第12話 公爵令嬢様、兄の前でも通常運転です
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
昨日、俺はリリスの兄と初めて会いました。
レオナルド・フルーラ。
フルーラ公爵家嫡男。
王立学園三年生。
成績優秀、礼儀完璧、見た目も整った、いかにも名門公爵家の後継者という人物である。
そして、妹のことになると、とても面倒くさい。
いや、訂正しよう。
かなり面倒くさい。
父親のガロウ公爵が「圧の強い熊」なら、レオナルド先輩は「笑顔で迫る刃」である。
どちらも怖い。
方向性が違うだけで、どちらも怖い。
しかも昨日の時点で、俺の報告先が増えた。
リリスが泣いた場合。
今まではガロウ公爵から「説明しろ」という書状が届いていた。
これだけでも十分すぎるほど重かった。
だが、これからは兄のレオナルド先輩にも報告しなければならないらしい。
なんで?
いや、理由は分かる。
シスコンだからだ。
分かるが、納得は別である。
そして今朝。
俺の机の上には、二通の書状が置かれていた。
一通はガロウ公爵。
もう一通はレオナルド先輩。
フルーラ家、書状文化が強すぎる。
父上は朝から楽しそうに笑っていた。
「アルフレッド、人気者だな」
「これは人気なんですか?」
「フルーラ家の男二人から書状が来るなど、そうそうないぞ」
「嬉しくありません」
「片方は公爵、片方は公爵家嫡男だ」
「肩書きだけなら光栄ですが、内容が怖いんですよ」
「読んでみなさい」
嫌だ。
すごく嫌だ。
だが読まないわけにもいかない。
俺はまず、ガロウ公爵の書状を開いた。
『娘が昨日の夜、「お兄様もアルを少し分かってくださいました」と喜んでいた。嬉しそうだった。腹立たしい。説明しろ。 ガロウ』
俺は静かに書状を畳んだ。
説明しろと言われても。
俺、昨日レオナルド先輩に圧をかけられただけなんですが。
それで腹立たしいと言われても困る。
次に、レオナルド先輩からの書状を開く。
『本日、昼休みに上級生棟の談話室へ来るように。妹の婚約者として、いくつか確認しておきたい。リリスには伝えてある。逃げないように。 レオナルド・フルーラ』
逃げないように。
最後の一文が怖い。
俺は書状を読み終え、父上を見た。
「父上」
「なんだ?」
「俺、昼休みに呼び出されました」
「レオナルドにか?」
「はい」
「よかったな」
「どこがですか」
「認める相手でなければ、あいつは呼び出しもしない」
「そうなんですか?」
「ああ。興味がない相手は視界に入れない男だ」
「それはそれで怖いです」
「まあ、頑張れ」
「軽い」
父上は笑った。
リーマスは横で静かに頷く。
「若様、上級生棟へ行かれる際は、礼儀を崩さず、しかし萎縮しすぎないことが肝要でございます」
「分かっている」
「そして、アマリリス様が同席される場合」
「はい」
「兄妹間の距離感にもお気をつけください」
「兄妹間の距離感?」
「フルーラ家でございますので」
「それだけで納得できてしまうのが嫌ですね」
ライズはいつも通り背後に控えていたが、表情は真面目だった。
「若様」
「なんだ」
「本日は予備のハンカチを多めに」
「リリスが泣くと?」
「上級生棟で泣かれる可能性もございます」
「あるな」
「さらに、レオナルド様がそれを見た場合、説明が必要になります」
「もう嫌だ」
「ですので、事前準備が大切です」
「ハンカチでどうにかなるのか?」
「ならない場合もございます」
「正直だな」
そんな不安しかない朝を経て、俺は学園へ向かった。
正門前には、いつものようにリリスが待っていた。
今日も走らない。
歩いてくる。
だいぶ自然な歩き方になった。
ただ、表情がいつもより少しそわそわしている。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。完璧でした」
「……完璧」
リリスの頬が赤くなる。
そして少しだけ目が潤む。
「泣きません」
「まだ朝です」
「はい」
よし。
今日も順調だ。
と思ったのだが、リリスはすぐに心配そうな顔になった。
「アル、お兄様からお手紙は届きましたか?」
「はい」
「昼休みのことですね」
「はい」
「ごめんなさい」
「なぜ謝るんですか?」
「お兄様が、アルを試すようなことを仰っていたので」
「やはり試されるんですね」
分かっていた。
分かっていたが、本人の妹から聞くと余計に重い。
「お兄様は、私のことになると少し心配性で」
「かなり、ですよね」
「はい。かなり心配性です」
リリスは素直に認めた。
成長している。
「でも、悪い方ではありません」
「分かっています」
「少し言い方が冷たく聞こえるかもしれませんが、優しいのです」
「はい」
「ただ、私が嬉しくて泣いた話を聞くと、少し怖くなります」
「そこは分かります」
俺も怖い。
かなり怖い。
「リリス」
「はい」
「昼休み、リリスも一緒ですか?」
「はい。お兄様が、私も来るようにと」
「では、少し安心です」
「私がいると安心ですか?」
「はい」
リリスの顔が一瞬で明るくなる。
「アルが、私がいると安心と」
「はい」
「……朝から強いです」
「またですか」
「でも、泣きません」
「偉いです」
「褒められました」
「泣かないでください」
ミラが後ろでハンカチを用意しかけていた。
早い。
さすが。
教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。
「おはよう、アルフレッド」
「おはようございます」
「おはようございます、アマリリス様」
「ご機嫌よう」
ユリウスは俺の顔を見るなり、にやりと笑った。
「聞いたよ。昼休み、レオナルド先輩に呼ばれたんだって?」
「情報が早いですね」
「上級生の間でも少し話題になってるみたいだよ」
「え」
嫌な情報だ。
上級生の間でも?
何が?
俺が呼び出されたことが?
やめてほしい。
「レオナルド先輩は、普段あまり下級生に関わらないからね」
「そうなんですか」
「うん。優秀で人望もあるけど、必要以上には近づかない。だから、君を呼び出したとなると、そりゃ目立つ」
「帰りたい」
「まだ登校したばかりだよ」
「分かっています」
エレナ嬢が心配そうに言った。
「アルフレッド様、大丈夫ですか?」
「大丈夫……だと思いたいです」
「アマリリス様もご一緒なのでしょう?」
「はい」
リリスは真剣に頷いた。
「私がアルを守ります」
「リリス」
「はい」
「それは逆です」
「逆?」
「普通は、俺がリリスを守る側です」
「でも、お兄様相手なら私の方が」
「それはそうかもしれません」
兄に対しては妹が一番強い。
ガロウ公爵に対してもリリスは強い。
フルーラ家の力関係は、きっとリリスが中心なのだろう。
いや、まだ見ぬ母親セレスティア夫人が一番上かもしれないが。
午前の授業は、正直あまり頭に入らなかった。
いや、ちゃんと聞いていた。
聞いていたが、昼休みの呼び出しが気になって仕方ない。
政治基礎の教師が「上位貴族との関係性において重要なのは――」と言った瞬間、レオナルド先輩の顔が浮かんだ。
算術の授業で「距離と比率」という言葉が出た瞬間、リリスが少し反応した。
俺も反応した。
もう駄目だ。
距離という単語に敏感になりすぎている。
休み時間、ユリウスが机に頬杖をついて言った。
「アルフレッド、緊張してる?」
「してます」
「正直だね」
「隠しても仕方ないので」
「レオナルド先輩は怖いけど、理不尽な人じゃないよ」
「知っているんですか?」
「上級生の中でも有名だからね。成績は常に上位、剣も魔法も優秀。社交も完璧。ただし」
「ただし?」
「妹の話になると、少し空気が変わる」
「でしょうね」
容易に想像できる。
エレナ嬢も頷いた。
「私も、上級生の姉から聞いたことがあります。レオナルド様は大変優雅な方ですが、アマリリス様のことになると、少しだけ圧が増すと」
「少しだけ?」
「……かなり、ですわね」
「皆そこは訂正するんですね」
リリスは少し恥ずかしそうに俯いた。
「お兄様は、昔から私に優しいのです」
「それは分かります」
「私が小さい頃、転んで泣いた時も、お兄様は庭の石に注意していました」
「庭の石に?」
「はい。『妹を転ばせるとは、配置が悪い』と」
「石は悪くない!」
教室で声が出た。
周囲がこちらを見る。
やってしまった。
リリスは首を傾げる。
「でも、お兄様はその石を庭師に移動させました」
「本当に石が処分された」
「処分ではありません。移動です」
「そこではないんです」
ユリウスが机に伏せた。
笑っている。
エレナ嬢も肩を震わせていた。
リリスは不思議そうにしている。
フルーラ家の過保護の歴史が見えた。
昼休み。
ついにその時が来た。
いつもなら食堂へ向かう時間だが、今日は先に上級生棟の談話室へ行く。
リリス、俺、そして少し離れてミラが同行する。
ライズは学園内では基本的に外部従者用の待機場所にいるため、今回はいない。
心細い。
いや、ライズがいたら親指を立てるだけかもしれないが。
廊下を歩きながら、リリスがちらりと俺を見た。
「アル」
「はい」
「緊張していますか?」
「かなり」
「私もです」
「リリスも?」
「はい。お兄様がアルを困らせたらどうしようかと」
「困らせる前提なんですね」
「お兄様なので」
「説得力があります」
リリスは少しだけ近づいた。
上級生棟へ向かう廊下は、普段より人が少ない。
だが、すれ違う上級生たちは俺たちを見ると少し反応する。
フルーラ公爵令嬢。
その婚約者。
そして、レオナルド先輩の呼び出し。
噂は広がっているらしい。
リリスの手が、少し震えていた。
俺は小声で言う。
「リリス」
「はい」
「大丈夫です」
「……はい」
「お兄様が怖くても、俺は逃げません」
「逃げないのですか?」
「はい」
「嬉しいです」
「ただし、剣を抜かれたら逃げます」
「抜かせません」
「頼もしい」
リリスは真剣だった。
上級生棟は、下級生の教室棟より少し落ち着いた雰囲気だった。
壁の装飾も控えめだが品があり、廊下に飾られている絵画も歴代の卒業生や学園行事のものが多い。
通る生徒たちも、どこか余裕がある。
上級生というだけで、こんなにも空気が違うのか。
俺は少し背筋を伸ばした。
談話室の前に着くと、リリスが一度深呼吸をした。
「アル」
「はい」
「お兄様は、最初に少し怖い顔をするかもしれません」
「はい」
「でも、基本的には優しいです」
「はい」
「私のことになると、少し」
「かなり」
「かなり、おかしくなります」
「おかしくなるって言いましたね」
リリスが自分で言った。
かなり正確な理解だ。
扉を叩くと、中から声がした。
「入ってくれ」
低く落ち着いた声。
レオナルド先輩だ。
リリスが扉を開ける。
談話室の中は広く、落ち着いた空間だった。
壁際には本棚。
中央には低いテーブルとソファ。
窓からは中庭が見える。
上級生が数人利用できるような場所だが、今はレオナルド先輩一人だけだった。
いや、正確には、少し離れた場所に従者らしき生徒が控えている。
学園内では従者ではなく学生なのだろうが、明らかに補佐役だ。
レオナルド先輩は立ち上がり、リリスへ穏やかに微笑んだ。
「リリス、よく来たね」
「お兄様」
リリスは嬉しそうに微笑む。
兄妹仲は良い。
それはよく分かる。
次にレオナルド先輩の視線が俺へ向いた。
笑顔はある。
だが圧もある。
「アルフレッド、来たか」
「お招きいただきありがとうございます、レオナルド様」
「そう畏まらなくていい。君はリリスの婚約者だ」
「はい」
「ただし、まだ僕が完全に認めたわけではない」
「ですよね」
即答してしまった。
レオナルド先輩が少しだけ目を瞬かせる。
「君は正直だな」
「最近、取り繕う余裕がなくなってきました」
「リリスのせいか?」
「いえ、主にフルーラ家の皆様のおかげです」
「なるほど」
レオナルド先輩は少し笑った。
その笑顔は昨日より柔らかい。
だが、まだ油断はできない。
「座ってくれ」
「失礼します」
俺とリリスはソファに座った。
問題は距離である。
横並びのソファ。
リリスが隣に座る。
近い。
だが、兄の前なので、彼女なりに少し離れている。
拳一つ半くらい。
努力が見える。
俺は小さく頷いた。
リリスが嬉しそうにした。
レオナルド先輩がそれを見ていた。
「リリス」
「はい」
「今の頷きは何かな?」
「アルが、今の距離を褒めてくださいました」
「なるほど」
レオナルド先輩が俺を見る。
「君は、頷きだけで妹を褒めるのか」
「声に出すとリリスが泣きそうになるので」
「合理的だ」
「納得するんですか!?」
「リリスが泣かない方法なら、検討に値する」
「そこなんですね」
やはり兄も兄だ。
レオナルド先輩はテーブルの上に置かれた書類を一枚手に取った。
「さて、今日呼んだ理由だが」
「はい」
「まず、君が妹のことをどれくらい理解しているか確認したい」
「試験ですか?」
「そう思ってくれて構わない」
「本当に試験だった」
リリスが慌てた。
「お兄様、アルを困らせないでください」
「困らせるつもりはないよ」
「でも試験と」
「確認だ」
「言い換えましたね」
俺が言うと、レオナルド先輩は静かに微笑んだ。
「では第一問」
「始まった!」
「リリスが泣く時、多い理由は?」
俺は一瞬考えた。
これは簡単だ。
「嬉しい時です」
「具体的には?」
「褒められた時、安心した時、俺が本心を言った時、約束を覚えていた時、あと制服姿を褒めた時」
「正解だ」
「正解なんですか」
「リリス、合っているかい?」
リリスは顔を赤くしながら頷いた。
「はい……合っています」
「よし」
レオナルド先輩が書類に何かを書き込んだ。
「記録するんですか!?」
「当然だ」
「当然ではないです」
「第二問。リリスが距離を測る時に用いる主な基準は?」
「主な基準」
俺は指折り数えた。
「アルのほどほど、手のほどほど、食堂の小皿、本一冊分、廊下のほどほど、教室の斜め前、外出時のほどほど、あと心の椅子」
レオナルド先輩の手が止まった。
「……心の椅子?」
「はい」
リリスが小さく言う。
「お兄様にはまだお話ししていませんでした」
「リリス」
「はい」
「心の椅子とは?」
「アルとの心の距離を測る概念です」
「なるほど」
「なるほどじゃない!!」
兄まで頷いた。
やめてくれ。
フルーラ家、概念の受け入れが早い。
レオナルド先輩は真剣に書き込む。
「心の椅子……興味深い」
「書かないでください」
「リリスが考えたものなら、家族として把握すべきだ」
「家族会議に出す気ですか?」
「必要なら」
「出さないで!!」
リリスは少し恥ずかしそうに俯いた。
「お兄様、心の椅子はまだ研究中です」
「そうか。完成したら教えてくれ」
「はい」
「約束しないでください!」
俺は頭を抱えた。
この兄妹、方向性が合っている。
危険だ。
非常に危険だ。
「第三問」
レオナルド先輩は続けた。
「リリスが本に嫉妬した理由は?」
「俺が本を触ったからです」
「では、現在本とは?」
「和解しました」
「理由は?」
「本は俺とリリスを繋ぐ橋だからです」
「正解だ」
「これも正解なのか……」
もう何が正解で何が不正解か分からない。
リリスは少し嬉しそうだ。
「アル、よく覚えてくださっています」
「忘れられないんです」
「嬉しいです」
「忘れられない内容が多すぎるとも言えます」
「まあ」
レオナルド先輩は書類を置き、俺をじっと見た。
「思ったより理解しているな」
「毎日鍛えられていますので」
「誰に?」
「主にリリスと、フルーラ家の書状に」
「父上か」
「はい」
「父上は心配性だからな」
「お兄様もです」
リリスが言う。
レオナルド先輩は涼しい顔で頷いた。
「兄だからね」
「便利すぎます、その言葉」
レオナルド先輩は紅茶を一口飲んだ。
そして、少しだけ表情を真面目にする。
「冗談はここまでにしよう」
「今の冗談だったんですか?」
「半分は」
「残り半分は本気だった」
「当然だ」
俺は姿勢を正した。
空気が少し変わったからだ。
リリスもそれに気づき、表情を引き締める。
「アルフレッド」
「はい」
「王子殿下と接触したと聞いている」
「はい。中庭で少しだけ」
「何を言われた?」
「入学祝いと、学園生活に慣れたかということを」
「それだけか?」
「はい。ただ、俺とリリスの呼び方には反応されました」
「アル、か」
「はい」
レオナルド先輩は目を伏せ、少し考え込んだ。
「殿下は、表立って何かするような方ではない」
「はい」
「だが、誇りが高い」
「……」
「リリスとの縁談話が流れたことを、何とも思っていないとは考えにくい」
リリスの手が膝の上でぎゅっと握られた。
俺はそれに気づく。
「リリス」
「……はい」
「大丈夫です」
小さく言うと、リリスは少しだけ肩の力を抜いた。
レオナルド先輩はそのやり取りを見ていた。
「君は、リリスの不安に気づくのが早いな」
「分かりやすいので」
「リリスは分かりやすいかい?」
「俺の前では」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
リリスは真っ赤になっている。
レオナルド先輩はわずかに眉を上げた。
「なるほど」
「何ですか」
「妹が君に懐く理由が少し分かる」
「懐く」
「違うか?」
「……少し違うような、合っているような」
リリスが小さく言った。
「私は、アルをお慕いしています」
直球。
談話室の空気が一瞬止まった。
レオナルド先輩が静かにリリスを見る。
「リリス」
「はい」
「兄の前で言うのは、少々心に来る」
「お兄様?」
「成長したね」
「泣かないでください、お兄様」
「泣かない」
レオナルド先輩の目元が少しだけ赤い気がする。
泣くのか?
兄も泣くのか?
フルーラ家、涙腺がリリス寄りなのか?
俺は内心で慌てた。
「レオナルド様?」
「問題ない」
「本当ですか?」
「兄として、妹の成長を受け止めているだけだ」
「重い」
「兄だからね」
「またそれ!」
リリスが心配そうに兄を見ていた。
その姿は、本当に兄妹だった。
少し過保護で、少し面倒で、でも互いを大切にしている。
俺はその関係を見て、少しだけ胸が温かくなった。
レオナルド先輩は咳払いをした。
「とにかく、王子殿下の件は注意しておけ。僕も上級生の立場から見ておく」
「ありがとうございます」
「リリスを不安にさせるようなことがあれば、すぐに僕に知らせろ」
「はい」
「父上にも」
「はい」
「母上にも」
「母上にも!?」
まだ会っていない母親まで報告先に入った。
怖い。
「母上は、フルーラ家で最も話が通じる」
「それは安心です」
「そして最も怖い」
「安心を返してください」
レオナルド先輩は穏やかに微笑んだ。
怖い。
笑顔が怖い。
「いつか紹介しよう」
「お手柔らかにお願いします」
「母上次第だ」
「逃げ場がない」
その後、談話室での会話は少し柔らかくなった。
レオナルド先輩は、上級生として学園の注意点を教えてくれた。
図書棟の上級区画に入るには申請が必要なこと。
訓練場の午後使用は上級生が多いこと。
食堂では派閥ごとの席が自然にあること。
王子殿下の周囲には、貴族子弟の中でも特に家格の高い者が集まりやすいこと。
どれも有益な情報だった。
「君は下手に派閥に寄らない方がいい」
レオナルド先輩が言う。
「シェルザート伯爵家は堅実で、父上との繋がりもある。さらにリリスの婚約者だ。無理に誰かの下につく必要はない」
「はい」
「ただし、孤立もするな」
「難しいですね」
「ユリウス・ローレンとは悪くなさそうだな」
「はい。良くしてもらっています」
「彼は軽そうに見えるが、目は悪くない。エレナ・クライスも穏やかだが、周囲を見る力がある」
「よくご存じですね」
「上級生は下級生を見ている」
「怖いですね」
「学園とはそういう場所だ」
父上も似たようなことを言っていた。
将来面倒になる相手を早めに見分ける場所。
学園はただの青春の場ではない。
社交界の前段階でもある。
その中で、リリスと俺の婚約は目立つ。
だからこそ、レオナルド先輩は俺を呼び出したのだろう。
ただのシスコンだけではない。
兄として、公爵家嫡男として、必要なことを見ている。
……まあ、かなりシスコンだけど。
昼休みの終わりが近づいた。
俺たちは談話室を出ることになった。
レオナルド先輩はリリスへ歩み寄り、優しく言った。
「リリス、無理はしないように」
「はい、お兄様」
「困ったことがあれば、すぐに言うんだ」
「はい」
「アルフレッドに泣かされたら」
「嬉し泣きです」
「それでも報告を」
「お兄様」
リリスが少し頬を膨らませた。
珍しい。
兄に対しては少し甘えた顔をするのか。
「アルは、私を大切にしてくださっています」
「分かっているよ」
「では、あまり責めないでください」
「責めてはいない」
「試験しました」
「確認だ」
「お兄様」
「……分かった。少し控える」
兄が負けた。
リリス強い。
レオナルド先輩は俺を見た。
「アルフレッド」
「はい」
「妹にこう言われたので、今日はここまでにする」
「ありがとうございます」
「だが、次はもう少し深く話そう」
「まだあるんですね」
「当然だ」
「何を確認するんですか?」
「リリスが泣いた時の対応手順」
「訓練ですか!?」
「必要だろう」
「必要……かもしれない」
否定できない自分が嫌だった。
談話室を出た後、リリスは少しほっとした顔をしていた。
「アル」
「はい」
「お疲れ様でした」
「リリスも」
「お兄様、やはり少し圧がありましたね」
「少し?」
「かなり」
「はい」
廊下を歩きながら、リリスが少しだけ近づいてきた。
上級生棟の廊下のほどほど。
いや、たぶん不安が残っているのだろう。
俺は何も言わなかった。
少しだけならいい。
「アル」
「はい」
「お兄様の前で、私のことをたくさん分かってくださっていて、嬉しかったです」
「毎日見ていますから」
「毎日」
「はい」
「……それは、嬉しいです」
リリスの目が潤んだ。
「今は廊下です」
「我慢します」
「昼休みも残り少ないです」
「はい」
「午後の授業があります」
「はい」
「泣くなら馬車の中で」
「分かりました」
「いや、泣く前提にしてしまった」
リリスがくすっと笑った。
「アルも慣れてきましたね」
「慣れたくなかった部分もあります」
「でも、嬉しいです」
その笑顔は柔らかかった。
昼食は少し遅れて取ることになった。
食堂へ行くと、ユリウスとエレナ嬢が席を確保してくれていた。
「無事だった?」
ユリウスが開口一番に聞いた。
「一応」
「試験された?」
「されました」
「何を?」
「リリス理解度」
ユリウスは吹き出した。
エレナ嬢も目を丸くする。
「リリス理解度……」
「はい」
リリスは少し恥ずかしそうに言った。
「アルは、よく分かってくださっていました」
「それは良かったですわ」
「はい」
「何を聞かれたの?」
ユリウスが興味津々で聞く。
「リリスが泣く理由、距離感の基準、本との和解について」
「試験範囲が独特すぎる」
「俺もそう思います」
「で、合格?」
「たぶん」
リリスが頷く。
「お兄様は、アルを少し認めてくださいました」
「少し?」
「はい」
「前進だね」
「前進なんですかね」
前進なのだろう。
たぶん。
食堂では、今日も小皿が活躍することはなかった。
リリスは兄のことを少し気にしていたが、食事はきちんと取っていた。
その様子に安心する。
午後の授業も無事に終わり、放課後。
今日は図書棟へ行く予定だったが、リリスは少し疲れているようだった。
「リリス」
「はい」
「今日は図書棟はやめておきますか?」
「でも、アルと本を」
「本は明日でも読めます」
「……はい」
「今日は少し疲れたでしょう」
「少しだけ」
「では、早めに帰りましょう」
リリスは少し寂しそうにしながらも、頷いた。
「アルがそう言うなら」
「俺も今日は少し疲れました」
「お兄様のせいですね」
「少し」
「かなり」
「はい」
リリスは申し訳なさそうにした。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
「でも」
「リリスの家族がリリスを大切にしているのは、悪いことではありません」
「……」
「圧は強いですが」
「はい」
「かなり強いですが」
「はい」
「でも、リリスが大切にされているのは分かります」
リリスの目が潤む。
「アル」
「はい」
「そう言ってくださるのは、嬉しいです」
「本心です」
「今日は、強い言葉が多いです」
「すみません」
「謝らないでください。嬉しいので」
正門前で別れる時、リリスはいつもより少し静かだった。
だが、表情は柔らかい。
「アル」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「お兄様のこと、嫌いにならないでくださいね」
「なりません」
「本当ですか?」
「はい。少し怖いですが、嫌いではありません」
「よかったです」
「むしろ、リリスを大切にしていることが分かって安心しました」
リリスは泣きそうになった。
だが、耐えた。
「馬車の中で泣きます」
「はい」
「今日は、少しだけ」
「ハンカチを」
「ありがとうございます」
俺は鞄からハンカチを差し出した。
リリスは大切そうに受け取る。
「洗って返します」
「はい」
「心の宝物にはします」
「それは許可します」
「ありがとうございます」
リリスは嬉しそうに笑い、馬車へ乗った。
窓から手を振る。
俺も振り返す。
馬車が遠ざかる。
今日も濃い一日だった。
リリスの兄。
理解度試験。
心の椅子の家族共有危機。
報告先の増加。
王子の件への警戒。
そして、少しだけレオナルド先輩に認められた気配。
俺は長く息を吐いた。
学園生活、濃すぎる。
その夜。
屋敷に帰ると、父上が待っていた。
「どうだった、レオナルドは」
「濃かったです」
「だろうな」
「リリス理解度試験を受けました」
「ははははは!」
父上は大笑いした。
リーマスは静かに頷く。
「若様なら高得点でございましょう」
「採点しないでください」
「心の椅子は出ましたか?」
「出ました」
「ほう」
「家族会議に出されそうになりました」
「それは面白い」
「面白くありません」
そして、当然のようにフルーラ家から書状が届いた。
まずガロウ公爵。
『レオナルドが「アルフレッドは思ったより理解している」と言った。腹立たしい。だが悪くない。説明しろ。 ガロウ』
次にレオナルド先輩。
『本日の確認では及第点だ。次回は、リリスが泣いた時の対応手順について話す。なお、心の椅子については今後の研究成果を待つ。 レオナルド』
俺は二通の書状を読み終え、静かに天井を見上げた。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「及第点、おめでとうございます」と言った。
ライズは親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
兄妹そろって!!
俺を研究対象にしないでください!!




