第25話 公爵令嬢様、半歩下がって一歩強くなる
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
最近、俺たちの周囲では「半歩」という言葉が妙に定着してきた。
最初は、リリスとの距離感を調整するための言葉だった。
近すぎたら半歩下がる。
不安になったら、感情も半歩引いて整える。
拒絶ではなく、戻る場所。
そういう意味で、リリスはこの言葉を大切にしている。
そして今や、半歩は自由研究にも組み込まれ、魔法基礎にも応用され、フルーラ家ではガロウ公爵に五歩が適用されている。
……なぜここまで広がった?
いや、便利なのは認める。
認めるが、広がり方がおかしい。
昨夜届いた書状では、ガロウ公爵が五歩下がったあと二歩戻ったと書かれていた。
つまり実質三歩。
セレスティア夫人の最初の見立て通りである。
恐ろしい。
あの方は、夫の戻り歩数まで読んでいる。
母は強い。
さて、そんな半歩生活の翌朝。
俺は少しだけ落ち着いていた。
セレスティア夫人との面談を乗り越えたことで、俺の胃は以前より丈夫になった気がする。
たぶん。
ライズが鞄を確認しながら言った。
「若様、本日のハンカチは六枚でございます」
「減ったな」
「半歩効果により、アマリリス様の涙発生頻度が若干低下傾向にございます」
「涙を統計にしないでくれ」
「ただし、強い褒め言葉、エレナ様からの友情発言、アルフレッド様からの不意打ち発言には引き続き警戒が必要です」
「俺が危険要因に入っている」
「最重要でございます」
「否定できないのがつらい」
父上は朝食の席で楽しそうに言った。
「アルフレッド、半歩が役に立っているようだな」
「はい」
「リリス嬢は成長している」
「本当にそう思います」
「で、お前は?」
「俺ですか?」
「お前も半歩ばかり下がらず、一歩踏み出す時が来るかもしれんぞ」
「父上、朝から重いです」
「重いか?」
「はい」
「リリス嬢の愛よりは軽いだろう」
「比較対象が重すぎます」
母上がくすくす笑った。
「でも、お父様の言うことも分かるわ」
「母上まで」
「リリス様は半歩下がることを覚えている。なら、アルも必要な時には半歩近づいてあげなさい」
「……はい」
半歩近づく。
それは、俺には少し難しい。
リリスが近づくのを止めることには慣れてきた。
けれど、自分から近づくのは照れる。
言葉でも、距離でも。
でも、セレスティア夫人にも言われた。
完璧ではない二人が、少しずつ歩幅を合わせていく。
リリスだけが頑張るのではない。
俺も、歩幅を合わせる必要がある。
学園に着くと、リリスはいつもの場所で待っていた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
俺を見ると、嬉しそうに笑う。
走らない。
歩いてくる。
昨日より少し落ち着いている。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日はかなり自然でした」
「……かなり自然」
「褒めています」
「嬉しいです」
リリスは目を潤ませかけたが、すぐに深呼吸した。
「感情の半歩です」
「できていますね」
「はい」
距離も、今日は最初からほどほどだった。
半歩を言う必要がない。
「リリス」
「はい」
「今日は距離もちょうどいいです」
「本当ですか?」
「はい」
リリスの顔がぱっと明るくなる。
「アルに、ちょうどいいと言われました」
「はい」
「……これは、かなり強いです」
「小声版?」
「耐えます」
「偉いです」
「危険です」
「すみません」
朝からいつも通り。
でも、昨日より落ち着いている。
そのことが嬉しかった。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
「おはよう、二人とも」
「おはようございます」
「ご機嫌よう」
ユリウスは俺たちの距離を見るなり、感心したように頷いた。
「お、今日は半歩いらず?」
「はい」
リリスが少し誇らしげに答える。
「今日は最初からほどほどです」
「成長だね」
「ありがとうございます」
エレナ嬢も微笑む。
「アマリリス様、本当に落ち着いておられますわ」
「半歩のおかげです」
「それと、アマリリス様ご自身が頑張っておられるからです」
「エレナ様……」
リリスの目が潤む。
「小声版です」
「どうぞ」
エレナ嬢がハンカチを出しかけたが、リリスは深呼吸して首を横に振った。
「大丈夫です。受け取ります」
そして、少し震えた声で言った。
「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」
泣かなかった。
すごい。
エレナ嬢も嬉しそうに頷く。
「とても上手ですわ」
「……危険です」
「ふふ」
ユリウスが俺に小声で言った。
「本当に強くなってるね」
「はい」
「アルフレッドも嬉しそう」
「顔に出ていますか?」
「かなり」
「……そうですか」
俺は少し恥ずかしくなった。
一時間目は自由研究準備だった。
リリスは「感情の半歩」を中心に、かなり研究を進めている。
俺も領地運営の資料を整理していたが、先生がリリスのノートを見て本気で感心していた。
「アマリリスさん、この構成はよいですね」
「ありがとうございます」
「個人的な経験を出発点にしながら、礼法全体に広げられています」
「アルや皆さまが、助けてくださったおかげです」
「助けを受け取れることも大切です」
「はい」
リリスは穏やかに頷いた。
泣きそうになっていない。
心がちゃんと整っている。
俺はその姿を見て、胸が温かくなった。
休み時間、リリスが俺の席へ来た。
「アル」
「はい」
「研究が少し形になってきました」
「見ていました。とても良いと思います」
「本当ですか?」
「はい」
「……」
リリスは深呼吸した。
「感情の半歩」
「できています」
「はい」
俺は少し考えた。
ここで、いつもなら褒めるだけで終わる。
でも今日は、半歩近づくことも覚えろと言われた。
俺は声を少し柔らかくする。
「リリス」
「はい」
「俺も、リリスの研究発表を楽しみにしています」
リリスの目が大きく開いた。
「アルが?」
「はい」
「私の発表を?」
「はい」
「楽しみに?」
「はい」
リリスは両手を胸の前で握った。
「……強いです」
「分かっています」
「小声版では、足りないかもしれません」
「教室です」
「耐えます」
リリスは必死に深呼吸した。
だが、一粒だけ涙が落ちた。
「すみません」
「謝らなくていいです」
「嬉しいです」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取って、目元を押さえた。
「アルが半歩近づいてくださった気がします」
言われて、少し驚いた。
分かるのか。
「……そうかもしれません」
「嬉しいです」
「はい」
二時間目の礼法では、今日も距離の話だった。
ベイル先生は淡々と、
「相手が努力している時は、結果だけでなく過程を認めること」
と教えてくれた。
まさに今朝のエレナ嬢の言葉だ。
リリスは真剣にノートを取る。
俺も書く。
過程を認める。
リリスは今、結果だけでなく、努力の途中にいる。
それをちゃんと見ていきたい。
昼休み。
食堂に入ると、いつものように視線があった。
王子殿下は今日はいない。
だが、オスカー・ベルクがいた。
その周囲に数名。
いつもより少し静かだ。
ユリウスが小声で言う。
「今日は殿下はいないみたいだね」
「はい」
「でも、ベルクはいる」
「来ますかね」
「どうだろう。昨日の感じだと、直接より周囲を見るかも」
俺たちはいつもの席についた。
リリスは落ち着いている。
食事中も、必要以上に俺の皿を見つめない。
ただ、俺がスープを飲むと少し安心した顔をする。
「リリス」
「はい」
「体調確認ですか?」
「はい。今日はアルも落ち着いているようなので」
「ありがとうございます」
「支えたいので」
「十分支えられています」
リリスの頬が赤くなる。
「感情の半歩です」
「はい」
エレナ嬢がにこにこしている。
「お二人、本当に呼吸が合ってきましたわね」
「呼吸」
リリスが反応した。
「魔力合わせの時のように?」
「そうかもしれません」
「アルと呼吸が」
「リリス、食堂です」
「はい」
リリスは深呼吸した。
ユリウスが笑う。
「半歩、万能」
「万能すぎて怖いです」
その時、オスカー・ベルクが席を立った。
だが、こちらへは来ない。
代わりに、少し離れた位置で別の生徒に声をかけた。
会話の内容は聞こえない。
だが、その生徒がちらりとこちらを見る。
何かを探っている。
直接ではなく、周囲を使う方向かもしれない。
ユリウスの目が少し鋭くなる。
「やっぱり、直接は控えてるね」
「はい」
「でも、噂を使う可能性がある」
「噂?」
「母公認で調子に乗っている、とか。公爵家に取り入った、とか」
リリスの指が少し止まった。
俺はすぐに声をかける。
「リリス」
「はい」
「大丈夫です。噂は噂です」
「……はい」
「俺たちは、昨日までと同じように学園で学ぶだけです」
「はい」
「感情の半歩」
「はい」
リリスは深呼吸した。
落ち着いた。
強い。
エレナ嬢が静かに言う。
「アマリリス様、私たちもおります」
「ありがとうございます」
「もし何か聞こえても、一人で抱えないでください」
「はい」
ユリウスも頷く。
「噂は早いうちに潰した方がいい。変なことが広まりそうなら、僕も動くよ」
「ありがとうございます、ユリウス様」
「友人だからね」
リリスの目が潤む。
「小声版です」
「今のは仕方ない」
俺はハンカチを出した。
リリスは一粒だけ涙を拭いた。
午後の魔法基礎では、リリスの安定はさらに良くなっていた。
教師も感心していた。
ただ、俺は少しだけ王子側のことが頭に残っていた。
直接ではなく噂。
貴族社会では、そちらの方が厄介な場合もある。
力で来るなら分かりやすい。
だが、噂はじわじわ広がる。
リリスがせっかく学園を好きになり始めた今、そんなことで傷つけたくない。
放課後、レオナルド先輩がいつもの場所で待っていた。
今日の表情は少し硬い。
「アルフレッド」
「はい」
「昼の件は聞いた」
「本当に早い」
「ベルクが周囲を使い始めた可能性がある」
「やはり」
リリスが少し不安そうに兄を見る。
「お兄様」
「大丈夫だ。まだ大きな動きではない」
「はい」
「だが、噂には注意しろ」
「はい」
レオナルド先輩は俺を見る。
「君は普段通りでいい。だが、リリスを一人にしすぎるな」
「分かっています」
「エレナ嬢とユリウスにも頼れ」
「はい」
「父上にはまだ言わない」
「それがいいと思います」
「剣を持つからな」
「でしょうね」
リリスが小さく言う。
「お父様には、感情の五歩を」
「五歩では足りないかもしれない」
レオナルド先輩が真顔で答えた。
「十歩ですか?」
「母上ならそう言うかもしれない」
「公爵様が遠ざかっていく」
思わずツッコむと、リリスが少し笑った。
不安な空気が少し和らぐ。
レオナルド先輩も、わずかに表情を緩めた。
「アルフレッド」
「はい」
「今のように、リリスを笑わせられるなら悪くない」
「偶然です」
「偶然でもいい」
そう言われると、少し照れた。
正門で別れる時、リリスは少しだけ不安そうだった。
だが、昨日までよりずっと落ち着いている。
「アル」
「はい」
「もし、噂が出ても」
「はい」
「私は、半歩で整えます」
「はい」
「でも、一人では難しい時は、言います」
「必ず言ってください」
「はい」
「俺も聞きます」
「……ありがとうございます」
リリスは深呼吸した。
泣かない。
ちゃんと受け取った。
「今日の宝物名は?」
俺が聞くと、リリスは少し考えた。
「半歩で強くなる日の宝物です」
「良い名前です」
「はい」
馬車に乗る前、リリスは俺を見た。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺は見送りながら、少しだけ表情を引き締めた。
リリスは強くなっている。
だからこそ、守りたい。
ただ庇うのではなく、一緒に立てるように。
半歩下がることも、半歩近づくことも覚えながら。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「今日はどうだった?」
「王子側が、少し噂を使いそうです」
父上の表情が真面目になる。
「そうか」
「まだ大きくはありません」
「なら、焦るな」
「はい」
「リリス嬢は?」
「落ち着いていました。半歩で整えると言っていました」
「強くなっているな」
「はい」
その後、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『何やら不穏な気配があると聞いた。剣は持っていない。セレスティアに十歩下がれと言われた。十歩は遠い。だが娘のためなら下がる。アルフレッド殿、リリスを頼む。説明は後で聞く。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『ベルク周辺の動きは見ている。今は静観。ただし噂が動くなら早めに対処する。リリスは落ち着いている。君も焦るな。父上は十歩下がったが、現在四歩戻っている。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。リリスが今日は「半歩で強くなる」と話してくれました。とてもよい成長です。不穏な視線や噂はあるようですが、どうか焦らず、あの子の隣にいてくださいませ。なお、夫には十歩をお願いしましたが、夕食時には六歩分ほど近づいておりました。継続が大切ですね。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
十歩下がって六歩近づく。
つまり実質四歩。
ガロウ公爵、半分以上戻っている。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「愛は歩数を縮めるのでございますね」と頷いた。
ライズは親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
半歩で強くなるのはいいけど!!
お父様は十歩でも足りません!!




