第15話 公爵令嬢様、報告書にされかける
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、ついに王子殿下の周囲にいる生徒から接触がありました。
相手は、ベルク侯爵家の次男、オスカー・ベルク。
礼儀正しい。
言葉も丁寧。
だが、言葉の端々に棘がある。
彼はリリスに対し、王子殿下が学園生活を気にかけていると伝え、俺には公爵令嬢の隣に立つ立場を軽く見るなと忠告してきた。
まあ、言っていることだけを見れば間違ってはいない。
公爵令嬢の隣に立つというのは重い。
俺だって、それは分かっている。
ただし。
言われ方が問題だ。
あれは明らかに、様子見であり、牽制だった。
リリスは不安になった。
それでも、彼女はちゃんと自分の意思を示した。
俺を「アル」と呼ぶこと。
俺が婚約者であること。
それを曲げなかった。
そして俺も、リリスを軽んじたつもりはないと答えた。
その結果、リリスは泣いた。
いや、正確には、泣きそうです小声版からの、少し涙。
悲しいだけではなく、不安と安心が混ざった涙だった。
ここまではいい。
よくはないが、分かる。
問題は、その夜である。
フルーラ公爵家から届いた書状が二通。
ガロウ公爵からは、
『ベルク家を斬ってよいか』
と来た。
駄目に決まっている。
公爵様、相手はまだ学生です。
侯爵家の子息です。
あと学園内の出来事です。
斬るな。
絶対に斬るな。
そしてレオナルド先輩からは、
『父上を止めておく』
と来た。
兄、頼もしすぎる。
いや、普通なら父親が息子を止めるのでは?
フルーラ家では、父を息子が止めるのか。
いや、たぶん最終的にはセレスティア夫人が止めるのだろう。
まだ会ったことはない。
だが、名前だけで存在感がある。
フルーラ公爵夫人、セレスティア。
父上いわく、笑顔でガロウ公爵を黙らせる人。
怖い。
まだ登場していないのに怖い。
朝食の席でその話をすると、父上は珍しく笑わずに頷いた。
「ベルク家か」
「はい」
「王子殿下の周囲としては、まずそこが来たのは納得だな」
「そうなのですか?」
「ああ。ベルク侯爵家は王家寄りの家だ。表向きは礼儀正しく、裏では空気を読む」
「面倒ですね」
「貴族とは面倒なものだ」
父上は紅茶を置き、俺を見た。
「アルフレッド。今後も、似たような接触はある」
「はい」
「いちいち怒るな」
「分かっています」
「だが、譲るな」
「はい」
「リリス嬢を不安にさせるな、とは言わない。不安になることはある。大事なのは、その後だ」
「その後」
「不安になった時、隣にいることだ」
父上の声は穏やかだった。
昨日までからかってばかりいた人とは少し違う。
これが伯爵家当主としての父上なのだろう。
「お前は昨日、ちゃんと立てた」
「……はい」
「なら、今日も同じだ」
「はい」
母上も静かに微笑んだ。
「リリス様はきっと、今日は少し不安でしょうね」
「そう思います」
「なら、最初に安心させてあげなさい」
「はい」
「ただし、人前で甘すぎることを言うと、小声版が発動するわ」
「母上まで小声版を使いこなしている」
「便利な言葉だもの」
「便利さは認めたくありません」
母上は笑った。
その横でライズが鞄を整えている。
「若様、本日はハンカチ五枚でございます」
「増えた」
「王子周辺による接触が続く可能性を考慮いたしました」
「戦場みたいになってきたな」
「涙に備えるのも戦支度でございます」
「名言っぽく言うな」
「なお、念のため記録用の小型手帳も」
「記録する気か?」
「レオナルド様より、状況把握のため簡潔な記録があると助かるとのことで」
「俺を報告係にしないでくれ」
「若様の言葉なら正確かと」
「断る」
「では、私が帰宅後に聞き取りを」
「やめろ」
まさかの聞き取り調査。
このままだと、本当にリリス涙対応報告書ができてしまう。
題名はたぶん、
『学園内におけるアマリリス・フルーラ嬢の涙発生状況および対応記録』
やめろ。
絶対にやめろ。
そんなものがフルーラ家に提出されたら、ガロウ公爵が壁に貼る。
いや、貼らないか。
でも読み込む。
レオナルド先輩は分析する。
セレスティア夫人は笑顔で保管する。
怖い。
学園に到着すると、正門前にはリリスがいた。
今日も制服姿。
髪にはブルーローズの髪飾り。
でも、いつもより少し表情が硬い。
俺を見つけると笑顔になったが、その笑顔も少しだけ不安を含んでいた。
足は動く。
走らない。
ちゃんと歩いてくる。
けれど、いつもより歩幅が小さい。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日もちゃんとできていました」
「……はい」
いつもならここで少し照れる。
今日は、ほっとしたように微笑んだ。
俺は少し声を落とす。
「リリス」
「はい」
「昨日のこと、気になっていますか?」
「……少し」
「怖かったですか?」
「少し」
「はい」
「でも、アルがいてくださったので、大丈夫でした」
「今日もいます」
リリスが顔を上げる。
「はい?」
「今日も、俺は隣にいます」
「……っ」
目が潤む。
早い。
朝の正門前。
だが、言うべきだと思った。
「無理に平気な顔をしなくて大丈夫です。でも、一人で抱え込まないでください」
「アル」
「小声版ですか?」
「……はい。小声版です」
「では、深呼吸しましょう」
「はい」
リリスはすうっと息を吸い、ゆっくり吐いた。
目元は潤んだが、涙は落ちない。
「大丈夫です」
「偉いです」
「褒めると危険です」
「そうでした」
俺たちの横で、ミラが静かにハンカチを構えていた。
さすがだ。
だが使わずに済んだ。
「アルフレッド様」
ミラが小声で言う。
「本日はお嬢様が少し不安定かもしれません」
「分かっています」
「よろしくお願いいたします」
「はい」
リリスが恥ずかしそうにミラを見る。
「ミラ、そこまで言わなくても」
「お嬢様、共有は大切です」
「共有」
涙対策の言葉がどんどん増えていく。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
「おはよう、アルフレッド。アマリリス様」
「おはようございます」
「ご機嫌よう」
ユリウスはいつもより少し真面目な顔だった。
「昨日の件、聞いたよ」
「早いですね」
「オスカーが動いたら、そりゃ噂になる」
「そうですか」
「今日は気をつけた方がいい。直接何かしてくるとは思わないけど、視線は増える」
「分かりました」
エレナ嬢がリリスに寄り添うように言った。
「アマリリス様、今日は一緒に教室へ入りましょう」
「はい。ありがとうございます、エレナ様」
「お友達ですもの」
リリスの目がまた潤んだ。
「泣きそうです……小声版です」
「朝から二回目ですね」
俺が言うと、リリスは慌てる。
「すみません」
「責めていません」
「はい」
エレナ嬢は優しく笑い、そっとハンカチを見せた。
「準備しておりますわ」
「エレナ様まで」
「昨日、お返しいただいたものとは別です。今日は私も予備を持ってまいりました」
「エレナ嬢も装備を……」
ユリウスが軽く手を上げた。
「僕も、気を逸らすための話題をいくつか用意している」
「ユリウスまで」
「友人だからね」
リリスは完全に泣きそうになった。
だが、深呼吸した。
頑張った。
「皆さま、ありがとうございます」
その声は少し震えていたが、ちゃんと笑っていた。
教室に入ると、クラスの空気はいつもより少しだけ慎重だった。
昨日の件が伝わっているのだろう。
何人かがリリスを見る。
しかし、露骨に話しかけたりはしない。
静かに、いつも通りの挨拶をしてくれる。
「おはようございます、アマリリス様」
「おはようございます、シェルザート様」
「ご機嫌よう」
それだけ。
けれど、その普通がありがたい。
リリスも丁寧に応じていた。
一時間目は政治基礎だった。
内容は王国の身分制度と議会について。
昨日の件と重なる部分もあり、俺はいつもより真剣に聞いた。
貴族の家格。
王家との距離。
公爵家の立場。
侯爵家の影響力。
伯爵家の役割。
教科書に書かれた内容が、現実として迫ってくる。
リリスは前の席で静かにノートを取っている。
昨日よりは落ち着いているように見える。
だが、指先に少し力が入っている。
授業中にできることは少ない。
俺は机の下で小さく親指を立てた。
リリスはほんの少しだけ肩を緩めた。
これだけで伝わるようになってきた。
嬉しいような、恥ずかしいような。
授業後、リリスが俺の席へ来た。
「アル」
「はい」
「授業中、ありがとうございました」
「何もしていませんよ」
「親指を」
「あれは……」
「安心しました」
リリスは小さく笑った。
なら、よかった。
「今日は、少し落ち着いて受けられました」
「頑張っていましたね」
「はい」
「偉いです」
「危険です」
「また」
「でも、大丈夫です」
リリスは深呼吸した。
その様子を見ていた近くの女子生徒が、小さく微笑んでいた。
クラスにこの流れが浸透しすぎている。
二時間目は算術。
今日は収支表の作成。
俺は領地の帳簿で多少慣れているので、比較的早く終わった。
リリスも前回よりスムーズに解いている。
すると、先日俺に質問してきた子爵家の少年――名前はニール・バートンだった――が、また困った顔で近づいてきた。
「シェルザート君、少し聞いてもいいかな」
「もちろん」
俺が答えると、リリスが少しだけこちらを見た。
不安ではない。
少しだけ、寂しそう。
だが、すぐに前を向いた。
成長している。
俺はニールに問題を説明した。
「ここは収入と支出を分けて、最後に差額を見ると分かりやすいです」
「なるほど……あ、本当だ」
「この税の部分は後でまとめた方がミスが少ないです」
「ありがとう、助かった」
「いえ」
ニールが席へ戻る。
俺がリリスを見ると、彼女は小さく頷いた。
「アル」
「はい」
「私、今、少しだけ寂しいと思いました」
「正直ですね」
「でも、アルが皆に優しいのは素敵なことです」
「ありがとうございます」
「だから、我慢しました」
「偉いです」
「……泣きそうです、小声版です」
「我慢したことを褒められて?」
「はい」
俺は少し笑って、声を落とした。
「では、小声版対応として、深呼吸を」
「はい」
リリスは深呼吸する。
涙は出なかった。
エレナ嬢が遠くから親指を立てかけて、途中でやめた。
親指文化まで広がるな。
昼休み。
食堂へ向かう廊下で、レオナルド先輩に会った。
今日も完璧な上級生の姿。
だが、俺たちを見ると足を止める。
リリスが礼をする。
「お兄様」
「リリス。今日は落ち着いているかい?」
「はい。アルや皆さまがいてくださるので」
レオナルド先輩の視線が俺へ向く。
「アルフレッド」
「はい」
「今朝、父上が剣を持って家を出ようとした」
「はい!?」
リリスが驚く。
「お父様が?」
「ああ。ベルク家へ向かおうとしていた」
「止めたのですか?」
「母上が微笑んだ」
「あ、では止まりましたね」
「止まった」
リリスが納得した。
俺は納得できない。
微笑みで騎士団長が止まるのか。
セレスティア夫人、やはり最強では?
「父上は今日、屋敷で書状を書いている」
「書状」
「君宛てかもしれない」
「やめてほしいです」
「無理だろう」
「諦めが早い」
レオナルド先輩は少し笑った。
「昨日の件について、ベルク家にはこちらから探りを入れておく」
「ありがとうございます」
「ただし、君たちは普段通りにしていなさい」
「はい」
「リリス」
「はい」
「怖い時は、ちゃんと言うんだ」
「はい」
「泣きそうな時も」
「小声版で」
「そうだ」
「兄妹で正式化しないでください」
レオナルド先輩は真顔だった。
「便利な言葉だ」
「皆それ言いますね」
「事実だからね」
その後、レオナルド先輩はリリスの頭を撫でようとして、途中で止まった。
学園の廊下で、上級生。
人目がある。
兄も一応節度を考えたらしい。
リリスは少し不思議そうに兄を見た。
「お兄様?」
「いや、学園では控えよう」
「そうですか」
リリスは少し寂しそうだった。
レオナルド先輩が一瞬で揺れた。
「……リリスが嫌でなければ」
「レオナルド様」
俺は思わず声をかけた。
「人目があります」
「分かっている」
「今、負けかけましたよね」
「兄だからね」
「便利すぎる!」
リリスはくすっと笑った。
その笑顔を見て、レオナルド先輩も少しだけ表情を和らげた。
食堂では、四人でいつもの席に座った。
視線はあった。
特にオスカー・ベルクとその周囲。
だが、今日は接触してこない。
ただ見ているだけ。
それはそれで落ち着かない。
ユリウスが明るく話題を振る。
「そういえば自由研究、皆はどうする?」
エレナ嬢が答える。
「私は薬草学ですわ。妹のためにも、基礎を学びたいので」
「いいね。僕は、王都の商業路かな。兄に押しつけられ……いや、家のために」
「本音が出ましたね」
俺が言うと、ユリウスは笑った。
「アルフレッドは?」
「俺は領地経営か、防衛体制に関するものにしようかと」
「真面目だね」
「必要ですから」
リリスが目を輝かせる。
「アルらしいです」
「ありがとうございます」
「私は、礼法における感情表現にします」
「いいテーマだと思いますわ」
エレナ嬢が言う。
「アマリリス様だからこそ、深く調べられそうです」
「はい。泣きそうになった時に、周囲へどう配慮するかも含めたいです」
「小声版は?」
ユリウスが聞く。
「正式名称にはしません」
「残念」
「残念がらないでください」
俺はすぐツッコんだ。
リリスは少し誇らしそうに言う。
「アルに、私的すぎると言われましたので」
「アルフレッド、ちゃんと止めたんだね」
「止めますよ」
「心の椅子は?」
「論外です」
「厳しい」
「発表されたら俺が死にます」
リリスが慌てる。
「アルを死なせません」
「比喩です」
「でも、心配です」
「今のは心配しなくて大丈夫です」
こうしたいつものやり取りをしているうちに、リリスの表情が少しずつ柔らかくなっていった。
よかった。
ユリウスもエレナ嬢も、それを分かって会話してくれている。
俺たちはもう、ただの同級生ではなくなりつつある。
友人。
その言葉が、少しずつしっくりき始めていた。
午後は魔法基礎だった。
今日は魔力の安定訓練。
昨日、俺を見て魔力が揺れたリリスは、かなり真剣だった。
「感情が揺れても、魔力を安定させること」
教師がそう言うと、リリスは小さく頷いた。
練習では、手のひらに灯した光を一定の大きさに保つ。
俺は自分の光を見ながら、ちらりとリリスを見る。
リリスは前を向き、手のひらの光に集中している。
安定している。
柔らかい青白い光。
綺麗だ。
俺が見ていることに気づいたのか、リリスの光が少しだけ強くなった。
だが、すぐに戻した。
おお。
成長している。
授業後、リリスが嬉しそうにこちらへ来た。
「アル」
「はい」
「今日は、揺れましたが戻せました」
「見ていました。すごかったです」
「……っ」
「小声版ですか?」
「危険ですが、耐えます」
「偉いです」
「褒めると」
「危険でしたね」
俺は笑った。
リリスも笑う。
不安ばかりの一日になるかと思ったが、彼女はちゃんと立ち直っていた。
放課後。
正門へ向かう途中、オスカー・ベルクとすれ違った。
彼は俺たちを見たが、今日は何も言わなかった。
ただ、少しだけ礼をした。
俺も礼を返す。
リリスも公爵令嬢として礼をする。
それだけ。
だが、リリスの手が少しだけ震えた。
俺は小声で言った。
「リリス」
「はい」
「大丈夫です」
「はい」
「今日は、ちゃんと終わりました」
「はい」
「リリスも、ちゃんと立てていました」
「……泣きそうです」
「小声版?」
「はい」
「では、馬車まで我慢できますか?」
「できます」
「偉いです」
「危険です」
「すみません」
正門で、リリスは少し笑った。
「アル」
「はい」
「今日は、朝より怖くありませんでした」
「よかったです」
「皆さまがいてくださったからです」
「はい」
「アルが、隣にいてくださったからです」
「はい」
リリスは一度深呼吸した。
「今日は、馬車の中で少しだけ泣きます」
「はい」
「でも、昨日より少しだけ、強くなれた気がします」
「俺もそう思います」
「本当ですか?」
「はい」
「……それは、強いです」
「嬉しさが?」
「はい」
俺はハンカチを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「返してくださいね」
「洗って返します」
「心の宝物?」
「今日は、勇気の宝物にします」
「新しい」
リリスは少し照れたように笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が遠ざかる。
俺はその後ろ姿を見送りながら、深く息を吐いた。
昨日より、今日。
今日より、明日。
リリスは少しずつ強くなっている。
俺も、少しずつ隣に立つ覚悟を固めている。
王子周辺の動きは不安だ。
だが、周囲には友人もいる。
レオナルド先輩も見ている。
ガロウ公爵は斬ろうとするから止める必要がある。
セレスティア夫人は笑顔で止めてくれるらしい。
……うん。
味方は多い。
少し濃すぎるけど。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「今日はどうだった?」
「昨日より落ち着いていました」
「ベルク家の子息は?」
「すれ違っただけです」
「そうか」
「リリスも、昨日より怖くなかったと言っていました」
「強くなっているな」
「はい」
父上は満足そうに頷いた。
その後、予想通り書状が届いた。
まずガロウ公爵。
『娘が「昨日より怖くありませんでした」と言った。成長している。泣いた。私が。説明しろ。 ガロウ』
俺は固まった。
公爵様が泣いた。
そっちか。
次にレオナルド先輩。
『本日、父上が泣いた。理由はリリスの成長。対応手順が必要かもしれない。なお、ベルク家については引き続き見る。 レオナルド』
俺は二通を読み、静かに天井を見上げた。
今度はガロウ公爵の涙対応手順?
やめてくれ。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「対象範囲が広がっておりますね」と頷いた。
ライズは親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
あなたの成長で!!
今度はお父様が泣いてます!!




