第23話 公爵令嬢様、止められることまで嬉しい
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、俺は三通の書状を読みながら天井を見上げた。
ガロウ公爵。
レオナルド先輩。
セレスティア夫人。
三人とも、ほぼ同じことを書いていた。
リリスが「学園が好きになってきました」と言ったことは、とても喜ばしい。
俺に感謝している。
だが。
母公認を理由に距離が近くなりすぎるようなら、ほどほどに止めろ。
……全員一致である。
フルーラ家の認識が完全に一致している。
父は泣きながら。
兄は冷静に。
母は優雅に。
それぞれ言い方は違うが、結論は同じ。
母公認だからといって、距離感まで公認されたわけではない。
分かっている。
俺も分かっている。
だが、問題はリリスである。
リリスは昨日から、明らかに安心している。
セレスティア夫人に認めてもらえた。
母が俺を「よい子」と言ってくれた。
俺も、リリスが婚約者でよかったと言った。
その安心が、距離に出ている。
廊下で少し近い。
食堂で少し近い。
別れ際も少し近い。
全部、少し。
しかし、リリスの「少し」は油断すると「かなり」に育つ。
これは過去の経験から明らかである。
心の椅子。
小皿。
本一冊分。
小声版。
母公認。
新しい概念が増えるたび、距離感は形を変えて近づいてくる。
今朝、朝食の席でその話をしたところ、父上は大笑いした。
「母公認距離か。いいじゃないか」
「よくありません」
「リリス嬢らしい」
「そうですけど」
「お前が止めればいい」
「簡単に言いますね」
「止められるのも、あの子は嬉しいのだろう?」
「……否定できません」
そうなのだ。
リリスは俺に止められると、なぜか嬉しそうにする。
『アルがいつも通りで安心します』
昨日もそう言った。
距離が近いと俺がツッコむ。
それを聞いて、リリスが安心する。
普通なら怒るところでは?
いや、怒られるよりはいい。
でも、止められて嬉しそうなのは、やはり独特である。
母上が紅茶を飲みながら微笑んだ。
「リリス様にとって、アルが止めてくれることは、拒絶ではなくて安心なのかもしれないわね」
「安心ですか」
「ええ。近すぎても嫌われるわけではなく、ほどほどに戻してくれる。だから嬉しいのよ」
「……なるほど」
母上の言葉は、すっと胸に入った。
リリスは距離感が近い。
でも、俺を困らせたくないと思っている。
だから、近すぎた時に俺がちゃんと止めると、嫌われたのではなく、向き合ってもらえていると感じるのかもしれない。
そう考えると、少し分かる。
分かるのだが。
「でも、止めたら嬉しくなってまた近づくのでは?」
父上が言った。
「それなんです」
俺は即答した。
「止めること自体が喜びになると、無限に近づきます」
「はははは!」
「笑い事ではありません」
「いや、夫婦漫才みたいでよい」
「婚約者です」
「似たようなものだ」
「違います」
ライズが背後から静かに言った。
「若様、本日の心得でございます」
「またか」
「アマリリス様を止める際は、否定ではなく調整としてお伝えください」
「調整」
「例として、『リリス、今は少し近いです。あと半歩だけ下がりましょう』など」
「具体的だな」
「『近いです』だけですと、アマリリス様が嬉しさでさらに近づく可能性がございます」
「ありそう」
「『あと半歩』と具体化することで、距離を明確にできます」
「お前、だいぶ研究してるな」
「日々学んでおります」
「従者の学びではない気がする」
リーマスが頷く。
「若様、距離とは曖昧であるほど詩になり、明確であるほど礼になります」
「急に名言みたいに言わないでください」
「本日の一句でございます」
「一句ではない」
朝から濃い。
だが、ライズの言うことはもっともだった。
ただ「近い」と言うのではなく、どのくらい戻ればいいのか示す。
それなら、リリスも不安になりにくい。
今日から試してみよう。
学園へ向かう馬車の中、俺は鞄の中に挟んだリリスの紙を確認した。
『アルは、ちゃんとアルのままで大丈夫です』
その言葉を見ると、少し気持ちが落ち着く。
セレスティア夫人との面談は終わった。
しかし、学園生活は続く。
王子周辺の視線も残っている。
オスカー・ベルクも、昨日は何も言わなかったが、こちらを見ていた。
母公認の話が広まったことで、向こうも慎重になる。
だが、何もしないとは限らない。
むしろ、手を変えてくる可能性もある。
俺は息を吐いた。
リリスが安心している今だからこそ、浮かれすぎず、周囲を見る必要がある。
そう思っていた。
正門前に着くと、リリスはいつもの場所にいた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
そして、俺を見つけると笑顔になる。
眩しい。
昨日よりさらに明るい顔だ。
リリスは歩いてくる。
走らない。
ただし、やはり少し早い。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。ただ、少し早歩きでした」
「……嬉しくて」
「正直ですね」
「はい」
リリスは少し照れたように笑った。
そして、俺の隣へ来る。
近い。
いつもより半歩近い。
なるほど。
これが母公認後の距離か。
「リリス」
「はい」
「今は少し近いです」
「はい」
「あと半歩だけ下がりましょう」
リリスが目を丸くした。
「半歩」
「はい。半歩です」
リリスは素直に半歩下がった。
そして、ぱっと顔を輝かせた。
「アルが具体的に教えてくださいました」
「そこが嬉しいんですね」
「はい。分かりやすいです」
「よかったです」
「あと半歩。これが、今日の朝のほどほど」
「基準化しないでください」
「でも、覚えやすいです」
「……まあ、いいです」
リリスは本当に嬉しそうだった。
俺が止めたのに、嫌がるどころか安心している。
母上の言った通りだ。
これは拒絶ではなく調整。
そう伝われば、リリスは安心する。
ミラが後ろで感心したように頷いていた。
「アルフレッド様、素晴らしいご対応です」
「ありがとうございます」
「お嬢様、半歩です」
「はい、ミラ。半歩です」
「ミラ殿まで」
早速共有されている。
怖い。
でも便利。
いや、便利と思った時点で負けかもしれない。
リリスは俺を見上げた。
「アル」
「はい」
「止めてくださって、ありがとうございます」
「普通、止められてお礼を言いますか?」
「アルが、私を嫌がるのではなく、ほどほどに戻してくださったので」
母上と同じことを言った。
俺は少し黙った。
そして、頷いた。
「はい。嫌だったわけではありません」
「……っ」
「小声版ですか?」
「朝一回目です」
「では深呼吸を」
「はい」
リリスは深呼吸した。
涙は出ない。
半歩の調整、効果あり。
いや、これは何の報告だ。
教室へ向かう廊下で、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
ユリウスは俺たちの距離を見て、すぐに笑った。
「今日は半歩?」
「なぜ分かるんですか」
「アマリリス様が少し誇らしそうだから」
「観察力が上がりすぎです」
エレナ嬢も微笑んだ。
「アマリリス様、今日は朝からお顔が明るいですわ」
「はい。アルが半歩と教えてくださいました」
「まあ、具体的でよろしいですわね」
「はい」
「嬉しいんですね」
「はい」
リリスは素直に頷いた。
ユリウスが笑う。
「アルフレッド、君、距離感指導が上手くなってきたね」
「嬉しくない褒め方です」
「いや、これは重要な技能だよ」
「そうかもしれませんが」
「自由研究の副題にできる」
「しません」
リリスが少し反応する。
「半歩の礼法」
「リリス」
「はい」
「採用しません」
「……分かりました」
しょんぼりした。
だが、すぐに笑った。
「でも、心の中のメモに」
「心の中なら止めません」
「はい」
エレナ嬢がくすくす笑う。
「アマリリス様の研究、どんどん深くなりますわね」
「私的すぎないよう気をつけます」
「偉いです」
「ありがとうございます」
リリスの目が少し潤む。
「小声版?」
俺が聞くと、リリスは深呼吸した。
「耐えます。今日は半歩があるので」
「半歩が支えに」
「はい」
教室に入ると、今日も穏やかな空気だった。
母公認の話題はまだ残っているが、昨日ほどざわついてはいない。
ただ、クラスメイトたちの視線は少し温かい。
ニールが小声で言った。
「シェルザート君、今日は少し元気そうだね」
「昨日よりは」
「よかった」
「ありがとうございます」
「アマリリス様も、明るいね」
「はい。今日は半歩の日です」
「半歩?」
ニールが首を傾げる。
俺は慌てて言った。
「距離の話です」
「距離」
「いえ、忘れてください」
ニールは少し考えたあと、笑った。
「何だかよく分からないけど、楽しそうでよかった」
「ありがとうございます」
それで受け流してくれるニールは本当に優しい。
一時間目は礼法だった。
今日の内容は「相手の申し出を断る時の礼」。
また刺さる。
ベイル先生、絶対に俺たちを教材にしていませんか?
先生は教壇に立ち、静かに言った。
「断るという行為は、相手を否定することではありません。適切な境界を示すことです」
境界。
リリスが反応した。
俺も反応した。
半歩。
今朝の話そのものだ。
「曖昧に拒絶すると、相手は不安になります。強く拒絶しすぎると、相手を傷つけます。大切なのは、理由と代替案を添えること」
理由と代替案。
ライズの言っていたことに近い。
ただ「近い」と言うのではなく、「あと半歩」と示す。
これは礼法的にも正しいのかもしれない。
授業では、実際に断り方の練習があった。
相手が近すぎる時。
相手の誘いに応じられない時。
相手の提案を少し変えたい時。
例題が出される。
俺の相手はユリウス。
ユリウスは楽しそうに言った。
「では、僕が近づきすぎる役を」
「やめてください」
「練習だよ」
「近い」
ユリウスがわざと半歩近づく。
俺は一拍置き、授業通りに答えた。
「ユリウス、話は聞きたいですが、今は少し近いです。あと半歩下がってもらえると助かります」
「おお、自然だ」
「朝やりましたから」
「アマリリス様で実践済み」
「言い方」
ユリウスが半歩下がる。
「これ、いいね。拒絶感が少ない」
「そうですね」
「アマリリス様が喜ぶのも分かる」
「そこまで?」
「うん。君がちゃんと向き合って調整しているからね」
隣の組では、リリスとエレナ嬢が練習していた。
エレナ嬢が近づきすぎる役をする。
「アマリリス様、これくらいでは?」
リリスは一拍置き、真剣に言った。
「エレナ様、お話しできるのは嬉しいのですが、今は少し近いです。あと半歩、お願いいたします」
「はい」
エレナ嬢が半歩下がる。
リリスの顔が明るくなる。
「できました」
「とても上手ですわ」
「アルと同じです」
「はい」
リリスが泣きそうになった。
「小声版です」
「理由は?」
「アルと同じ言い方ができたので」
そんな理由で。
いや、リリスらしい。
ベイル先生が頷いた。
「アマリリスさん、よい断り方でした。嬉しいという前置きがあることで、相手を拒絶しているわけではないと伝わります」
「ありがとうございます」
「シェルザートさんも」
「はい」
「今朝の実践が生きていますね」
「先生、知っているんですか!?」
思わず言った。
教室が笑った。
ベイル先生は涼しい顔で言う。
「廊下は学園の一部です」
「見られていた」
「声量には気をつけなさい」
「はい」
俺は席に戻りながら、顔が熱くなった。
リリスは嬉しそうにしている。
見られていたのに嬉しいのか。
いや、俺と半歩のほどほどを共有できたから嬉しいのだろう。
二時間目は算術。
今日は比較的平和だった。
ニールがまた少し質問に来たが、リリスは寂しそうにせず、落ち着いて見守っていた。
授業後、リリスが言った。
「アルが皆に教えるのは、やはり素敵です」
「ありがとうございます」
「少しだけ寂しい気持ちもあります」
「はい」
「でも、今日は半歩がありますので」
「半歩、万能ですね」
「気持ちにも半歩です」
「また新概念が」
「近づきすぎそうな気持ちを、半歩下げます」
それは、意外と良い表現だった。
「リリス」
「はい」
「それ、自由研究に使えるかもしれません」
「本当ですか?」
「はい。感情を否定せず、半歩引いて整える、という意味なら」
リリスの顔が輝いた。
「アルが、採用してくださいました」
「私的になりすぎない形で」
「はい」
「小皿や心の椅子は駄目です」
「……はい」
少し残念そうだ。
そこはまだ諦めていないのか。
昼休み。
食堂ではいつもの四人で座った。
今日はオスカー・ベルクの姿は見えるが、距離がある。
王子周辺の生徒たちも、昨日と同じく視線だけ。
だが、今日は少し違った。
視線に戸惑いが混じっている。
母公認の事実が、効いているのだろう。
ユリウスが小声で言った。
「やっぱり、セレスティア様の影響は大きいね」
「直接何もしていないのに」
「社交界はそういうものだよ。誰が誰を認めたか。それだけで空気が変わる」
エレナ嬢も頷く。
「特にセレスティア様は、軽々しく人を褒める方ではありませんから」
「よい子ね、は重いんですね」
「かなり」
リリスが嬉しそうにする。
「アルは、お母様によい子と言われました」
「リリス、復唱しないでください」
「嬉しくて」
「俺が照れます」
「照れるアルも好きです」
「食堂です!!」
また声が出た。
食堂の数人が笑う。
オスカーもこちらを見た。
しまった。
リリスは顔を真っ赤にする。
「す、すみません」
「いえ」
「でも、本当です」
「追撃しないでください」
ユリウスが肩を震わせている。
「母公認後、強いねアマリリス様」
「はい。少し安心しています」
本人が認めた。
エレナ嬢が優しく言う。
「安心できるのはよいことですわ。でも、ほどほどに」
「はい。半歩です」
「半歩ですね」
半歩、定着が早い。
食事を終えた頃、オスカー・ベルクが席を立った。
こちらへ向かってくる。
ユリウスの表情が少しだけ変わる。
リリスも気づき、姿勢を整えた。
俺も背筋を伸ばす。
オスカーはテーブルの少し手前で足を止め、礼をした。
「アマリリス様、シェルザート殿」
以前より少し丁寧だ。
棘はあるが、抑えられている。
「昨日、セレスティア様とお会いしたと伺いました」
「はい」
俺が答える。
「良い時間を過ごされたようで何よりです」
「ありがとうございます」
リリスも静かに頷く。
「お母様も、アルと話せてよかったと仰っていました」
アル。
愛称。
オスカーの眉がわずかに動く。
だが、以前のようには踏み込まない。
「そうですか」
彼は俺を見る。
「シェルザート殿は、フルーラ公爵家の信頼を得られたのですね」
「信頼を完全に得たとは思っていません。ですが、逃げずに向き合うことはお許しいただけたと思っています」
オスカーは少し黙った。
「……随分と慎重な言い方をされる」
「事実ですので」
「なるほど」
ユリウスが静かにこちらを見ている。
エレナ嬢もリリスの近くにいる。
オスカーは続けた。
「殿下も、あなた方のことを気にかけておられます」
また殿下。
リリスの指が少し動く。
俺は気づいた。
「ありがたいことです」
俺は落ち着いて答えた。
「ただ、私たちは学園で学ぶ一生徒でもあります。婚約者として、また学生として、日々を大切にしたいと思っています」
「……そうですか」
オスカーはリリスへ視線を向けた。
「アマリリス様も、そうお考えで?」
「はい」
リリスははっきり答えた。
「私は、アルと共に学びたいと思っています」
強い。
以前なら不安そうだった声に、今日は芯がある。
オスカーは少しだけ目を細めた。
そして礼をした。
「失礼いたしました」
彼は去っていった。
直接の衝突ではない。
だが、確かに様子見だった。
ユリウスが小さく息を吐く。
「向こうも慎重になってるね」
「はい」
「でも、まだ探っている」
「でしょうね」
リリスは俺を見る。
「アル」
「はい」
「私、今日は少し怖くありませんでした」
「はい。ちゃんと言えていました」
「……嬉しいです」
「小声版?」
「小声版です」
「では、深呼吸を」
「はい」
リリスは深呼吸した。
涙は出なかった。
強くなっている。
午後の自由研究準備では、リリスが早速「感情の半歩」についてメモしていた。
タイトル案に、
『感情を否定せず半歩引く礼法』
と書いている。
これは普通に良い。
俺は少し感心した。
「リリス、それはいいと思います」
「本当ですか?」
「はい。小声版や心の椅子よりずっと発表向きです」
「心の椅子も、いつか」
「いつかも駄目です」
「……はい」
少ししょんぼり。
でもすぐ笑う。
「でも、半歩は採用です」
「はい」
「アルと一緒に考えた半歩です」
「……そうですね」
「小声版です」
「はい」
忙しい。
でも穏やかだ。
放課後、レオナルド先輩がいつものように待っていた。
「リリス」
「お兄様」
「アルフレッド」
「はい」
「オスカーが接触したと聞いた」
「早いですね」
「上級生の耳は早い」
「もう驚きません」
「どうだった」
「探っている感じでした。ただ、以前より慎重です」
「母上の件が効いているな」
「はい」
レオナルド先輩はリリスを見る。
「怖くなかったか?」
「少しだけ。でも、今日は言えました」
「何を?」
「アルと共に学びたいと」
レオナルド先輩の表情が少し固まる。
妹の成長にまた来たか?
「……そうか」
「はい」
「立派だ」
「ありがとうございます」
リリスが嬉しそうにする。
レオナルド先輩は俺を見る。
「アルフレッド」
「はい」
「半歩という新しい概念が増えたらしいな」
「もう知っているんですか」
「リリスが嬉しそうに廊下で話していた」
「リリス」
「ごめんなさい」
リリスは恥ずかしそうに俯いた。
レオナルド先輩は真面目に頷く。
「悪くない」
「悪くないんですか」
「具体的だ。リリスにも分かりやすい」
「それはそうですね」
「父上にも使えるかもしれない」
「ガロウ公爵に?」
「ああ。『父上、剣を持って行く前に半歩下がってください』と」
「半歩で足りますか?」
「足りないな」
「ですよね」
リリスがくすっと笑った。
レオナルド先輩も少し笑う。
フルーラ家の会話に俺が自然に混ざっている。
少し不思議だ。
正門で別れる時、リリスは今日も少し近かった。
「リリス」
「はい」
「半歩」
「はい」
リリスは半歩下がる。
そして嬉しそうに笑う。
「アルが、今日も半歩と言ってくださいました」
「嬉しいんですね」
「はい。戻る場所があるみたいで」
その言葉に、俺は少し黙った。
戻る場所。
ただの距離調整に、リリスはそんな意味を見ている。
「リリス」
「はい」
「戻る場所は、半歩だけではありませんよ」
「……」
「不安になったら、ちゃんと言ってください。俺もできるだけ聞きます」
リリスの目が潤んだ。
「アル」
「小声版?」
「……今日は、普通に泣きそうです」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、目元を押さえる。
「嬉しい涙です」
「分かっています」
「今日の宝物名は」
「はい」
「半歩で戻れる日の宝物です」
「良い名前ですね」
「はい」
馬車に乗る前、リリスは笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が去っていく。
俺は見送りながら思った。
リリスは少しずつ、ただ近づくだけではなく、戻ることも覚えている。
近づく。
止まる。
半歩下がる。
また笑う。
それはきっと、俺たちにとって大事なことだ。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「今日はどうだった?」
「半歩が増えました」
「また増えたか!」
「笑いすぎです」
「いや、いいじゃないか。半歩」
「意外と役に立ちました」
「だろうな」
そして、やはりフルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『娘が「半歩で戻れる」と言っていた。意味は分からんが嬉しそうだった。アルフレッド殿が止めてくれるから安心らしい。複雑だ。だが礼を言う。説明しろ。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『半歩の概念は有用だ。リリスが安心している。オスカーへの対応も悪くない。引き続き、近づきすぎたら半歩下げるように。父上にも応用を検討する。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。リリスが今日は「半歩」を嬉しそうに話してくれました。拒むのではなく、戻る場所を示してくださったのですね。ありがとうございます。とてもよい“ほどほど”です。なお、夫にも半歩を教えようと思いますが、彼には三歩ほど必要かもしれません。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
三歩。
セレスティア夫人、分かっていらっしゃる。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「半歩から三歩へ、応用範囲が広がっておりますね」と頷いた。
ライズは親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
止められることまで嬉しいって!!
やっぱり距離感が近すぎます!!




