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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第21話 公爵夫人様、笑顔だけで逃げ道を塞ぎます


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 ついにこの日が来てしまった。


 セレスティア・フルーラ公爵夫人とのお茶会。


 いや、手紙には「お茶会」と書かれていた。


 場所も学園内の貴賓用応接室。


 同席者はリリス。


 表向きは、婚約者の母君と穏やかにお茶を飲むだけである。


 だが、俺の心の中では完全に面談だった。


 しかも逃げ道はない。


 本人がそう書いていた。


 逃げ道はございません。


 扉はきちんと開けてお待ちしております。


 ……扉が開いているのに逃げ道がないとはどういう状況なのか。


 考えても分からない。


 ただ一つ分かるのは、セレスティア夫人はその状況を笑顔で作れる人だということだ。


 朝、自室で制服に袖を通した俺は、鏡の前で深呼吸した。


 襟は整っている。


 髪も問題ない。


 顔色も、たぶん悪くない。


 ただし、目が少し真剣すぎる。


 ライズが背後で最終確認をしていた。


「若様、ハンカチ七枚」


「多い」


「アマリリス様用、若様用、予備、予備の予備、緊急用、想定外用、そしてガロウ公爵様が乱入された場合用でございます」


「最後が怖い」


「可能性は低いですが、零ではございません」


「レオナルド先輩が止めるはずだ」


「そのレオナルド様を突破された場合に」


「想像したくない」


「セレスティア様がいらっしゃるので最終的には止まります」


「なら大丈夫だな」


「はい」


 いや、本当に大丈夫なのか。


 でも、セレスティア夫人がいればガロウ公爵は止まる。


 これはもう、周囲の証言から確定している。


「若様」


「なんだ」


「本日の心得でございます」


「またあるのか」


「一、取り繕わない」


「はい」


「二、声量に気をつける」


「はい」


「三、アマリリス様が泣かれても慌てない」


「はい」


「四、セレスティア様が微笑まれても逃げようとしない」


「逃げません」


「五、困った時は正直に困る」


「レオナルド先輩にも言われた」


「六、心の椅子について問われた場合は」


「そこは聞かれないと信じたい」


「若様、現実を」


「やめろ」


 ライズは真顔で一礼した。


「ご武運を」


「戦に行くんじゃない」


「精神的には近いかと」


「否定できない」


 朝食の席では、父上と母上が待っていた。


 父上は今日はからかうより、少し見守る顔をしている。


「アルフレッド」


「はい」


「今日は胸を張って行け」


「はい」


「お前は伯爵家の子息で、リリス嬢の婚約者だ。下手に卑屈になる必要はない」


「分かっています」


「ただし、相手はセレスティアだ」


「はい」


「勝とうとするな」


「勝負なんですか?」


「勝負にした時点で負ける」


「怖い」


 母上は穏やかに微笑んだ。


「アル、大丈夫よ」


「はい」


「あなたは昨日、リリス様にちゃんと言えたでしょう?」


「はい」


「なら、同じ気持ちでお話しなさい」


「はい」


「言葉に詰まっても、焦らないこと」


「はい」


「リリス様が泣いたら、ハンカチ」


「はい」


「セレスティア様が微笑んだら」


「はい」


「姿勢を正す」


「母上まで」


 母上は楽しそうに笑った。


「それで大丈夫」


 本当に大丈夫なのだろうか。


 でも、家族に見送られると、少しだけ腹が決まった。


 学園へ向かう馬車の中、俺はリリスから昨日もらった紙を取り出した。


『アルは、ちゃんとアルのままで大丈夫です』


 綺麗な文字。


 真っ直ぐな言葉。


 俺はそれを見つめ、ゆっくり息を吐いた。


 リリスがそう言ってくれた。


 なら、俺は俺のまま行くしかない。


 完璧な貴公子を演じる必要はない。


 そもそも無理だ。


 俺は、ツッコミが多くて、少し照れ屋で、まだ未熟な伯爵子息。


 でも、リリスを大切にしたいと思っている。


 それだけは、ちゃんと持っていく。


 学園の正門前。


 リリスはいつもの場所にいた。


 今日も制服姿。


 ブルーローズの髪飾り。


 ただ、顔はかなり緊張している。


 俺を見つけた瞬間、ほっとしたように表情が緩んだ。


 そして、走らず歩いてくる。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。今日もちゃんとできていました」


「……今日は、走ったらお母様に見られている気がして」


「気が早い」


「でも、お母様なら分かりそうで」


「否定できません」


 二人で少し笑った。


 その笑いで、朝の緊張がほんの少しだけほどける。


「アル」


「はい」


「昨日の紙、持っていますか?」


「はい」


 俺は鞄の中を軽く示した。


「持っています」


「……嬉しいです」


「今日はそれを見て来ました」


「アル」


「小声版ですか?」


「はい。朝一回目です」


「深呼吸しましょう」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


 涙は出ない。


 頑張っている。


「今日は、私もお母様の前で泣きすぎないようにします」


「無理しすぎなくて大丈夫です」


「でも、アルが困ってしまうかもしれません」


「リリスが泣いても、俺はもう前ほど困りません」


「本当ですか?」


「はい。理由を聞いて、待つだけです」


「……それが嬉しいです」


「小声版二回目?」


「危険ですが、耐えます」


 ミラが後ろで静かに見守っている。


 今日はミラの表情も少し引き締まっていた。


「アルフレッド様」


「はい」


「本日は、どうぞよろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


「セレスティア様は、お嬢様のことを深く案じておられます」


「はい」


「ですが、アルフレッド様を悪く思ってはおられません」


「それは少し安心です」


「ただし、よく見ておられます」


「安心が薄れました」


 ミラは静かに微笑んだ。


 教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


「おはよう、二人とも」


「おはようございます」


「ご機嫌よう」


 ユリウスは俺の顔を見る。


「思ったより大丈夫そうだね」


「香草茶の効果かもしれません」


「飲んだんだ」


「少し」


 エレナ嬢はリリスの手元を見て、優しく言った。


「アマリリス様も、今日はご無理なさらず」


「はい」


「でも、アルがいるので大丈夫です」


「言い切りましたね」


 俺が言うと、リリスは少し頬を赤くした。


「はい。言い切ります」


「強い」


「今日は、アルを支える日でもありますので」


「その気持ちは嬉しいですが、物理的に近づきすぎないように」


「……はい」


 ユリウスが笑った。


「でも、今日は本当に応援してるよ、アルフレッド」


「ありがとうございます」


「セレスティア様の前でツッコミすぎないように」


「努力します」


「でも、たぶんツッコむよね」


「状況によります」


 エレナ嬢がくすくす笑う。


「アルフレッド様のツッコミも、誠実さの一部かもしれませんわ」


「そうでしょうか」


「ええ。誤魔化さず反応されているということですもの」


 そんな解釈があるのか。


 少し救われた気がした。


 午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 いや、聞いてはいた。


 聞いてはいたが、意識の端にはずっと放課後の貴賓用応接室があった。


 リリスも同じらしく、時々ノートの文字が少し乱れている。


 だが、彼女はちゃんと授業を受けた。


 泣きそうになることもあったが、小声版で深呼吸して耐えた。


 ユリウスもエレナ嬢も、自然にいつも通り接してくれた。


 その普通がありがたかった。


 昼休み。


 食堂で四人で座ったが、今日はリリスも俺も食が少し細かった。


 ユリウスが俺の皿を見て言う。


「アルフレッド、ちゃんと食べた方がいいよ」


「分かっています」


「面談中にお腹が鳴ったら大変だし」


「不吉なことを言わないでください」


 リリスが真剣に俺を見る。


「アル、パンをもう少し」


「リリスも食べましょう」


「はい」


 二人で互いに食べろと言い合う。


 エレナ嬢が微笑んだ。


「支え合っていますね」


「食事管理になっていますが」


「大切ですわ」


 リリスが小さく頷く。


「アルが倒れないように」


「倒れません」


「でも」


「大丈夫です」


「……はい」


 俺はパンを少し食べた。


 リリスもスープを飲んだ。


 それを見て、ユリウスが満足げに頷いた。


「よし」


「保護者が増えた」


「今日は特別だよ」


 午後の授業も終わり、ついに放課後になった。


 教室の空気が少し変わる。


 皆が直接は言わない。


 でも、俺とリリスを見ている。


 ニールが小さく声をかけてくれた。


「シェルザート君、頑張って」


「ありがとうございます」


「アマリリス様も」


「ありがとうございます、バートン様」


 エレナ嬢がリリスの手をそっと取る。


「アマリリス様、大丈夫です」


「はい」


「アルフレッド様も、大丈夫ですわ」


「ありがとうございます」


 ユリウスは軽く手を振った。


「あとで無事を教えてね」


「生還報告みたいに言わないでください」


「じゃあ、健闘報告」


「それも違う」


 でも、少し笑えた。


 ありがたい。


 廊下に出ると、レオナルド先輩が待っていた。


 当然のように。


「リリス」


「お兄様」


「アルフレッド」


「はい」


「母上はすでに応接室にいる」


「早いですね」


「母上だからな」


「理由になっているようで、なっています」


「今日は僕も父上も同席しない」


「はい」


「だが、近くにはいる」


「いるんですか」


「何かあれば」


「何かとは」


「父上が来ようとした場合、止める」


「そちらの警備ですか」


「重要だ」


「確かに」


 レオナルド先輩はリリスへ視線を向けた。


「リリス」


「はい」


「母上の前だからといって、無理に完璧でいようとするな」


「……はい」


「君が泣きそうになることも、母上は知っている」


「はい」


「アルフレッドが困った顔をすることも知っている」


「それも?」


「知っている」


「なぜ?」


「報告が上がっている」


「誰から!?」


 俺は思わず聞いた。


 レオナルド先輩は涼しい顔で言う。


「色々と」


「色々怖い」


 彼は少しだけ笑った。


「だが、悪い報告ではない」


「それならよかったです」


「アルフレッド」


「はい」


「母上には、君の言葉で話せ」


「はい」


「それで不合格なら、僕も父上も諦める」


「不合格があるんですか!?」


「冗談だ」


「冗談に聞こえません」


 リリスが兄を見た。


「お兄様」


「すまない」


 妹に注意されるとすぐ引く。


 やはり兄である。


 レオナルド先輩は最後に真面目な声で言った。


「行ってこい」


「はい」


「リリスを頼む」


「はい」


「アルも、無理をしないでください」


 リリスが俺を見る。


「はい」


 俺たちは貴賓用応接室へ向かった。


 廊下がいつもより長く感じる。


 足音がやけに響く。


 窓から差し込む夕方の光が、床に斜めの影を落としていた。


 ミラは少し後ろを歩いている。


 貴賓用応接室の前に着く。


 扉は閉まっている。


 逃げ道はない。


 だが、扉は開く。


 俺は深呼吸した。


 リリスも隣で深呼吸する。


「アル」


「はい」


「一緒です」


「はい。一緒です」


 俺は扉を叩いた。


 中から、柔らかな声がした。


「どうぞ」


 扉を開ける。


 貴賓用応接室は、想像以上に落ち着いた空間だった。


 淡いクリーム色の壁。


 磨かれた木の床。


 大きな窓からは夕方の柔らかな光。


 中央には低いテーブルと、上品なソファ。


 花瓶には白い花が飾られ、部屋全体に控えめな香りが漂っている。


 そのソファの前に、一人の女性が立っていた。


 淡い藤色のドレス。


 柔らかく結い上げられた金の髪。


 リリスと同じ碧色の瞳。


 年齢を感じさせない美しさと、場の空気を一瞬で整えるような優雅さ。


 セレスティア・フルーラ公爵夫人。


 彼女は俺たちを見ると、ふわりと微笑んだ。


 その微笑みは、優しい。


 間違いなく優しい。


 なのに、背筋が自然に伸びた。


「ようこそ、アルフレッド様。リリス」


 声も柔らかい。


 だが逃げ道はない。


 俺は丁寧に礼をした。


「お招きいただきありがとうございます。アルフレッド・シェルザートです」


 リリスも礼をする。


「お母様」


「ふふ。二人とも、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」


 無理です。


 とは言えない。


 セレスティア夫人は俺を見た。


「でも、緊張してくださっているのは、誠実な証でもありますね」


「……はい」


「どうぞ、お座りください」


「失礼いたします」


 俺とリリスは並んで座った。


 距離はほどほど。


 リリスは近づきすぎないようにかなり意識している。


 セレスティア夫人はそれを見て、微笑んだ。


「リリス、今日はよく我慢していますね」


「お母様」


「ふふ。褒めています」


「……はい」


 リリスの頬が赤くなる。


 目が潤みかける。


 早い。


 セレスティア夫人はすぐに言った。


「小声版かしら?」


「お母様まで!?」


 俺は思わず声を出した。


 しまった。


 初対面でツッコんだ。


 終わったか?


 セレスティア夫人は目を丸くし、それから楽しそうに笑った。


「まあ」


「し、失礼いたしました」


「いいえ。リリスから聞いていた通りです」


「聞いていた通り」


「アルフレッド様は、きちんとツッコんでくださる方だと」


「それ、褒められているのでしょうか」


「もちろんです」


 セレスティア夫人は上品に微笑む。


「リリスには、必要なことですもの」


 リリスが赤くなる。


「お母様」


「本当でしょう? あなたは考えすぎると、少し独特な方向へ行きますから」


「少し?」


 俺は反射で言いかけて止まった。


 セレスティア夫人がこちらを見る。


「アルフレッド様?」


「いえ」


「今、かなり、とお思いになりましたか?」


 見抜かれた!!


「……はい」


 俺は正直に答えた。


 セレスティア夫人はにこりと笑った。


「正直でよろしいです」


 怖い。


 だが、少し面白い。


 リリスは恥ずかしそうに俯いている。


 侍女がお茶を運んできた。


 香りのよい紅茶と、小さな菓子。


 セレスティア夫人は優雅にカップを手に取った。


「まずは、お茶をいただきましょう。お話はその後で」


「はい」


 俺はカップを手に取る。


 香りが落ち着く。


 リリスも少し肩の力が抜けたようだった。


 しばらく、天気や学園生活について穏やかな話が続いた。


 セレスティア夫人は本当に聞き上手だった。


 俺が答えると、柔らかく頷き、そこから自然に次の話題へ移る。


「学園生活には慣れましたか?」


「少しずつですが」


「リリスは?」


「はい。アルやお友達がいてくださるので」


「お友達ができたそうですね」


「はい。エレナ様と、ユリウス様と」


「よかったわね」


「はい」


 リリスの目が潤む。


 セレスティア夫人はすっとハンカチを差し出した。


 動きが自然すぎる。


「小声版?」


「……はい」


「では、深呼吸」


「はい」


 母、完璧。


 俺たちが築いてきた手順を、最初から完成形で扱っている。


 さすが母親。


 リリスは深呼吸し、涙を抑えた。


「よくできました」


「ありがとうございます」


 セレスティア夫人は今度は俺を見た。


「アルフレッド様」


「はい」


「いつも、娘にこうして付き合ってくださっているのですね」


「付き合っているというか……リリスが頑張っているので、俺もできることをしているだけです」


「できること」


「はい」


「具体的には?」


 来た。


 質問。


 俺は一拍置いた。


 沈黙を恐れない。


「リリスが泣きそうな時、まず理由を見るようにしています」


「理由」


「嬉しいのか、不安なのか、悲しいのか。それで声のかけ方も違うので」


「なるほど」


「それから、急かさないようにしています」


「なぜ?」


「急かすと、リリスが自分を責めてしまう気がするからです」


 リリスが隣で息を呑んだ。


 セレスティア夫人の目が少しだけ柔らかくなる。


「よく見ていますね」


「……そうでしょうか」


「ええ」


 セレスティア夫人は静かにカップを置いた。


「リリスは、自分が泣き虫だと分かっています。そして、それを恥ずかしいと思うことも多い子です」


「はい」


「公爵令嬢としては、感情を整えなければなりません。でも、感情があることまで否定してほしくはありません」


「……はい」


「あなたは、そこをどうお考えですか?」


 核心。


 これが本題だ。


 俺は息を吸った。


「俺は、リリスの感情が豊かなところは、悪いところではないと思っています」


 リリスが俺を見る。


「もちろん、場に合わせる必要はあります。学園でも社交でも、泣きたいだけ泣けばいいわけではありません」


「ええ」


「でも、嬉しい時に嬉しいと感じることや、不安な時に不安だと言えることは、弱さだけではないと思います」


 セレスティア夫人は黙って聞いている。


 俺は続けた。


「リリスは、泣きそうになるたびに、ちゃんと学ぼうとしています。小声版も、最初は少し驚きましたけど」


「ふふ」


「でも、今は自分の状態を周囲に伝えるための方法になっています」


「そうですね」


「だから俺は、泣かないようにさせるより、リリスが自分を責めずに、少しずつ整えていけるように隣にいたいです」


 言い終えた。


 部屋が静かだった。


 窓の外で、風が木の葉を揺らす音がする。


 リリスの目から涙が落ちた。


 でも、声は出さない。


 セレスティア夫人はその涙を見て、優しく微笑んだ。


「リリス」


「はい……小声版では、足りません」


「そうね」


 母娘の会話。


 セレスティア夫人はハンカチを差し出した。


 リリスは受け取り、目元を押さえる。


「嬉しいのね」


「はい」


「よかったわね」


「はい……」


 俺は黙って待った。


 リリスが落ち着くまで。


 セレスティア夫人はその様子も見ていた。


 そして、静かに言った。


「アルフレッド様」


「はい」


「昨日、リリスに伝えた言葉を、もう一度聞かせていただけますか?」


 来た。


 昨日の言葉。


 リリスが固まる。


 俺も一瞬固まる。


 セレスティア夫人は穏やかに微笑む。


「もちろん、無理にとは言いません」


 嘘だ。


 逃げ道はない。


 でも、言うしかない。


 俺は一拍置いた。


 リリスを見る。


 彼女は涙目で俺を見ている。


 俺は小さく頷いた。


「リリスは、俺にとって大切な婚約者です」


 リリスの肩が震える。


「距離が近すぎて大変な時もあります。ツッコミが追いつかない時も多いです」


 セレスティア夫人が少し笑った。


「でも、その近さは、リリスが俺を大切に思ってくれているからだと分かっています」


「……」


「だから俺は、その近さごと、大切にしたいと思っています」


 言った。


 昨日より、少し落ち着いて言えた。


 でも、やっぱり顔は熱い。


 リリスは完全に泣いていた。


 ただ、声を抑えている。


 ハンカチで目元を押さえ、肩を震わせている。


 セレスティア夫人はリリスを見て、それから俺を見た。


「ありがとうございます」


「いえ」


「母として、とても嬉しい言葉です」


「……はい」


「そして、少し安心しました」


 安心。


 その言葉に、俺の胸の緊張が少しほどけた。


 セレスティア夫人は続ける。


「アルフレッド様」


「はい」


「あなたは、まだお若い」


「はい」


「完璧な婚約者ではありません」


「はい」


「リリスも、完璧な令嬢ではありません」


「お母様」


 リリスが小さく声を上げる。


 セレスティア夫人は優しく笑った。


「でも、それでいいのです」


「……」


「完璧ではない二人が、互いに学びながら、少しずつ歩幅を合わせていく。それができるなら、母としては十分です」


 歩幅を合わせる。


 昨日の魔力合わせを思い出した。


 相手を支配しない。


 自分を消しすぎない。


 互いに調整する。


 俺とリリスに必要なこと。


「ただし」


 セレスティア夫人の声が少しだけ変わった。


 優しいまま。


 でも、背筋が伸びる声。


「リリスを軽く扱うことは、許しません」


「はい」


「泣かせることそのものを責めるつもりはありません。嬉しい涙もありますから」


「はい」


「けれど、リリスが自分を傷つけるような泣き方をした時、あなたが気づかないなら」


「……はい」


「その時は、少しお話ししましょうね」


 怖い。


 少しお話し。


 絶対に少しではない。


「肝に銘じます」


「よろしい」


 セレスティア夫人は微笑んだ。


「それと、夫と息子が少々ご迷惑をおかけしているようで」


「少々……」


 言いかけて止まる。


 セレスティア夫人がにこりと笑う。


「かなり、かしら?」


「……はい」


「正直でよろしいです」


 リリスが涙の中で少し笑った。


「お父様もお兄様も、リリスを大切に思うあまり、少し前のめりになるのです」


「少し?」


 また言ってしまった。


 セレスティア夫人は楽しそうに笑う。


「かなり、ですね」


「はい」


「私からも、ほどほどにするよう伝えておきます」


「ありがとうございます」


「もっとも、完全には止まらないでしょうけれど」


「でしょうね」


 つい同意してしまった。


 セレスティア夫人は声を立てずに笑った。


 その笑い方は、リリスに少し似ていた。


 いや、逆だ。


 リリスが母に似ているのだ。


 その後、話題は少し柔らかくなった。


 学園のこと。


 エレナ嬢やユリウスのこと。


 自由研究のこと。


 魔力合わせのこと。


 セレスティア夫人は一つ一つ、丁寧に聞いた。


「魔力合わせでは、リリスが落ち着けたそうですね」


「最初は揺れましたが、深呼吸で」


「アルの声で落ち着きました」


 リリスが小さく言った。


 セレスティア夫人は微笑む。


「まあ」


「お母様」


「素敵なことね」


「……小声版です」


「はい、深呼吸」


 母は強い。


 それから、自由研究の話になった。


「礼法における感情表現と周囲の配慮」


 セレスティア夫人は題を聞いて、目を細めた。


「とても良いテーマね」


「アルが提案してくださいました」


「そう」


 視線が俺へ来る。


「良い提案です」


「ありがとうございます」


「リリス、自分の涙を恥じるだけでなく、学びにするのですね」


「はい」


「立派です」


「……っ」


「泣きそう?」


「はい」


「今日は泣いてもよい日です」


「お母様」


「だって嬉しいのでしょう?」


「はい」


 リリスはまた泣いた。


 でも、それは穏やかな涙だった。


 部屋の空気は温かかった。


 怖いと思っていたセレスティア夫人は、確かに圧があった。


 見抜かれる感覚もある。


 でも、その圧は、リリスを大切に思うからこそのものだった。


 そして、俺のこともちゃんと見ようとしてくれている。


 面談は怖いだけではなかった。


 そう思えた。


 お茶会の終わりが近づいた頃、セレスティア夫人は静かに言った。


「アルフレッド様」


「はい」


「今日、お話しできてよかったです」


「こちらこそ、ありがとうございました」


「リリスを、どうぞよろしくお願いいたします」


 俺は姿勢を正した。


「はい。未熟ですが、逃げずに向き合います」


 セレスティア夫人は微笑んだ。


「よろしい」


 その一言で、胸の奥の緊張がすっと抜けた。


 認められた。


 完全にかは分からない。


 でも、少なくとも今日の俺は、逃げずに終えられた。


 リリスが隣で涙を拭きながら笑っている。


「アル」


「はい」


「お疲れ様でした」


「リリスも」


「私、たくさん泣いてしまいました」


「嬉しい涙でしょう?」


「はい」


「なら、大丈夫です」


「……また泣きそうです」


「今日はもう仕方ないですね」


 セレスティア夫人が笑った。


「本当に、よい二人ね」


 その言葉に、リリスがまた泣いた。


 俺はハンカチを追加で出した。


 七枚持ってきて正解だった。


 まさか本当に使うとは。


 応接室を出ると、廊下にレオナルド先輩がいた。


 少し離れた場所に。


 待っていた。


 当然のように。


「終わったか」


「はい」


「母上は?」


「笑っていました」


「なら大丈夫だ」


「判断基準」


「泣かされたか?」


「リリスは泣きました」


「嬉し泣きか?」


「はい」


「ならよし」


 兄も手順が完全に馴染んでいる。


 リリスが兄に言った。


「お兄様、お母様はアルを認めてくださいました」


 レオナルド先輩の表情が少し柔らかくなる。


「そうか」


「はい」


「よかったな」


「はい」


 そしてレオナルド先輩は俺を見た。


「アルフレッド」


「はい」


「よく逃げなかった」


「逃げ道がありませんでしたので」


「それもそうだ」


 少し笑った。


 正門へ向かう途中、リリスはいつもよりかなり近かった。


 だが、今日は俺も何も言わなかった。


 彼女は泣き疲れていて、でもとても幸せそうだったから。


「アル」


「はい」


「今日は、ありがとうございました」


「俺も、リリスがいてくれて助かりました」


「私が?」


「はい。一緒だったから、ちゃんと話せました」


「……っ」


「小声版?」


「今日は、普通に泣きそうです」


「はい」


 俺はハンカチを差し出した。


 何枚目だろう。


 数えるのはやめた。


 リリスは受け取り、笑いながら涙を拭いた。


「今日の宝物名は?」


 俺が聞くと、リリスは少し考えた。


「お母様に認めていただいた日の宝物です」


「長いですね」


「とても大切です」


「はい」


 馬車に乗る前、リリスはもう一度俺を見た。


「アル」


「はい」


「私は、アルの婚約者で幸せです」


 直球。


 強すぎる。


 今度は俺が少し言葉に詰まった。


「……俺もです」


 リリスの目が大きく開く。


「アル?」


「俺も、リリスが婚約者でよかったと思っています」


 言った。


 また言った。


 リリスは完全に泣いた。


 馬車の前で。


 だが、今日はいい。


 ミラも微笑んでいる。


 俺はハンカチをもう一枚出した。


 足りてよかった。


 馬車が去っていく。


 俺はそれを見送りながら、長く息を吐いた。


 終わった。


 逃げなかった。


 セレスティア夫人は怖かった。


 でも、優しかった。


 そして、少しだけ認めてもらえた。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上と母上が待っていた。


「どうだった?」


「逃げませんでした」


「よし」


「リリスは泣きました」


「だろうな」


「セレスティア夫人は、笑っていました」


 父上は頷いた。


「なら、大丈夫だ」


 母上も微笑む。


「よかったわね、アル」


「はい」


 そこへ、フルーラ家から書状が届いた。


 一通目、ガロウ公爵。


『セレスティアから聞いた。アルフレッド殿は逃げなかったらしい。リリスは泣いたらしい。嬉し泣きらしい。私は泣いていない。少ししか。説明しろ。いや、今日は礼を言う。娘をありがとう。 ガロウ』


 二通目、レオナルド先輩。


『母上が「よい子ね」と言っていた。これは高評価だ。父上は少し泣いた。僕は泣いていない。君は及第点を超えた。今後も油断はするな。 レオナルド』


 三通目、セレスティア夫人。


『アルフレッド様。本日はありがとうございました。あなたがリリスを大切に思ってくださっていること、よく分かりました。まだ若い二人ですから、これからも迷うことはあるでしょう。けれど、今日のように逃げず、言葉を尽くせるなら大丈夫です。またお茶をいたしましょうね。今度は、逃げ道の話は控えめにいたします。 セレスティア』


 俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。


 控えめにはする。


 でも、なくなるとは書いていない。


 さすがセレスティア夫人。


 父上は笑った。


 母上は嬉しそうに頷いた。


 リーマスは「ひとまず第一関門突破でございます」と言った。


 ライズは親指を立てた。


 俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 お母様、優しかったけど!!


 やっぱり笑顔の圧が強すぎます!!

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