「よかったです」
「アマリリス様、今日は本当にお疲れ様」
ユリウスが言った。
リリスの目が潤む。
「ありがとうございます」
今度は泣かなかった。
受け取った。
だが、正門で別れる時。
リリスはついに涙をこぼした。
「アル」
「はい」
「今日は、言えました」
「はい」
「半歩も、小声版も、ハンカチの橋も」
「はい」
「王家を軽んじたわけではないことも」
「はい」
「でも、私はアルの婚約者であることは半歩下がらないと」
「はい」
「言えました」
「とても立派でした」
リリスは涙を流しながら笑った。
「今日の宝物名は」
「はい」
「王子殿下の前でも半歩で立てた日の宝物です」
「とても良い名前です」
「あと」
「はい」
「アルが逃げないと言ってくださった日の宝物です」
俺は少し言葉に詰まった。
「……それは、俺にとっても宝物です」
リリスの涙が増えた。
「アル」
「はい」
「強いです」
「今日はもう、いいと思います」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、涙を拭いた。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はそれを見送りながら、ようやく長く息を吐いた。
終わった。
王子殿下との正式な茶会。
リリスは立った。
俺も、逃げなかった。
そして、殿下もオスカーも、少し見方を変えた。
これはきっと、大きな一日だった。
その夜。
屋敷に帰ると、父上と母上が待っていた。
「どうだった?」
父上が聞く。
俺は答えた。
「逃げませんでした」
父上は満足そうに頷いた。
「よし」
「リリスも、ちゃんと言えました」
「そうか」
「殿下も、悪い反応ではありませんでした」
「なら上出来だ」
母上が微笑む。
「リリス様は泣かれた?」
「かなり」
「嬉しい涙?」
「はい」
「なら、よかったわ」
その後、フルーラ家から三通の書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『娘が泣きながら帰ってきた。嬉しい涙だった。殿下の前で立てたと聞いた。アルフレッド殿が逃げないと言ったと聞いた。泣いた。私が。五十歩地点から走り出し、セレスティアに百歩まで下げられた。遠い。だが今日は泣いてよい日だ。娘をありがとう。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『茶会は良い結果だったと判断する。リリスはよく話した。君も逃げなかった。オスカーの見方も変わった可能性がある。殿下は今後も関わるだろうが、敵意ではない。父上は走った。母上が百歩にした。僕も止めた。疲れた。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日はありがとうございました。リリスは泣き疲れながらも、とても誇らしげに帰ってまいりました。王子殿下の前で、自分の研究を語り、自分の選択を語れたこと。あの子にとって大きな半歩だったと思います。あなたが「逃げません」と言ってくださったことも、母として深く感謝いたします。なお、夫は五十歩地点から走りましたので、百歩へ移動しました。声は届きませんが、手紙なら届きます。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
百歩。
ついに百歩。
声は届かないが、手紙なら届く。
セレスティア夫人、冷静すぎる。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「愛は走り出すものでございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
王子殿下の前でも、よく半歩で立ちました!!
でも、お父様は百歩でも走ってきます!!




