第14話 公爵令嬢様、小声版が広まりすぎています
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
王立学園生活が始まって、そろそろ一週間が経とうとしている。
最初は、毎日が嵐だった。
いや、今も嵐ではある。
ただし、少しずつ嵐の中で傘を差す方法を覚えてきたというか。
風向きを読めるようになってきたというか。
リリスが泣きそうになる前兆が、俺だけでなく周囲にも分かるようになってきた。
目が潤む。
声が少し震える。
両手を胸の前で握る。
俺を見て、一拍止まる。
このあたりが来たら要注意だ。
そして、最近のリリスは自分から言う。
「泣きそうです……小声版です」
……小声版。
最初は俺とリリスの間だけの言葉だったはずなのに、なぜか今ではユリウスとエレナ嬢まで自然に理解している。
さらには、レオナルド先輩からの書状にも、
『小声版の運用を見守る』
と書かれていた。
運用するな。
見守るな。
いや、見守るのはありがたい。
ありがたいが、どうしてこう、毎回少しおかしな方向で正式化していくのだろうか。
距離感。
小皿。
本一冊分。
心の椅子。
そして、小声版。
俺たちの学園生活には、謎の専門用語が増えすぎている。
このままだと、王立学園に新しい学問が生まれるのではないか。
『婚約者距離感概論』。
担当講師、アマリリス・フルーラ。
助手、アルフレッド・シェルザート。
やめろ。
想像しただけで疲れた。
今朝、屋敷の食堂で父上にその話をしたら、当然のように笑われた。
「いいじゃないか、小声版」
「いいんですか?」
「大声で泣きそうですと言うより、ずっと礼儀にかなっている」
「言われてみればそうですが」
「リリス嬢は成長しているな」
「それは本当にそうです」
父上は紅茶を飲みながら、少し真面目な顔をした。
「泣き虫であることを隠すのではなく、周囲に迷惑をかけない形を学んでいる。これは立派なことだ」
「……はい」
「まあ、名称は面白いが」
「そこです」
母上はくすくす笑っていた。
「名前があると、本人も分かりやすいのかもしれないわ」
「母上まで肯定ですか」
「だって、リリス様らしくて可愛いもの」
「可愛いのは否定しませんが」
「アル」
「はい」
「最近、素直に可愛いと認めるようになったわね」
「……」
しまった。
また自然に言っていた。
父上がにやりと笑う。
母上も嬉しそうに微笑む。
逃げ場がない。
「アルフレッド」
父上が言った。
「今日も学園でリリス嬢を支えてやりなさい」
「はい」
「ただし、甘やかしすぎるなよ」
「甘やかしてますか?」
「かなり」
「かなりですか」
「リリス嬢の距離感ほどではないがな」
「比較対象が強すぎます」
朝からこんな調子である。
出発前、ライズが鞄の中を確認しながら言った。
「若様、本日のハンカチは四枚でございます」
「増えてないか?」
「昨日、エレナ様用のものも必要になる可能性が判明しましたので」
「エレナ嬢用?」
「アマリリス様がお友達として感動される場合、エレナ様経由で涙が発生する可能性がございます」
「涙の発生源みたいに言うな」
「また、小声版が運用される場合、即応性が求められます」
「ライズまで運用って言った」
「レオナルド様の書状に倣いました」
「倣わないでいい」
ライズは真顔だった。
だが、最後に親指を立てた。
はいはい。
もういい。
最近はその親指にも少し慣れてきた。
嫌な慣れだ。
学園へ向かう馬車の中、俺は今日の予定を確認した。
午前は文学と魔法基礎。
昼食。
午後は礼法と自由研究の説明。
放課後は特に予定なし。
昨日は図書棟を見送ったので、リリスが行きたがるかもしれない。
ただ、今日は少し気になることがある。
王子殿下だ。
このところ直接の接触は少ない。
中庭で一度話しただけ。
だが、視線は感じる。
王子本人だけでなく、その周囲にいる生徒たちからも。
リリスが俺を「アル」と呼ぶたびに、どこかで誰かが反応する。
王家との縁談話があった以上、無理もない。
俺たちの婚約は正式に認められている。
それでも、すべての者が納得しているわけではない。
父上も、レオナルド先輩も、注意しろと言っていた。
俺は窓の外を見ながら息を吐いた。
リリスを不安にさせたくない。
でも、何もないふりをしすぎるのも違う。
ちゃんと見て、ちゃんと気づいて、必要なら隣に立つ。
それくらいしか、今の俺にはできない。
学園に到着すると、リリスはいつもの場所にいた。
今日も制服姿。
髪にはブルーローズの髪飾り。
そして、俺を見つけると笑顔になる。
この笑顔だけで、朝の緊張が少しほどける。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。今日も完璧でした」
「……っ」
リリスの目が一瞬潤む。
「泣きそうです……ではありません」
「自己判定した」
「まだ大丈夫です」
「偉いです」
「褒められると危険です」
「難しいですね」
ミラが後ろで小さく微笑んでいた。
「お嬢様、本日は朝から安定しておられます」
「ミラ、報告しなくても」
「アルフレッド様にも状況共有を」
「状況共有」
リリス涙対策、どんどん体制化している。
もう俺一人の話ではなくなってきた。
教室へ向かう廊下で、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
「おはよう、アルフレッド、アマリリス様」
「おはようございます」
「ご機嫌よう」
エレナ嬢はリリスを見て、優しく笑った。
「アマリリス様、昨日は大丈夫でしたか?」
「はい。帰ってから少し泣きました」
「泣いたんですね」
俺が思わず言うと、リリスは恥ずかしそうに頷いた。
「でも、悲しくはありません」
「知っています」
「お友達ができたことが嬉しくて」
エレナ嬢の頬が少し赤くなる。
「私も嬉しいですわ」
「エレナ様」
「はい」
「泣きそうです……小声版です」
「早い!」
俺は反射的にツッコんだ。
ただし小声で。
廊下だから。
成長しているのは俺も同じだ。
エレナ嬢はすぐにハンカチを出そうとしたが、リリスは深呼吸して首を横に振った。
「大丈夫です。まだ耐えられます」
「無理はなさらないでくださいね」
「はい」
ユリウスが感心したように言った。
「小声版、使いこなしてきたね」
「使いこなすものではないです」
「でも便利だよ」
「便利さを認めたら負けな気がします」
「もう負けていると思う」
「否定できません」
教室へ入ると、数人のクラスメイトが挨拶をしてくれた。
最初は俺たちを見る目に好奇心が強かったが、最近は少し柔らかくなっている。
リリスが泣きそうになることも、俺がツッコむことも、クラスの中では少しずつ日常になりつつある。
良いのか悪いのか分からない。
いや、悪くはないのだろう。
少なくとも、リリスが孤立するよりずっといい。
一時間目は文学だった。
教師は穏やかな女性で、王国の古い恋愛詩を扱った。
……恋愛詩。
嫌な予感がした。
いや、文学としては普通だ。
貴族教育として、詩や物語の読解は重要だ。
だが、今のリリスに恋愛詩を読ませるのは危険ではないか。
教師が黒板に詩の一節を書いた。
『あなたの名を呼ぶたび、春の花はひらく』
リリスの肩がぴくりと動いた。
はい。
刺さりました。
俺は斜め後ろから見ていて分かった。
アルと呼ぶたび、何かが花開いているのだろう。
たぶん。
教師は穏やかに説明を始める。
「この詩では、名前を呼ぶという行為が、相手を自分の世界に迎え入れる象徴として描かれています」
リリスがさらに反応した。
俺も少し反応した。
リリスに初めて「アル」と呼ばれた時のことを思い出す。
温室。
青い薔薇。
赤くなった頬。
震える声。
あの時から、ずいぶん色々あった。
まだそんなに日数は経っていないはずなのに、もうずっと前のことのように感じる。
教師が続ける。
「愛称とは、特別な距離を示すものでもあります」
距離。
出た。
リリスが振り返りそうになった。
止まった。
偉い。
だが、肩が少し震えている。
たぶん、今すぐ俺を見たいのを我慢している。
俺は机の下で小さく親指を立てた。
最近、不本意ながらこの合図を使うことが増えた。
リリスは斜め前で小さく頷いた。
授業は進み、生徒たちに感想を求められた。
何人かが答える。
「名前を呼ぶことで距離が近づく感じがしました」
「春の花という比喩が明るくて美しいと思います」
「少し情熱的すぎる気もします」
そして教師がリリスを指名した。
「アマリリスさんはどう思いますか?」
リリスは立ち上がった。
公爵令嬢としての姿勢は完璧。
だが、耳が少し赤い。
「はい。名前を呼ぶことは、相手を大切に思う気持ちの表れだと思います」
声は落ち着いていた。
「特別な呼び名を許していただけることは、とても嬉しく、また責任のあることだと感じました」
教室が静かになる。
リリスの言葉は綺麗だった。
そして、たぶん本心だ。
「私は……」
リリスが一瞬だけ迷った。
俺は息を止める。
大丈夫か。
彼女は続けた。
「その名を呼ぶたびに、相手を困らせないよう、でも大切に呼びたいと思います」
教室の何人かが微笑んだ。
教師も柔らかく頷いた。
「とても良い感想です」
「ありがとうございます」
リリスは座った。
座る直前、ほんの少しだけこちらを見た。
目が潤んでいた。
俺は小さく頷いた。
よく言えました。
リリスは前を向いたまま、少しだけ肩を震わせた。
泣いてはいない。
耐えている。
偉い。
休み時間になると、リリスがすぐにこちらへ来た。
ただし、走らない。
歩く。
距離はほどほど。
成長がすごい。
「アル」
「はい」
「先ほどの感想、どうでしたか?」
「とても良かったです」
「本当ですか?」
「はい。リリスの気持ちがちゃんと言葉になっていました」
「……っ」
リリスの目が潤む。
「泣きそうです……小声版です」
「はい。小声版、確認しました」
「確認されました」
エレナ嬢がすっとハンカチを用意しかける。
リリスは深呼吸した。
「大丈夫です。今回は耐えます」
「偉いです」
「アル」
「はい」
「褒めると危険です」
「しまった」
ユリウスが横で笑っている。
「もうこのやり取り、完成してきたね」
「完成しなくていいんです」
「でも、見ていて安心するよ」
「安心?」
「ああ。アマリリス様が泣きそうになっても、君が慌てすぎなくなった」
俺は少し黙った。
そうかもしれない。
最初は、リリスが目を潤ませるたびに慌てていた。
泣かせてしまったのか。
怒らせたのか。
ガロウ公爵が来るのではないか。
そんなことばかり考えていた。
でも今は違う。
まず理由を見る。
嬉しいのか、不安なのか、悲しいのか。
そして声をかける。
ハンカチを渡す。
待つ。
少しずつ、俺も覚えている。
「……リリスが頑張っているので」
俺は答えた。
リリスがこちらを見る。
「俺も慣れようとしているだけです」
「アル」
「はい」
「それは、とても嬉しいです」
「泣きそうですか?」
「……小声版です」
「はい」
結局、エレナ嬢のハンカチが出た。
リリスは一粒だけ涙を拭いた。
教室はざわつかない。
ただ、近くにいた令嬢がそっと視線を外してくれた。
ありがたい。
二時間目の魔法基礎は、比較的平和だった。
ただ、教師が「魔力は感情に左右されやすい」と言った瞬間、リリスが少し真剣になった。
リリスの魔法適性はまだ詳しく描かれていないが、公爵家の令嬢として基礎はできているらしい。
授業では簡単な魔力感知の練習をした。
手のひらに小さな光を集める。
俺はあまり派手な魔法は得意ではないが、基礎程度ならできる。
淡い光が手のひらに宿る。
リリスも前の席で、静かに光を灯した。
その光はとても綺麗だった。
柔らかく、青みがかった白。
ブルーローズの光のようにも見える。
俺がそれを見ていると、リリスがこちらに気づいた。
目が合う。
彼女の光が少し強くなった。
教師が言った。
「アマリリスさん、感情で出力が揺れていますよ」
「す、すみません」
リリスが慌てて前を向く。
教室のあちこちで小さな笑いが起きた。
悪意のある笑いではない。
微笑ましいものだ。
俺は顔が熱くなった。
俺を見ると魔力が揺れるのか。
何それ。
可愛い。
いや、危ないのか?
魔法は安全第一だ。
休み時間、リリスが赤い顔で言った。
「アルが見ていたので」
「すみません」
「いえ、嬉しかったです」
「魔力が揺れるのは危ないのでは?」
「少しだけです」
「少し?」
「かなりかもしれません」
「正直でよろしい」
ユリウスが後ろから言う。
「アルフレッド、君、魔法にも影響を与えるんだね」
「やめてください」
「アマリリス様限定かな」
「さらにやめてください」
リリスは顔を真っ赤にしていた。
昼休み。
食堂で四人で座っていると、少し離れた席から視線を感じた。
王子殿下本人ではない。
その周囲にいる生徒の一人。
侯爵家か伯爵家の子息だろう。
やや鋭い目つきで、こちらを見ている。
気のせいではない。
リリスも気づいたのか、少し手を止めた。
「リリス」
俺は小さく声をかけた。
「はい」
「大丈夫です。食事を続けましょう」
「……はい」
ユリウスもその視線に気づいたらしく、何気ない調子で話題を変えた。
「そういえば、午後の自由研究説明だけど、テーマを考えないといけないらしいよ」
「自由研究?」
「学園一年目の課題だね。各自、興味のある分野について調べて、学期末に簡単な発表をする」
「なるほど」
エレナ嬢が言う。
「私は薬草学にしようかと思っていますわ」
「エレナ様らしいです」
リリスが微笑む。
「アマリリス様は?」
「私は……」
リリスが少し考えた。
嫌な予感。
いや、まさか。
「距離感について」
「駄目です」
即答した。
リリスが目を丸くする。
「まだ最後まで言っていません」
「言わなくても分かりました」
「アルとの距離感について」
「やっぱり!」
ユリウスが吹き出した。
エレナ嬢も肩を震わせている。
「自由研究で発表する内容ではありません」
「そうですか?」
「そうです」
「では、心の椅子について」
「もっと駄目です」
「小皿の節度」
「食堂限定すぎます」
「本一冊分の橋」
「詩的ですが駄目です」
リリスは少ししょんぼりした。
「どれも駄目ですか」
「発表される俺の身にもなってください」
「アルの名前は伏せます」
「伏せても分かります」
ユリウスが笑いながら言う。
「いや、聞いてみたいけどね。『婚約者間における適切な距離の実践研究』」
「題名を作らないでください」
エレナ嬢まで微笑む。
「副題は『小皿と本一冊分の比較』でしょうか」
「エレナ嬢まで!?」
リリスの目が輝き始めた。
「それは、とても分かりやすいです」
「乗らないでください!」
周囲の視線が少し集まる。
いけない。
また食堂で声が大きくなった。
俺は咳払いした。
「とにかく、自由研究はもう少し学問寄りのものにしましょう」
「学問寄り」
「礼法における感情表現などはどうですか?」
俺が言うと、リリスは少し目を見開いた。
「礼法における感情表現」
「はい。今日の授業ともつながりますし、リリスにも合っていると思います」
「……アル」
「はい」
「それは、とても良いです」
リリスの表情が明るくなる。
「泣きそうですか?」
「少し。でも食堂ですので」
「小声版?」
「小声版です」
「分かりました」
リリスは深呼吸した。
その様子を見て、ユリウスが感心したように言った。
「アルフレッド、今の提案は本当にいいと思う」
「そうですか?」
「うん。アマリリス様の悩みが、ちゃんと学びになる」
エレナ嬢も頷いた。
「素敵ですわ。私も聞いてみたいです」
「では、それにします」
リリスは嬉しそうに言った。
「アルが考えてくださったテーマです」
「一緒に考えたことにしましょう」
「一緒」
「はい」
「……小声版です」
「はい」
忙しい。
午後の自由研究説明では、担任のマクレイン先生が課題について説明した。
「自由研究は、学問としての完成度だけでなく、本人がどれだけ興味を持って調べたかを重視します」
リリスが真剣に聞いている。
「ただし、私的すぎる内容は避けること。学園で発表するにふさわしい形に整えなさい」
俺はリリスを見た。
リリスもこちらを見そうになり、止まった。
分かっている。
距離感研究は私的すぎる。
先生の言葉が刺さった。
マクレイン先生は続けた。
「身近な疑問から出発するのは良いことです。それをどう普遍的な学びにするかが重要です」
礼法における感情表現。
これは、リリスの身近な疑問から出発できる。
そして、貴族社会における感情の扱いとして、ちゃんと学問にもなる。
悪くない。
説明後、簡単に仮テーマを紙に書く時間が設けられた。
リリスは迷わず書いた。
『礼法における感情表現と周囲の配慮について』
真面目だ。
とても真面目。
俺はほっとした。
心の椅子ではなかった。
小皿でもなかった。
よかった。
しかし、その下に小さく副題が書かれていた。
『――泣きそうです小声版を一例として――』
「リリス」
「はい」
「副題」
「駄目ですか?」
「かなり攻めています」
「一例です」
「一例が具体的すぎます」
「では、消します」
リリスは少し残念そうに消した。
危なかった。
学園発表で小声版が正式に出るところだった。
放課後。
廊下を歩いていると、昼食時にこちらを見ていた男子生徒が近づいてきた。
灰色がかった髪。
整った制服。
周囲に二人ほど取り巻きのような生徒がいる。
俺はすぐに警戒した。
リリスも隣で少し表情を整える。
「アマリリス・フルーラ嬢」
男子生徒は礼をした。
礼儀は正しい。
だが、どこか硬い。
「少しよろしいでしょうか」
「はい。何でしょうか」
リリスは公爵令嬢の顔で応じる。
俺は隣に立つ。
距離は少し近い。
男子生徒は俺を一瞥した。
「こちらはシェルザート伯爵子息もご一緒ですか」
「婚約者ですので」
リリスが即答した。
出た。
いつもの。
男子生徒の眉が少し動く。
「……承知しております」
空気が少し硬い。
「私は、ハインツ・ベルク侯爵家の次男、オスカー・ベルクと申します」
ベルク侯爵家。
王子殿下の周囲にいる家の一つだったはずだ。
やはりか。
「先日の中庭で、殿下がご挨拶されたと伺いました」
「はい。ご丁寧なお言葉をいただきました」
「殿下は、アマリリス様の学園生活を気にかけておられます」
言い方が微妙だ。
気にかけている。
それは祝意とも取れるが、牽制にも聞こえる。
リリスの手が少しだけ鞄を握った。
俺はそれに気づく。
「ありがたいことです」
リリスは静かに答えた。
「ですが、私は婚約者であるアルと共に、学園生活を学んでおります」
アル。
愛称。
オスカーの目が細くなった。
「随分と親しい呼び名なのですね」
「本人より許されております」
リリスの声は落ち着いていた。
だが、俺には少し緊張しているのが分かる。
オスカーは俺へ視線を向けた。
「シェルザート殿」
「はい」
「公爵令嬢の隣に立つというのは、重い立場です」
「承知しております」
「ならば、軽々しく振る舞わぬことです」
周囲が少しざわつく。
ユリウスが少し離れた場所でこちらに気づき、歩み寄ろうとしているのが見えた。
エレナ嬢もいる。
俺は心の中で息を整えた。
ここで感情的になってはいけない。
「ご忠告、痛み入ります」
俺は礼をした。
「ですが、リリスを軽んじたつもりは一度もありません」
オスカーの表情が少し変わる。
「リリス、と」
「はい。彼女が望み、私も大切に呼ばせていただいております」
リリスが隣で小さく息を呑んだ。
俺は続けた。
「学園においても、婚約者として、また一人の生徒として、彼女を尊重するつもりです」
廊下が静かになった。
オスカーは少しの間、俺を見ていた。
「……そうですか」
「はい」
「では、その言葉が軽くないことを願います」
「肝に銘じます」
オスカーはリリスへ礼をし、去っていった。
取り巻きも続く。
空気が少しずつ戻る。
俺は長く息を吐いた。
リリスは隣で固まっていた。
「リリス」
「……はい」
「大丈夫ですか?」
「今のは」
「はい」
「泣きそうです……小声版です」
声が本当に小さかった。
嬉しいのか、不安なのか。
たぶん両方だ。
俺は鞄からハンカチを出す。
「悲しい涙ですか?」
「違います」
「怖かったですか?」
「少し」
「はい」
「でも、アルが、私を大切に呼んでいると……」
「はい」
「嬉しかったです」
「なら、少しだけ」
俺はハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、目元を押さえた。
涙は一粒だけ。
だが、その手は少し震えていた。
ユリウスとエレナ嬢が近づいてくる。
「大丈夫?」
「はい」
リリスは深呼吸した。
エレナ嬢が優しく言う。
「アマリリス様、少し座りましょうか」
「いえ、大丈夫です」
「無理はなさらず」
「はい」
ユリウスが俺へ小声で言った。
「オスカー・ベルク。王子殿下に近い家だ」
「やはり」
「今のは様子見だろうね」
「でしょうね」
「でも、君の返答は悪くなかった」
「ありがとうございます」
リリスはハンカチを握り、俺を見た。
「アル」
「はい」
「私は、アルにリリスと呼ばれるのが好きです」
「はい」
「誰に何と言われても、それは変わりません」
その言葉は小さかったが、はっきりしていた。
俺は頷いた。
「俺も、リリスと呼びたいです」
「……っ」
「小声版ですか?」
「はい」
「今日はもう泣いてもいいです」
「廊下です」
「少し移動しましょう」
俺たちは中庭の端へ移動した。
人目の少ないベンチの近く。
リリスはそこで、静かに少しだけ泣いた。
悲しい涙ではない。
不安と安心が混ざった涙。
俺は隣に立ち、待った。
ユリウスとエレナ嬢は少し離れて見守ってくれている。
しばらくして、リリスが顔を上げた。
「アル」
「はい」
「泣き止みました」
「はい。偉いです」
「また褒めました」
「褒めたいので」
「……小声版です」
「もう一回ですか」
「でも、今度は耐えます」
リリスは涙の跡を残したまま、笑った。
強くなっている。
泣き虫なのは変わらない。
でも、泣いたあとにちゃんと笑えるようになっている。
それが嬉しかった。
正門で別れる頃には、リリスは落ち着いていた。
「アル」
「はい」
「今日は、少し怖かったです」
「はい」
「でも、アルが隣にいてくださったので、大丈夫でした」
「俺も、リリスがちゃんと自分の気持ちを言ってくれて安心しました」
「……はい」
「今日は帰ったら、ゆっくり休んでください」
「はい」
「ハンカチは」
「洗って返します」
「ありがとうございます」
「心の宝物にもします」
「それは許可済みです」
リリスは小さく笑った。
「また明日、アル」
「また明日、リリス」
馬車が去っていく。
俺はそれを見送りながら、少しだけ重い息を吐いた。
ついに王子側の周囲が動き始めた。
大きな衝突ではない。
だが、確かに揺さぶりだった。
これから、こういうことが増えるかもしれない。
それでも、リリスは逃げなかった。
俺も逃げなかった。
それでいい。
今は、そう思うことにした。
その夜。
屋敷に帰ると、父上がいつもより真面目な顔で待っていた。
「ベルク家の子息と接触したそうだな」
「もう届いているんですか」
「ああ」
「早いですね」
「学園内の噂は早い」
父上は書状を一通差し出した。
ガロウ公爵からだった。
『ベルク家の小僧が娘に余計なことを言ったらしい。アルフレッド殿は一応対応したと聞いた。娘は泣いたが、悲しいだけではないらしい。説明しろ。あと、ベルク家を斬ってよいか。 ガロウ』
「斬ってよいか!?」
俺は叫んだ。
父上は真顔で首を横に振る。
「駄目だな」
「当たり前です!」
次にレオナルド先輩からの書状。
『オスカー・ベルクの件は把握した。君の返答は及第点。リリスが小声版を用いたことも確認した。今後は王子周辺への警戒を一段上げる。 レオナルド』
最後に一文。
『なお、父上を止めておく。』
兄、そこは頼もしい。
俺は二通の書状を読み、天井を見上げた。
父上は珍しく笑わなかった。
「アルフレッド」
「はい」
「ここから少し、気を引き締めなさい」
「分かっています」
「だが、怖がりすぎるな」
「はい」
「お前は今日、ちゃんと立てた」
「……はい」
父上の言葉に、少しだけ胸が落ち着いた。
その横でリーマスが静かに言った。
「若様、小声版の運用は成功したようでございますね」
「そこで締めます?」
ライズは親指を立てた。
やっぱり立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
小声版が広まりすぎて!!
もはや学園公認みたいになってます!!




