第10話 公爵令嬢様、本にも嫉妬する
皆さん、こんにちは!!
アルフレッド・シェルザートです。
王立学園生活にも、少しずつ慣れてきました。
……少しずつです。
決して完全に慣れたわけではありません。
なぜなら、俺の周囲では毎日何かしら起きるからだ。
主にリリス関連で。
昨日は実技授業だった。
俺が木剣を握っていた。
リリスが応援してくれた。
拍手もしてくれた。
少し目立った。
王子殿下の視線もあった。
まあ、ここまでは分かる。
問題はその夜である。
フルーラ公爵家から届いたガロウ公爵の書状には、こう書かれていた。
『娘が「アルは守る剣です」と言っている。あと、木剣に嫉妬している。説明しろ。 ガロウ』
木剣に嫉妬。
木剣に。
木でできた剣に。
理由はおそらく、俺が木剣を握っていたからだろう。
たぶん。
いや、それ以外に理由が思いつかない。
木剣は何も悪くない。
授業で使われただけだ。
むしろ俺の実技を支えてくれた道具である。
なのに嫉妬される。
かわいそうな木剣。
そのうち学園の備品室から苦情が来るのではないか。
来ないな。
来たら怖い。
朝、父上はその書状を読んで腹を抱えて笑っていた。
「木剣に嫉妬とは、リリス嬢は発想が豊かだな」
「豊かで済みますか?」
「お前が握っていたからだろう」
「父上もそう思いますか」
「うむ」
「木剣ですよ?」
「リリス嬢にとっては、アルフレッドが長時間触れていた相手だ」
「相手扱いしないでください」
「しかもお前の手のほどほどを知っている」
「やめてください!!」
父上は笑った。
リーマスは横で静かに頷いた。
「若様、物にも立場というものがございます」
「リーマスまで何を言っているんだ」
「木剣は若様の手に握られる栄誉を得たのでございます」
「木剣に栄誉を与えないでくれ」
ライズは当然のように親指を立てた。
もう怒る気力もなかった。
そんなわけで、学園生活四日目。
今日は図書棟見学の日である。
王立学園の図書棟は、王都でも有数の蔵書量を誇るらしい。
歴史書、魔法理論書、騎士道、文学、詩集、地理、政治、法律、薬草学、礼法、古代語。
学生が利用できる範囲だけでもかなり広いという。
俺は本が好きだ。
剣術ほど日課というわけではないが、時間がある時は歴史や冒険譚、領地経営に関する本を読む。
だから図書棟は楽しみにしていた。
だが、当然のように問題がある。
リリスである。
リリスは以前から言っていた。
『アルが好きな本を知りたいです』
と。
それ自体は嬉しい。
俺の好きなものに興味を持ってくれるのは素直に嬉しい。
だが、リリスは時々、好意が独特な方向へ進む。
木剣に嫉妬した。
ならば、本はどうなる?
俺がよく読む本。
俺が触れる本。
俺が大切にする本。
……本にも嫉妬するのでは?
いや、まさか。
まさかね。
そう思っていた。
登校前までは。
学園へ向かう馬車の中で、ライズが一通の書状を差し出してきた。
「若様、フルーラ公爵家より今朝届いたものです」
「またか」
「はい」
「今度は何だ」
「旦那様が先に読まれ、非常に楽しそうでした」
「嫌な予感しかしない」
封を開く。
ガロウ公爵の文字。
『娘が「アルの好きな本に先に挨拶した方がよいでしょうか」と言っている。あと、「本はアルに触れられている」と呟いた。説明しろ。 ガロウ』
俺は馬車の中で天井を見上げた。
来た。
やっぱり来た。
本に対しても来た。
「若様」
「ライズ」
「はい」
「本に挨拶は必要か?」
「基本的には不要かと」
「そうだよな」
「ただし、大切な蔵書に敬意を払う意味で、丁寧に扱う心は大切です」
「そういう真面目な答えは求めていなかった」
「では、不要でございます」
「最初からそれでいい」
俺は書状を畳んだ。
本に嫉妬。
木剣の次は本。
このままだと、俺が持つ鞄や筆記具にも嫉妬するのではないか。
いや、筆記具はお揃いだから大丈夫か?
でも俺の手に握られている。
危ない。
物が多すぎる。
嫉妬対象が無限にある。
学園に着くと、リリスは正門前で待っていた。
今日も制服姿。
ブルーローズの髪飾り。
走らず歩いてくる姿も、だいぶ自然になってきた。
「アル、ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、リリス」
「今日も走りませんでした」
「はい。もう安心して見ていられます」
「……安心」
リリスの顔が少し赤くなる。
「アルに安心していただけるのは嬉しいです」
「朝から泣かないでくださいね」
「はい。今日は図書棟ですので」
「図書棟だと泣かないのですか?」
「本が濡れてしまいます」
「理由は正しい」
ミラが後ろで静かに頷いた。
どうやら今朝、同じような説明をしたのだろう。
「リリス」
「はい」
「本に挨拶はしなくても大丈夫です」
「……お父様から聞きましたか?」
「はい」
「そうですか」
リリスは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「アルの好きな本には、礼儀が必要かと思いまして」
「本は丁寧に扱えば大丈夫です」
「触れる前に一礼は?」
「不要です」
「心の中で」
「それなら止めません」
「では、心の中で」
止めないけど、するんだ。
本に心の中で一礼する公爵令嬢。
絵になるようで、やっぱり少し変だ。
教室へ向かうと、ユリウスとエレナ嬢がすでに来ていた。
「おはよう、アルフレッド」
「おはようございます」
「おはようございます、アマリリス様」
「ご機嫌よう」
ユリウスは俺を見るなり、にやりと笑った。
「今日は図書棟だね」
「ああ」
「アルフレッドは本を読む方?」
「それなりに」
「アマリリス様は?」
「私も読みます。礼法や歴史、詩集などを」
「公爵令嬢らしいですね」
ユリウスが感心したように言う。
リリスは静かに微笑んだ。
完璧な公爵令嬢の顔だ。
だが次の瞬間、俺をちらりと見た。
「今日は、アルの好きな本も知りたいです」
「また真っ直ぐですね」
「はい」
エレナ嬢が微笑んだ。
「好きな方の好きな本を知りたいなんて、とても素敵ですわ」
「はい」
リリスが素直に頷く。
「ただ、その本が少し羨ましくなるかもしれません」
「リリス」
「だって、アルに読まれているので」
「本です」
「はい。本です」
「分かってますか?」
「分かっています」
リリスは真剣だった。
ユリウスが横で吹き出しそうになっている。
エレナ嬢も口元を押さえている。
もう朝からこれだ。
今日も忙しい。
午前中の座学を終え、昼前に図書棟見学が始まった。
一年一組は担任のマクレイン先生に連れられ、教室棟から渡り廊下を通って図書棟へ向かう。
王立学園の図書棟は、想像以上に立派だった。
白い石造りの本館とは少し違い、落ち着いた灰色の石と濃い木材でできた建物。
大きな窓から柔らかな光が差し込み、入口の上には古い文字で「知は剣より深く、盾より広し」と刻まれている。
いい言葉だ。
少し格好いい。
中に入ると、紙と革と古い木の匂いがした。
高い天井。
壁一面の本棚。
吹き抜けの二階。
静かな空気。
足音さえ自然と小さくなる。
生徒たちから小さな感嘆の声が漏れた。
「すごい……」
「こんなに本が」
「さすが王立学園」
リリスも目を輝かせていた。
「綺麗です」
「本当に」
俺も素直に感動した。
図書棟はただ本が多いだけではない。
本を読むための机も整えられ、窓際には一人用の読書席、奥にはグループで調べものをするための大きな机もある。
階段の手すりには細かな彫刻が施され、古い魔法灯が柔らかく灯っていた。
マクレイン先生が説明する。
「ここが王立学園図書棟です。生徒は許可された区画を自由に利用できます。ただし、禁書区画、研究区画、上級論文庫には許可なく入らないこと」
先生の声も普段より少し小さい。
図書棟の静けさに合わせているのだろう。
「本は共有財産です。丁寧に扱いなさい。借りる時は必ず司書に手続きをすること。返却期限を守ること」
リリスが真剣に頷いている。
本に対する礼儀を学んでいる。
よし。
変な方向へ行かないでくれ。
先生は続けた。
「今日は館内を簡単に見学したあと、短時間ですが自由に本を見ても構いません」
その瞬間、リリスが俺を見た。
早い。
まだ先生が話している。
俺は小さく前を向くよう視線で促した。
リリスははっとして前を向いた。
偉い。
図書棟の案内が始まった。
歴史書区画。
地理区画。
魔法理論。
文学。
詩集。
騎士道。
礼法。
法律。
リリスは礼法と詩集の棚で少し足を止めた。
俺は歴史書と騎士道の棚に目が行く。
ユリウスは冒険譚の棚を見て楽しそうにしていた。
エレナ嬢は薬草学の本に興味があるらしい。
それぞれの好みが出て面白い。
案内が終わり、自由時間になった。
生徒たちは思い思いに棚へ向かう。
ただし、図書棟なので声は小さい。
リリスが俺の隣に来た。
近い。
でも図書棟なので少し控えめ。
たぶん「図書棟のほどほど」だ。
「アル」
「はい」
「どの本がお好きですか?」
「そうですね……歴史書や騎士道、それから領地経営に関するものを読むことが多いです」
「領地経営」
「将来のために」
「アルは真面目です」
「リリスほどではありません」
「私は、アルのことになると真面目です」
「そこ限定ですか」
「もちろん他も真面目です」
リリスは少し慌てたように言った。
可愛い。
「おすすめの本はありますか?」
「初めてなら、これなど読みやすいと思います」
俺は棚から一冊の本を取った。
王国の成り立ちを分かりやすくまとめた歴史書だ。
学生向けなので、難しすぎない。
リリスはその本をじっと見た。
「アルが触れた本」
「リリス」
「はい」
「本です」
「分かっています」
「今、少し目が本に向いていました」
「はい」
「嫉妬では?」
「……少しだけ」
「本に?」
「アルが手に取ったので」
「本です」
「分かっています」
「分かっていない気がします」
リリスは頬を赤くして俯いた。
「おかしいでしょうか」
「少し」
「少し」
「でも、可愛いと思います」
「……っ」
リリスが本を見たまま固まった。
目が潤む。
まずい。
図書棟だ。
「リリス」
「はい」
「本が濡れます」
「泣きません」
「偉いです」
「褒めないでください。泣きそうです」
「難しい」
近くにいたユリウスが小声で笑った。
「図書棟でも変わらないね、君たち」
「静かにしてください」
「ごめんごめん」
エレナ嬢も近づいてきた。
「アマリリス様、歴史書を?」
「はい。アルのおすすめです」
「まあ、素敵ですわ」
「アルが好きな本を、私も読んでみたいのです」
「それはよいことですわね」
エレナ嬢は微笑み、俺を見る。
「アルフレッド様、私にも何かおすすめはありますか?」
普通の質問だった。
普通のはずだった。
だが、リリスの空気が少し変わった。
すっと俺に近づく。
近い。
図書棟のほどほどを超えた。
「リリス」
「はい」
「近いです」
「エレナ様にも、アルがおすすめを」
「本の話です」
「分かっています」
「分かってますか?」
「分かっています。でも、少しだけ胸がきゅっとしました」
素直。
あまりにも素直。
エレナ嬢が目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「アマリリス様、ご安心ください。私は本をおすすめしていただきたいだけですわ」
「はい。分かっています」
「アルフレッド様を取ったりいたしません」
「……はい」
「約束します」
「ありがとうございます」
リリスはほっとしたように頷いた。
前にも似たやり取りがあった。
エレナ嬢、慣れてきている。
申し訳ない。
「エレナ嬢は薬草学に興味が?」
俺が尋ねると、エレナ嬢は頷いた。
「はい。家に病弱な妹がおりますので、少し学びたいのです」
「でしたら、薬草学の入門書があちらに」
「ありがとうございます」
俺は棚の場所を指し示した。
リリスは少しだけ俺の袖を見ていた。
袖?
「リリス?」
「今、アルが手で示したので」
「指差しにも嫉妬しないでください」
「嫉妬ではありません」
「では何ですか」
「観察です」
「研究に戻った」
ユリウスが肩を震わせている。
図書棟だから笑い声を抑えているのだろう。
我慢している顔が面白い。
その後、俺たちはそれぞれ一冊ずつ本を選び、窓際の閲覧席に座ることになった。
四人掛けの机。
配置が問題だ。
リリスは真剣に机を見ていた。
「アル」
「はい」
「図書棟の読書時のほどほどです」
「やはり来ましたね」
「はい」
「向かい合うと、本を読む時に視線が合いすぎます」
「そうですね」
「隣だと近すぎますか?」
「図書棟では少し」
「では、斜め向かい」
「良いと思います」
「教室と同じです」
「斜め向かい、便利ですね」
「はい」
結局、俺とリリスは斜め向かいに座った。
ユリウスは俺の隣。
エレナ嬢はリリスの隣。
リリスは俺のおすすめした歴史書を開く。
俺は騎士道に関する本。
しばらく静かな時間が流れた。
紙をめくる音。
窓の外で揺れる木々。
遠くの棚で誰かが本を戻す音。
図書棟の空気は、教室や食堂とは違う落ち着きがあった。
俺は本を読みながら、時々リリスを見た。
彼女は真剣に読んでいる。
青い瞳が文字を追い、時々小さく頷く。
公爵令嬢として学ぶ姿は、本当に美しい。
だが、ページをめくるたびに、彼女は少し本を撫でるように触れていた。
……本に敬意を払っているのか?
それとも本と和解しているのか?
聞くのが怖い。
しばらくして、リリスが顔を上げた。
「アル」
「はい」
「この本、とても分かりやすいです」
「よかったです」
「アルは、こういう本を読んでいたのですね」
「はい」
「アルの考えていることに、少し近づけた気がします」
その言葉は静かだった。
俺は少し驚く。
リリスは本を見つめ、柔らかく言った。
「本に少し嫉妬しました」
「はい」
「でも、本はアルを知る手がかりでもあるのですね」
「そうかもしれません」
「では、仲良くします」
「本と?」
「はい」
「本と仲良く」
「アルを知るためです」
俺は思わず笑った。
変だけど、リリスらしい。
「本も喜ぶと思います」
「本当ですか?」
「たぶん」
「では、よかったです」
リリスはほっとしたように笑った。
その笑顔があまりにも素直で、胸が温かくなる。
ユリウスが小声で言った。
「本と和解した公爵令嬢」
「やめてください」
「でも、いい話だった」
「否定できないのが悔しいです」
図書棟見学が終わりに近づいた頃、俺は借りたい本を一冊選んだ。
騎士道と領地守備に関する本だ。
リリスは俺のおすすめした歴史書を借りることにした。
司書のところで手続きをする。
司書は穏やかな老婦人だった。
「初めての貸し出しですね。返却期限は二週間後です」
「承知しました」
「大切に扱ってくださいね」
「はい」
リリスも本を差し出す。
司書はリリスの名前を確認し、にこりと微笑んだ。
「フルーラ公爵令嬢ですね」
「はい」
「この本は良い本ですよ。初めて王国史を読む方にも分かりやすい」
「アルがすすめてくださいました」
「まあ」
司書の目が少し楽しそうになる。
「それは素敵ですね」
「はい。大切に読みます」
「本も喜ぶでしょう」
司書さん!!
その言い方はリリスに刺さる!!
リリスの目が輝いた。
「本も、喜びますか?」
「ええ。丁寧に読まれる本は幸せですよ」
「……はい」
リリスは本を両手で抱えた。
とても大切そうに。
その姿は可愛かった。
ただ、本に嫉妬していたのに、今度は本を抱きしめている。
感情の移り変わりが忙しい。
図書棟を出た後、昼食のため食堂へ向かった。
道中、リリスは借りた本を大切そうに抱えている。
俺が隣を歩いていると、彼女が小さく言った。
「アル」
「はい」
「本を抱えていると、アルに近づきにくいです」
「良いことでは?」
「でも、少し寂しいです」
「本と和解したばかりですよね」
「はい。本は大切です」
「では、本を大切に」
「でも、アルも大切です」
「ありがとうございます」
「両方大切にするには、どうすれば」
「普通に歩けばいいと思います」
リリスは真剣に考えていた。
やがて、本を片腕で抱え、もう片方の手を空けた。
「これなら、非常時にアルの袖を掴めます」
「非常時とは」
「アルが遠くに行きそうな時です」
「それは非常時ではありません」
「私には非常時です」
「重い」
「少し軽くします」
「どうやって?」
「アルが遠くに行きそうな気配がした時」
「気配で袖を掴まないでください」
ユリウスとエレナ嬢が後ろで笑っていた。
完全に日常になっている。
食堂では、今日は比較的落ち着いて昼食を取ることができた。
小皿事件の反省が生きている。
リリスは俺の料理をじっと見ることはあったが、「今日は自分の分をきちんと食べます」と宣言した。
偉い。
ただし、俺がスープを飲むと「アルは温かいものがお好き」と小さくメモしようとした。
メモするな。
食後、午後の授業まで少し時間があったため、俺たちは中庭を歩くことにした。
中庭には噴水があり、その周囲に花壇とベンチがある。
生徒たちが思い思いに過ごしていた。
上級生らしき者たちは余裕があり、新入生はまだ少し緊張している。
リリスは本を抱えたまま、俺の隣を歩いている。
距離はほどほど。
ただし、本の分だけ少し遠い。
すると、リリスがぽつりと言った。
「本があると、アルとの距離が遠くなります」
「本の厚み程度です」
「本一冊分の距離」
「新しい基準を作らないでください」
「本一冊分は、少し寂しいです」
「でも、図書棟では良い距離かもしれません」
「図書棟のほどほど」
「そうです」
リリスは真剣に頷いた。
「では、本一冊分は図書棟のほどほどにします」
「本当に基準になった」
その時だった。
中庭の向こう側から、ざわめきが起きた。
見ると、第一王子エドワード殿下が数人の生徒と歩いている。
昨日の食堂に続き、今日も視界に入った。
王子はこちらに気づいた。
一瞬、視線が合う。
俺は軽く礼をした。
リリスも公爵令嬢として礼をする。
王子は微笑んだ。
整った、王族らしい笑み。
そして、こちらへ歩いてきた。
来るのか。
来るんですね。
ユリウスの表情が少しだけ引き締まる。
エレナ嬢も緊張している。
リリスは本を抱える手に力を込めた。
俺は小声で言った。
「リリス」
「はい」
「大丈夫です」
「……はい」
王子は俺たちの前で足を止めた。
「アマリリス嬢、入学おめでとう」
声は穏やかだった。
「ありがとうございます、エドワード殿下」
リリスは完璧な礼をする。
「シェルザート伯爵子息も」
「ありがとうございます、殿下」
俺も礼を返す。
王子の視線が俺を見た。
探るような目。
だが、敵意を露骨に出しているわけではない。
「学園生活には慣れたかな」
「まだ数日ですので、学ぶことばかりです」
「そうか」
王子は微笑む。
「アマリリス嬢は、図書棟を利用したのかい?」
「はい」
「何を借りたのかな」
リリスは抱えている本を少しだけ示した。
「王国史の入門書です。アルがすすめてくださいました」
言った。
自然に言った。
王子の目が一瞬だけ細くなる。
俺の名前を愛称で呼んだことにも気づいただろう。
「アル、か」
王子が小さく言った。
空気が少し重くなる。
リリスは静かに俺の隣に寄った。
本一冊分の距離が消えた。
近い。
だが、今は仕方ない。
俺も動かなかった。
「婚約者ですので」
リリスが言った。
いつもの言葉。
だが今日は、少し硬い。
王子は笑みを保ったまま、俺を見る。
「仲が良いようで何よりだ」
「ありがとうございます」
俺は落ち着いて答えた。
内心は少し緊張している。
だが、ここで動揺すればリリスも不安になる。
王子はそれ以上何も言わず、軽く頷いた。
「では、学園で良き時間を」
「殿下も」
王子は取り巻きと共に去っていった。
ざわめきが少し残る。
リリスは息を吐いた。
指先が震えている。
「リリス」
「はい」
「大丈夫ですか?」
「……少し、緊張しました」
「俺もです」
「アルも?」
「はい」
俺が素直に言うと、リリスは少し驚いた顔をした。
「でも、落ち着いて見えました」
「格好つけました」
「……」
「リリスが不安そうだったので」
リリスの目が潤む。
「アル」
「はい」
「今のは、かなり強いです」
「嬉しさが?」
「はい」
「泣かないでください。中庭です」
「我慢します」
リリスは本をぎゅっと抱えた。
「本が濡れてしまいますので」
「その理由でもいいです」
ユリウスが小さく息を吐いた。
「王子殿下、やっぱり気にしているね」
「そうですね」
「でも、今の対応は悪くなかったと思うよ」
「ありがとうございます」
エレナ嬢も頷いた。
「アマリリス様も、とても立派でした」
「ありがとうございます」
リリスは少し落ち着いたようだった。
だが、その距離はまだ近い。
本一冊分は消えたままだ。
「リリス」
「はい」
「今、距離が近いです」
「……今は」
「はい」
「少しだけ、このままでもよろしいですか?」
不安そうな声。
俺は頷いた。
「少しだけなら」
「ありがとうございます」
リリスはほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
距離感には、きっと理由がある。
甘えたい時。
嬉しい時。
不安な時。
周囲の目を忘れて近づくこともある。
でも、今日の近さは、不安を落ち着かせるためのものだった。
なら、少しだけ受け止めたい。
そう思った。
午後の授業を終え、放課後。
リリスは借りた本を鞄にしまいながら、少し嬉しそうだった。
「アル」
「はい」
「今日、帰ったらこの本を読みます」
「はい」
「読み終わったら、感想をお伝えしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「たくさん話してしまうかもしれません」
「楽しみにしています」
「……っ」
リリスが固まる。
「楽しみに」
「はい」
「アルが、私の感想を」
「楽しみにしています」
「……今日は泣きません」
「まだ言ってませんよ」
「先に宣言します」
「なるほど」
彼女は深呼吸をした。
「本も、アルも、大切にします」
「本と並びましたね」
「どちらも大切です」
「光栄です」
「でも、アルの方が大切です」
「張り合わなくていいです」
リリスは真剣だった。
俺は笑ってしまった。
正門で別れる時、リリスは鞄を大切そうに抱えていた。
中には俺のすすめた本が入っている。
「アル」
「はい」
「今日、図書棟でアルの好きなものを少し知れて嬉しかったです」
「俺も、リリスが本を大切にしてくれて嬉しかったです」
「本と仲良くします」
「はい」
「でも、本にアルを取られないようにします」
「どういう意味ですか」
「アルが本に夢中になりすぎたら、私が声をかけます」
「ほどほどにお願いします」
「はい。図書棟のほどほどで」
「本一冊分ですね」
「はい」
二人で少し笑った。
リリスは馬車に乗り込み、窓から手を振った。
俺も振り返す。
今日も一日が終わる。
図書棟。
本への嫉妬。
王子との会話。
不安な距離。
そして、本一冊分のほどほど。
また新しい基準が増えた。
帰宅すると、父上が待っていた。
「今日は図書棟だったな」
「はい」
「どうだった?」
「リリスが本と和解しました」
「何を言っているんだ?」
「俺にも分かりません」
父上はしばらく黙り、やがて笑い出した。
その夜。
やはりフルーラ公爵家から書状が届いた。
差出人はガロウ公爵。
『娘が借りた本に「アルを少し貸してください」と言っている。あと、「本一冊分の距離」が増えた。説明しろ。 ガロウ』
俺は書状を読み、静かに天井を見上げた。
本に交渉するな。
アルを貸すって何だ。
父上は腹を抱えて笑った。
リーマスは「交渉は貴族の基本でございます」と頷いた。
ライズは親指を立てた。
俺は深く息を吸い、今日も心の底から叫んだ。
公爵令嬢様!!
本にも嫉妬するのは!!
さすがに距離感が近すぎます!!




