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『公爵令嬢様、距離感が近すぎます! 〜伯爵子息は今日もツッコミが追いつかない〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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11/73

第11話 公爵令嬢様、兄まで距離感が近い



 皆さん、こんにちは!!


 アルフレッド・シェルザートです。


 王立学園生活は、今日も平和です。


 ……と言いたい。


 心の底から言いたい。


 だが残念ながら、俺の周囲に限って言えば、平和という言葉はかなり怪しい。


 昨日は図書棟見学だった。


 俺がすすめた本をリリスが借りた。


 リリスは本に少し嫉妬した。


 その後、本と和解した。


 そして最終的に、本に向かって、


『アルを少し貸してください』


 と言ったらしい。


 本に交渉するな。


 しかも俺は本の所有物ではない。


 いや、リリスの所有物でもないけど。


 ……ないよな?


 少し不安になってきた。


 その書状を読んだ父上は、いつも通り腹を抱えて笑った。


 リーマスは、


「交渉は貴族の基本でございます」


 と頷いた。


 ライズは、もちろん親指を立てた。


 そして俺は、天井を見上げた。


 最近、俺は天井を見る時間が増えた気がする。


 悩んでいる時、人は空を見るという。


 俺の場合は室内で天井を見る。


 だいたい原因はリリスだ。


 いや、嫌ではない。


 嫌ではないのだ。


 ただ、理解が追いつかないだけで。


 そんなわけで、学園五日目。


 今日は午前中に座学、午後に礼法と歴史、放課後に少しだけ図書棟へ寄る予定だった。


 昨日借りた本の返却ではない。


 さすがに早すぎる。


 ただ、リリスが、


「アルのおすすめの本を、もう少し知りたいです」


 と言ったからである。


 俺としても、図書棟は好きだ。


 静かで落ち着くし、リリスも本と和解したばかりだ。


 きっと今日は落ち着いて過ごせる。


 そう思っていた。


 思っていたのだ。


 だが、朝から届いた書状が、その甘い期待を軽く砕いてきた。


 差出人はガロウ公爵。


『娘が「本とは和解しましたが、アルを独占しすぎないよう気をつけます」と言っている。偉い。だが、その直後に「でも本には負けません」と言った。説明しろ。 ガロウ』


 最後に「偉い」と入っているのが父親すぎる。


 いや、確かに偉い。


 リリスはちゃんと気をつけようとしている。


 だが、本には負けません、とは何だ。


 そもそも勝負ではない。


 本はただ読まれるだけだ。


 対抗心を燃やされても困る。


「若様」


 ライズが書状を畳みながら言った。


「アマリリス様は、本に対しても礼節ある競争心をお持ちのようですね」


「礼節ある競争心って何だ」


「本とは和解しつつ、婚約者としての立場は譲らないという」


「本に立場を譲る状況がありません」


「ですが、アマリリス様の中では重要なのでしょう」


「それは分かる」


 分かるようになってきたのが怖い。


 朝食の席で父上も同じ話をした。


「リリス嬢は成長しているな」


「そうですか?」


「本と和解した上で、負けないと言っているのだろう」


「その時点でおかしいんです」


「お前、愛されているな」


「本と競われるほどに?」


「うむ」


「嬉しいような、何か違うような」


 母上はくすくす笑いながら、俺の皿に卵料理を添えた。


「でも、アマリリス様なりに頑張っているのよ」


「それは分かっています」


「なら、今日もちゃんと見てあげなさい」


「はい」


「あと、本に嫉妬しても笑いすぎないようにね」


「努力します」


「あなた、すぐツッコミで声が大きくなるから」


「最近、家族全員から声量を心配されていますね」


「大事なことよ」


 否定できなかった。


 学園へ向かう馬車の中、俺は今日の予定を確認していた。


 午前は政治基礎。


 次に算術。


 昼食。


 午後は歴史。


 放課後に図書棟。


 普通なら、かなり落ち着いた一日だ。


 リリスが本と平和に過ごせば。


 平和に。


 ……頼むぞ、本。


 いや、本に頼むのも変だ。


 学園に着くと、正門前でリリスが待っていた。


 今日も制服姿は完璧。


 髪にはブルーローズの髪飾り。


 手には学園用の鞄。


 俺を見つけると、表情が明るくなる。


 そして走らずに歩いてくる。


 本当に、朝の距離感はかなり上達している。


「アル、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう、リリス」


「今日も走りませんでした」


「はい。もう完全に安心して見ていられます」


「……完全に」


 リリスの頬が赤くなる。


「アルに完全に安心されました」


「そこだけ抜き出さないでください」


「嬉しいです」


「それはよかったです」


 ミラが後ろで静かに礼をする。


「アルフレッド様、本日もよろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


 俺は小声で尋ねた。


「本日は、紐や特別な測定具は?」


「ございません」


「よかった」


「ただ、お嬢様の手帳に『本一冊分』の項目が増えております」


「でしょうね」


 もう驚かない。


 いや、少し驚いた。


 項目化されたか。


「アル」


 リリスが首を傾げる。


「ミラと何のお話ですか?」


「安全確認です」


「安全」


「はい」


「図書棟は本が多いので、転ばないように気をつけます」


「それは本当にお願いします」


 本を抱えて転んだら大変だ。


 リリスも本も心配だが、その後ガロウ公爵から何が届くかも怖い。


 教室へ向かう途中、ユリウスとエレナ嬢が合流した。


「おはよう、アルフレッド」


「おはようございます、ユリウス」


「おはようございます、アマリリス様」


「ご機嫌よう、ユリウス様、エレナ様」


 ユリウスは今日も楽しそうだった。


 完全に俺たちを観察する気でいる。


「今日は図書棟に行くんだって?」


「放課後に少し」


「本とは和解したのかな?」


「なぜ知っているんですか」


「昨日、君が呟いていた」


「俺、呟いてました?」


「『本と和解した公爵令嬢……』って」


「言ってましたか」


「言ってた」


 自覚がない。


 最近、ツッコミが口から漏れすぎている。


 リリスは少し恥ずかしそうに言った。


「本とは、和解しました」


「アマリリス様、本当に言うんですね」


 ユリウスが笑いを堪える。


「はい。本はアルを知る手がかりですので」


「なるほど。深い」


「でも、本には負けません」


「そこで勝負になるんですね」


「はい」


 エレナ嬢がくすっと笑った。


「アマリリス様は、本当にアルフレッド様のことがお好きなのですね」


「はい」


 即答。


 廊下の空気が一瞬止まった。


 近くを歩いていた生徒が振り返る。


 俺は額に手を当てかけた。


 でも、もう慣れてきた。


 リリスは隠さない。


 隠せない。


 そして、俺もそれを否定する気はない。


「リリス、廊下です」


「はい。声量に気をつけます」


「内容も少し」


「でも、事実です」


「強い」


 ユリウスが笑った。


「朝から甘いね」


「甘いのですか?」


 リリスが尋ねる。


 エレナ嬢が頷く。


「とても」


「では、ほどほどに甘くします」


「甘さもほどほどにするんですか」


「学園ですので」


 成長している。


 いや、方向は少し変だが。


 午前の授業は比較的平和だった。


 政治基礎では、王国の統治機構や貴族の役割について学んだ。


 リリスは公爵令嬢らしく、かなり理解が早い。


 教師に質問されても落ち着いて答えていた。


 俺も父上から領地経営の話を聞いていたおかげで、ある程度ついていけた。


 ユリウスは要領よく、エレナ嬢は丁寧にノートを取っている。


 算術では、リリスが少し苦手そうだった。


 数字自体はできるのだが、応用問題になると少し考え込む。


 休み時間に彼女が振り返った。


「アル」


「はい」


「先ほどの算術、最後の問題が少し分かりませんでした」


「どこですか?」


 リリスはノートを持って俺の席へ来ようとした。


 近づき方が少し早い。


 だが、途中で止まる。


 周囲を見る。


 それから、ほどほどの距離で立つ。


 偉い。


 俺は机を少し空けた。


「ここにノートを置いてください」


「はい」


 リリスがノートを置く。


 俺は問題を見る。


 収支計算の応用だ。


 商人の仕入れと販売価格、税を含めた利益計算。


「ここは、先に税を引くのではなく、総額から原価を引いて、その後で税の影響を見た方が分かりやすいです」


「なるほど」


「この数字とこの数字を比べて……」


 説明を始めると、リリスは真剣に聞いていた。


 目が近い。


 いや、ノートを見るために近づいているだけだ。


 距離感としては、学習中なら許容範囲。


 たぶん。


「分かりました」


 リリスの顔が明るくなる。


「アルは教えるのもお上手です」


「父上に領地の帳簿を見せられることがあるので」


「すごいです」


「そこまででは」


「アルは、将来きっと良い領主になります」


 その言葉は不意に胸に来た。


 リリスは真剣だった。


 俺が将来どうありたいかを、ちゃんと見ようとしてくれている。


「……ありがとうございます」


「はい」


 リリスは嬉しそうに微笑んだ。


 その時、近くの男子生徒が声をかけてきた。


 黒髪で、少し気弱そうな子爵家の少年だ。


「シェルザート君、もしよかったら、僕にも少し教えてもらえるかな」


「もちろんです」


 俺が答えると、リリスの笑顔が一瞬止まった。


 あ。


 これは。


「リリス」


「はい」


「勉強です」


「分かっています」


「大丈夫ですか?」


「アルは優しいので、皆に教えます」


「はい」


「それは素敵なことです」


「はい」


「でも、少しだけ」


「少しだけ?」


「私だけが教えていただいたわけではないのですね、と思いました」


 正直。


 とても正直。


 子爵家の少年が困った顔をしている。


 俺は慌てて言った。


「リリス、リリスに教える時と他の人に教える時は違います」


「違うのですか?」


「はい」


「どう違いますか?」


「ええと……」


 詰まった。


 どう違う?


 同じ勉強を教えるのだ。


 だが、気持ちは違う。


 リリスには分かってほしいと思う。


 喜んでほしいとも思う。


 いや、他の人にも分かってほしいとは思うが。


 言葉にすると難しい。


 ユリウスが横から面白そうに見ている。


 助けろ。


 いや、助けてくれないな。


 俺は少し考え、正直に言った。


「リリスに教える時は、リリスが分かった時に嬉しそうに笑うのを見るのが、少し楽しみです」


 言った。


 言ってしまった。


 教室の空気が止まった。


 リリスが真っ赤になる。


「アル」


「はい」


「それは、とても」


「はい」


「強いです」


「嬉しさが?」


「はい」


「教室です」


「泣きません」


「偉いです」


 子爵家の少年が完全に固まっていた。


 ユリウスは机に伏せて笑いを堪えている。


 エレナ嬢は顔を赤くして口元を押さえている。


 俺は額に手を当てた。


 何をしているんだ俺は。


 でも、リリスは嬉しそうだった。


 なら、まあ。


 いい……のか?


 昼食の時間。


 今日は比較的穏やかに食堂で過ごせた。


 小皿の出番はなかった。


 リリスは自分の料理をきちんと食べ、俺の皿を見つめすぎることもなかった。


 成長だ。


 ただし、俺がパンを割った時に、


「アルはパンを綺麗に割りますね」


 と言った。


 そこを見る?


 食事中の所作まで観察対象になっている。


 アル理解、恐るべし。


 午後の歴史の授業では、昨日借りた王国史の話と少し重なる部分が出たため、リリスはとても楽しそうだった。


 教師の説明を聞きながら、俺がすすめた本の内容と照らし合わせているのだろう。


 授業後、彼女は嬉しそうに言った。


「アルの本で読んだところが出ました」


「昨日の本ですね」


「はい」


「役に立ってよかったです」


「本と仲良くできそうです」


「よかったです」


「でも、授業中に本の内容を思い出すと、アルのことも思い出しました」


「そこに繋がるんですね」


「はい」


 エレナ嬢が横で微笑む。


「アマリリス様、勉強が楽しそうですわ」


「はい。アルがすすめてくださった本のおかげです」


「よかったですわね」


「はい」


 リリスが自然に他の令嬢と話している姿を見ると、少し安心する。


 彼女は俺の前では距離感が近いが、公爵令嬢としての社交能力は高い。


 学園でも、きっと周囲と良い関係を築けるだろう。


 ただし、俺が絡むと急に近い。


 そこだけだ。


 問題は。


 放課後。


 予定通り、俺たちは図書棟へ向かった。


 ユリウスとエレナ嬢も一緒だ。


 今日の図書棟は昨日より少し人が少なかった。


 放課後ということもあり、読書好きの生徒や課題を調べる上級生がちらほらいる程度。


 静かな空気が心地よい。


 リリスは入り口で小さく深呼吸した。


「本に礼を?」


「心の中でしました」


「そうですか」


「今日は、昨日より自然にできました」


「慣れるものなんですね」


 本への心の挨拶に慣れる公爵令嬢。


 新しい。


 俺たちは歴史書の棚へ向かった。


 リリスが昨日借りた入門書の次に読むなら、少し詳しい本がいいだろう。


 俺は棚を見ながら一冊を抜き出した。


「これなどどうでしょう。少し難しいですが、章ごとにまとまっているので読みやすいと思います」


「アルが読んだ本ですか?」


「はい。少し前に」


 リリスは本を見た。


 じっと。


 少しだけ目を細める。


「リリス」


「はい」


「嫉妬ですか?」


「……昨日よりは少しだけです」


「減りましたね」


「本とは和解しましたので」


「よかったです」


「でも、この本はアルに読まれた先輩です」


「先輩扱い!?」


 思わず声が出かけたが、図書棟なので抑えた。


 ユリウスが後ろで肩を震わせている。


 エレナ嬢は本棚に顔を向けて笑いを隠している。


「先輩とは?」


「私より先にアルの時間をいただいたので」


「本です」


「はい」


「本に先輩後輩はありません」


「では、古参ですか?」


「言い方が強くなった」


 リリスは真剣だった。


 俺は少し考え、リリスの手元に本を渡した。


「リリス」


「はい」


「本は俺の時間を奪ったわけではありません」


「はい」


「俺に知識や考え方をくれました」


「……」


「そして今、その本をリリスが読むなら、俺が読んだ時のことを少し共有できるかもしれません」


 リリスの目が揺れた。


「共有」


「はい」


「アルと、同じ本を」


「そうです」


「同じ言葉を読んで、同じことを考えられるかもしれない」


「はい」


 リリスは本を両手で受け取った。


 大切そうに。


「では、この本は先輩ではなく」


「はい」


「橋です」


 急に詩的になった。


 だが、悪くない。


「そうですね。橋かもしれません」


「アルと私を繋ぐ橋」


「……はい」


「本、すごいです」


「本が評価されましたね」


 リリスは本へ小さく微笑んだ。


「よろしくお願いします」


 今度は声に出して挨拶した。


「リリス」


「小声です」


「そういう問題では」


「橋なので」


「橋でも挨拶は普通しません」


 ユリウスがとうとう小さく笑った。


「もう駄目だ。アマリリス様、本当に面白い」


「面白いですか?」


「失礼な意味じゃなくてね。発想が素直で、独特で、でも何だか分かる気がする」


「分かりますか?」


「少し」


「では、ユリウス様も本に挨拶を?」


「それはしないかな」


「そうですか」


 リリスは少し残念そうだった。


 広めないでほしい。


 本への挨拶文化を。


 閲覧席に移動し、俺たちはしばらく本を読んだ。


 今日は、俺とリリスは隣ではなく斜め向かい。


 図書棟のほどほど。


 本一冊分の距離。


 リリスはその基準をしっかり守っている。


 たまに俺を見るが、すぐ本に戻る。


 偉い。


 そして、本を読む表情は真剣だ。


 彼女は本当に、俺の好きなものを知ろうとしてくれている。


 そのことが、嬉しかった。


 静かな時間の中で、俺はふとページから目を上げた。


 リリスも同じタイミングで顔を上げた。


 目が合う。


 リリスの頬が赤くなる。


 俺も少し照れる。


 言葉はない。


 図書棟だから、静かに。


 ただ、彼女が小さく微笑んだ。


 俺も頷く。


 こういう沈黙も、悪くない。


 そう思った。


 しかし、その平穏は長く続かなかった。


 図書棟の入口付近が少しざわついた。


 上級生らしき数人が入ってきたのだ。


 その中心にいる人物を見て、リリスがはっと顔を上げた。


 金髪。


 整った顔立ち。


 背が高く、姿勢が美しい。


 制服には三年生を示す飾り紐。


 上級生たちの中でも、明らかに目立つ存在。


 彼は周囲に軽く会釈しながら歩いていた。


 そして、リリスを見つけた瞬間。


 表情が柔らかくなった。


「リリス」


 低く、品のある声。


 リリスが立ち上がる。


「お兄様」


 お兄様。


 俺は一瞬、固まった。


 この人が。


 フルーラ公爵家嫡男。


 レオナルド・フルーラ。


 王立学園三年生。


 リリスの兄。


 父上から名前だけは聞いていた。


 優秀で、礼儀正しく、剣も魔法も学業も高水準。


 外面は完璧な貴公子。


 そして、妹のことになると少々面倒らしい。


 少々。


 父上がそう言っていた。


 だが俺は、父上の「少々」を信用していない。


 なぜなら、父上の友人がガロウ公爵だからだ。


 少々が少々で済むわけがない。


 レオナルド先輩は、リリスの前で穏やかに微笑んだ。


「学園には慣れたかい?」


「はい。アルがいてくださるので」


 初手。


 初手で俺。


 レオナルド先輩の視線が、ゆっくり俺へ向いた。


 穏やかな笑顔。


 だが、目が笑っていない。


 来た。


 来ました。


「君が」


 レオナルド先輩が言った。


「アルフレッド・シェルザートか」


 俺は立ち上がり、礼をした。


「はい。アルフレッド・シェルザートです。お初にお目にかかります、レオナルド様」


「レオナルド・フルーラだ」


 彼は優雅に礼を返した。


 動作は完璧。


 声も穏やか。


 だが、圧がある。


 ガロウ公爵とは違う。


 ガロウ公爵は熊のような圧。


 この人は、冷たい刃のような圧だ。


「妹が世話になっている」


「こちらこそ、リリスにはいつも助けられています」


 俺がそう言うと、リリスの顔がぱっと明るくなった。


「アル……」


 レオナルド先輩の眉が少し動いた。


 やばい。


 今のはまずかったか?


「リリス」


 レオナルド先輩が穏やかに言う。


「今、泣きそうになったね」


「嬉しかったので」


「そうか」


 彼はゆっくり俺を見た。


「アルフレッド」


「はい」


「君が僕のリリスを泣かせている男か」


 来た!!


 それ来た!!


「嬉し泣きです!」


 俺は反射で答えた。


 図書棟なので声は抑えた。


 偉いぞ俺。


「泣かせていることに変わりはない」


「理屈が乱暴です!」


「リリスが泣く」


「はい」


「君が関わっている」


「はい」


「つまり君が泣かせている」


「三段論法が雑!」


 ユリウスが後ろで完全に笑いを堪えている。


 エレナ嬢も目を丸くしている。


 リリスは慌てて言った。


「お兄様、アルは悪くありません」


「分かっているよ、リリス」


「本当ですか?」


「本当だ。君が嬉しくて泣いていることも、父上から聞いている」


「では」


「だが、兄として確認は必要だ」


「確認」


 リリスが不思議そうに首を傾げる。


 俺は嫌な予感しかしない。


 レオナルド先輩は俺へ一歩近づいた。


 近い。


 兄も距離が近い。


 なぜフルーラ家は距離が近いんだ。


「アルフレッド」


「はい」


「妹との距離は適切か?」


「俺が聞きたいです!」


 思わず言ってしまった。


 レオナルド先輩が一瞬、目を瞬かせる。


 リリスが頬を赤くする。


「アル、それは」


「リリス、今まで何個ほどほどが増えましたか」


「ええと……朝、廊下、教室、食堂、小皿、図書棟、本一冊分、手のほどほど」


「ほら!」


「ほら、とは?」


 レオナルド先輩が静かに言う。


「妹がそこまで考えているなら、君も相応に考えるべきだ」


「考えています!」


「ならよし」


「よしなんですか!?」


「ただし」


 レオナルド先輩の目が細くなる。


「リリスを泣かせたら、僕にも報告するように」


「報告先が増えた!!」


「父上だけでは不十分だ」


「十分すぎます!」


「兄として当然だ」


「フルーラ家の当然が重い!」


 リリスが少し困ったように兄を見た。


「お兄様、アルを困らせないでください」


「困らせてはいないよ」


「困っています」


 俺が即答すると、レオナルド先輩は少しだけ笑った。


 意外と楽しそうだ。


「なるほど」


「何がですか」


「父上が毎晩書状を書く理由が少し分かった」


「公爵様、毎晩なんですか!?」


 知らなかった。


 いや、うちに届いている分だけでも多いとは思っていた。


 だが毎晩?


 まさか、届いていない書状もあるのか?


「父上は君についてよく語っている」


「怖い情報です」


「母上は笑っている」


「まだお会いしていないのに怖いです」


「そして僕は、直接確認しようと思った」


 レオナルド先輩は俺を見た。


 その表情は穏やかだが、目は真剣だった。


「リリスは、君の前でよく笑うらしい」


「……はい」


「よく泣くとも聞いた」


「嬉し泣きが多いです」


「よく距離を測っているとも聞いた」


「それは本当にそうです」


「本に嫉妬したとも」


「今日、和解しました」


「本と?」


「本と」


 レオナルド先輩は少し黙った。


 そして、リリスを見た。


「リリス」


「はい」


「本と和解したのかい?」


「はい。アルと私を繋ぐ橋です」


「そうか」


 レオナルド先輩は頷いた。


「ならば本にも礼を尽くさないとな」


「お兄様もそう思いますか?」


「ああ」


「やめてください!!」


 兄まで受け入れた。


 おかしい。


 やはりフルーラ家は何かおかしい。


 レオナルド先輩は俺を見る。


「アルフレッド」


「はい」


「妹は少し独特だ」


「少し?」


「かなり独特だ」


「はい」


「だが、悪い子ではない」


「もちろんです」


 俺は即答した。


 レオナルド先輩の目が少しだけ変わる。


「リリスは真っ直ぐで、優しくて、一生懸命です。距離感は近いですし、時々本や木剣に嫉妬しますけど」


「木剣にも?」


「はい」


「……そうか」


 レオナルド先輩が少し遠くを見る。


 知らなかったらしい。


 後で家族会議になるのだろうか。


「でも、リリスはちゃんと人のことを考えています。俺を困らせたくないから、ほどほどを学ぼうとしているんです」


「……」


「だから俺も、ちゃんと向き合うつもりです」


 図書棟の空気が静かだった。


 本の匂い。


 柔らかな光。


 遠くでページをめくる音。


 レオナルド先輩はしばらく俺を見ていた。


 そして、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「なるほど」


「はい」


「父上が、君を悪く言いきれない理由も分かった」


「悪く言おうとはしているんですね」


「父だからな」


「理由になっているようで、なっていません」


「兄も同じだ」


「だから近いんですって!」


 レオナルド先輩は小さく笑った。


 その笑顔は、初めて少しだけ年相応に見えた。


「まあいい。今日は挨拶だけにしておこう」


「挨拶だけでこの濃さですか」


「次はもう少し話そう」


「怖いです」


「安心しろ。剣は抜かない」


「抜く可能性があったんですか!?」


 リリスが慌てた。


「お兄様、アルに剣を向けてはいけません」


「分かっているよ、リリス」


「本当ですか?」


「本当だ。少なくとも学園内では」


「学園外!?」


 俺のツッコミが図書棟に響きかけ、慌てて抑えた。


 司書の老婦人が遠くからこちらを見ていた。


 すみません。


 静かにします。


 レオナルド先輩は最後にリリスへ優しく言った。


「無理はしていないかい?」


「はい。アルがいてくださるので」


「そうか」


 彼は複雑そうに笑った。


 ガロウ公爵ほど分かりやすくはないが、同じ匂いがする。


 妹が幸せなら嬉しい。


 でも相手が俺なのは複雑。


 たぶんそんな感じだ。


「では、また」


 レオナルド先輩は優雅に去っていった。


 上級生たちも後に続く。


 図書棟に静けさが戻る。


 俺は椅子に座り直し、深く息を吐いた。


「濃い」


 思わず呟いた。


 ユリウスが肩を震わせる。


「すごい人だったね」


「すごい人でした」


「フルーラ家、面白いな」


「俺の身にもなってください」


 エレナ嬢がリリスへ言った。


「お兄様、とても妹思いなのですね」


「はい。少し心配性です」


「少し?」


 俺は思わず言った。


 リリスがこちらを見る。


「アル?」


「いえ」


「お兄様は優しいです」


「はい。優しいのは分かります」


「少しだけ過保護です」


「少し?」


「……かなり?」


「はい」


 リリスは少し考えてから頷いた。


「かなりです」


 自覚はあるらしい。


 その日の放課後は、レオナルド先輩の登場ですっかり読書どころではなくなった。


 リリスは兄が来たことを嬉しそうにしていたが、同時に俺が困っていないか何度も確認してきた。


「アル、お兄様は怖くありませんでしたか?」


「少し圧はありました」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいです」


「お兄様は、私のことになると少し」


「かなり」


「かなり心配性です」


「はい」


「でも、悪い方ではありません」


「分かっています」


 俺はそう答えた。


 レオナルド先輩は確かに圧があった。


 だが、リリスを大切にしているのは伝わった。


 そして、俺の言葉も聞いてくれた。


 ガロウ公爵よりは理性的かもしれない。


 ……いや、別方向に面倒な気配はする。


 正門で別れる時、リリスは少し不安そうだった。


「アル」


「はい」


「お兄様のことで、嫌になっていませんか?」


「なっていません」


「本当ですか?」


「本当です」


「お父様も、お兄様も、少し圧が強いので」


「少し?」


「かなり」


「はい」


「でも、私はアルに会えて嬉しいです」


「俺もです」


 リリスの目が潤む。


 今日は図書棟でも中庭でも泣いていない。


 偉い。


「泣きますか?」


「今日は、馬車の中で少し」


「はい」


「でも、悲しくありません」


「分かっています」


「アルが、お兄様の前で私のことを一生懸命話してくださったのが嬉しかったのです」


「本心ですから」


「……っ」


「リリス?」


「今のは強いです」


「またですか」


「はい」


 俺は笑って、鞄からハンカチを一枚出した。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


「返してくださいね」


「はい。宝物にはしません」


「本当ですか?」


「……少しだけ、心の宝物にします」


「心ならまあ」


「はい」


 リリスは嬉しそうにハンカチを受け取った。


 馬車に乗る前、彼女は本を大切に抱え直し、俺を見た。


「アル」


「はい」


「本とも、お兄様とも、ちゃんとほどほどを考えます」


「お兄様とも?」


「お兄様も、少し距離が近いので」


「それは本当にそうです」


「フルーラ家の課題です」


「家単位になった」


 リリスは真剣だった。


 俺は笑ってしまった。


「では、また明日」


「はい。また明日、アル」


 馬車が遠ざかる。


 俺はそれを見送りながら、今日の出来事を思い返した。


 リリスの兄。


 レオナルド・フルーラ。


 完璧な貴公子。


 冷静なシスコン。


 ガロウ公爵とは違う圧。


 そして、フルーラ家の距離感。


 これは今後、間違いなく大変になる。


 だが不思議と、嫌な予感だけではなかった。


 あの兄も、たぶんリリスを大切にしている。


 なら、ちゃんと向き合えばいい。


 ツッコミながら。


 たぶん、かなりツッコミながら。


 その夜。


 屋敷に帰ると、父上が待っていた。


「今日はレオナルドに会ったそうだな」


「情報が早いですね」


「ガロウから届いた」


「もう!?」


 父上は一通の書状をひらひらさせた。


 俺は嫌な予感しかしなかった。


『レオナルドがアルフレッド殿を確認した。娘は嬉しそうだった。息子が「悪くはない」と言っている。腹立たしい。説明しろ。 ガロウ』


 俺は書状を読み、静かに目を閉じた。


 悪くはない。


 レオナルド先輩からの評価としては、たぶんかなり良い方だ。


 だがガロウ公爵、なぜ腹立たしいのか。


 父上は笑っていた。


「認められ始めたな、アルフレッド」


「そうなんですか?」


「レオナルドの『悪くはない』は、かなり褒めている」


「そうなんですね」


「ガロウが拗ねるのも分かる」


「拗ねているんですか、公爵様」


「娘に続き、息子までお前を認めかけているからな」


「俺、何か悪いことしました?」


「リリス嬢に好かれた」


「それは俺のせいだけではないです」


「だが責任は取れ」


「フルーラ家全員それですか!?」


 リーマスが静かに頷いた。


「若様、責任ある立場とはそういうものでございます」


「絶対違う意味が混ざっています」


 そのさらに少し後。


 フルーラ公爵家から、もう一通書状が届いた。


 今度は差出人が違った。


 レオナルド・フルーラ。


 俺宛て。


 封を開くと、端正な文字で短く書かれていた。


『本日確認した限り、君は妹を雑に扱う者ではないようだ。だが、泣かせた場合は僕にも報告するように。なお、本への挨拶については、妹が望むなら否定しすぎないように。 レオナルド・フルーラ』


 俺は書状を読んで、天井を見上げた。


 報告先が増えた。


 本への挨拶も肯定された。


 父上はまた笑った。


 ライズは親指を立てた。


 そして俺は、今日も心の底から叫んだ。


 公爵令嬢様!!


 お兄様まで!!


 距離感が近すぎます!!

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