8 闇の力
「ふぅ……」
アリシアは、ロニー自ら湯を汲んできた浴槽の中に身を沈め、小さく息を漏らした。
きっと彼は明日、筋肉痛だろう。いつもなら見廻りの兵士を洗脳して風呂の用意をさせるのだが、巡回までにはまだ時間がある。
朝になれば洗脳は解け、この夜の出来事は忘れてしまう。だから、ロニーは自分の身体の痛みの原因がわからないはずだ。なぜだろうか……と、しきりに首を捻る彼の姿を想像するだけで、アリシアはたまらなく愉快な気分になった。
身体が十分に温まってから、アリシアは大理石の浴槽の縁に置かれている薔薇の香りの石鹼に手を伸ばす。
「そろそろ新しい石鹼を持ってこさせないと……」
白い塊が小さくなっているのに気づき、あとでロニーに命じようと心に留める。
この石鹸はアリシアのお気に入りだ。薔薇水と貴重な精油で練り上げられた高級品で、ほわんと甘く華やかな香りがする。王宮の貴族たちが数回しか使わずに廃棄される物を、アリシアはロニーたちに命じて、誰かに下げ渡される前にかすめ取っていた。
今の彼女は、もう何かを与えられるのを待つだけの女ではない。歯向かう者は闇の力で痛めつけ、欲しいものがあれば洗脳し命令すればよいのだ。
モコモコの泡を手で滑らせ身体を洗いながら、アリシアはこの力を手に入れた日のことを思い出していた。
ダリアンが去ったあとに再び一人になったアリシアは、男爵夫人がいた頃の生活に戻った。
冷めたスープに黒パンの質素な食事、サイズの合わないボロボロのワンピース、頭から水を被るだけのバスタイム。食事を運んでくる神官見習いは、いずれも十四歳前後の少年たちで、二年もすると新しい食事係に入れ替わる。
信心深い者、神官よりも上の副神官長を目指す野心家、家を継げない貴族令息……いろいろな少年がいた。当時はロニーのように意地悪をしようとする者はおらず、まだ子どもだったアリシアに対する彼らの態度は一様に『放置』であった。
呪い子を殺してはならないという自分たちの教義ゆえに、死なない程度の施しを与えるのみ……。
幸い、孤独には慣れている。ダリアンに裏切られた痛みに比べたら、これくらいどうということもなかった。ただ、時が過ぎ去るのを待てばいい。
そう、今までのように――。
そうして流されるままに迎えた四度目の冬のことだった。
ある日の夜、蝋燭のない離宮が真っ暗な闇に沈む『神の蝕』の時間……玄関扉の外鍵を荒々しく開けて部屋に侵入してきた者がいた。離宮を警護している巡回の若い兵士である。
彼は、王太子の身の回りの世話をする侍従の弟だった。日頃から兄を通じて「呪い子のせいで殿下が御心を痛めておられる」という愚痴を耳にしており、王太子への忠誠心から、いつか呪い子の王女を亡き者にしようと虎視眈々と機会を窺っていたのだ。
迷いのない足取りからは、王命に逆らってでも……という兵士の覚悟が見て取れる。
ベッドから身を起こしたアリシアは、凄まじい殺気に震えあがり動くことができなかった。
「呪い子め……貴女さえいなければ、ヨアキム殿下は苦しまずに済むのだ。我が主の憂いを断つため、ここで死んでいただく!」
屈強な兵士の腰から、長剣が一気に引き抜かれた。シャリン、と硬質な金属音とともに、剥き出しになった刃先が暗闇に白く浮かび上がり、アリシアの頭上へ大きく振り下ろされる。
「いやぁぁぁ……!」
アリシアは恐怖に身を固くし、ぎゅっと目を瞑った。
死にたくない……!
そう願った瞬間、噴出するマグマのような熱さが全身を突き抜けていく。
一瞬、斬られたのかと思った。だが、痛みはやってこない。
こわごわとアリシアが目を開けると、そこには闇よりも濃い漆黒の触手が、振り下ろされた刃をすんでのところで受け止めていた。そして、もう一本の触手が、剣を握る兵士の腕を巻きつけて自由を奪う。
「な、何なんだっ……これは……!?」
兵士は取り乱し、驚愕の表情でアリシアを見た。
だが、驚いているのはアリシアも同じだ。これは本当に自分がやったのだろうか? この身に一体何が起きたというのか。確かなのは、湧き出るように全身に満ちていく、不思議な力の感覚だけ……。
アリシアは、ただ困惑のままに兵士を見つめ返していた。彼女の赤い瞳が、見る者を捉えて離さない妖光を放つ。
その妖光に射すくめられ、兵士の身体が脱力した。さっきまでの滾る殺意は霧散し、同時に触手の拘束から解き放たれる。
ふらりとした足取りで前へと歩み寄る彼に、アリシアは思わず身構えた。しかし、兵士は恍惚の笑みを浮かべると、その場に膝を突き深々と頭を垂れたのだ。
「この身、この魂のすべてを貴女様に捧ぐ。なんなりと御命令を、我が永遠の主よ……」
兵士は、呆然とするアリシアの片手をそっと両手で挟み込む。それは、騎士が自ら定めた主君へと捧げる、厳かな忠誠の誓いだった。
彼は、じっと頭を垂れたままアリシアの言葉を待つ。部屋に二人の息づかいだけが聞こえる。
長い沈黙の末に、彼女の乾いた唇から零れたのは、あまりにも他愛ない、けれど心からの欲求だった。
「温かな、スープが飲みたい……」
「仰せのままに」
これが、アリシアに宿る闇の力の目覚めだった。
**
浴槽から上がったアリシアは、着心地のよい黄色いチュニックドレスに着替えた。
昼はサイズの合わない古ぼけた麻の服を着ているけれど、夜は小奇麗な綿のドレスを身に纏っているのだ。もちろん、これも命令して調達させたものである。朝になれば、またボロの服に着替えなければならないのだが……。
如何せん、闇の力の効力は夜だけなのである。
冬は『神の蝕』の暗闇、春から秋は白夜の赤紫の薄闇。闇が深い冬の方が、力は強い。
洗脳も毎晩やり直さねばならず不便だが、白夜の異変により段々と闇が深く長くなっているため、アリシアが力を振るえる時間も伸びてきている。
アリシアが部屋へ戻ると、テーブルの上には『ヴァルカ城の秘密』の四巻と豪華な料理の数々が並んでいた。
ふんわりとした白パンに、甘酸っぱいベリーソースのかかった鴨肉のロースト、彩り豊かな温野菜のマリネ、さらには極厚のローストビーフまである。デザートは、艶やかに煮詰められた洋梨のコンポート。
美味しそう……。
朝から碌な食事をしていないので、お腹はペコペコだ。
席に座るとちょうどそこへ、ロニーが湯気を立てるスープを運んできて、アリシアの前にコトリと皿を置く。
早速、アリシアは銀のスプーンを手に取り、金色に澄んだコンソメスープをすくう。
「ずいぶん豪華ね。どこからこんな料理をくすねてきたの?」
虚ろな目で部屋の隅に控えるロニーに問いかける。ロニーはアリシアの言葉にすぐさま反応し、直立不動のまま抑揚のない口調で答え始めた。
「今夜、王宮で大がかりな晩餐会がありまして。厨房で手つかずの残りを譲ってもらったのです」
「へぇ……ちょうどいいわ。日持ちのするお菓子があったら運んでおいて。そうね、パウンドケーキかクッキーがいいわ」
「チーズ入りのケーキがありましたので、あとでお持ちします」
ケーキは明日のおやつにしよう。
アリシアは満足げに微笑み、特製ソースのローストビーフを口に運ぶ。噛むたびに肉汁の旨味が口いっぱいに広がっていく。
「そういえば、今日はどうして食事を持ってくるのが遅かったの? 夕食はともかく、朝と昼は、せいぜい遅れると言っても一、二時間だったじゃない」
優雅に食事を続けながら、何気ない口調で尋ねる。
夕食を運ぶ十八時は王家の礼拝と時間が被るため、片付けなどの雑用をこなす彼らはそちらを優先していた。真面目なエッペはともかく、サボり癖のあるマルクとアリシアに意地悪なロニーは、今日のように二十二時を超えることが度々あるのだ。
「礼拝堂の勤めが、忙しかったからです」
「またその言い訳? 聞き飽きたわ」
「いえ……このところ、貴族たちの祈りの時間が増えたのです。皆、白夜の異変を恐れ、ひっきりなしに礼拝堂を訪れています。今や、昼餐会や夜会の前後にも祈りを捧げるようになり、我々見習いは、その準備や片付けに追われ、他の仕事に手が回らない状態です」
「そう……そんなに……」
夜の闇を恐れているのだ――。
その闇こそがアリシアにとって、力を与えてくれる恩恵であった。
――アリシア様は、ただこの世界に生まれてこられただけです。
ダリアンはそう言ったけれども、やはり自分は聖典にある暗黒神なのではないかとアリシアは思う。
きっとそうだ。
三百年に一度、復活し、世界に極夜をもたらす者。
「ロニー、少し散歩して来るわ。食器を片付けて、部屋の掃除をしておきなさい」
「御意の、ままに……」
食事を終えたアリシアは、ナプキンで口元を拭い裏庭へと出ていく。
薄紅、赤紫、紫のグラデーションが空を染めている。午前零時を過ぎれば、夜はもっと濃くなるだろう。
「なんて、美しいの……」
アリシアは薄闇の空を見上げ、陶酔するかのように赤い目を細めた。




