9 衰えゆく太陽
季節は移ろい、太陽の光は、日々衰えていく。
今年の夏から秋にかけて夜は急速に勢いを増し、秋が深まる今では、昼の陽射しは三時間ほどになっていた。そのため、一日のほとんどを濃淡の赤紫が空を覆い、辺りは薄暗い。
つまりその間、アリシアは自由に闇の力を使えるということである。力も、以前よりずっと強くなった。
もうすぐ冬。『神の蝕』が始まる頃、アリシアは十六歳になる。
「――本当に、お美しい肌でございますね。お湯を弾くほどに瑞々しく、白磁のように滑らかで透き通るような白さですわ」
「そう? ありがと」
薔薇の花びらが浮かぶ大理石の浴槽で、アリシアはうっとりと目を細めていた。
その後ろではメイドが、アリシアの長い黒髪を洗っている。お気に入りの薔薇の石鹼をたっぷりと泡立て、頭皮を心地よく刺激する手わざは、さすが王宮に仕える身だけあって洗練されていた。
浴槽の縁に置いた銀のトレイには、冷たい葡萄ジュース入りのゴブレットが用意されている。
アリシアは湯船から白い腕を伸ばし、白磁のゴブレットに口をつけ喉を潤す。
今の彼女は、ほんの少し目を合わせるだけで、相手を簡単に洗脳できる。
最初は退屈しのぎに、散歩がてら使用人たちが働く王宮の別棟の方へ足を伸ばしてみただけだった。すると、一瞬目が合っただけで、いともたやすく彼らを自分の意のままに跪かせることができたのである。
いつのまにか離宮には、アリシアに洗脳された料理長やメイドたちが出入りするようになっていた。
新しく彼女の世話を焼く者が増えた一方で、ロニー、エッペ、マルクの三人に任せる仕事は減った。別にいなくても困らないが、彼らは大神官フェルトの当初からの命令により、一日三回の食事だけは運んでくる。
「お……遅くなって、申し訳、ありません……」
今夜も時計の針が二十二時をとうに過ぎた頃、ようやくエッペが現れた。
いつものように冷めきったスープのトレイを持ち、ビクビク怯えながら部屋に入ってきた彼は、ポカンと目を見開く。
「え……?」
目の前の光景が信じられないようだ。
ランプが灯された明るい室内で、湯浴みを終えたばかりのアリシアは、いつものボロ服ではなく着心地のよい綿のドレスに身を包み、安楽椅子にゆったり腰掛けていた。ふわりと香るのは、高価な薔薇油。
そして、本来ここにいるはずのない王宮メイドたちが、彼女の濡れた髪を綿の布で甲斐甲斐しく拭いているのだ。
驚きのあまり、俯いていた顔を上げてこちらを凝視しているエッペに、アリシアは淡々と問いかけた。
「相変わらず忙しいの?」
「え? あ、はいっ……」
我に返ったエッペは弾かれたように返事をし、食事のトレイを持ったまま、再びビクビクと顔を俯かせてから本宮の様子を話し始める。
「い、一日のほとんどが、赤紫の薄闇に覆われてしまったので 、本宮の貴族様たちが、すごく動揺されているんです。『世界の終わりが近づいているのではないか』って、縋るように連日連夜、王宮礼拝堂に詰めかけては、神官たちに泣きついて祈りを捧げておられて……」
「そんな騒ぎになってるの?」
「は、はい。なかには多額の献金までして、神の許しを請う大貴族の方もいて、僕たちはその対応や礼拝の準備で、もう何日もまともに眠ってません。各教区からの報告によると、ハヴィルンドの民の間にも、このまま太陽が消えて夜が明けなくなったらどうなるのかと、不安が広がっているようでして」
そう言いながら、怖がりなエッペはすっかり震えあがっている。よく見ると、その目の下に隈ができており、寝不足は嘘ではないようだ。
「もう下がっていいわ。これから食事のことは料理長にやってもらうから、あなたたちは無理してこなくてもいいわよ」
「え……? で、でも、料理長がそんな……」
王宮の厨房を司る料理長は、ただの上級使用人ではない。王族や来賓の食の好みを把握し、毒殺防止を徹底するだけの管理能力、食材仕入れの特権まで持っている。王宮の者たちは嗜好と安全面、二つの意味で胃袋を掴まれているのだ。貴族とも対等に話す彼が、呪い子の食事の世話をするはずがなかった。
「――エッペ」
アリシアが、凛とした声で彼の名前を呼んだ。
ハッとするようにアリシアの顔を見たエッペの瞳を、彼女は逃がさず真っ直ぐに射すくめる。
「この離宮で見たことは、すべて忘れるのよ」
「あ……」
赤い眼光と視線が交わり、エッペのグレーの瞳の光が消えた。トレイをテーブルに置き、ゆっくりと一礼する。
「失礼、いたします……」
これでエッペは、今見たばかりの贅沢な生活も、自分が何を話したかも覚えていないだろう。だが、陽が昇れば洗脳は解け、アリシアの善意などなかったかのように、また食事を届けにやって来るのだ。
「面倒くさいわね……」
「何かおっしゃいましたか?」
アリシアの呟きに、髪を拭いていたメイドの一人が反応する。
「なんでもないわ。それ、食べていいわよ」
アリシアが銀のトレイを顎でしゃくると、メイドは素直にスープを口に入れた。
「なんだか、犬の餌みたいな味ですわねぇ……」
顔をしかめ、いかにも不味そうな顔をするメイド見て、アリシアはクスッと笑う。やがて髪を拭き終えると、離宮の奥にある一室へと足を向けた。
そこには数人のお針子たちが一心不乱に作業を続けている。
彼女たちもまた、王宮の西棟にある仕立て場から、アリシアに洗脳されて連れてこられた者たちだった。
シャッ、シャッ、と小気味よく上質な生地を突き抜ける規則正しい針の音だけが、静まり返った部屋に響く。
お針子たちの手元には、最高級の絹や柔らかな綿のほかに、なめらかなベルベッドが広げられていた。これらの布で、アリシアのためだけのドレスや寝衣が何着も仕立てられている最中なのだ。
特にベルベッドのショールは、夜が長くなるにつれ涼しい日が多くなったため、最近、貴婦人たちに人気のアイテムである。
「……本当に見事な腕前ね」
アリシアはトルソーにかけられた、仕上がりつつあるひときわ豪華なベルベッドのドレスにそっと触れた。
それは『神の蝕』の闇のなかでも映えるであろう、鮮やかな深紅のドレスだった。胸元や袖口には、きらびやかな極細の金糸で、緻密な蔓薔薇の刺繍が施されている。
ハヴィルンド王国において衣服に用いる刺繍の糸は、銀糸は大神官、金糸は国王のみにしか許されていない。
本来であれば不敬罪で捕まってもおかしくない代物だが、洗脳された無表情のお針子たちは、アリシアのために一針一針、丁寧に縫い上げている。
仕上がりが楽しみだ。
「これを着て、いつか……」
ベルベットに指を滑らせながらアリシアは、めずらしく相好を崩した。普段、大人びて見える顔も、このときばかりは、年頃の少女らしい無垢さが表れる。
仕立て途中の美しいドレスに満足したアリシアは、お針子たちにそのまま作業を続けさせ、自分の部屋へと戻った。
新しいスープを誰かに持って来させようかと考えていると、タイミングを見計らったかのように、シミ一つない真っ白な調理着に身を包んだ恰幅の良い男が姿を現す。
王宮の厨房を統括する料理長だ。
四十半ばの働き盛りの彼は、何事にもどっしりと鷹揚に構えていて顔も厳ついため、すご味がある。しかし、銀のトレイをアリシアの前に置くと、ニカッと口の端を持ち上げ笑顔を見せた。
「姫さん、お腹空いたろう。さっき回廊でトレイを持ったエッペのやつを見かけたから、どうせろくなものを用意してないだろうと思って、いろいろ持ってきたぜ」
料理長がトレイの覆いを取ると、ニンジンのポタージュに、コケモモのジャムを添えたパンケーキ。さらにハーブソーセージのソテー、冷製の燻製肉、洋梨の砂糖漬けが載った小皿が並び、隣には蜂蜜入りのホットミルクまで用意されていた。
「ちゃんと食べろよ。そんな細っこい身体じゃ、将来、子どもが産めないぞ」
そう言って、持ってきた夜食を手際よくテーブルへ並べる。
この男を洗脳したのは今日の午後、昼の陽射しが陰った直後のことなので、明日の同じ時間まで洗脳は解けないはずだ。
「美味しそうね。この調子で朝食も期待してるわ」
「姫さんのためだ、任せとけ」
料理長は請け合った。
大丈夫、ちゃんとかかっている。正気のときと、ほとんど態度が変わらないから、見分けがつきにくいだけ。
彼が退出してから、アリシアはゆっくりとパンケーキを切り分け口へと運ぶ。
食べ終わったら、何をしようか。
メイドたちとカードゲーム? それとも……。
そのゲームがどれだけ楽しかったとしても、料理長がどんなにアリシアの体調を気遣っても、また明日、陽の光が差せば、皆今日のことは忘れてしまう。だが、それでいいのだ。
アリシアは、誰も信じない。ただ彼らが自分の思いどおりに動く人形でありさえすれば、他はどうでもいいのだった。




