第21話 公爵夫人様、笑顔だけで逃げ道を塞ぎます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
ついにこの日が来てしまった。
セレスティア・フルーラ公爵夫人とのお茶会。
いや、手紙には「お茶会」と書かれていた。
場所も学園内の貴賓用応接室。
同席者はリリス。
表向きは、婚約者の母君と穏やかにお茶を飲むだけである。
だが、俺の心の中では完全に面談だった。
しかも逃げ道はない。
本人がそう書いていた。
逃げ道はございません。
扉はきちんと開けてお待ちしております。
……扉が開いているのに逃げ道がないとはどういう状況なのか。
考えても分からない。
ただ一つ分かるのは、セレスティア夫人はその状況を笑顔で作れる人だということだ。
朝、自室で制服に袖を通した俺は、鏡の前で深呼吸した。
襟は整っている。
髪も問題ない。
顔色も、たぶん悪くない。
ただし、目が少し真剣すぎる。
ライズが背後で最終確認をしていた。
「若様、ハンカチ七枚」
「多い」
「アマリリス様用、若様用、予備、予備の予備、緊急用、想定外用、そしてガロウ公爵様が乱入された場合用でございます」
「最後が怖い」
「可能性は低いですが、零ではございません」
「レオナルド先輩が止めるはずだ」
「そのレオナルド様を突破された場合に」
「想像したくない」
「セレスティア様がいらっしゃるので最終的には止まります」
「なら大丈夫だな」
「はい」
いや、本当に大丈夫なのか。
でも、セレスティア夫人がいればガロウ公爵は止まる。
これはもう、周囲の証言から確定している。
「若様」
「なんだ」
「本日の心得でございます」
「またあるのか」
「一、取り繕わない」
「はい」
「二、声量に気をつける」
「はい」
「三、アマリリス様が泣かれても慌てない」
「はい」
「四、セレスティア様が微笑まれても逃げようとしない」
「逃げません」
「五、困った時は正直に困る」
「レオナルド先輩にも言われた」
「六、心の椅子について問われた場合は」
「そこは聞かれないと信じたい」
「若様、現実を」
「やめろ」
ライズは真顔で一礼した。
「ご武運を」
「戦に行くんじゃない」
「精神的には近いかと」
「否定できない」
朝食の席では、父上と母上が待っていた。
父上は今日はからかうより、少し見守る顔をしている。
「アルフレッド」
「はい」
「今日は胸を張って行け」
「はい」
「お前は伯爵家の子息で、リリス嬢の婚約者だ。下手に卑屈になる必要はない」
「分かっています」
「ただし、相手はセレスティアだ」
「はい」
「勝とうとするな」
「勝負なんですか?」
「勝負にした時点で負ける」
「怖い」
母上は穏やかに微笑んだ。
「アル、大丈夫よ」
「はい」
「あなたは昨日、リリス様にちゃんと言えたでしょう?」
「はい」
「なら、同じ気持ちでお話しなさい」
「はい」
「言葉に詰まっても、焦らないこと」
「はい」
「リリス様が泣いたら、ハンカチ」
「はい」
「セレスティア様が微笑んだら」
「はい」
「姿勢を正す」
「母上まで」
母上は楽しそうに笑った。
「それで大丈夫」
本当に大丈夫なのだろうか。
でも、家族に見送られると、少しだけ腹が決まった。
学園へ向かう馬車の中、俺はリリスから昨日もらった紙を取り出した。
『アルは、ちゃんとアルのままで大丈夫です』
綺麗な文字。
真っ直ぐな言葉。
俺はそれを見つめ、ゆっくり息を吐いた。
リリスがそう言ってくれた。
なら、俺は俺のまま行くしかない。
完璧な貴公子を演じる必要はない。
そもそも無理だ。
俺は、ツッコミが多くて、少し照れ屋で、まだ未熟な伯爵子息。
でも、リリスを大切にしたいと思っている。
それだけは、ちゃんと持っていく。
学園の正門前。
リリスはいつもの場所にいた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
ただ、顔はかなり緊張している。
俺を見つけた瞬間、ほっとしたように表情が緩んだ。
そして、走らず歩いてくる。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日もちゃんとできていました」
「……今日は、走ったらお母様に見られている気がして」
「気が早い」
「でも、お母様なら分かりそうで」
「否定できません」
二人で少し笑った。
その笑いで、朝の緊張がほんの少しだけほどける。
「アル」
「はい」
「昨日の紙、持っていますか?」
「はい」
俺は鞄の中を軽く示した。
「持っています」
「……嬉しいです」
「今日はそれを見て来ました」
「アル」
「小声版ですか?」
「はい。朝一回目です」
「深呼吸しましょう」
「はい」
リリスは深呼吸した。
涙は出ない。
頑張っている。
「今日は、私もお母様の前で泣きすぎないようにします」
「無理しすぎなくて大丈夫です」
「でも、アルが困ってしまうかもしれません」
「リリスが泣いても、俺はもう前ほど困りません」
「本当ですか?」
「はい。理由を聞いて、待つだけです」
「……それが嬉しいです」
「小声版二回目?」
「危険ですが、耐えます」
ミラが後ろで静かに見守っている。
今日はミラの表情も少し引き締まっていた。
「アルフレッド様」
「はい」
「本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
「セレスティア様は、お嬢様のことを深く案じておられます」
「はい」
「ですが、アルフレッド様を悪く思ってはおられません」
「それは少し安心です」
「ただし、よく見ておられます」
「安心が薄れました」
ミラは静かに微笑んだ。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
「おはよう、二人とも」
「おはようございます」
「ご機嫌よう」
ユリウスは俺の顔を見る。
「思ったより大丈夫そうだね」
「香草茶の効果かもしれません」
「飲んだんだ」
「少し」
エレナ嬢はリリスの手元を見て、優しく言った。
「アマリリス様も、今日はご無理なさらず」
「はい」
「でも、アルがいるので大丈夫です」
「言い切りましたね」
俺が言うと、リリスは少し頬を赤くした。
「はい。言い切ります」
「強い」
「今日は、アルを支える日でもありますので」
「その気持ちは嬉しいですが、物理的に近づきすぎないように」
「……はい」
ユリウスが笑った。
「でも、今日は本当に応援してるよ、アルフレッド」
「ありがとうございます」
「セレスティア様の前でツッコミすぎないように」
「努力します」
「でも、たぶんツッコむよね」
「状況によります」
エレナ嬢がくすくす笑う。
「アルフレッド様のツッコミも、誠実さの一部かもしれませんわ」
「そうでしょうか」
「ええ。誤魔化さず反応されているということですもの」
そんな解釈があるのか。
少し救われた気がした。
午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
いや、聞いてはいた。
聞いてはいたが、意識の端にはずっと放課後の貴賓用応接室があった。
リリスも同じらしく、時々ノートの文字が少し乱れている。
だが、彼女はちゃんと授業を受けた。
泣きそうになることもあったが、小声版で深呼吸して耐えた。
ユリウスもエレナ嬢も、自然にいつも通り接してくれた。
その普通がありがたかった。
昼休み。
食堂で四人で座ったが、今日はリリスも俺も食が少し細かった。
ユリウスが俺の皿を見て言う。
「アルフレッド、ちゃんと食べた方がいいよ」
「分かっています」
「面談中にお腹が鳴ったら大変だし」
「不吉なことを言わないでください」
リリスが真剣に俺を見る。
「アル、パンをもう少し」
「リリスも食べましょう」
「はい」
二人で互いに食べろと言い合う。
エレナ嬢が微笑んだ。
「支え合っていますね」
「食事管理になっていますが」
「大切ですわ」
リリスが小さく頷く。
「アルが倒れないように」
「倒れません」
「でも」
「大丈夫です」
「……はい」
俺はパンを少し食べた。
リリスもスープを飲んだ。
それを見て、ユリウスが満足げに頷いた。
「よし」
「保護者が増えた」
「今日は特別だよ」
午後の授業も終わり、ついに放課後になった。
教室の空気が少し変わる。
皆が直接は言わない。
でも、俺とリリスを見ている。
ニールが小さく声をかけてくれた。
「シェルザート君、頑張って」
「ありがとうございます」
「アマリリス様も」
「ありがとうございます、バートン様」
エレナ嬢がリリスの手をそっと取る。
「アマリリス様、大丈夫です」
「はい」
「アルフレッド様も、大丈夫ですわ」
「ありがとうございます」
ユリウスは軽く手を振った。
「あとで無事を教えてね」
「生還報告みたいに言わないでください」
「じゃあ、健闘報告」
「それも違う」
でも、少し笑えた。
ありがたい。
廊下に出ると、レオナルド先輩が待っていた。
当然のように。
「リリス」
「お兄様」
「アルフレッド」
「はい」
「母上はすでに応接室にいる」
「早いですね」
「母上だからな」
「理由になっているようで、なっています」
「今日は僕も父上も同席しない」
「はい」
「だが、近くにはいる」
「いるんですか」
「何かあれば」
「何かとは」
「父上が来ようとした場合、止める」
「そちらの警備ですか」
「重要だ」
「確かに」
レオナルド先輩はリリスへ視線を向けた。
「リリス」
「はい」
「母上の前だからといって、無理に完璧でいようとするな」
「……はい」
「君が泣きそうになることも、母上は知っている」
「はい」
「アルフレッドが困った顔をすることも知っている」
「それも?」
「知っている」
「なぜ?」
「報告が上がっている」
「誰から!?」
俺は思わず聞いた。
レオナルド先輩は涼しい顔で言う。
「色々と」
「色々怖い」
彼は少しだけ笑った。
「だが、悪い報告ではない」
「それならよかったです」
「アルフレッド」
「はい」
「母上には、君の言葉で話せ」
「はい」
「それで不合格なら、僕も父上も諦める」
「不合格があるんですか!?」
「冗談だ」
「冗談に聞こえません」
リリスが兄を見た。
「お兄様」
「すまない」
妹に注意されるとすぐ引く。
やはり兄である。
レオナルド先輩は最後に真面目な声で言った。
「行ってこい」
「はい」
「リリスを頼む」
「はい」
「アルも、無理をしないでください」
リリスが俺を見る。
「はい」
俺たちは貴賓用応接室へ向かった。
廊下がいつもより長く感じる。
足音がやけに響く。
窓から差し込む夕方の光が、床に斜めの影を落としていた。
ミラは少し後ろを歩いている。
貴賓用応接室の前に着く。
扉は閉まっている。
逃げ道はない。
だが、扉は開く。
俺は深呼吸した。
リリスも隣で深呼吸する。
「アル」
「はい」
「一緒です」
「はい。一緒です」
俺は扉を叩いた。
中から、柔らかな声がした。
「どうぞ」
扉を開ける。
貴賓用応接室は、想像以上に落ち着いた空間だった。
淡いクリーム色の壁。
磨かれた木の床。
大きな窓からは夕方の柔らかな光。
中央には低いテーブルと、上品なソファ。
花瓶には白い花が飾られ、部屋全体に控えめな香りが漂っている。
そのソファの前に、一人の女性が立っていた。
淡い藤色のドレス。
柔らかく結い上げられた金の髪。
リリスと同じ碧色の瞳。
年齢を感じさせない美しさと、場の空気を一瞬で整えるような優雅さ。
セレスティア・フルーラ公爵夫人。
彼女は俺たちを見ると、ふわりと微笑んだ。
その微笑みは、優しい。
間違いなく優しい。
なのに、背筋が自然に伸びた。
「ようこそ、アルフレッド様。リリス」
声も柔らかい。
だが逃げ道はない。
俺は丁寧に礼をした。
「お招きいただきありがとうございます。アルフレッド・シェルザートです」
リリスも礼をする。
「お母様」
「ふふ。二人とも、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
無理です。
とは言えない。
セレスティア夫人は俺を見た。
「でも、緊張してくださっているのは、誠実な証でもありますね」
「……はい」
「どうぞ、お座りください」
「失礼いたします」
俺とリリスは並んで座った。
距離はほどほど。
リリスは近づきすぎないようにかなり意識している。
セレスティア夫人はそれを見て、微笑んだ。
「リリス、今日はよく我慢していますね」
「お母様」
「ふふ。褒めています」
「……はい」
リリスの頬が赤くなる。
目が潤みかける。
早い。
セレスティア夫人はすぐに言った。
「小声版かしら?」
「お母様まで!?」
俺は思わず声を出した。
しまった。
初対面でツッコんだ。
終わったか?
セレスティア夫人は目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「まあ」
「し、失礼いたしました」
「いいえ。リリスから聞いていた通りです」
「聞いていた通り」
「アルフレッド様は、きちんとツッコんでくださる方だと」
「それ、褒められているのでしょうか」
「もちろんです」
セレスティア夫人は上品に微笑む。
「リリスには、必要なことですもの」
リリスが赤くなる。
「お母様」
「本当でしょう? あなたは考えすぎると、少し独特な方向へ行きますから」
「少し?」
俺は反射で言いかけて止まった。
セレスティア夫人がこちらを見る。
「アルフレッド様?」
「いえ」
「今、かなり、とお思いになりましたか?」
見抜かれた!!
「……はい」
俺は正直に答えた。
セレスティア夫人はにこりと笑った。
「正直でよろしいです」
怖い。
だが、少し面白い。
リリスは恥ずかしそうに俯いている。
侍女がお茶を運んできた。
香りのよい紅茶と、小さな菓子。
セレスティア夫人は優雅にカップを手に取った。
「まずは、お茶をいただきましょう。お話はその後で」
「はい」
俺はカップを手に取る。
香りが落ち着く。
リリスも少し肩の力が抜けたようだった。
しばらく、天気や学園生活について穏やかな話が続いた。
セレスティア夫人は本当に聞き上手だった。
俺が答えると、柔らかく頷き、そこから自然に次の話題へ移る。
「学園生活には慣れましたか?」
「少しずつですが」
「リリスは?」
「はい。アルやお友達がいてくださるので」
「お友達ができたそうですね」
「はい。エレナ様と、ユリウス様と」
「よかったわね」
「はい」
リリスの目が潤む。
セレスティア夫人はすっとハンカチを差し出した。
動きが自然すぎる。
「小声版?」
「……はい」
「では、深呼吸」
「はい」
母、完璧。
俺たちが築いてきた手順を、最初から完成形で扱っている。
さすが母親。
リリスは深呼吸し、涙を抑えた。
「よくできました」
「ありがとうございます」
セレスティア夫人は今度は俺を見た。
「アルフレッド様」
「はい」
「いつも、娘にこうして付き合ってくださっているのですね」
「付き合っているというか……リリスが頑張っているので、俺もできることをしているだけです」
「できること」
「はい」
「具体的には?」
来た。
質問。
俺は一拍置いた。
沈黙を恐れない。
「リリスが泣きそうな時、まず理由を見るようにしています」
「理由」
「嬉しいのか、不安なのか、悲しいのか。それで声のかけ方も違うので」
「なるほど」
「それから、急かさないようにしています」
「なぜ?」
「急かすと、リリスが自分を責めてしまう気がするからです」
リリスが隣で息を呑んだ。
セレスティア夫人の目が少しだけ柔らかくなる。
「よく見ていますね」
「……そうでしょうか」
「ええ」
セレスティア夫人は静かにカップを置いた。
「リリスは、自分が泣き虫だと分かっています。そして、それを恥ずかしいと思うことも多い子です」
「はい」
「公爵令嬢としては、感情を整えなければなりません。でも、感情があることまで否定してほしくはありません」
「……はい」
「あなたは、そこをどうお考えですか?」
核心。
これが本題だ。
俺は息を吸った。
「俺は、リリスの感情が豊かなところは、悪いところではないと思っています」
リリスが俺を見る。
「もちろん、場に合わせる必要はあります。学園でも社交でも、泣きたいだけ泣けばいいわけではありません」
「ええ」
「でも、嬉しい時に嬉しいと感じることや、不安な時に不安だと言えることは、弱さだけではないと思います」
セレスティア夫人は黙って聞いている。
俺は続けた。
「リリスは、泣きそうになるたびに、ちゃんと学ぼうとしています。小声版も、最初は少し驚きましたけど」
「ふふ」
「でも、今は自分の状態を周囲に伝えるための方法になっています」
「そうですね」
「だから俺は、泣かないようにさせるより、リリスが自分を責めずに、少しずつ整えていけるように隣にいたいです」
言い終えた。
部屋が静かだった。
窓の外で、風が木の葉を揺らす音がする。
リリスの目から涙が落ちた。
でも、声は出さない。
セレスティア夫人はその涙を見て、優しく微笑んだ。
「リリス」
「はい……小声版では、足りません」
「そうね」
母娘の会話。
セレスティア夫人はハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、目元を押さえる。
「嬉しいのね」
「はい」
「よかったわね」
「はい……」
俺は黙って待った。
リリスが落ち着くまで。
セレスティア夫人はその様子も見ていた。
そして、静かに言った。
「アルフレッド様」
「はい」
「昨日、リリスに伝えた言葉を、もう一度聞かせていただけますか?」
来た。
昨日の言葉。
リリスが固まる。
俺も一瞬固まる。
セレスティア夫人は穏やかに微笑む。
「もちろん、無理にとは言いません」
嘘だ。
逃げ道はない。
でも、言うしかない。
俺は一拍置いた。
リリスを見る。
彼女は涙目で俺を見ている。
俺は小さく頷いた。
「リリスは、俺にとって大切な婚約者です」
リリスの肩が震える。
「距離が近すぎて大変な時もあります。ツッコミが追いつかない時も多いです」
セレスティア夫人が少し笑った。
「でも、その近さは、リリスが俺を大切に思ってくれているからだと分かっています」
「……」
「だから俺は、その近さごと、大切にしたいと思っています」
言った。
昨日より、少し落ち着いて言えた。
でも、やっぱり顔は熱い。
リリスは完全に泣いていた。
ただ、声を抑えている。
ハンカチで目元を押さえ、肩を震わせている。
セレスティア夫人はリリスを見て、それから俺を見た。
「ありがとうございます」
「いえ」
「母として、とても嬉しい言葉です」
「……はい」
「そして、少し安心しました」
安心。
その言葉に、俺の胸の緊張が少しほどけた。
セレスティア夫人は続ける。
「アルフレッド様」
「はい」
「あなたは、まだお若い」
「はい」
「完璧な婚約者ではありません」
「はい」
「リリスも、完璧な令嬢ではありません」
「お母様」
リリスが小さく声を上げる。
セレスティア夫人は優しく笑った。
「でも、それでいいのです」
「……」
「完璧ではない二人が、互いに学びながら、少しずつ歩幅を合わせていく。それができるなら、母としては十分です」
歩幅を合わせる。
昨日の魔力合わせを思い出した。
相手を支配しない。
自分を消しすぎない。
互いに調整する。
俺とリリスに必要なこと。
「ただし」
セレスティア夫人の声が少しだけ変わった。
優しいまま。
でも、背筋が伸びる声。
「リリスを軽く扱うことは、許しません」
「はい」
「泣かせることそのものを責めるつもりはありません。嬉しい涙もありますから」
「はい」
「けれど、リリスが自分を傷つけるような泣き方をした時、あなたが気づかないなら」
「……はい」
「その時は、少しお話ししましょうね」
怖い。
少しお話し。
絶対に少しではない。
「肝に銘じます」
「よろしい」
セレスティア夫人は微笑んだ。
「それと、夫と息子が少々ご迷惑をおかけしているようで」
「少々……」
言いかけて止まる。
セレスティア夫人がにこりと笑う。
「かなり、かしら?」
「……はい」
「正直でよろしいです」
リリスが涙の中で少し笑った。
「お父様もお兄様も、リリスを大切に思うあまり、少し前のめりになるのです」
「少し?」
また言ってしまった。
セレスティア夫人は楽しそうに笑う。
「かなり、ですね」
「はい」
「私からも、ほどほどにするよう伝えておきます」
「ありがとうございます」
「もっとも、完全には止まらないでしょうけれど」
「でしょうね」
つい同意してしまった。
セレスティア夫人は声を立てずに笑った。
その笑い方は、リリスに少し似ていた。
いや、逆だ。
リリスが母に似ているのだ。
その後、話題は少し柔らかくなった。
学園のこと。
エレナ嬢やユリウスのこと。
自由研究のこと。
魔力合わせのこと。
セレスティア夫人は一つ一つ、丁寧に聞いた。
「魔力合わせでは、リリスが落ち着けたそうですね」
「最初は揺れましたが、深呼吸で」
「アルの声で落ち着きました」
リリスが小さく言った。
セレスティア夫人は微笑む。
「まあ」
「お母様」
「素敵なことね」
「……小声版です」
「はい、深呼吸」
母は強い。
それから、自由研究の話になった。
「礼法における感情表現と周囲の配慮」
セレスティア夫人は題を聞いて、目を細めた。
「とても良いテーマね」
「アルが提案してくださいました」
「そう」
視線が俺へ来る。
「良い提案です」
「ありがとうございます」
「リリス、自分の涙を恥じるだけでなく、学びにするのですね」
「はい」
「立派です」
「……っ」
「泣きそう?」
「はい」
「今日は泣いてもよい日です」
「お母様」
「だって嬉しいのでしょう?」
「はい」
リリスはまた泣いた。
でも、それは穏やかな涙だった。
部屋の空気は温かかった。
怖いと思っていたセレスティア夫人は、確かに圧があった。
見抜かれる感覚もある。
でも、その圧は、リリスを大切に思うからこそのものだった。
そして、俺のこともちゃんと見ようとしてくれている。
面談は怖いだけではなかった。
そう思えた。
お茶会の終わりが近づいた頃、セレスティア夫人は静かに言った。
「アルフレッド様」
「はい」
「今日、お話しできてよかったです」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「リリスを、どうぞよろしくお願いいたします」
俺は姿勢を正した。
「はい。未熟ですが、逃げずに向き合います」
セレスティア夫人は微笑んだ。
「よろしい」
その一言で、胸の奥の緊張がすっと抜けた。
認められた。
完全にかは分からない。
でも、少なくとも今日の俺は、逃げずに終えられた。
リリスが隣で涙を拭きながら笑っている。
「アル」
「はい」
「お疲れ様でした」
「リリスも」
「私、たくさん泣いてしまいました」
「嬉しい涙でしょう?」
「はい」
「なら、大丈夫です」
「……また泣きそうです」
「今日はもう仕方ないですね」
セレスティア夫人が笑った。
「本当に、よい二人ね」
その言葉に、リリスがまた泣いた。
俺はハンカチを追加で出した。
七枚持ってきて正解だった。
まさか本当に使うとは。
応接室を出ると、廊下にレオナルド先輩がいた。
少し離れた場所に。
待っていた。
当然のように。
「終わったか」
「はい」
「母上は?」
「笑っていました」
「なら大丈夫だ」
「判断基準」
「泣かされたか?」
「リリスは泣きました」
「嬉し泣きか?」
「はい」
「ならよし」
兄も手順が完全に馴染んでいる。
リリスが兄に言った。
「お兄様、お母様はアルを認めてくださいました」
レオナルド先輩の表情が少し柔らかくなる。
「そうか」
「はい」
「よかったな」
「はい」
そしてレオナルド先輩は俺を見た。
「アルフレッド」
「はい」
「よく逃げなかった」
「逃げ道がありませんでしたので」
「それもそうだ」
少し笑った。
正門へ向かう途中、リリスはいつもよりかなり近かった。
だが、今日は俺も何も言わなかった。
彼女は泣き疲れていて、でもとても幸せそうだったから。
「アル」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「俺も、リリスがいてくれて助かりました」
「私が?」
「はい。一緒だったから、ちゃんと話せました」
「……っ」
「小声版?」
「今日は、普通に泣きそうです」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
何枚目だろう。
数えるのはやめた。
リリスは受け取り、笑いながら涙を拭いた。
「今日の宝物名は?」
俺が聞くと、リリスは少し考えた。
「お母様に認めていただいた日の宝物です」
「長いですね」
「とても大切です」
「はい」
馬車に乗る前、リリスはもう一度俺を見た。
「アル」
「はい」
「私は、アルの婚約者で幸せです」
直球。
強すぎる。
今度は俺が少し言葉に詰まった。
「……俺もです」
リリスの目が大きく開く。
「アル?」
「俺も、リリスが婚約者でよかったと思っています」
言った。
また言った。
リリスは完全に泣いた。
馬車の前で。
だが、今日はいい。
ミラも微笑んでいる。
俺はハンカチをもう一枚出した。
足りてよかった。
馬車が去っていく。
俺はそれを見送りながら、長く息を吐いた。
終わった。
逃げなかった。
セレスティア夫人は怖かった。
でも、優しかった。
そして、少しだけ認めてもらえた。
その夜。
屋敷に帰ると、父上と母上が待っていた。
「どうだった?」
「逃げませんでした」
「よし」
「リリスは泣きました」
「だろうな」
「セレスティア夫人は、笑っていました」
父上は頷いた。
「なら、大丈夫だ」
母上も微笑む。
「よかったわね、アル」
「はい」
そこへ、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『セレスティアから聞いた。アルフレッド殿は逃げなかったらしい。リリスは泣いたらしい。嬉し泣きらしい。私は泣いていない。少ししか。説明しろ。いや、今日は礼を言う。娘をありがとう。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『母上が「よい子ね」と言っていた。これは高評価だ。父上は少し泣いた。僕は泣いていない。君は及第点を超えた。今後も油断はするな。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日はありがとうございました。あなたがリリスを大切に思ってくださっていること、よく分かりました。まだ若い二人ですから、これからも迷うことはあるでしょう。けれど、今日のように逃げず、言葉を尽くせるなら大丈夫です。またお茶をいたしましょうね。今度は、逃げ道の話は控えめにいたします。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
控えめにはする。
でも、なくなるとは書いていない。
さすがセレスティア夫人。
父上は笑った。
母上は嬉しそうに頷いた。
リーマスは「ひとまず第一関門突破でございます」と言った。
ライズは親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
お母様、優しかったけど!!
やっぱり笑顔の圧が強すぎます!!




