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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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14/73

第14話 公爵令嬢様、小声版が広まりすぎています


 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王立学園生活が始まって、そろそろ一週間が経とうとしている。


 最初は、毎日が嵐だった。


 いや、今も嵐ではある。


 ただし、少しずつ嵐の中で傘を差す方法を覚えてきたというか。


 風向きを読めるようになってきたというか。


 リリスが泣きそうになる前兆が、俺だけでなく周囲にも分かるようになってきた。


 目が潤む。


 声が少し震える。


 両手を胸の前で握る。


 俺を見て、一拍止まる。


 このあたりが来たら要注意だ。


 そして、最近のリリスは自分から言う。


「泣きそうです……小声版です」


 ……小声版。


 最初は俺とリリスの間だけの言葉だったはずなのに、なぜか今ではユリウスとエレナ嬢まで自然に理解している。


 さらには、レオナルド先輩からの書状にも、


『小声版の運用を見守る』


 と書かれていた。


 運用するな。


 見守るな。


 いや、見守るのはありがたい。


 ありがたいが、どうしてこう、毎回少しおかしな方向で正式化していくのだろうか。


 距離感。


 小皿。


 本一冊分。


 心の椅子。


 そして、小声版。


 俺たちの学園生活には、謎の専門用語が増えすぎている。


 このままだと、王立学園に新しい学問が生まれるのではないか。


 『婚約者距離感概論』。


 担当講師、アマリリス・フルーラ。


 助手、アルフレッド・シェルザート。


 やめろ。


 想像しただけで疲れた。


 今朝、屋敷の食堂で父上にその話をしたら、当然のように笑われた。


「いいじゃないか、小声版」


「いいんですか?」


「大声で泣きそうですと言うより、ずっと礼儀にかなっている」


「言われてみればそうですが」


「リリス嬢は成長しているな」


「それは本当にそうです」


 父上は紅茶を飲みながら、少し真面目な顔をした。


「泣き虫であることを隠すのではなく、周囲に迷惑をかけない形を学んでいる。これは立派なことだ」


「……はい」


「まあ、名称は面白いが」


「そこです」


 母上はくすくす笑っていた。


「名前があると、本人も分かりやすいのかもしれないわ」


「母上まで肯定ですか」


「だって、リリス様らしくて可愛いもの」


「可愛いのは否定しませんが」


「アル」


「はい」


「最近、素直に可愛いと認めるようになったわね」


「……」


 しまった。


 また自然に言っていた。


 父上がにやりと笑う。


 母上も嬉しそうに微笑む。


 逃げ場がない。


「アルフレッド」


 父上が言った。


「今日も学園でリリス嬢を支えてやりなさい」


「はい」


「ただし、甘やかしすぎるなよ」


「甘やかしてますか?」


「かなり」


「かなりですか」


「リリス嬢の距離感ほどではないがな」


「比較対象が強すぎます」


 朝からこんな調子である。


 出発前、ライズが鞄の中を確認しながら言った。


「若様、本日のハンカチは四枚でございます」


「増えてないか?」


「昨日、エレナ様用のものも必要になる可能性が判明しましたので」


「エレナ嬢用?」


「アマリリス様がお友達として感動される場合、エレナ様経由で涙が発生する可能性がございます」


「涙の発生源みたいに言うな」


「また、小声版が運用される場合、即応性が求められます」


「ライズまで運用って言った」


「レオナルド様の書状に倣いました」


「倣わないでいい」


 ライズは真顔だった。


 だが、最後に親指を立てた。


 はいはい。


 もういい。


 最近はその親指にも少し慣れてきた。


 嫌な慣れだ。


 学園へ向かう馬車の中、俺は今日の予定を確認した。


 午前は文学と魔法基礎。


 昼食。


 午後は礼法と自由研究の説明。


 放課後は特に予定なし。


 昨日は図書棟を見送ったので、リリスが行きたがるかもしれない。


 ただ、今日は少し気になることがある。


 王子殿下だ。


 このところ直接の接触は少ない。


 中庭で一度話しただけ。


 だが、視線は感じる。


 王子本人だけでなく、その周囲にいる生徒たちからも。


 リリスが俺を「アル」と呼ぶたびに、どこかで誰かが反応する。


 王家との縁談話があった以上、無理もない。


 俺たちの婚約は正式に認められている。


 それでも、すべての者が納得しているわけではない。


 父上も、レオナルド先輩も、注意しろと言っていた。


 俺は窓の外を見ながら息を吐いた。


 リリスを不安にさせたくない。


 でも、何もないふりをしすぎるのも違う。


 ちゃんと見て、ちゃんと気づいて、必要なら隣に立つ。


 それくらいしか、今の俺にはできない。


 学園に到着すると、リリスはいつもの場所にいた。


 今日も制服姿。


 髪にはブルーローズの髪飾り。


 そして、俺を見つけると笑顔になる。


 この笑顔だけで、朝の緊張が少しほどける。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。今日も完璧でした」


「……っ」


 リリスの目が一瞬潤む。


「泣きそうです……ではありません」


「自己判定した」


「まだ大丈夫です」


「偉いです」


「褒められると危険です」


「難しいですね」


 ミラが後ろで小さく微笑んでいた。


「お嬢様、本日は朝から安定しておられます」


「ミラ、報告しなくても」


「アルフレッド様にも状況共有を」


「状況共有」


 リリス涙対策、どんどん体制化している。


 もう俺一人の話ではなくなってきた。


 教室へ向かう廊下で、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


「おはよう、アルフレッド、アマリリス様」


「おはようございます」


「ご機嫌よう」


 エレナ嬢はリリスを見て、優しく笑った。


「アマリリス様、昨日は大丈夫でしたか?」


「はい。帰ってから少し泣きました」


「泣いたんですね」


 俺が思わず言うと、リリスは恥ずかしそうに頷いた。


「でも、悲しくはありません」


「知っています」


「お友達ができたことが嬉しくて」


 エレナ嬢の頬が少し赤くなる。


「私も嬉しいですわ」


「エレナ様」


「はい」


「泣きそうです……小声版です」


「早い!」


 俺は反射的にツッコんだ。


 ただし小声で。


 廊下だから。


 成長しているのは俺も同じだ。


 エレナ嬢はすぐにハンカチを出そうとしたが、リリスは深呼吸して首を横に振った。


「大丈夫です。まだ耐えられます」


「無理はなさらないでくださいね」


「はい」


 ユリウスが感心したように言った。


「小声版、使いこなしてきたね」


「使いこなすものではないです」


「でも便利だよ」


「便利さを認めたら負けな気がします」


「もう負けていると思う」


「否定できません」


 教室へ入ると、数人のクラスメイトが挨拶をしてくれた。


 最初は俺たちを見る目に好奇心が強かったが、最近は少し柔らかくなっている。


 リリスが泣きそうになることも、俺がツッコむことも、クラスの中では少しずつ日常になりつつある。


 良いのか悪いのか分からない。


 いや、悪くはないのだろう。


 少なくとも、リリスが孤立するよりずっといい。


 一時間目は文学だった。


 教師は穏やかな女性で、王国の古い恋愛詩を扱った。


 ……恋愛詩。


 嫌な予感がした。


 いや、文学としては普通だ。


 貴族教育として、詩や物語の読解は重要だ。


 だが、今のリリスに恋愛詩を読ませるのは危険ではないか。


 教師が黒板に詩の一節を書いた。


『あなたの名を呼ぶたび、春の花はひらく』


 リリスの肩がぴくりと動いた。


 はい。


 刺さりました。


 俺は斜め後ろから見ていて分かった。


 アルと呼ぶたび、何かが花開いているのだろう。


 たぶん。


 教師は穏やかに説明を始める。


「この詩では、名前を呼ぶという行為が、相手を自分の世界に迎え入れる象徴として描かれています」


 リリスがさらに反応した。


 俺も少し反応した。


 リリスに初めて「アル」と呼ばれた時のことを思い出す。


 温室。


 青い薔薇。


 赤くなった頬。


 震える声。


 あの時から、ずいぶん色々あった。


 まだそんなに日数は経っていないはずなのに、もうずっと前のことのように感じる。


 教師が続ける。


「愛称とは、特別な距離を示すものでもあります」


 距離。


 出た。


 リリスが振り返りそうになった。


 止まった。


 偉い。


 だが、肩が少し震えている。


 たぶん、今すぐ俺を見たいのを我慢している。


 俺は机の下で小さく親指を立てた。


 最近、不本意ながらこの合図を使うことが増えた。


 リリスは斜め前で小さく頷いた。


 授業は進み、生徒たちに感想を求められた。


 何人かが答える。


「名前を呼ぶことで距離が近づく感じがしました」


「春の花という比喩が明るくて美しいと思います」


「少し情熱的すぎる気もします」


 そして教師がリリスを指名した。


「アマリリスさんはどう思いますか?」


 リリスは立ち上がった。


 公爵令嬢としての姿勢は完璧。


 だが、耳が少し赤い。


「はい。名前を呼ぶことは、相手を大切に思う気持ちの表れだと思います」


 声は落ち着いていた。


「特別な呼び名を許していただけることは、とても嬉しく、また責任のあることだと感じました」


 教室が静かになる。


 リリスの言葉は綺麗だった。


 そして、たぶん本心だ。


「私は……」


 リリスが一瞬だけ迷った。


 俺は息を止める。


 大丈夫か。


 彼女は続けた。


「その名を呼ぶたびに、相手を困らせないよう、でも大切に呼びたいと思います」


 教室の何人かが微笑んだ。


 教師も柔らかく頷いた。


「とても良い感想です」


「ありがとうございます」


 リリスは座った。


 座る直前、ほんの少しだけこちらを見た。


 目が潤んでいた。


 俺は小さく頷いた。


 よく言えました。


 リリスは前を向いたまま、少しだけ肩を震わせた。


 泣いてはいない。


 耐えている。


 偉い。


 休み時間になると、リリスがすぐにこちらへ来た。


 ただし、走らない。


 歩く。


 距離はほどほど。


 成長がすごい。


「アル」


「はい」


「先ほどの感想、どうでしたか?」


「とても良かったです」


「本当ですか?」


「はい。リリスの気持ちがちゃんと言葉になっていました」


「……っ」


 リリスの目が潤む。


「泣きそうです……小声版です」


「はい。小声版、確認しました」


「確認されました」


 エレナ嬢がすっとハンカチを用意しかける。


 リリスは深呼吸した。


「大丈夫です。今回は耐えます」


「偉いです」


「アル」


「はい」


「褒めると危険です」


「しまった」


 ユリウスが横で笑っている。


「もうこのやり取り、完成してきたね」


「完成しなくていいんです」


「でも、見ていて安心するよ」


「安心?」


「ああ。アマリリス様が泣きそうになっても、君が慌てすぎなくなった」


 俺は少し黙った。


 そうかもしれない。


 最初は、リリスが目を潤ませるたびに慌てていた。


 泣かせてしまったのか。


 怒らせたのか。


 ガロウ公爵が来るのではないか。


 そんなことばかり考えていた。


 でも今は違う。


 まず理由を見る。


 嬉しいのか、不安なのか、悲しいのか。


 そして声をかける。


 ハンカチを渡す。


 待つ。


 少しずつ、俺も覚えている。


「……リリスが頑張っているので」


 俺は答えた。


 リリスがこちらを見る。


「俺も慣れようとしているだけです」


「アル」


「はい」


「それは、とても嬉しいです」


「泣きそうですか?」


「……小声版です」


「はい」


 結局、エレナ嬢のハンカチが出た。


 リリスは一粒だけ涙を拭いた。


 教室はざわつかない。


 ただ、近くにいた令嬢がそっと視線を外してくれた。


 ありがたい。


 二時間目の魔法基礎は、比較的平和だった。


 ただ、教師が「魔力は感情に左右されやすい」と言った瞬間、リリスが少し真剣になった。


 リリスの魔法適性はまだ詳しく描かれていないが、公爵家の令嬢として基礎はできているらしい。


 授業では簡単な魔力感知の練習をした。


 手のひらに小さな光を集める。


 俺はあまり派手な魔法は得意ではないが、基礎程度ならできる。


 淡い光が手のひらに宿る。


 リリスも前の席で、静かに光を灯した。


 その光はとても綺麗だった。


 柔らかく、青みがかった白。


 ブルーローズの光のようにも見える。


 俺がそれを見ていると、リリスがこちらに気づいた。


 目が合う。


 彼女の光が少し強くなった。


 教師が言った。


「アマリリスさん、感情で出力が揺れていますよ」


「す、すみません」


 リリスが慌てて前を向く。


 教室のあちこちで小さな笑いが起きた。


 悪意のある笑いではない。


 微笑ましいものだ。


 俺は顔が熱くなった。


 俺を見ると魔力が揺れるのか。


 何それ。


 可愛い。


 いや、危ないのか?


 魔法は安全第一だ。


 休み時間、リリスが赤い顔で言った。


「アルが見ていたので」


「すみません」


「いえ、嬉しかったです」


「魔力が揺れるのは危ないのでは?」


「少しだけです」


「少し?」


「かなりかもしれません」


「正直でよろしい」


 ユリウスが後ろから言う。


「アルフレッド、君、魔法にも影響を与えるんだね」


「やめてください」


「アマリリス様限定かな」


「さらにやめてください」


 リリスは顔を真っ赤にしていた。


 昼休み。


 食堂で四人で座っていると、少し離れた席から視線を感じた。


 王子殿下本人ではない。


 その周囲にいる生徒の一人。


 侯爵家か伯爵家の子息だろう。


 やや鋭い目つきで、こちらを見ている。


 気のせいではない。


 リリスも気づいたのか、少し手を止めた。


「リリス」


 俺は小さく声をかけた。


「はい」


「大丈夫です。食事を続けましょう」


「……はい」


 ユリウスもその視線に気づいたらしく、何気ない調子で話題を変えた。


「そういえば、午後の自由研究説明だけど、テーマを考えないといけないらしいよ」


「自由研究?」


「学園一年目の課題だね。各自、興味のある分野について調べて、学期末に簡単な発表をする」


「なるほど」


 エレナ嬢が言う。


「私は薬草学にしようかと思っていますわ」


「エレナ様らしいです」


 リリスが微笑む。


「アマリリス様は?」


「私は……」


 リリスが少し考えた。


 嫌な予感。


 いや、まさか。


「距離感について」


「駄目です」


 即答した。


 リリスが目を丸くする。


「まだ最後まで言っていません」


「言わなくても分かりました」


「アルとの距離感について」


「やっぱり!」


 ユリウスが吹き出した。


 エレナ嬢も肩を震わせている。


「自由研究で発表する内容ではありません」


「そうですか?」


「そうです」


「では、心の椅子について」


「もっと駄目です」


「小皿の節度」


「食堂限定すぎます」


「本一冊分の橋」


「詩的ですが駄目です」


 リリスは少ししょんぼりした。


「どれも駄目ですか」


「発表される俺の身にもなってください」


「アルの名前は伏せます」


「伏せても分かります」


 ユリウスが笑いながら言う。


「いや、聞いてみたいけどね。『婚約者間における適切な距離の実践研究』」


「題名を作らないでください」


 エレナ嬢まで微笑む。


「副題は『小皿と本一冊分の比較』でしょうか」


「エレナ嬢まで!?」


 リリスの目が輝き始めた。


「それは、とても分かりやすいです」


「乗らないでください!」


 周囲の視線が少し集まる。


 いけない。


 また食堂で声が大きくなった。


 俺は咳払いした。


「とにかく、自由研究はもう少し学問寄りのものにしましょう」


「学問寄り」


「礼法における感情表現などはどうですか?」


 俺が言うと、リリスは少し目を見開いた。


「礼法における感情表現」


「はい。今日の授業ともつながりますし、リリスにも合っていると思います」


「……アル」


「はい」


「それは、とても良いです」


 リリスの表情が明るくなる。


「泣きそうですか?」


「少し。でも食堂ですので」


「小声版?」


「小声版です」


「分かりました」


 リリスは深呼吸した。


 その様子を見て、ユリウスが感心したように言った。


「アルフレッド、今の提案は本当にいいと思う」


「そうですか?」


「うん。アマリリス様の悩みが、ちゃんと学びになる」


 エレナ嬢も頷いた。


「素敵ですわ。私も聞いてみたいです」


「では、それにします」


 リリスは嬉しそうに言った。


「アルが考えてくださったテーマです」


「一緒に考えたことにしましょう」


「一緒」


「はい」


「……小声版です」


「はい」


 忙しい。


 午後の自由研究説明では、担任のマクレイン先生が課題について説明した。


「自由研究は、学問としての完成度だけでなく、本人がどれだけ興味を持って調べたかを重視します」


 リリスが真剣に聞いている。


「ただし、私的すぎる内容は避けること。学園で発表するにふさわしい形に整えなさい」


 俺はリリスを見た。


 リリスもこちらを見そうになり、止まった。


 分かっている。


 距離感研究は私的すぎる。


 先生の言葉が刺さった。


 マクレイン先生は続けた。


「身近な疑問から出発するのは良いことです。それをどう普遍的な学びにするかが重要です」


 礼法における感情表現。


 これは、リリスの身近な疑問から出発できる。


 そして、貴族社会における感情の扱いとして、ちゃんと学問にもなる。


 悪くない。


 説明後、簡単に仮テーマを紙に書く時間が設けられた。


 リリスは迷わず書いた。


『礼法における感情表現と周囲の配慮について』


 真面目だ。


 とても真面目。


 俺はほっとした。


 心の椅子ではなかった。


 小皿でもなかった。


 よかった。


 しかし、その下に小さく副題が書かれていた。


『――泣きそうです小声版を一例として――』


「リリス」


「はい」


「副題」


「駄目ですか?」


「かなり攻めています」


「一例です」


「一例が具体的すぎます」


「では、消します」


 リリスは少し残念そうに消した。


 危なかった。


 学園発表で小声版が正式に出るところだった。


 放課後。


 廊下を歩いていると、昼食時にこちらを見ていた男子生徒が近づいてきた。


 灰色がかった髪。


 整った制服。


 周囲に二人ほど取り巻きのような生徒がいる。


 俺はすぐに警戒した。


 リリスも隣で少し表情を整える。


「アマリリス・フルーラ嬢」


 男子生徒は礼をした。


 礼儀は正しい。


 だが、どこか硬い。


「少しよろしいでしょうか」


「はい。何でしょうか」


 リリスは公爵令嬢の顔で応じる。


 俺は隣に立つ。


 距離は少し近い。


 男子生徒は俺を一瞥した。


「こちらはシェルザート伯爵子息もご一緒ですか」


「婚約者ですので」


 リリスが即答した。


 出た。


 いつもの。


 男子生徒の眉が少し動く。


「……承知しております」


 空気が少し硬い。


「私は、ハインツ・ベルク侯爵家の次男、オスカー・ベルクと申します」


 ベルク侯爵家。


 王子殿下の周囲にいる家の一つだったはずだ。


 やはりか。


「先日の中庭で、殿下がご挨拶されたと伺いました」


「はい。ご丁寧なお言葉をいただきました」


「殿下は、アマリリス様の学園生活を気にかけておられます」


 言い方が微妙だ。


 気にかけている。


 それは祝意とも取れるが、牽制にも聞こえる。


 リリスの手が少しだけ鞄を握った。


 俺はそれに気づく。


「ありがたいことです」


 リリスは静かに答えた。


「ですが、私は婚約者であるアルと共に、学園生活を学んでおります」


 アル。


 愛称。


 オスカーの目が細くなった。


「随分と親しい呼び名なのですね」


「本人より許されております」


 リリスの声は落ち着いていた。


 だが、俺には少し緊張しているのが分かる。


 オスカーは俺へ視線を向けた。


「シェルザート殿」


「はい」


「公爵令嬢の隣に立つというのは、重い立場です」


「承知しております」


「ならば、軽々しく振る舞わぬことです」


 周囲が少しざわつく。


 ユリウスが少し離れた場所でこちらに気づき、歩み寄ろうとしているのが見えた。


 エレナ嬢もいる。


 俺は心の中で息を整えた。


 ここで感情的になってはいけない。


「ご忠告、痛み入ります」


 俺は礼をした。


「ですが、リリスを軽んじたつもりは一度もありません」


 オスカーの表情が少し変わる。


「リリス、と」


「はい。彼女が望み、私も大切に呼ばせていただいております」


 リリスが隣で小さく息を呑んだ。


 俺は続けた。


「学園においても、婚約者として、また一人の生徒として、彼女を尊重するつもりです」


 廊下が静かになった。


 オスカーは少しの間、俺を見ていた。


「……そうですか」


「はい」


「では、その言葉が軽くないことを願います」


「肝に銘じます」


 オスカーはリリスへ礼をし、去っていった。


 取り巻きも続く。


 空気が少しずつ戻る。


 俺は長く息を吐いた。


 リリスは隣で固まっていた。


「リリス」


「……はい」


「大丈夫ですか?」


「今のは」


「はい」


「泣きそうです……小声版です」


 声が本当に小さかった。


 嬉しいのか、不安なのか。


 たぶん両方だ。


 俺は鞄からハンカチを出す。


「悲しい涙ですか?」


「違います」


「怖かったですか?」


「少し」


「はい」


「でも、アルが、私を大切に呼んでいると……」


「はい」


「嬉しかったです」


「なら、少しだけ」


 俺はハンカチを差し出した。


 リリスは受け取り、目元を押さえた。


 涙は一粒だけ。


 だが、その手は少し震えていた。


 ユリウスとエレナ嬢が近づいてくる。


「大丈夫?」


「はい」


 リリスは深呼吸した。


 エレナ嬢が優しく言う。


「アマリリス様、少し座りましょうか」


「いえ、大丈夫です」


「無理はなさらず」


「はい」


 ユリウスが俺へ小声で言った。


「オスカー・ベルク。王子殿下に近い家だ」


「やはり」


「今のは様子見だろうね」


「でしょうね」


「でも、君の返答は悪くなかった」


「ありがとうございます」


 リリスはハンカチを握り、俺を見た。


「アル」


「はい」


「私は、アルにリリスと呼ばれるのが好きです」


「はい」


「誰に何と言われても、それは変わりません」


 その言葉は小さかったが、はっきりしていた。


 俺は頷いた。


「俺も、リリスと呼びたいです」


「……っ」


「小声版ですか?」


「はい」


「今日はもう泣いてもいいです」


「廊下です」


「少し移動しましょう」


 俺たちは中庭の端へ移動した。


 人目の少ないベンチの近く。


 リリスはそこで、静かに少しだけ泣いた。


 悲しい涙ではない。


 不安と安心が混ざった涙。


 俺は隣に立ち、待った。


 ユリウスとエレナ嬢は少し離れて見守ってくれている。


 しばらくして、リリスが顔を上げた。


「アル」


「はい」


「泣き止みました」


「はい。偉いです」


「また褒めました」


「褒めたいので」


「……小声版です」


「もう一回ですか」


「でも、今度は耐えます」


 リリスは涙の跡を残したまま、笑った。


 強くなっている。


 泣き虫なのは変わらない。


 でも、泣いたあとにちゃんと笑えるようになっている。


 それが嬉しかった。


 正門で別れる頃には、リリスは落ち着いていた。


「アル」


「はい」


「今日は、少し怖かったです」


「はい」


「でも、アルが隣にいてくださったので、大丈夫でした」


「俺も、リリスがちゃんと自分の気持ちを言ってくれて安心しました」


「……はい」


「今日は帰ったら、ゆっくり休んでください」


「はい」


「ハンカチは」


「洗って返します」


「ありがとうございます」


「心の宝物にもします」


「それは許可済みです」


 リリスは小さく笑った。


「また明日、アル」


「また明日、リリス」


 馬車が去っていく。


 俺はそれを見送りながら、少しだけ重い息を吐いた。


 ついに王子側の周囲が動き始めた。


 大きな衝突ではない。


 だが、確かに揺さぶりだった。


 これから、こういうことが増えるかもしれない。


 それでも、リリスは逃げなかった。


 俺も逃げなかった。


 それでいい。


 今は、そう思うことにした。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上がいつもより真面目な顔で待っていた。


「ベルク家の子息と接触したそうだな」


「もう届いているんですか」


「ああ」


「早いですね」


「学園内の噂は早い」


 父上は書状を一通差し出した。


 ガロウ公爵からだった。


『ベルク家の小僧が娘に余計なことを言ったらしい。アルフレッド殿は一応対応したと聞いた。娘は泣いたが、悲しいだけではないらしい。説明しろ。あと、ベルク家を斬ってよいか。 ガロウ』


「斬ってよいか!?」


 俺は叫んだ。


 父上は真顔で首を横に振る。


「駄目だな」


「当たり前です!」


 次にレオナルド先輩からの書状。


『オスカー・ベルクの件は把握した。君の返答は及第点。リリスが小声版を用いたことも確認した。今後は王子周辺への警戒を一段上げる。 レオナルド』


 最後に一文。


『なお、父上を止めておく。』


 兄、そこは頼もしい。


 俺は二通の書状を読み、天井を見上げた。


 父上は珍しく笑わなかった。


「アルフレッド」


「はい」


「ここから少し、気を引き締めなさい」


「分かっています」


「だが、怖がりすぎるな」


「はい」


「お前は今日、ちゃんと立てた」


「……はい」


 父上の言葉に、少しだけ胸が落ち着いた。


 その横でリーマスが静かに言った。


「若様、小声版の運用は成功したようでございますね」


「そこで締めます?」


 ライズは親指を立てた。


 やっぱり立てた。


 俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 小声版が広まりすぎて!!


 もはや学園公認みたいになってます!!

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