第29話 公爵令嬢様、差し出したハンカチを思い出して泣く
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、リリスはクラリス・メイベル嬢とお茶をした。
少し前に、リリスと俺を傷つけるような言葉を口にしてしまった令嬢。
けれど、彼女はきちんと謝り、リリスはその謝罪を受け取った。
そして昨日。
リリスはクラリス嬢を誘い、エレナ嬢と共に焼き菓子を食べ、短い会話をした。
終わりにすると言った後の、小さな始まり。
それだけでも大きかったのだが、昨日はもう一つ、大きなことがあった。
リリスが、クラリス嬢にハンカチを差し出したのだ。
いつもは差し出される側だったリリスが。
泣きそうです小声版を発動し、俺やエレナ嬢やミラからハンカチを受け取っていたリリスが。
誰かの涙に気づき、自分のハンカチをそっと渡した。
その瞬間、俺は少し胸が熱くなった。
リリスは支えられるだけの人ではない。
支えたいと願っていた人だ。
そして昨日、ちゃんと支える側に立った。
本人はその後、
「いつも渡される側だったので」
と少し照れながら言っていた。
その言葉は、今朝になっても俺の中に残っていた。
朝食の席で父上に話すと、父上は穏やかに頷いた。
「リリス嬢は、本当に成長しているな」
「はい」
「泣き虫は変わらないかもしれない」
「たぶん変わりません」
「だが、泣くことを知っているからこそ、泣く者に手を差し出せる」
「……はい」
父上の言葉に、俺は少し黙った。
リリスは泣き虫だ。
でも、それは弱さだけではない。
泣く痛みも、泣きそうになる恥ずかしさも、誰かに待ってもらう安心も知っている。
だから、クラリス嬢が泣きそうになった時に、すぐ気づけた。
そしてハンカチを渡せた。
それはリリスだからできたことだ。
母上は微笑みながら言った。
「アル、今日はリリス様をたくさん褒めてあげたいでしょう?」
「はい」
「でも、褒めすぎると泣くわね」
「はい」
「では、少しずつ」
「難しいです」
「ふふ。感情の半歩ね」
「便利ですね、本当に」
ライズは鞄を整えながら真顔で言った。
「若様、本日のハンカチは五枚でございます」
「減ったな」
「昨日の成功体験により、アマリリス様の情緒は安定傾向にあると予測されます」
「本当か?」
「ただし」
「ただし?」
「差し出したハンカチを思い出して泣かれる可能性がございます」
「ありそう」
「また、クラリス様から感謝された場合、嬉し涙が発生する可能性が高いです」
「かなり高いな」
「さらに、アルフレッド様が不意に『よくできました』等と仰った場合」
「泣くな」
「はい」
「俺が一番危険じゃないか」
「最重要警戒対象でございます」
「またそれか」
ライズは静かに一礼した。
今日も俺の言葉に注意が必要らしい。
でも、今日は伝えたい。
リリスが誰かにハンカチを差し出せたこと。
その優しさを、ちゃんと見ていたと。
褒めすぎず、でも伝える。
感情の半歩。
俺にも必要な技術だ。
学園へ向かう馬車の中、俺は昨日の談話スペースを思い出していた。
クラリス嬢の戸惑った顔。
リリスのぎこちない笑顔。
エレナ嬢の穏やかな声。
ユリウスが空気を軽くしてくれたこと。
そして遠くから感じた、オスカー・ベルク側の視線。
噂で揺さぶろうとしていた流れは、昨日かなり弱まったはずだ。
リリスが相手を責め潰さず、謝罪を受け取り、さらにお茶までした。
これでは、噂を面白がって広げる側の方が浅く見える。
ユリウスの言っていた通りだ。
ただし、王子側が完全に動きを止めるとは思えない。
オスカーはたぶん、次の手を考えている。
俺は気を引き締め直した。
正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
だが、今日の表情は昨日とは少し違った。
穏やかで、少し照れたようで、どこか誇らしげ。
俺を見つけると、ぱっと笑う。
走らない。
落ち着いて歩いてくる。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日はとても落ち着いていました」
「昨日、よい日だったので」
「はい」
リリスは嬉しそうに微笑んだ。
そして、少しだけ自分の鞄を見た。
「昨日、クラリス様に貸したハンカチですが」
「はい」
「今日、返してくださるそうです」
「そうですか」
「洗って返しますと、仰っていました」
「いつものリリスみたいですね」
そう言うと、リリスは目を丸くした。
そして、頬を赤くする。
「本当です」
「はい」
「私、いつもアルにそう言っています」
「言っていますね」
「クラリス様が、私に」
「はい」
「……思い出すと、泣きそうです」
「朝一回目ですね」
「小声版です」
「深呼吸を」
「はい」
リリスは深呼吸した。
涙は出ない。
だが、嬉しさがちゃんと伝わってくる。
「リリス」
「はい」
「昨日、ハンカチを差し出せたのは、とても良かったと思います」
「……っ」
「強すぎましたか?」
「強いです」
「でも、言いたかったので」
リリスの目が潤む。
「アルが、見ていてくださったので」
「見ていますよ」
「……それは、もっと強いです」
「しまった」
ミラが後ろでハンカチを構えかけた。
リリスは深呼吸する。
「耐えます。今日は、クラリス様にお会いするまで泣きすぎないようにします」
「無理しないでくださいね」
「はい」
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスはリリスの顔を見て、すぐに笑った。
「昨日よりさらに元気そうだね」
「はい。昨日は、終わりの後にお茶ができました」
「いい表情だ」
「ありがとうございます」
エレナ嬢も嬉しそうに頷く。
「アマリリス様、昨日のハンカチ、とても素敵でしたわ」
「エレナ様」
「クラリス様、本当に安心していらっしゃいました」
「……そうでしょうか」
「ええ」
リリスの目がまた潤む。
「小声版です」
「どうぞ」
エレナ嬢が柔らかく見守る。
リリスは深呼吸して、涙を抑えた。
「今日は受け取ります。ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです」
「とても上手ですわ」
「危険です」
ユリウスが笑った。
「褒められ耐性はまだ成長途中だね」
「はい」
「でも、そのままでいいと思うよ」
「そのまま」
「うん。無理に泣かない人になる必要はないし」
リリスは少し驚いたようにユリウスを見た。
「ユリウス様」
「ただ、泣く場所とタイミングは選べるようになると便利だよね」
「はい」
「今はだいぶ選べている」
「……ありがとうございます」
また潤む。
今日は褒められ日だ。
危険だ。
教室に入ると、クラリス嬢が立ち上がった。
昨日より顔色が良い。
緊張はしているが、怯えではない。
「アマリリス様」
「おはようございます、クラリス様」
「昨日はありがとうございました」
クラリス嬢は小さな包みを差し出した。
「ハンカチを、お返しいたします。洗って、アイロンもかけました」
「ありがとうございます」
リリスは両手で受け取った。
その瞬間、リリスの目が潤んだ。
「……アル」
「はい」
「いつも、私が言う側でした」
「はい」
「今、言われる側になりました」
「そうですね」
「とても、不思議です」
クラリス嬢が少し慌てる。
「あの、何か失礼が」
「いいえ」
リリスは首を横に振った。
「嬉しいのです」
「……嬉しい?」
「はい。私も、誰かにハンカチを渡せたのだと思って」
クラリス嬢の表情が柔らかくなった。
「アマリリス様のハンカチ、とても安心しました」
直球。
リリスの涙腺に刺さった。
「……っ」
「リリス」
「小声版では、足りません」
「教室です」
「でも、嬉しいです」
俺はハンカチを出した。
リリスはクラリス嬢から返されたばかりのハンカチではなく、俺のハンカチを受け取った。
理由は分かる。
返ってきたハンカチは、今は大事に持っていたいのだろう。
クラリス嬢は少し目を潤ませていた。
だが、今度は自分のハンカチをちゃんと持っていた。
その姿に、少し笑ってしまいそうになる。
泣きそうな人たちが互いにハンカチを持っている。
何だこの教室。
でも、悪くない。
一時間目は自由研究準備。
リリスは今日返ってきたハンカチのことをノートに書こうとして、しばらく悩んでいた。
書きたい。
でも私的すぎる。
その葛藤が顔に出ている。
先生がそれに気づき、近づいてきた。
「アマリリスさん、何か迷っていますか?」
「はい。昨日、私がハンカチを渡したことを、研究に入れるべきか迷っています」
「なぜ迷うのですか?」
「私的すぎるかもしれないので」
「どのように書くつもりでしたか?」
リリスは少し考えた。
「感情が揺れている相手に、言葉より先に小さな助けを差し出すこと」
先生は頷いた。
「それなら、研究に入れてよいでしょう」
「本当ですか?」
「はい。具体的な名前を伏せ、礼法として一般化できています」
「ありがとうございます」
リリスの顔が明るくなる。
「ただし」
「はい」
「自分が支えたことを誇るのではなく、支えられた経験があったから気づけた、という形にするとよいでしょう」
リリスははっとした。
「はい」
そして、すぐにノートへ書き始めた。
『支えられた経験は、誰かを支えるための橋になる』
俺はその文字をちらりと見て、少し胸が熱くなった。
橋。
またリリスらしい言葉だ。
本は橋。
涙も橋。
ハンカチも橋。
彼女の中では、いろいろなものが人と人を繋ぐ橋になっていく。
休み時間、リリスが俺の席へ来た。
「アル」
「はい」
「ハンカチのこと、研究に入れてもよいそうです」
「よかったですね」
「はい。支えられた経験は、誰かを支える橋になる、と書きました」
「とても良いと思います」
「……っ」
「泣きそうですか?」
「はい。でも、今は感情の半歩です」
リリスは深呼吸した。
そして、笑った。
「受け取れました」
「できていますね」
「はい」
その表情は本当に嬉しそうだった。
二時間目は礼法。
ベイル先生は今日、黒板にこう書いた。
『助けを差し出す礼』
もう驚かない。
いや、少し驚く。
でも納得もする。
「人が困っている時、すぐに大きな助けを差し出すことが正しいとは限りません」
先生は淡々と話し始めた。
「相手が求めていない助けは、時に負担になります。大切なのは、相手の状態を見て、受け取りやすい形で差し出すことです」
ハンカチ。
まさにそれだ。
「言葉で励ますこと。静かに隣にいること。ハンカチを差し出すこと。席を外す余地を作ること。どれも助けです」
リリスは真剣に聞いている。
クラリス嬢も。
俺も。
「また、助けを受け取った者は、感謝を伝えることで、次に誰かを支える力を得ることがあります」
クラリス嬢が少し顔を赤くした。
リリスも同じく。
先生は誰かを指名することなく、授業としてまとめた。
「支え合いは、上下関係ではありません。時に支えられ、時に支える。その循環こそ、礼ある関係の基礎です」
支え合い。
その言葉が、今日の教室に静かに広がった。
昼休み。
食堂では、いつもの四人に加えて、今日は少しだけクラリス嬢も同じテーブルに座った。
いきなり常に一緒にいるわけではない。
今日は短時間だけ。
焼き菓子のお礼として、一緒にお茶を飲む程度。
リリスの提案だった。
クラリス嬢は緊張していたが、昨日よりだいぶ落ち着いている。
「クラリス様は、自由研究のテーマは決まりましたか?」
エレナ嬢が尋ねる。
「はい。私は刺繍の文様と家の歴史について調べようかと」
「素敵ですわ」
リリスが目を輝かせる。
「刺繍がお得意なのですか?」
「少しだけです。母が好きで」
「私も、少し習っています」
「アマリリス様も?」
「はい。ただ、泣きそうになると針目が乱れます」
クラリス嬢が一瞬固まり、それから小さく笑った。
リリスも笑う。
エレナ嬢も。
ユリウスは肩を震わせている。
俺は思わずツッコんだ。
「そこは感情の半歩でお願いします」
「はい、アル」
リリスが素直に答える。
クラリス嬢が少し驚いた顔で俺たちを見る。
「本当に、自然に言われるのですね」
「何をですか?」
「その……アル、と」
リリスの頬が赤くなる。
「はい。許していただいておりますので」
「素敵です」
クラリス嬢が言った。
リリスの目が潤む。
「小声版です」
「はい」
俺はハンカチを出そうとした。
だが、その前にクラリス嬢が自分のハンカチを少し出した。
リリスは驚く。
クラリス嬢も驚く。
「あ、すみません、つい」
リリスは少しだけ目を見開き、それから笑った。
「ありがとうございます」
そして、クラリス嬢のハンカチを受け取った。
今度は逆。
昨日渡した相手から、今日受け取る。
リリスはそれを目元に当て、涙を一粒だけ拭いた。
「とても、嬉しいです」
クラリス嬢の顔が赤くなる。
「よかったです」
エレナ嬢が静かに微笑んでいる。
ユリウスが小声で俺に言った。
「これは噂じゃなくて、美談になるね」
「美談と言うと大げさですが」
「でも、流れはかなり良い」
俺も頷いた。
遠くでオスカー・ベルクがこちらを見ていた。
その表情は読めない。
だが、少なくとも、今の光景を悪い噂にするのは難しいだろう。
公爵令嬢が、謝罪した令嬢とお茶をし、互いにハンカチを渡し合った。
その話は、下手な揶揄よりずっと強い。
午後の魔法基礎は、穏やかに過ぎた。
リリスの魔力は安定していた。
クラリス嬢と少し話したことで、心が軽くなったのかもしれない。
教師が言った。
「アマリリスさん、今日は光が柔らかいですね」
「柔らかい、ですか?」
「はい。落ち着いた感情がよく出ています」
「ありがとうございます」
リリスは微笑んだ。
小声版は出ない。
受け取れた。
放課後。
レオナルド先輩が待っていた。
今日は昨日よりさらに穏やかな顔をしている。
「リリス」
「お兄様」
「ハンカチを受け取ったそうだな」
「はい。クラリス様から」
「そうか」
レオナルド先輩は少しだけ微笑んだ。
「よかったな」
「はい」
「支え、支えられる。よい関係だ」
「お兄様」
「何だ」
「泣きそうですか?」
「泣かない」
即答。
しかし目元が少し柔らかい。
怪しい。
俺は黙っておいた。
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「噂はかなり弱まった」
「そうですか」
「ああ。むしろ、リリスとクラリス嬢の件が良い方向に広まっている」
「よかったです」
「オスカーは動きにくくなっている」
「次はどう来るでしょうか」
「しばらく様子を見るだろう。だが、王子殿下本人がどう考えているかは別だ」
「……はい」
少しだけ空気が引き締まる。
まだ終わりではない。
オスカーの背後には王子殿下がいる。
いや、王子殿下本人がどこまで関わっているかは分からない。
だが、リリスとの縁談話があった以上、無関係ではいられない。
「リリス」
レオナルド先輩が言う。
「今はよく立てている。だが、安心しきるな」
「はい」
「ただし、怖がりすぎるな」
「はい」
「アルフレッド」
「はい」
「引き続き、隣に」
「分かっています」
レオナルド先輩は頷いた。
正門で別れる時、リリスは今日返ってきた自分のハンカチと、クラリス嬢から借りたハンカチを大切そうに持っていた。
「アル」
「はい」
「今日は、不思議な日でした」
「はい」
「私が渡したハンカチが返ってきて、今度は私が借りました」
「はい」
「支える側と、支えられる側は、交代するのですね」
「そうですね」
「私、それが嬉しいです」
「俺も嬉しいです」
「……アル」
「はい」
「今日は、泣きます」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取った。
「今日の宝物名は?」
「差し出したハンカチが橋になった日の宝物です」
「リリスらしいですね」
「はい」
「良い名前です」
「ありがとうございます」
リリスは涙を拭きながら笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はそれを見送りながら、今日の穏やかな空気を胸にしまった。
昨日の傷が、今日少しだけ橋になった。
リリスは泣き虫だ。
でも、その涙を知っているから、誰かにハンカチを渡せる。
そういう強さが、彼女にはある。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「今日はどうだった?」
「ハンカチが返ってきて、今度はリリスがクラリス嬢のハンカチを借りました」
「ほう」
「支え合いになりました」
「よいな」
父上は穏やかに笑った。
母上も嬉しそうだった。
「リリス様、本当に優しい子ね」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『娘が「ハンカチが橋になりました」と言った。泣いた。私が。クラリス嬢からハンカチを借りたらしい。よかった。娘が支え、支えられた。私は十五歩下がっているが、心は娘の隣だ。セレスティアに「心も五歩」と言われた。遠い。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『リリスとクラリス嬢の関係は良い方向へ向かっている。噂は弱まった。オスカーは動きにくくなったが、王子殿下本人の動きは引き続き注意。父上は心まで五歩下げられた。相当つらそうだ。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。今日はリリスが「ハンカチが橋になりました」と、とても嬉しそうに話してくれました。差し出したものが、また自分へ返ってくる。支え合いとは、そういうものかもしれませんね。あなたが見守ってくださったこと、感謝いたします。なお、夫には心も五歩下げるようお願いしましたが、夕食の途中で三歩分ほど戻っておりました。継続が大切です。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
心も五歩。
そして三歩戻る。
ガロウ公爵、心の距離感も強い。
父上は笑った。
リーマスは「心の歩幅もまた、愛で縮むのでございます」と頷いた。
ライズは静かに親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も少し笑って呟いた。
公爵令嬢様。
差し出したハンカチは、ちゃんと橋になりましたね。
でも、お父様の心の距離は、やっぱり近すぎます。




