第33話 公爵令嬢様、正式なお誘いに半歩で備えます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、王子殿下は直接こちらへ来なかった。
そのこと自体は、少し安心した。
食堂で突然声をかけられた翌日である。
もし連日来られたら、リリスの涙腺だけでなく、俺の胃もかなり危険だった。
だが、安心しきれるわけではない。
レオナルド先輩は言った。
殿下は次に、場を整える可能性が高い、と。
父上も同じようなことを言った。
王族が一度興味を示した相手に、二度目も偶然を装って近づくとは限らない。
むしろ、正式な形を取ることもある。
それはつまり、逃げ道のない会話がまた増えるということだ。
逃げ道。
そういえば、以前はセレスティア夫人の手紙にも書かれていた。
『逃げ道はございません』
あの時の胃の痛さを思い出す。
だが、セレスティア夫人との面談を越えた今なら分かる。
逃げ道がない場面でも、隣に立つ人がいれば、足は止まらない。
リリスにとってのそれが俺であるなら。
俺にとってのそれは、リリスだ。
今朝、朝食の席で父上が言った。
「今日あたり、何かしら伝言が来るかもしれんな」
「殿下からですか?」
「おそらくは、直接ではなく側近を通じてだろう」
「オスカー・ベルクですか」
「可能性は高い」
俺はスープを口に運びながら、少しだけ息を整えた。
「どう受ければいいですか?」
「礼を尽くす。内容を確認する。即答しなくてよいものは、家に持ち帰る」
「はい」
「ただし、学園内での軽い茶会や研究に関する対話であれば、断る理由は弱い」
「そうですよね」
「逃げるように断れば、逆に波が立つ」
父上の言葉は現実的だ。
王子殿下からの誘い。
それを無礼なく断るのは難しい。
ましてや、自由研究に興味があるという名目なら、学園の場として不自然ではない。
母上が静かに言った。
「リリス様にも、心の準備が必要ね」
「はい」
「今日、もし伝言が来たら、まず彼女の様子を見なさい」
「分かりました」
「答えを急ぐより、二人で同じ方向を向くこと」
「はい」
母上の言葉が胸に残った。
二人で同じ方向を向く。
隣に立つことの次は、それなのかもしれない。
ライズは鞄を確認しながら言った。
「若様、本日のハンカチは六枚でございます」
「昨日より一枚減ったな」
「昨日の余韻は一段落したと判断いたしました」
「なるほど」
「ただし、王子殿下から正式な誘いがあった場合、不安涙、決意涙、アルフレッド様と一緒に備えることへの安心涙が想定されます」
「やっぱり三種類あるのか」
「はい」
「俺は何に気をつける?」
「本日は、急に格好よいことを言わないこと」
「言う予定はない」
「若様は予定外に仰る傾向がございます」
「否定できない」
「特に『一緒に』や『隣に』などの言葉は強いです」
「もう普通の言葉が危険だな」
「アマリリス様にとっては、強い言葉でございます」
そう言われると、少し照れる。
でも、事実だ。
リリスは言葉を大切に受け取る。
だからこそ、俺も軽く言ってはいけない。
学園へ向かう馬車の中、俺は昨日のリリスを思い出していた。
昨日の言葉を受け取れた日の宝物です。
そう言って、彼女は泣いた。
王子殿下の前で言えたこと。
その翌日、それを自分の中で受け取れたこと。
リリスは本当に、少しずつ自分の心と向き合っている。
今日、もし正式な誘いが来たとしても。
きっと、彼女は怖がりながらも向き合うだろう。
俺も逃げてはいけない。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
昨日より、少し落ち着いた顔をしている。
俺を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
歩いてくる速度も穏やかだ。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日はかなり自然でした」
「昨日、お母様に言われました」
「何をですか?」
「大きな出来事の後ほど、朝はいつも通りに歩きなさい、と」
「セレスティア様らしいですね」
「はい」
リリスは少し笑った。
それから、少しだけ表情を引き締める。
「アル」
「はい」
「今日、殿下から何かあるかもしれないと、お兄様からも聞きました」
「俺も父上から聞きました」
「……少し怖いです」
「はい」
「でも、前よりは怖くありません」
「はい」
「昨日、言葉を受け取れたからだと思います」
「そうですね」
「それと」
リリスは俺を見上げた。
「アルが隣にいると、分かっているので」
来た。
俺が言う前に、リリスが言った。
自分で言って、少し顔を赤くしている。
「リリス」
「はい」
「今のは、ご自身で強い言葉を言いましたね」
「……はい」
「小声版ですか?」
「自分で言ったのに、小声版です」
「深呼吸しましょう」
「はい」
リリスは深呼吸した。
涙は出ない。
だが、嬉しそうだった。
ミラが後ろで静かに言う。
「お嬢様、本日はご自身で支えの言葉を口にできております」
「ミラ、恥ずかしいです」
「大切ですので」
いつものやり取り。
その普通さが、今日の支えになる。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは周囲を軽く見渡しながら言った。
「おはよう。今日は何か来そうだね」
「やはり分かりますか」
「廊下の空気が少し違う」
「空気」
「王子殿下の周囲の生徒が、いつもよりこちらを見ている」
俺もちらりと見る。
確かに、遠くにいる生徒がさりげなく視線を向けていた。
昨日までの噂とは違う。
観察だ。
エレナ嬢がリリスの隣で言う。
「アマリリス様、今日も無理なく」
「はい」
「もし正式なお誘いでしたら、一度確認してからでもよろしいはずですわ」
「はい」
リリスは頷いた。
「私、一人で即答しません」
「それがいいです」
「アルや皆さまと、確認します」
「はい」
ユリウスが少し笑う。
「ちゃんと相談できるのは強さだよ」
「強さ」
「うん。昔の貴族ほど一人で抱えるけど、今は違う」
「……ありがとうございます」
リリスは深呼吸した。
受け取れた。
教室に入ると、ニールが少し緊張した顔で近づいてきた。
「シェルザート君」
「おはようございます、バートン君」
「さっき、上級生の廊下で聞いたんだけど、今日、殿下の側近が来るかもしれないって」
「やはり」
「僕が言うのも変だけど、気をつけて」
「ありがとうございます」
リリスも丁寧に礼をする。
「ありがとうございます、バートン様」
「いえ」
ニールは少し照れたように笑った。
こうして周囲がさりげなく教えてくれる。
それがありがたい。
一時間目は自由研究準備だった。
リリスは「ハンカチの橋」の項目をさらに整えていたが、今日は何度か手が止まった。
仕方ない。
殿下からの伝言が来るかもしれないのだ。
集中しろという方が難しい。
先生も気づいているのか、リリスの席に近づいて穏やかに言った。
「アマリリスさん、今日は少し落ち着きませんか?」
「はい」
「大きな予定がありそうな日は、研究が進まないこともあります」
「はい」
「そういう日も、記録にはなります」
「記録」
「自分がどのような時に落ち着かなくなるのか。それを知ることも研究です」
リリスは目を開いた。
「それも、研究になるのですね」
「はい。感情を扱うなら、なおさら」
「ありがとうございます」
リリスはノートに小さく書いた。
『正式な場を前にした時の不安。半歩だけではなく、相談することも必要』
良い言葉だ。
俺は自分の席からそれを見て、静かに頷いた。
休み時間。
リリスが俺の席へ来た。
「アル」
「はい」
「相談することも、半歩でしょうか」
「そうかもしれません」
「一人で抱え込まず、相手と半歩分け合う」
「また良い言葉が出ましたね」
リリスの目が潤む。
「強いです」
「すみません」
「でも、嬉しいです」
リリスは深呼吸した。
「受け取ります」
「はい」
二時間目は礼法だった。
ベイル先生は今日、黒板にこう書いた。
『正式な招待を受ける礼』
教室中の視線が俺たちに集まりかけた。
先生はそれを見越していたのか、すぐに言った。
「これは貴族社会において、誰もが学ぶべき内容です」
誰もが。
その一言で、視線が少し散った。
ありがたい。
「正式な招待、あるいは対話の申し入れを受けた時、重要なのは即答することではありません」
先生は淡々と続ける。
「内容、日時、場所、同席者、目的。これらを確認し、自分の立場で答えてよいものか、家や保護者へ確認すべきものかを判断する必要があります」
まさに今日必要な授業だ。
「また、相手が高位者であっても、確認を求めること自体は無礼ではありません。むしろ、軽率に返答しないことが礼になる場合もあります」
リリスは真剣にノートを取っている。
俺も同じく。
「ただし、確認の言葉にも配慮が必要です。『考えます』だけでは拒絶に聞こえることもあります。『光栄に存じます。詳細を確認のうえ、改めてお返事いたします』など、敬意と保留を両立させる言葉を選びましょう」
それだ。
今日使う可能性がある。
俺はしっかり書いた。
授業では、正式な招待を受けた時の返答練習をした。
俺の相手はユリウス。
リリスはエレナ嬢。
ユリウスが王子殿下役をやりたそうだったが、今日はさすがに真面目にやった。
「シェルザート殿、後日、研究について少し話す時間をいただきたい」
「お声がけいただき、光栄に存じます。日時や場所、同席者について確認のうえ、改めてお返事いたします」
「いいね」
「硬いけど、これでいいですか?」
「今日なら硬くていい」
リリスも練習していた。
エレナ嬢が言う。
「アマリリス様、後日お茶をご一緒に」
リリスは一拍置いた。
「お誘いいただき、光栄に存じます。日時や場所を確認し、必要であれば家にも相談したうえでお返事いたします」
とても自然だった。
エレナ嬢が微笑む。
「完璧ですわ」
「……危険です」
「でも本当です」
「受け取ります。ありがとうございます」
ベイル先生が頷いた。
「よろしい。今日の二人はよく準備できています」
今日の二人。
やはり分かっている。
昼休み。
食堂に入る前から、俺たちは少し緊張していた。
オスカー・ベルクがいる。
それは分かっていた。
食堂へ入ると、王子殿下の姿はなかった。
だが、オスカーはいた。
彼は俺たちを見ると、席を立った。
来る。
食堂の空気が少し変わる。
昨日の殿下ほどではないが、注目は集まる。
オスカーは丁寧な足取りで近づいてきた。
以前のような棘は、かなり薄い。
少なくとも表面上は、礼を整えている。
「アマリリス様。シェルザート殿」
「ご機嫌よう、ベルク様」
「ご機嫌よう」
俺も礼をする。
オスカーは一拍置き、言った。
「エドワード殿下より、伝言を預かっております」
来た。
リリスの指が少し動く。
俺は隣で静かに立つ。
「昨日の食堂でのお話、大変興味深かったとのことです。特に、アマリリス様の自由研究について、改めてお話を伺いたいと」
リリスは深呼吸した。
「光栄に存じます」
声は少し緊張しているが、整っている。
オスカーは続けた。
「明後日の放課後、学園内の小応接室にて、短時間の茶会という形でいかがでしょうか。殿下、私、そして必要であればご友人の同席も認めるとのことです」
友人の同席。
意外だった。
ユリウスとエレナ嬢も少し反応した。
オスカーは俺を見る。
「シェルザート殿にも同席を望まれております」
「私も、ですか」
「はい。昨日のお話を受けて、殿下はお二人から直接伺いたいとのことです」
俺は一拍置く。
授業通り。
敬意と保留。
「お声がけいただき、光栄に存じます。日時、場所、同席者について確認のうえ、家にも伝え、改めてお返事いたします」
オスカーは少し目を細めた。
以前なら、そこで何か言ったかもしれない。
だが今日は、丁寧に頷いた。
「承知いたしました」
リリスも言う。
「私も、家へ確認のうえお返事いたします」
「はい」
オスカーはリリスへ視線を向けた。
「アマリリス様」
「はい」
「昨日のお言葉は、殿下にも印象深かったようです」
「……ありがとうございます」
「そして、シェルザート殿」
「はい」
「殿下は、あなたの返答も気に入られたようでした」
「恐れ入ります」
オスカーの表情は読みづらい。
だが、敵意だけではない。
どこか、見直したような色がある。
「では、良いお返事をお待ちしております」
彼は礼をして去っていった。
食堂の空気がゆっくり戻る。
リリスは小さく息を吐いた。
「アル」
「はい」
「言えました」
「はい。とても綺麗に言えていました」
「……小声版です」
「今は席に着いてからにしましょう」
「はい」
俺たちはいつもの席に着いた。
リリスは座ると、すぐにハンカチを受け取った。
涙は一粒だけ。
「怖かったです」
「はい」
「でも、昨日より怖くありませんでした」
「はい」
「授業で練習した通りに言えました」
「できていました」
「アルも」
「はい」
「一緒に、確認すると言えました」
「はい」
リリスはハンカチで目元を押さえる。
「一人で即答しなくていいのですね」
「はい」
「相談していいのですね」
「もちろんです」
エレナ嬢が優しく言う。
「アマリリス様、私も必要なら同席いたします」
「エレナ様」
「お役に立てるなら」
ユリウスも頷く。
「僕も。殿下が認めているなら、友人として同席できる」
「ありがとうございます」
リリスの目がまた潤む。
「今日は、嬉しいというより、安心です」
「安心涙ですね」
俺が言うと、リリスは少し笑った。
「はい」
午後の授業は、少し落ち着かなかった。
正式な誘い。
明後日の放課後。
小応接室。
殿下、オスカー、俺、リリス。
必要なら友人も同席可。
これは、かなり丁寧な形だ。
敵意むき出しではない。
むしろ、こちらに逃げ道を与えているようにも見える。
だが、王子殿下との茶会であることに変わりはない。
放課後。
レオナルド先輩は、いつもの場所で待っていた。
今日は最初から知っている顔だった。
「伝言が来たな」
「はい」
「明後日の放課後、小応接室」
「早いですね」
「上級生の耳は早い」
「もう驚きません」
レオナルド先輩はリリスを見る。
「リリス、返答は保留したか?」
「はい。家へ確認すると伝えました」
「よし」
次に俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「君もか?」
「はい。同じく、確認のうえ返答すると」
「よい判断だ」
「ありがとうございます」
「母上に伝える。父上にも」
「ガロウ公爵は大丈夫でしょうか」
「現在三十歩地点だ」
「まだ三十歩」
「ただし、王子殿下との茶会と聞けば戻る」
「でしょうね」
「母上が五十歩を検討している」
「遠すぎる!!」
リリスがくすっと笑った。
緊張が少しほどける。
レオナルド先輩も、少しだけ表情を緩めた。
「明日、返答を決めることになるだろう。おそらく受ける」
「はい」
「エレナ嬢とユリウスを同席させるかは、母上が判断する」
「分かりました」
正門で別れる時、リリスは少し疲れていた。
だが、昨日の余韻涙とは違う。
今日は「備える疲れ」だった。
「アル」
「はい」
「明後日、殿下とまたお話しするのですね」
「おそらく」
「怖いです」
「はい」
「でも、今日、保留できました」
「はい。とても良かったです」
「一人で決めなくていいと分かって、安心しました」
「はい」
「今日の宝物名は?」
「正式なお誘いに半歩で備えた日の宝物です」
「良い名前です」
「はい」
「リリス」
「はい」
「明日、一緒に準備しましょう」
言ってから、あ、と思った。
強い言葉だったかもしれない。
案の定、リリスの目が潤む。
「……一緒に」
「はい」
「強いです」
「今日は少し泣いても大丈夫です」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、涙を拭いた。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はそれを見送りながら、息を吐いた。
王子殿下との正式な茶会。
次の山が、目の前に形を持った。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「来たな」
「はい」
「明後日か」
「はい」
「受けることになるだろう」
「そうですね」
「明日、準備するぞ」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『殿下から正式な茶会の誘いが来たと聞いた。私は三十歩地点から一気に十歩まで戻った。セレスティアに五十歩下げられた。遠い。だが娘のためなら耐える。アルフレッド殿、明後日も娘を頼む。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『明後日の茶会は受ける方向で進める。母上が同席者について検討中。リリスはよく保留できた。君も判断は悪くない。父上は五十歩地点にいるが、廊下を使って距離を詰めようとして母上に見つかった。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日、リリスが正式なお誘いに対して、きちんと確認の言葉を返せたと聞きました。一人で抱えず、相談することも大切な礼です。明後日の茶会は、受ける方向でよいでしょう。友人の同席については、少し考えますね。なお、夫は五十歩地点から廊下経由で近づこうとしました。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
廊下経由。
ガロウ公爵、距離制限を物理的に迂回しようとしている。
父上は笑った。
リーマスは「愛は時に経路探索を行うのでございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
正式なお誘いには半歩で備えられました!!
でも、お父様は五十歩でも廊下から戻ってきます!!第33話 公爵令嬢様、正式なお誘いに半歩で備えます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、王子殿下は直接こちらへ来なかった。
そのこと自体は、少し安心した。
食堂で突然声をかけられた翌日である。
もし連日来られたら、リリスの涙腺だけでなく、俺の胃もかなり危険だった。
だが、安心しきれるわけではない。
レオナルド先輩は言った。
殿下は次に、場を整える可能性が高い、と。
父上も同じようなことを言った。
王族が一度興味を示した相手に、二度目も偶然を装って近づくとは限らない。
むしろ、正式な形を取ることもある。
それはつまり、逃げ道のない会話がまた増えるということだ。
逃げ道。
そういえば、以前はセレスティア夫人の手紙にも書かれていた。
『逃げ道はございません』
あの時の胃の痛さを思い出す。
だが、セレスティア夫人との面談を越えた今なら分かる。
逃げ道がない場面でも、隣に立つ人がいれば、足は止まらない。
リリスにとってのそれが俺であるなら。
俺にとってのそれは、リリスだ。
今朝、朝食の席で父上が言った。
「今日あたり、何かしら伝言が来るかもしれんな」
「殿下からですか?」
「おそらくは、直接ではなく側近を通じてだろう」
「オスカー・ベルクですか」
「可能性は高い」
俺はスープを口に運びながら、少しだけ息を整えた。
「どう受ければいいですか?」
「礼を尽くす。内容を確認する。即答しなくてよいものは、家に持ち帰る」
「はい」
「ただし、学園内での軽い茶会や研究に関する対話であれば、断る理由は弱い」
「そうですよね」
「逃げるように断れば、逆に波が立つ」
父上の言葉は現実的だ。
王子殿下からの誘い。
それを無礼なく断るのは難しい。
ましてや、自由研究に興味があるという名目なら、学園の場として不自然ではない。
母上が静かに言った。
「リリス様にも、心の準備が必要ね」
「はい」
「今日、もし伝言が来たら、まず彼女の様子を見なさい」
「分かりました」
「答えを急ぐより、二人で同じ方向を向くこと」
「はい」
母上の言葉が胸に残った。
二人で同じ方向を向く。
隣に立つことの次は、それなのかもしれない。
ライズは鞄を確認しながら言った。
「若様、本日のハンカチは六枚でございます」
「昨日より一枚減ったな」
「昨日の余韻は一段落したと判断いたしました」
「なるほど」
「ただし、王子殿下から正式な誘いがあった場合、不安涙、決意涙、アルフレッド様と一緒に備えることへの安心涙が想定されます」
「やっぱり三種類あるのか」
「はい」
「俺は何に気をつける?」
「本日は、急に格好よいことを言わないこと」
「言う予定はない」
「若様は予定外に仰る傾向がございます」
「否定できない」
「特に『一緒に』や『隣に』などの言葉は強いです」
「もう普通の言葉が危険だな」
「アマリリス様にとっては、強い言葉でございます」
そう言われると、少し照れる。
でも、事実だ。
リリスは言葉を大切に受け取る。
だからこそ、俺も軽く言ってはいけない。
学園へ向かう馬車の中、俺は昨日のリリスを思い出していた。
昨日の言葉を受け取れた日の宝物です。
そう言って、彼女は泣いた。
王子殿下の前で言えたこと。
その翌日、それを自分の中で受け取れたこと。
リリスは本当に、少しずつ自分の心と向き合っている。
今日、もし正式な誘いが来たとしても。
きっと、彼女は怖がりながらも向き合うだろう。
俺も逃げてはいけない。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
昨日より、少し落ち着いた顔をしている。
俺を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
歩いてくる速度も穏やかだ。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日はかなり自然でした」
「昨日、お母様に言われました」
「何をですか?」
「大きな出来事の後ほど、朝はいつも通りに歩きなさい、と」
「セレスティア様らしいですね」
「はい」
リリスは少し笑った。
それから、少しだけ表情を引き締める。
「アル」
「はい」
「今日、殿下から何かあるかもしれないと、お兄様からも聞きました」
「俺も父上から聞きました」
「……少し怖いです」
「はい」
「でも、前よりは怖くありません」
「はい」
「昨日、言葉を受け取れたからだと思います」
「そうですね」
「それと」
リリスは俺を見上げた。
「アルが隣にいると、分かっているので」
来た。
俺が言う前に、リリスが言った。
自分で言って、少し顔を赤くしている。
「リリス」
「はい」
「今のは、ご自身で強い言葉を言いましたね」
「……はい」
「小声版ですか?」
「自分で言ったのに、小声版です」
「深呼吸しましょう」
「はい」
リリスは深呼吸した。
涙は出ない。
だが、嬉しそうだった。
ミラが後ろで静かに言う。
「お嬢様、本日はご自身で支えの言葉を口にできております」
「ミラ、恥ずかしいです」
「大切ですので」
いつものやり取り。
その普通さが、今日の支えになる。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは周囲を軽く見渡しながら言った。
「おはよう。今日は何か来そうだね」
「やはり分かりますか」
「廊下の空気が少し違う」
「空気」
「王子殿下の周囲の生徒が、いつもよりこちらを見ている」
俺もちらりと見る。
確かに、遠くにいる生徒がさりげなく視線を向けていた。
昨日までの噂とは違う。
観察だ。
エレナ嬢がリリスの隣で言う。
「アマリリス様、今日も無理なく」
「はい」
「もし正式なお誘いでしたら、一度確認してからでもよろしいはずですわ」
「はい」
リリスは頷いた。
「私、一人で即答しません」
「それがいいです」
「アルや皆さまと、確認します」
「はい」
ユリウスが少し笑う。
「ちゃんと相談できるのは強さだよ」
「強さ」
「うん。昔の貴族ほど一人で抱えるけど、今は違う」
「……ありがとうございます」
リリスは深呼吸した。
受け取れた。
教室に入ると、ニールが少し緊張した顔で近づいてきた。
「シェルザート君」
「おはようございます、バートン君」
「さっき、上級生の廊下で聞いたんだけど、今日、殿下の側近が来るかもしれないって」
「やはり」
「僕が言うのも変だけど、気をつけて」
「ありがとうございます」
リリスも丁寧に礼をする。
「ありがとうございます、バートン様」
「いえ」
ニールは少し照れたように笑った。
こうして周囲がさりげなく教えてくれる。
それがありがたい。
一時間目は自由研究準備だった。
リリスは「ハンカチの橋」の項目をさらに整えていたが、今日は何度か手が止まった。
仕方ない。
殿下からの伝言が来るかもしれないのだ。
集中しろという方が難しい。
先生も気づいているのか、リリスの席に近づいて穏やかに言った。
「アマリリスさん、今日は少し落ち着きませんか?」
「はい」
「大きな予定がありそうな日は、研究が進まないこともあります」
「はい」
「そういう日も、記録にはなります」
「記録」
「自分がどのような時に落ち着かなくなるのか。それを知ることも研究です」
リリスは目を開いた。
「それも、研究になるのですね」
「はい。感情を扱うなら、なおさら」
「ありがとうございます」
リリスはノートに小さく書いた。
『正式な場を前にした時の不安。半歩だけではなく、相談することも必要』
良い言葉だ。
俺は自分の席からそれを見て、静かに頷いた。
休み時間。
リリスが俺の席へ来た。
「アル」
「はい」
「相談することも、半歩でしょうか」
「そうかもしれません」
「一人で抱え込まず、相手と半歩分け合う」
「また良い言葉が出ましたね」
リリスの目が潤む。
「強いです」
「すみません」
「でも、嬉しいです」
リリスは深呼吸した。
「受け取ります」
「はい」
二時間目は礼法だった。
ベイル先生は今日、黒板にこう書いた。
『正式な招待を受ける礼』
教室中の視線が俺たちに集まりかけた。
先生はそれを見越していたのか、すぐに言った。
「これは貴族社会において、誰もが学ぶべき内容です」
誰もが。
その一言で、視線が少し散った。
ありがたい。
「正式な招待、あるいは対話の申し入れを受けた時、重要なのは即答することではありません」
先生は淡々と続ける。
「内容、日時、場所、同席者、目的。これらを確認し、自分の立場で答えてよいものか、家や保護者へ確認すべきものかを判断する必要があります」
まさに今日必要な授業だ。
「また、相手が高位者であっても、確認を求めること自体は無礼ではありません。むしろ、軽率に返答しないことが礼になる場合もあります」
リリスは真剣にノートを取っている。
俺も同じく。
「ただし、確認の言葉にも配慮が必要です。『考えます』だけでは拒絶に聞こえることもあります。『光栄に存じます。詳細を確認のうえ、改めてお返事いたします』など、敬意と保留を両立させる言葉を選びましょう」
それだ。
今日使う可能性がある。
俺はしっかり書いた。
授業では、正式な招待を受けた時の返答練習をした。
俺の相手はユリウス。
リリスはエレナ嬢。
ユリウスが王子殿下役をやりたそうだったが、今日はさすがに真面目にやった。
「シェルザート殿、後日、研究について少し話す時間をいただきたい」
「お声がけいただき、光栄に存じます。日時や場所、同席者について確認のうえ、改めてお返事いたします」
「いいね」
「硬いけど、これでいいですか?」
「今日なら硬くていい」
リリスも練習していた。
エレナ嬢が言う。
「アマリリス様、後日お茶をご一緒に」
リリスは一拍置いた。
「お誘いいただき、光栄に存じます。日時や場所を確認し、必要であれば家にも相談したうえでお返事いたします」
とても自然だった。
エレナ嬢が微笑む。
「完璧ですわ」
「……危険です」
「でも本当です」
「受け取ります。ありがとうございます」
ベイル先生が頷いた。
「よろしい。今日の二人はよく準備できています」
今日の二人。
やはり分かっている。
昼休み。
食堂に入る前から、俺たちは少し緊張していた。
オスカー・ベルクがいる。
それは分かっていた。
食堂へ入ると、王子殿下の姿はなかった。
だが、オスカーはいた。
彼は俺たちを見ると、席を立った。
来る。
食堂の空気が少し変わる。
昨日の殿下ほどではないが、注目は集まる。
オスカーは丁寧な足取りで近づいてきた。
以前のような棘は、かなり薄い。
少なくとも表面上は、礼を整えている。
「アマリリス様。シェルザート殿」
「ご機嫌よう、ベルク様」
「ご機嫌よう」
俺も礼をする。
オスカーは一拍置き、言った。
「エドワード殿下より、伝言を預かっております」
来た。
リリスの指が少し動く。
俺は隣で静かに立つ。
「昨日の食堂でのお話、大変興味深かったとのことです。特に、アマリリス様の自由研究について、改めてお話を伺いたいと」
リリスは深呼吸した。
「光栄に存じます」
声は少し緊張しているが、整っている。
オスカーは続けた。
「明後日の放課後、学園内の小応接室にて、短時間の茶会という形でいかがでしょうか。殿下、私、そして必要であればご友人の同席も認めるとのことです」
友人の同席。
意外だった。
ユリウスとエレナ嬢も少し反応した。
オスカーは俺を見る。
「シェルザート殿にも同席を望まれております」
「私も、ですか」
「はい。昨日のお話を受けて、殿下はお二人から直接伺いたいとのことです」
俺は一拍置く。
授業通り。
敬意と保留。
「お声がけいただき、光栄に存じます。日時、場所、同席者について確認のうえ、家にも伝え、改めてお返事いたします」
オスカーは少し目を細めた。
以前なら、そこで何か言ったかもしれない。
だが今日は、丁寧に頷いた。
「承知いたしました」
リリスも言う。
「私も、家へ確認のうえお返事いたします」
「はい」
オスカーはリリスへ視線を向けた。
「アマリリス様」
「はい」
「昨日のお言葉は、殿下にも印象深かったようです」
「……ありがとうございます」
「そして、シェルザート殿」
「はい」
「殿下は、あなたの返答も気に入られたようでした」
「恐れ入ります」
オスカーの表情は読みづらい。
だが、敵意だけではない。
どこか、見直したような色がある。
「では、良いお返事をお待ちしております」
彼は礼をして去っていった。
食堂の空気がゆっくり戻る。
リリスは小さく息を吐いた。
「アル」
「はい」
「言えました」
「はい。とても綺麗に言えていました」
「……小声版です」
「今は席に着いてからにしましょう」
「はい」
俺たちはいつもの席に着いた。
リリスは座ると、すぐにハンカチを受け取った。
涙は一粒だけ。
「怖かったです」
「はい」
「でも、昨日より怖くありませんでした」
「はい」
「授業で練習した通りに言えました」
「できていました」
「アルも」
「はい」
「一緒に、確認すると言えました」
「はい」
リリスはハンカチで目元を押さえる。
「一人で即答しなくていいのですね」
「はい」
「相談していいのですね」
「もちろんです」
エレナ嬢が優しく言う。
「アマリリス様、私も必要なら同席いたします」
「エレナ様」
「お役に立てるなら」
ユリウスも頷く。
「僕も。殿下が認めているなら、友人として同席できる」
「ありがとうございます」
リリスの目がまた潤む。
「今日は、嬉しいというより、安心です」
「安心涙ですね」
俺が言うと、リリスは少し笑った。
「はい」
午後の授業は、少し落ち着かなかった。
正式な誘い。
明後日の放課後。
小応接室。
殿下、オスカー、俺、リリス。
必要なら友人も同席可。
これは、かなり丁寧な形だ。
敵意むき出しではない。
むしろ、こちらに逃げ道を与えているようにも見える。
だが、王子殿下との茶会であることに変わりはない。
放課後。
レオナルド先輩は、いつもの場所で待っていた。
今日は最初から知っている顔だった。
「伝言が来たな」
「はい」
「明後日の放課後、小応接室」
「早いですね」
「上級生の耳は早い」
「もう驚きません」
レオナルド先輩はリリスを見る。
「リリス、返答は保留したか?」
「はい。家へ確認すると伝えました」
「よし」
次に俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「君もか?」
「はい。同じく、確認のうえ返答すると」
「よい判断だ」
「ありがとうございます」
「母上に伝える。父上にも」
「ガロウ公爵は大丈夫でしょうか」
「現在三十歩地点だ」
「まだ三十歩」
「ただし、王子殿下との茶会と聞けば戻る」
「でしょうね」
「母上が五十歩を検討している」
「遠すぎる!!」
リリスがくすっと笑った。
緊張が少しほどける。
レオナルド先輩も、少しだけ表情を緩めた。
「明日、返答を決めることになるだろう。おそらく受ける」
「はい」
「エレナ嬢とユリウスを同席させるかは、母上が判断する」
「分かりました」
正門で別れる時、リリスは少し疲れていた。
だが、昨日の余韻涙とは違う。
今日は「備える疲れ」だった。
「アル」
「はい」
「明後日、殿下とまたお話しするのですね」
「おそらく」
「怖いです」
「はい」
「でも、今日、保留できました」
「はい。とても良かったです」
「一人で決めなくていいと分かって、安心しました」
「はい」
「今日の宝物名は?」
「正式なお誘いに半歩で備えた日の宝物です」
「良い名前です」
「はい」
「リリス」
「はい」
「明日、一緒に準備しましょう」
言ってから、あ、と思った。
強い言葉だったかもしれない。
案の定、リリスの目が潤む。
「……一緒に」
「はい」
「強いです」
「今日は少し泣いても大丈夫です」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、涙を拭いた。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はそれを見送りながら、息を吐いた。
王子殿下との正式な茶会。
次の山が、目の前に形を持った。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「来たな」
「はい」
「明後日か」
「はい」
「受けることになるだろう」
「そうですね」
「明日、準備するぞ」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『殿下から正式な茶会の誘いが来たと聞いた。私は三十歩地点から一気に十歩まで戻った。セレスティアに五十歩下げられた。遠い。だが娘のためなら耐える。アルフレッド殿、明後日も娘を頼む。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『明後日の茶会は受ける方向で進める。母上が同席者について検討中。リリスはよく保留できた。君も判断は悪くない。父上は五十歩地点にいるが、廊下を使って距離を詰めようとして母上に見つかった。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日、リリスが正式なお誘いに対して、きちんと確認の言葉を返せたと聞きました。一人で抱えず、相談することも大切な礼です。明後日の茶会は、受ける方向でよいでしょう。友人の同席については、少し考えますね。なお、夫は五十歩地点から廊下経由で近づこうとしました。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
廊下経由。
ガロウ公爵、距離制限を物理的に迂回しようとしている。
父上は笑った。
リーマスは「愛は時に経路探索を行うのでございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
正式なお誘いには半歩で備えられました!!
でも、お父様は五十歩でも廊下から戻ってきます!!




