第18話 公爵夫人様との面談準備が重すぎます
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
三日後、俺はリリスの母君――セレスティア・フルーラ公爵夫人と面談することになった。
場所は王立学園内の貴賓用応接室。
同席者はリリス。
内容は、たぶん穏やかなお茶会。
……のはずである。
だが、届いた手紙の最後にはこう書かれていた。
『逃げ道はございませんが、怖がらなくても大丈夫です』
怖がるなという方が無理です!!
逃げ道がないと明記された時点で怖いんです!!
優しい文面だった。
香りも上品だった。
文字も美しかった。
なのに、圧がある。
まるで柔らかな絹で包まれた鋼である。
ガロウ公爵は熊の圧。
レオナルド先輩は刃の圧。
セレスティア夫人は微笑みの圧。
フルーラ家、圧の種類が豊富すぎる。
そんなわけで、今朝。
俺はいつもより少し早く目が覚めた。
窓の外はまだ薄明るい程度で、庭には朝露が残っている。
鳥の声が聞こえる。
平和な朝だ。
しかし俺の頭の中には、セレスティア夫人の手紙の一文がぐるぐる回っていた。
逃げ道はございません。
怖がらなくても大丈夫です。
逃げ道はございません。
怖がらなくても大丈夫です。
……怖い。
俺が寝台から起き上がると、ライズがすでに部屋にいた。
「若様、おはようございます」
「おはよう、ライズ」
「昨夜はよくお休みになれましたか?」
「まあ、そこそこ」
「寝言で『逃げ道……』と仰っておりました」
「言ってたのか」
「はい」
「忘れてくれ」
「記録はしておりません」
「記録する発想があったのか」
ライズは真顔で朝の支度を整えていた。
相変わらず有能だ。
だが、最近はその有能さが変な方向にも発揮される。
「若様」
「なんだ」
「セレスティア様との面談に向けて、本日より対策を始めたいと存じます」
「対策?」
「はい」
「何の?」
「想定問答でございます」
「面接か!?」
「実質的には近いかと」
「やめろ。余計に緊張する」
ライズは机の上に紙を置いた。
そこには丁寧な字で項目が並んでいた。
一、アマリリス様をどう思っているか。
二、アマリリス様の長所。
三、アマリリス様の短所をどう受け止めるか。
四、今後の学園生活でどう支えるか。
五、ガロウ公爵様とレオナルド様への対応。
六、心の椅子について。
「六番いらない!!」
「セレスティア様なら、お尋ねになる可能性がございます」
「ないと信じたい」
「若様、現実をご覧ください」
「従者が厳しい」
「心の椅子は、すでにフルーラ家内で共有されつつある概念でございます」
「共有しないでほしい」
「今さらかと」
今さら。
本当に今さらだ。
心の椅子。
最初はリリスの謎概念だった。
今ではガロウ公爵、レオナルド先輩、そしておそらくセレスティア夫人まで知っている。
なぜだ。
なぜこうなった。
「ライズ」
「はい」
「セレスティア夫人に『心の椅子についてどう思いますか』と聞かれたら、俺はどう答えればいい?」
「アマリリス様が、若様との心の距離を大切に考えた結果生まれた、少々独特ながらも誠実な表現である、と」
「お前、答えを用意してるのか」
「はい」
「悔しいが、かなり良い答えだ」
「ありがとうございます」
俺は頭を抱えた。
朝から濃すぎる。
朝食の席では、父上と母上が待っていた。
父上はいつものように楽しそうだったが、今日ばかりは少し真面目な顔も混じっている。
「アルフレッド、いよいよだな」
「三日後です」
「セレスティアとの面談か」
「面談と言わないでください」
「では、お茶会」
「お茶会のはずなのに面談感が強いんです」
「セレスティアだからな」
便利な言葉だ。
ガロウ公爵には「父だからな」。
レオナルド先輩には「兄だからね」。
セレスティア夫人には「セレスティアだからな」。
フルーラ家、理由が雑なのに説得力がある。
母上が微笑む。
「アル、セレスティア様は怖い方ではないわ」
「本当ですか?」
「ええ。相手が誠実なら、きちんと見てくださる方よ」
「誠実でなかったら?」
「微笑まれるわ」
「微笑まれるだけ?」
「ええ」
「……怖いです」
「ふふ」
母上も笑っている。
しかしその笑顔が少し意味深だ。
「大丈夫よ。あなたはリリス様のことをちゃんと見ているもの」
「見られているのでしょうか」
「ええ」
「でも、いざ聞かれると……」
「照れる?」
「はい」
母上は柔らかく笑った。
「それでいいのよ。堂々と愛を語りなさい、とは言わないわ」
「愛」
「婚約者でしょう?」
「そうですが」
「あなたの言葉で、リリス様のどこを大切に思っているのか伝えればいいの」
「俺の言葉で」
「ええ。綺麗に整えすぎなくていいわ」
父上も頷いた。
「そうだな。セレスティア相手に取り繕いは無駄だ」
「皆それを言いますね」
「事実だからな」
「逃げ場がない」
「逃げ道はございません、と書かれていただろう?」
「父上、楽しんでいますね?」
「少し」
「かなりでは?」
「かなりだ」
認めた。
朝食後、俺は学園へ向かった。
馬車の中で、俺は窓の外を見ながら何度も息を整えた。
三日後。
まだ時間はある。
だが、学園に行けばリリスに会う。
リリスに会えば、セレスティア夫人の話になるだろう。
リリスも緊張しているはずだ。
俺だけが不安そうにしていてはいけない。
そう思っていた。
学園の正門前に着くと、リリスはいつもの場所で待っていた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
だが、やはり少しそわそわしている。
俺を見ると、ぱっと笑顔になり、走らずに歩いてきた。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日も安定していますね」
「安定」
リリスは少し嬉しそうに微笑む。
しかしすぐ、表情が不安そうに揺れた。
「アル」
「はい」
「お母様とのお茶会のことで、緊張していますか?」
「しています」
正直に答えた。
リリスは目を丸くする。
「正直に仰るのですね」
「リリスには隠しても分かるでしょう?」
「……少し分かります」
「なら、正直に言います」
リリスの頬が赤くなる。
「アルが、私には正直に」
「はい」
「泣きそうです……小声版です」
「朝一回目ですね」
「はい」
「深呼吸しましょう」
「はい」
リリスは深呼吸した。
涙は出なかった。
偉い。
「俺は緊張していますが、嫌ではありません」
「本当ですか?」
「はい。リリスのお母様ですから、ちゃんとお会いしたいと思っています」
「……っ」
「小声版二回目ですか?」
「危険です」
「やはり」
ミラが後ろでハンカチを準備していた。
今日は使わずに済んだ。
リリスは少し落ち着いてから、ぽつりと言った。
「お母様は、きっとアルに色々聞きます」
「はい」
「私のことを、どう思っているか」
「はい」
「……私も、聞きたいです」
また直球だ。
朝の正門前。
人目がある。
危険。
非常に危険。
「リリス」
「はい」
「それは、三日後までに俺もちゃんと言葉にしておきます」
「言葉に」
「はい」
「私に先に教えてくださいますか?」
「……」
それはどうなのだろう。
セレスティア夫人に聞かれる前に、リリスに伝えるべきか。
いや、伝えたら泣く。
たぶん泣く。
正門前では危険だ。
「落ち着いた場所でなら」
「落ち着いた場所」
「はい」
「図書棟の本一冊分の距離では?」
「たぶん泣きますよね?」
「……はい」
「では、もう少し人目の少ない場所で」
「中庭の端?」
「そうですね」
リリスの顔が赤くなる。
何か約束みたいになってしまった。
いや、実際約束だ。
俺は三日後までに、リリスをどう思っているか言葉にする。
考えただけで胸が落ち着かない。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
「おはよう、アルフレッド。アマリリス様」
「おはようございます」
「ご機嫌よう」
ユリウスは俺を見て、すぐに笑った。
「緊張してるね」
「分かりますか」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「昨日のアマリリス様くらい」
「かなりですね」
リリスが心配そうに俺を見る。
「アル、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「小声版を使いますか?」
「俺が?」
「はい」
「使いません」
ユリウスが楽しそうに言う。
「アルフレッド用も作る?」
「作らない」
「『胃が痛いです小声版』とか」
「やめてください」
エレナ嬢が口元を押さえて笑った。
「でも、無理はなさらないでくださいね。セレスティア様は確かに緊張する方ですが、アルフレッド様なら大丈夫ですわ」
「ありがとうございます」
「アマリリス様のことを、いつもきちんと見ておられますもの」
「……そう見えますか?」
「ええ」
エレナ嬢ははっきり頷いた。
「少なくとも、私にはそう見えます」
リリスの目が潤みそうになる。
「エレナ様」
「はい」
「泣きそうです……小声版です」
「今日は私が」
エレナ嬢がハンカチを出した。
早い。
リリスは目元に当て、涙を一粒だけ受け止めた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ユリウスが言う。
「もうこの流れ、本当に自然だね」
「自然になりすぎて怖いです」
「でも、いいことだよ」
「まあ、それはそうですね」
一時間目は自由研究の準備時間だった。
各自がテーマに沿って調べる内容を整理する。
リリスのテーマは「礼法における感情表現と周囲の配慮」。
俺は「領地運営における安全確保と民への支援」を仮テーマにした。
少し硬いが、自分には合っている気がする。
先生から紙が配られ、研究目的、調査方法、参考資料を書くよう指示された。
リリスは真剣に紙へ向かっている。
時々考え込み、また書く。
俺は自分の紙を書きながら、少し彼女を見た。
リリスは以前なら、自分の涙を恥ずかしがって終わっていたかもしれない。
でも今は、それを研究として整理しようとしている。
感情を消すのではなく、場に合わせて整える。
周囲にも配慮する。
それはリリスにとって大事な学びだ。
そして俺にとっても。
先生がリリスの席へ近づいた。
「アマリリスさん、良いテーマですね」
「ありがとうございます」
「自分の経験も含めながら、一般的な礼法へつなげると良いでしょう」
「はい」
「ただし、自分を責める内容にしすぎないように」
リリスが少し驚いたように顔を上げる。
「感情が豊かなことは欠点ではありません。扱い方を学ぶのです」
「……はい」
リリスの目が少し潤んだ。
先生は穏やかに微笑む。
「泣きそうですか?」
先生まで!!
教室の空気が少し揺れた。
リリスは顔を赤くしながら、小さく答える。
「……小声版です」
先生は頷いた。
「では、深呼吸を」
「はい」
俺は席で固まった。
ついに先生まで小声版を扱った。
学園公認に近づいている。
いや、もう半分公認では?
ユリウスが肩を震わせている。
エレナ嬢は優しく見守っている。
俺は頭を抱えたくなった。
休み時間、リリスが俺の席に来た。
「アル」
「はい」
「先生にも、小声版が」
「広まりすぎていますね」
「でも、優しく言ってくださいました」
「そうですね」
「私、少し安心しました」
「よかったです」
「ただ、少し恥ずかしいです」
「それは分かります」
リリスは小さく笑った。
「でも、泣きそうになっても、もう一人ではない気がします」
その言葉に、俺は少し黙った。
最初、リリスは一人で泣いていたのだろうか。
公爵令嬢として、完璧に振る舞おうとして。
泣き虫な自分を隠して。
でも、俺の前では隠せなくなった。
そこから少しずつ、周囲にも受け止められていった。
それは、彼女にとって大きな変化なのだろう。
「リリス」
「はい」
「一人ではありませんよ」
言った瞬間、リリスの目が潤んだ。
「アル」
「……今のは危険でしたね」
「はい。小声版です」
「分かりました」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、目元を押さえた。
涙は一粒。
静かだった。
二時間目は魔法基礎。
今日は、魔力の集中と分散。
リリスはかなり安定していた。
俺も問題なくこなした。
ただ、教師が「相手と魔力を合わせる訓練は、信頼関係が重要です」と言った瞬間、リリスが反応した。
俺も反応した。
信頼関係。
相手と合わせる。
今後ペア訓練があるらしい。
危険だ。
リリスとペアになったら、魔力が揺れる。
俺も揺れるかもしれない。
これは今から覚悟が必要だ。
昼休み。
食堂では、いつもの四人で席についた。
今日はユリウスが妙に楽しそうだった。
「さて、アルフレッド」
「何ですか」
「セレスティア様対策会議をしよう」
「食堂でやめてください」
「でも大事だよ」
「大事ですけど」
エレナ嬢も少し真面目に言った。
「確かに、少し準備はされた方がよいかもしれませんわ」
「エレナ嬢まで」
「セレスティア様は、礼儀作法や言葉遣いに厳しいというより、相手の本心をご覧になる方です」
「やはりそうなのですね」
「はい。ですので、作りすぎた答えより、正直な答えの方がよろしいかと」
「皆同じことを言います」
リリスも小さく頷いた。
「お母様は、嘘にはすぐ気づきます」
「嘘をつくつもりはありません」
「はい」
「でも、正直すぎるとリリスが泣きます」
「……その可能性はあります」
ユリウスが笑う。
「じゃあ答えの強さを調整しないと」
「答えの強さ?」
「例えば、『アマリリス様は可愛いです』は強い?」
「強いです」
リリスが即答した。
「『大切に思っています』は?」
「かなり強いです」
「『隣にいたいです』は?」
「……危険です」
「リリス、全部正直に答えなくていいですよ」
「聞かれたので」
ユリウスは楽しそうに頷いた。
「なるほど。セレスティア様の前では、言葉の強度管理が必要だね」
「新しい概念を作らないでください」
エレナ嬢が微笑む。
「ですが、少し分かりますわ。リリス様が泣きすぎない表現で、それでも誠実に」
「難易度が高すぎます」
「アルなら大丈夫です」
リリスがそう言った。
真っ直ぐに。
「私は、アルの言葉なら、泣いてしまっても嬉しいです」
「リリス」
「はい」
「食堂です」
「分かっています」
「小声版?」
「小声版です」
エレナ嬢がハンカチを出す。
ユリウスが水を差し出す。
俺が声を落として言う。
「深呼吸を」
完璧な連携だった。
周囲の生徒も騒がない。
もう本当に体制ができている。
午後は礼法。
今日の授業は「親との面会時の礼」。
絶対に狙っている。
絶対に。
ベイル先生が教壇で言った。
「婚約関係において、相手の親族と対面する時、重要なのは過度な自己主張でも過度な謙遜でもありません。誠実さです」
俺を見るな。
いや、先生は全体を見ているだけだ。
たぶん。
「相手の家格が高い場合、萎縮してしまう者もいます。しかし、婚約者として認められている以上、自分の立場を必要以上に低く見せる必要はありません」
刺さる。
かなり刺さる。
「敬意を持ち、しかし自分の言葉で答えること」
父上も母上もライズもエレナ嬢も言っていたことだ。
自分の言葉で。
俺はノートにその言葉を書いた。
授業後、ベイル先生が俺の席に近づいてきた。
「シェルザートさん」
「はい」
「近々、婚約者のご親族とお会いになるそうですね」
「……はい」
伝わっている。
学園内にどれだけ広まっているんだ。
「緊張していますか?」
「かなり」
「正直でよろしい」
「ありがとうございます」
「あなたは言葉を飾りすぎるより、率直な方がよいでしょう」
「はい」
「ただし、声量には気をつけなさい」
「そこですか」
「大切です」
先生にまで声量を注意された。
俺のツッコミ癖、完全に知られている。
「それと」
ベイル先生は少しだけ微笑んだ。
「アマリリスさんが泣きそうになった時、慌てずに」
「はい」
「もう、できているようですが」
「……まだ練習中です」
「練習しているなら十分です」
その言葉はありがたかった。
放課後。
俺とリリスは中庭の端へ向かった。
朝に約束した通り、俺が三日後までに言葉にすることについて、少し話すためだ。
ユリウスとエレナ嬢は気を利かせて先に帰った。
ミラは少し離れて待機している。
中庭の端。
噴水からは少し離れた、木陰のベンチ。
人通りは少ない。
春の風が静かに葉を揺らしていた。
俺とリリスは、隣ではなく、少し斜めに向かい合って立った。
本一冊分より少し近い。
でも、人目は少ない。
リリスは緊張している。
俺も緊張している。
「アル」
「はい」
「無理に、今言わなくても大丈夫です」
「いえ」
俺は息を吸った。
「少しだけ、言わせてください」
「……はい」
リリスの手が胸の前で握られる。
目がすでに潤みかけている。
早い。
だが、今日は言う。
「リリスは、最初から距離が近くて」
「はい」
「よく泣いて」
「はい」
「天然で」
「はい」
「時々、本や木剣に嫉妬して」
「……はい」
「俺は毎日ツッコミが追いつきません」
「ごめんなさい」
「でも」
リリスが顔を上げる。
「リリスは、いつも一生懸命です」
「……」
「俺を困らせないように、ちゃんと考えようとしてくれます」
「はい」
「自分が泣きそうになることも、恥ずかしいだけで終わらせずに、学ぼうとしています」
「はい」
「誰かに優しくされたら、それをちゃんと大切に受け取れる」
「……」
「そういうところが、俺はすごいと思っています」
リリスの目から涙が一粒落ちた。
でも、声は出さない。
ちゃんと聞こうとしている。
「それから」
俺は少し照れながら続けた。
「リリスが笑ってくれると、俺も嬉しいです」
「……っ」
「泣かれると、今でも少し慌てます。でも、泣いた後に笑ってくれると安心します」
「アル……」
「だから、セレスティア様に聞かれたら、たぶんこう答えます」
俺はリリスを見た。
「リリスは、俺にとって大切な婚約者です。近すぎて大変な時もありますが、その近さごと、大切にしたいと思っています」
言った。
言ってしまった。
顔が熱い。
心臓がうるさい。
リリスは、完全に固まっていた。
目から涙がぽろぽろ落ちる。
でも、泣き声は出さない。
ただ、両手で口元を押さえ、震えていた。
「リリス?」
「……泣きそうです」
「もう泣いています」
「小声版では、足りません」
「でしょうね」
リリスは一歩近づきかけた。
止まった。
人目は少ない。
でも、学園だ。
彼女はちゃんと止まった。
「アル」
「はい」
「近づいても、よろしいですか?」
その声は震えていた。
俺は少しだけ考えて、頷いた。
「少しだけなら」
リリスはゆっくり近づいた。
俺のすぐ前。
近い。
でも、ぶつかるほどではない。
彼女は俺の袖をそっと摘んだ。
それだけ。
それだけだった。
「ありがとうございます」
「はい」
「私、アルの婚約者でよかったです」
「……はい」
「今は、それしか言えません」
「十分です」
リリスは袖を摘んだまま、静かに泣いた。
俺はハンカチを差し出した。
彼女は受け取り、目元を押さえる。
その時間は、いつもより少し長かった。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、俺の言葉がちゃんと届いたのだと思うと、胸が温かかった。
しばらくして、リリスは顔を上げた。
「アル」
「はい」
「三日後、お母様の前でそれを言ったら」
「はい」
「私は、たぶん泣きます」
「でしょうね」
「でも、嬉しいです」
「はい」
「泣いても、よろしいですか?」
「もちろん」
リリスはふわりと笑った。
「ありがとうございます」
正門で別れる時、リリスはまだ少し目元が赤かった。
だが、表情はとても穏やかだった。
「アル」
「はい」
「今日のハンカチは、洗って返します」
「はい」
「心の宝物にします」
「今日は何の宝物ですか?」
「大切な婚約者の宝物です」
「……それは、かなり強いですね」
「アルが照れました」
「照れます」
リリスは嬉しそうに笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はそれを見送りながら、長く息を吐いた。
言った。
ちゃんと、言えた。
三日後の面談はまだ怖い。
でも、少しだけ覚悟が決まった気がした。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「今日はどうだった?」
「少し、リリスに話しました」
「何を?」
「セレスティア夫人に聞かれたら答えることを」
「そうか」
父上は優しく笑った。
「言えたか?」
「はい」
「リリス嬢は?」
「泣きました」
「だろうな」
「でも、笑っていました」
「なら大丈夫だ」
そこへ、フルーラ家から書状が届いた。
一通目、ガロウ公爵。
『娘が帰宅後、泣きながら「アルは私を大切な婚約者と言ってくださいました」と報告した。泣いた。私が。説明しろ。いや、説明しなくていい。だが詳しく聞きたい。 ガロウ』
二通目、レオナルド先輩。
『リリスが泣いた。理由は把握した。君の発言は現時点では及第点以上。父上は泣いた。母上は微笑んでいた。三日後、健闘を祈る。 レオナルド』
三通目、セレスティア夫人。
『アルフレッド様。本日、娘からとても嬉しい報告を受けました。三日後のお茶会が、ますます楽しみになりました。どうぞ、そのままのあなたでいらしてくださいませ。逃げ道は、やはりございませんけれど。 セレスティア』
俺は三通を読み、静かに天井を見上げた。
逃げ道は、やはりございません。
やはり。
やはりって何だ。
父上は腹を抱えて笑った。
母上は「あらあら」と楽しそうに微笑んだ。
リーマスは「良い準備でございます」と頷いた。
ライズは親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
面談前から!!
お母様の期待値が上がりすぎています!!




