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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第31話 公爵令嬢様、王子殿下にも半歩で立ちます


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 まず、ひとつ決めたことがある。


 この物語は、ひとまず百話を目標に進めていくことになった。


 ……いや、物語の中の俺が何を言っているのかという話ではあるが、最近の俺の周囲は本当に騒がしい。


 婚約者になった公爵令嬢リリスは、気品は満点なのに距離感は赤点。


 泣き虫で天然で、嬉しいことがあるたびに「小声版です」と涙目になり、近づきすぎた時には半歩で戻る。


 そして最近では、ハンカチを橋にし、謝罪を受け取り、支え合いを研究にし、ついには王子殿下の視線にも半歩で立てるようになった。


 成長している。


 本当に、リリスは成長している。


 その成長を隣で見ている俺も、たぶん少しずつ変わっている。


 最初は、ただツッコミが追いつかなかった。


 今も追いついていない。


 そこは変わらない。


 だが、今はツッコミながらも、リリスが何を感じ、何に揺れ、何を大切にしているのかを見るようになった。


 ……いや、見ないと大変なことになるから、という理由もある。


 だが、それだけではない。


 リリスが笑うと、嬉しい。


 リリスが泣くと、理由を知りたい。


 リリスが誰かを支えると、誇らしい。


 そう思うくらいには、俺は彼女を大切にしている。


 そんな穏やかで、少し騒がしい学園生活が続くかと思っていた。


 しかし。


 前日の食堂で、王子殿下――エドワード殿下がこちらを見ていた。


 それは一瞬ではなかった。


 明らかに、確認するような視線だった。


 レオナルド先輩は言った。


 次は殿下本人が動くかもしれない、と。


 父上も言った。


 礼を尽くせ。だが、譲るな、と。


 セレスティア夫人の手紙にもあった。


 礼を忘れず、けれど大切なものを手放さずに。


 大切なもの。


 俺にとっての大切なもの。


 それは、今なら分かる。


 リリスの隣に立つことだ。


 今朝、屋敷の食堂で父上はいつもより真面目だった。


「アルフレッド」


「はい」


「殿下が動くなら、今日は大事な日になる」


「分かっています」


「相手は王子殿下だ。礼を欠くことは許されない」


「はい」


「だが、必要以上に下がるな」


「はい」


「お前は伯爵家の子息であり、フルーラ公爵令嬢の婚約者だ」


 父上の声には、当主としての重みがあった。


「リリス嬢の隣に立つ者として、胸を張りなさい」


「……はい」


 母上は静かに紅茶を置いた。


「アル、殿下も十五歳の少年です」


「はい」


「王子としての立場はあります。でも、学園では同じ生徒でもあります」


「同じ生徒」


「ええ。恐れすぎず、軽んじず、きちんと向き合いなさい」


「はい」


「そして、リリス様が自分で答えられる時は、待つこと」


「分かっています」


「でも、彼女が困ったら支えること」


「はい」


 その距離が一番難しい。


 でも、ここ最近ずっと学んできたことだ。


 半歩。


 心の半歩。


 隣で待つこと。


 支えすぎず、離れすぎず。


 今日、それが必要になるかもしれない。


 ライズは鞄を確認しながら、いつものように言った。


「若様、本日のハンカチは六枚でございます」


「増えたか?」


「王子殿下対応日ですので」


「対応日って言うな」


「想定される涙は、不安涙、決意涙、殿下に対して半歩で立てた後の安堵涙、若様が毅然とされた際の感動涙でございます」


「最後、俺か」


「はい」


「俺が何か言うたび危険なんだな」


「本日は特に」


「分かった。言葉を選ぶ」


「ただし、選びすぎて弱くならぬよう」


 ライズの声が少し真面目になる。


「若様」


「なんだ」


「本日は、リリス様が見ておられます」


「……ああ」


「殿下だけではなく、アマリリス様が、若様が隣に立つ姿を見ておられます」


「分かっている」


「ならば大丈夫でございます」


 ライズは一礼した。


 今日は親指は立てなかった。


 それが逆に、気が引き締まる。


 学園へ向かう馬車の中、俺は窓の外を見ていた。


 王都の朝は穏やかだった。


 市場へ向かう荷馬車。


 通りを掃く店員。


 遠くから聞こえる鐘の音。


 いつもと同じ。


 だが、俺の胸の中は静かに緊張していた。


 王子殿下。


 リリスには、以前、王家から縁談が来ていた。


 だが彼女はそれを拒み、俺との婚約を望んだ。


 なぜそこまでして俺を選んだのか。


 最初はまったく分からなかった。


 今でも、時々分からなくなる。


 でも、リリスは真っ直ぐ俺を見てくれる。


 だから俺も、その選択を軽く扱ってはいけない。


 正門前。


 リリスはいつもの場所にいた。


 今日も制服姿。


 ブルーローズの髪飾り。


 朝日を受けて、金の髪が柔らかく光っている。


 俺を見つけると、いつものように笑った。


 けれど、その笑顔には少し緊張が混じっていた。


 走らない。


 歩いてくる。


 歩幅は落ち着いている。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。今日も落ち着いていました」


「……ありがとうございます」


 リリスは小さく深呼吸した。


「アル」


「はい」


「今日は、殿下が話しかけてこられるかもしれません」


「はい」


「少し怖いです」


「はい」


「でも、私はアルの婚約者です」


「はい」


「そこは、半歩下がりません」


 強い。


 朝から、とても強い。


 俺は一拍置いて頷いた。


「俺も、リリスの婚約者として隣に立ちます」


 リリスの目が一気に潤んだ。


「……それは、強いです」


「すみません。でも、今日は言っておきたかったので」


「嬉しいです」


「小声版ですか?」


「はい。朝一回目です」


「深呼吸を」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


 涙は出なかった。


 だが、頬は少し赤い。


 ミラが後ろで静かに微笑んでいた。


「お嬢様、本日はよい決意でございます」


「ミラ、恥ずかしいです」


「大切ですので」


 教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


「おはよう、二人とも」


「おはようございます」


「ご機嫌よう」


 ユリウスは今日は少し真面目だった。


「たぶん、今日か明日だと思う」


「殿下ですか」


「うん。昨日の感じだと、直接声をかける理由を探している」


「理由」


「学園内なら、自由研究、礼法、魔法基礎、食堂。いくらでもある」


 エレナ嬢がリリスの隣に立つ。


「アマリリス様、もし不安になったら、私も近くにおります」


「ありがとうございます、エレナ様」


「でも、アマリリス様なら大丈夫です」


「……はい」


「アルフレッド様もいますもの」


 リリスが俺を見る。


 俺も頷く。


「います」


「……小声版になりそうです」


「今は受け取りますか?」


 俺が聞くと、リリスは深呼吸した。


「はい。受け取ります」


 そして、少し震えた声で言った。


「ありがとうございます。私は、一人ではありません」


 その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。


 一時間目は自由研究準備だった。


 リリスは今日も「ハンカチの橋」についてノートをまとめていた。


 ただ、いつもより少しだけ手が止まる。


 やはり、王子殿下のことが頭にあるのだろう。


 俺も自分の研究を進めながら、時々彼女を見る。


 リリスは俺の視線に気づくと、小さく頷いた。


 大丈夫。


 そう言っているようだった。


 授業の途中、先生がリリスのノートを見て言った。


「アマリリスさん、研究の芯が見えてきましたね」


「芯、ですか?」


「はい。あなたの研究は、感情をどう隠すかではなく、感情とどう付き合うか、そして周囲とどう支え合うかを扱っている」


 リリスは真剣に聞いている。


「とてもよい方向です」


「ありがとうございます」


「ただ、発表では緊張するでしょう」


「はい」


「緊張しても構いません。半歩で整えればよいのです」


 先生まで自然に半歩を使う。


 もはやクラス内共通語だ。


 リリスは少しだけ笑った。


「はい」


 泣かなかった。


 受け取った。


 成長している。


 休み時間、クラリス嬢がリリスに短く声をかけた。


「アマリリス様、昨日のハンカチ、本当にありがとうございました」


「こちらこそ。返していただいて、ありがとうございました」


「また……お話しできれば嬉しいです」


「はい。私もです」


 短い会話。


 でも、とても自然だった。


 リリスが席へ戻る途中、俺の近くを通った。


「アル」


「はい」


「今、自然でしたか?」


「はい。とても」


「……嬉しいです」


「感情の半歩?」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


 涙はない。


 昼休み。


 食堂へ向かう前から、少し空気が違っていた。


 廊下の向こう側に、王子殿下の側近らしき生徒がいた。


 オスカー・ベルクだ。


 彼は俺たちを見て、軽く礼をしただけで去っていった。


 ユリウスが小声で言う。


「準備しているね」


「やはり」


「食堂か、中庭か」


 俺は息を整えた。


 リリスの横を見る。


 彼女は少し緊張している。


 でも、逃げてはいない。


 食堂に入ると、いつもより視線が多かった。


 王子殿下は、すでに席にいた。


 エドワード殿下。


 淡い金髪に、整った顔立ち。


 王族らしい落ち着いた微笑み。


 周囲には数人の生徒。


 その中にオスカーもいる。


 俺たちが入ると、殿下の視線がまっすぐこちらへ向いた。


 リリスが小さく息を吸う。


 俺は小声で言った。


「リリス」


「はい」


「半歩」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


 俺たちはいつもの席へ向かおうとした。


 その時。


「アマリリス嬢」


 食堂の空気が止まった。


 王子殿下の声だった。


 柔らかく、よく通る声。


 皆の視線が一斉にこちらへ向く。


 リリスは足を止めた。


 俺も止まる。


 ユリウスとエレナ嬢も少し後ろに控える。


 殿下は立ち上がり、こちらへゆっくり歩いてきた。


 食堂全体が、息を潜めるように静かになる。


 王子殿下が、公爵令嬢と、その婚約者である伯爵子息に声をかける。


 それは、学園内でも注目される場面だった。


 殿下は俺たちの前で足を止め、穏やかに微笑んだ。


「少しよろしいだろうか」


 リリスは一拍置き、丁寧に礼をした。


「はい、エドワード殿下」


 俺も礼をする。


「お声がけいただき、光栄に存じます」


 殿下は俺を見た。


「シェルザート伯爵子息も、共に」


「はい」


 逃げない。


 下がりすぎない。


 礼を尽くす。


 殿下は柔らかく言った。


「最近、君たちの話をよく耳にする」


 リリスの指が少し動く。


 俺は見ている。


 殿下は続けた。


「自由研究に、感情の礼法を扱っているそうだね」


「はい」


 リリスが答えた。


「感情を否定せず、場に合わせて整えること、また周囲と支え合うことについて調べております」


「興味深い」


 殿下は微笑む。


「小声版、半歩、ハンカチの橋……だったかな?」


 食堂がざわつきかけた。


 俺の内心もざわついた。


 殿下が全部知っている。


 リリスの顔が一気に赤くなる。


「……はい」


 声が少し震えた。


 俺は一歩前に出たくなった。


 だが、待つ。


 リリスは深呼吸した。


「少し、独特な言葉ではありますが」


 リリスは言った。


「私にとっては、大切な言葉です」


 殿下の目がわずかに細められる。


「大切?」


「はい。私は感情が動きやすく、泣きそうになることも多いです」


 食堂が静まり返る。


 リリスはそれを隠さなかった。


「ですが、それを恥じるだけではなく、どう向き合うかを学んでいます」


「なるほど」


「小声版は、自分の状態を伝えるため。半歩は、近づきすぎた心や距離を整えるため。ハンカチの橋は、支えられた経験を、誰かを支えるために使うことです」


 リリスの声は、最初より落ち着いていた。


 俺は隣で、静かに見ていた。


「とても良い考えだ」


 殿下は言った。


 リリスの肩が少し揺れる。


「ありがとうございます」


「シェルザート殿」


 今度は俺へ視線が向いた。


「君は、彼女の研究に随分関わっているそうだね」


「はい。多少ではありますが」


「多少?」


 殿下は微笑む。


「半歩は君の言葉だと聞いたが」


 来た。


 俺は一拍置いた。


「最初は、距離が近くなりすぎた時に、あと半歩だけ下がりましょうと伝えただけでした」


 食堂のあちこちで、小さな笑いが起きかける。


 だが、俺は続けた。


「ですが、リリスはそれを拒絶ではなく、戻る場所として受け取ってくれました」


 リリスが俺を見る。


「その考えを礼法や感情の整理に広げたのは、リリス自身です」


 殿下は黙って聞いていた。


「私は、彼女が自分で学んでいくのを、隣で少し手伝っているだけです」


 食堂が静かになる。


 殿下の視線が、少しだけ鋭くなった気がした。


「隣で」


「はい」


「婚約者として?」


「はい」


 俺は逃げずに答えた。


「婚約者として、そして同じ学園で学ぶ生徒として、隣に立ちたいと思っています」


 リリスの目が潤む。


 だが、彼女は泣かなかった。


 深呼吸。


 半歩。


 殿下はその様子を見ていた。


「アマリリス嬢」


「はい」


「君は、シェルザート殿を信頼しているのだね」


 食堂の空気が重くなる。


 リリスは一拍置いた。


 そして、はっきりと言った。


「はい。私は、アルを信頼しています」


 愛称。


 王子殿下の前で。


 食堂中が息を呑んだ。


 俺も、一瞬心臓が跳ねた。


 リリスは続ける。


「アルは、私の感情を笑いものにせず、でも必要な時には止めてくださいます。私が近づきすぎた時も、離れすぎそうな時も、半歩を教えてくださいます」


 頬は赤い。


 目も潤んでいる。


 でも、声はまっすぐだった。


「私は、アルの婚約者であることを誇りに思っています」


 強い。


 俺は言葉を失いそうになった。


 殿下は静かにリリスを見ていた。


 そして、ふっと微笑んだ。


「そうか」


 その声には、何か感情が含まれていた。


 悔しさか。


 納得か。


 面白がりか。


 まだ分からない。


「良い関係なのだね」


「はい」


 リリスが答える。


 殿下は俺を見た。


「シェルザート殿」


「はい」


「君は、なかなか面白い婚約者らしい」


「……恐れ入ります」


「アマリリス嬢を泣かせすぎないように」


 軽い冗談のように言った。


 だが、俺は一拍置き、真面目に答えた。


「はい。ですが、嬉しい涙まで止めるつもりはございません」


 食堂が完全に止まった。


 俺、言った。


 王子殿下の前で。


 殿下は目を丸くした。


 リリスは完全に目を潤ませた。


 ユリウスが後ろで肩を震わせている気配がある。


 エレナ嬢は口元を押さえている。


 殿下は少しの沈黙の後、声を出して笑った。


「なるほど」


 笑った。


 食堂の空気が少し緩む。


「君も、なかなか言う」


「失礼いたしました」


「いや、よい。実に正直だ」


 殿下は楽しそうに微笑んだ。


「また、改めて話そう」


「はい」


「アマリリス嬢、研究の発表を楽しみにしている」


「ありがとうございます」


「では」


 殿下は軽く礼をし、元の席へ戻っていった。


 食堂の空気が、少しずつ戻ってくる。


 だが、視線はすごい。


 俺は一気に力が抜けそうになった。


 リリスが隣で震えている。


「リリス」


「はい」


「大丈夫ですか?」


「……小声版では、足りません」


「でしょうね」


 俺はハンカチを出した。


 リリスは受け取り、目元を押さえる。


「でも」


「はい」


「言えました」


「はい。とても立派でした」


「アルも」


「はい?」


「嬉しい涙まで止めるつもりはない、と」


「言ってしまいました」


「嬉しかったです」


「食堂です」


「分かっています。でも、嬉しいです」


 涙が一粒落ちた。


 周囲は、もう騒がなかった。


 むしろ、見守っている空気があった。


 ユリウスが小声で言う。


「勝ったね」


「勝負ではありません」


「いや、今のはかなり強い」


 エレナ嬢も微笑む。


「お二人とも、とても素敵でしたわ」


「エレナ様」


「はい」


「今日は、もう泣きそうです」


「でしょうね」


 リリスはハンカチで目元を押さえながら、少し笑った。


 午後の授業は、正直あまり頭に入らなかった。


 だが、リリスは思ったより落ち着いていた。


 王子殿下と直接話した。


 自分の研究を説明した。


 俺への信頼を言葉にした。


 そのことで、少し自信がついたのかもしれない。


 魔法基礎でも、光は少し揺れたが、すぐに戻った。


 教師が言った。


「アマリリスさん、今日は大きな出来事があったようですが、よく戻せていますね」


「はい。半歩です」


「よろしい」


 もう先生も慣れたものだ。


 放課後。


 レオナルド先輩が待っていた。


 今日は顔が怖い。


 かなり怖い。


「リリス」


「お兄様」


「殿下と話したそうだな」


「はい」


「よく言った」


 リリスの目が潤む。


「ありがとうございます」


 レオナルド先輩は俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「嬉しい涙まで止めるつもりはない、と言ったそうだな」


「……はい」


「殿下の前で」


「はい」


「よく言った」


 怒られるかと思った。


 だが、褒められた。


「ありがとうございます」


「ただし、父上が聞いたら泣く」


「でしょうね」


「母上は微笑む」


「でしょうね」


「僕は」


 レオナルド先輩は少し黙った。


「少し、認める」


 少し。


 でも、重い。


「ありがとうございます」


 リリスが兄を見た。


「お兄様?」


「泣かない」


「まだ何も言っていません」


「泣かない」


 先回りした。


 怪しい。


 正門で別れる時、リリスはいつもより静かだった。


 でも、その静けさは不安ではない。


 大きな出来事の後の余韻だった。


「アル」


「はい」


「今日は、殿下に言えました」


「はい」


「アルを信頼していると」


「はい」


「婚約者であることを誇りに思っていると」


「……はい」


「言えました」


「本当に、よく言えました」


 リリスの目が潤む。


「今日の宝物名は?」


「王子殿下の前で半歩で立てた日の宝物です」


「とても大きな宝物ですね」


「はい」


「リリス」


「はい」


「俺も、リリスがそう言ってくれて嬉しかったです」


「……っ」


「今日は泣いていいです」


「はい」


 リリスは泣いた。


 でも、笑っていた。


 俺はハンカチを渡した。


 ミラも静かに微笑んでいた。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 馬車が去っていく。


 俺はその後ろ姿を見送りながら、長く息を吐いた。


 王子殿下との初めての直接対話。


 何とか終わった。


 だが、殿下は「また改めて話そう」と言った。


 終わりではない。


 むしろ、始まりだ。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上が待っていた。


 すでに知っている顔だった。


「殿下の前で、なかなか言ったそうだな」


「はい」


「嬉しい涙まで止めるつもりはない、か」


「……はい」


「いいじゃないか」


「そうですか?」


「ああ。お前らしい」


 母上も嬉しそうに微笑んだ。


「リリス様、喜ばれたでしょう」


「泣きました」


「でしょうね」


 その後、フルーラ家から書状が届いた。


 一通目、ガロウ公爵。


『殿下の前で娘が「アルを信頼しています」と言ったと聞いた。泣いた。私が。アルフレッド殿が「嬉しい涙まで止めるつもりはない」と言ったと聞いた。さらに泣いた。娘を頼む。私は現在、心も体も二十歩下がっている。遠すぎる。 ガロウ』


 二通目、レオナルド先輩。


『殿下との初接触は概ね良好。リリスはよく立った。君も悪くない発言だった。父上は泣いた。かなり泣いた。母上が二十歩下げたが、涙で五歩進んだ。油断は禁物。殿下はまた話すつもりだろう。 レオナルド』


 三通目、セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日はリリスが、少し泣き疲れた顔で、それでも誇らしげに帰ってまいりました。殿下の前で自分の言葉を言えたこと、そしてあなたが隣にいてくださったこと。母として嬉しく思います。「嬉しい涙まで止めるつもりはない」という言葉、よろしいですね。夫が大変泣きましたので、二十歩ほど下げました。継続が大切です。 セレスティア』


 俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。


 二十歩。


 ついに二十歩。


 それでも五歩進むガロウ公爵。


 愛が強すぎる。


 父上は笑った。


 リーマスは「嬉しい涙は止められぬものでございます」と頷いた。


 ライズは静かに親指を立てた。


 俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 王子殿下の前でよく立ちました!!


 でも、お父様は二十歩でも近すぎます!!

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