二章 7 冷たいスープ
ダリアンが去ってから八年――。
今も、アリシアはたった一人で離宮に住んでいる。
窓に嵌められた鉄格子、玄関扉には外鍵。日に三回、三人の神官見習いが交代で食事を運んでくるほかは、見廻りの兵士が外から様子を窺うだけだ。
朝六時の鐘が鳴っても起こしに来る者は、もう、いない。
「ふわわぁ~ん」
明け方に寝ついたアリシアは、大きなあくびをしてベッドから起き上がった。サイドテーブルに置いてある銀の懐中時計で時刻を確認した直後、顔をしかめる。
この懐中時計は、ダリアンが使っていた机の引き出しの奥に取り残されていたものだ。かなり古い、太陽の意匠が彫られた蓋に細かな傷がいくつもついているそれを、彼女はずいぶんあとになってから見つけたのだった。
もうすぐ午前十時になるのに、朝食はまだ届いていない。呪い子への嫌がらせはいつものことで、食事が時間通りに運ばれてくることなど滅多にないのだが、今日は特に遅れている。
「またなの……」
どうせ文句を言ったところで、王宮礼拝堂の勤めが忙しかったからだと言い訳をされるだけだ。
アリシアはため息を吐くと、慣れた手つきで飾り気のない麻のドレスに着替え、ブラシで髪を梳かす。豊かに波打つ黒髪と白い柔肌、長いまつ毛に縁どられたルビー色の瞳が鏡に映る。
十五歳になったアリシアは美しく成長していた。年齢より大人びて見えるのは、その表情から笑顔が消えているせいだろう。
アリシアは髪飾りをつけずに長い髪をそのまま肩の後ろへと流す。そうして身支度を終えた頃、ようやく離宮の玄関扉の外鍵を開ける音がした。
「ちょ、朝食、です……」
今日の当番はエッペだった。
彼はアリシアに食事を運んでくる神官見習いの中で、一番気が弱く臆病だ。アリシアを怖がっていて、まともに目を合わせようとはしない。そばかす顔を俯かせ、ビクつきながらも食事を乗せた銀のトレイを素早くテーブルに置き、そそくさと立ち去るのが常だった。
だが、今日はいつもと少し様子が違う。他の二人と比べて仕事に忠実なエッペが、これほど遅れてくるのは初めてだった。それに、グレーの瞳を泳がせ、皿からスープがこぼれるほど手元をガタガタと震わせている。明らかに挙動不審だ。
「ありがと」
アリシアが礼を言うと、エッペはビクンと肩を跳ね上げ、逃げるように部屋を出ていった。途中、チャリーンと鍵を落とす音が聞こえる。
「おかしいわね……」
アリシアは訝りながらも、ゆっくりとテーブルへ歩み寄った。トレイの上には、冷めきったミルクスープの皿とライ麦パンが載っている。
並々と注がれた白いスープ皿を覗き込み、何か黒いものが沈んでいるのに気づく。スプーンの先でそっとすくい上げてみれば、それは大きな羽虫の死骸だった。
「うげ……」
食べる前でよかった……。
アリシアはホッと胸をなで下ろし、スプーンを皿の縁へと戻す。
気弱なエッペの仕業でないことはわかっていた。大方、気位の高いロニーあたりに「呪い子のスープにこれを入れろ」とでも脅されたのだろう。
高位貴族の三男であるロニーは、日頃から「なぜ僕が呪い子の世話なんか」と不満を露わにしていたし、もう一人の食事当番であるマルクは極度のものぐさなので、わざわざスープに虫を入れる労力をかけたりしないはずだ。
なんて、くだらない悪戯だろうか。
彼らは自分と大差ない年齢だというのに、子どもじみている。
アリシアはスープ皿を遠ざけると、ライ麦パンを手に取った。アネモネの絵を取り払った跡が四隅に残るミントグリーンの壁を眺めながら、千切ったパンを口に入れる。
確かダリアンが出ていったのは、十四歳になるかならないかの頃だった。今にして思えば、彼は言葉遣いも立派で、壁布を貼ったり、お手製の教科書をつくったり、いろいろなことができたから、神官見習いの中でも非常に優秀であったに違いない。先代大神官の側仕えに選ばれるだけのことはある。
あの三人とは大違いだ……。
「比べても仕方ないわね」
アリシアは力なく呟くと、今日はこのあと何をしようかと考え始めた。
鉄格子の窓の向こうには、まばゆい太陽が輝いている。
昼のうちに、昨日の本の続きを読んでしまおうか……。
というのも、近年、白夜に異変が起きているからである。
年々長くなる『神の蝕』は、今や七時間に達しているうえ、とうとう冬以外の季節にも影響を及ぼし始めたのだ。
通常の白夜は、二十二時ごろになると太陽は地平線すれすれの位置に留まり、空は淡いグラデーションを帯びた赤紫に染まる。街全体が夜通しその美しい薄明りに包まれ、夜が明けると再び陽が昇っていく。
ところがこの数年、太陽が地平線の下へと半分ほど沈み込むようになってしまったため、赤紫の空は以前よりもずっと暗い。外は辛うじて明かり無しでも歩けるものの、家の中ではランプを灯さねばならないほどだ。
人々は、世界の終わりが近づいているのではないかと怯えている。
アリシアは口の端をわずかに上げて微笑むと、服についたパン屑を払い分厚い本を開いた。
**
自由に外へ出られないアリシアにとって、読書は一番の娯楽だ。
最近のお気に入りは、ハヴィルンドの古城を舞台にしたホラー小説『ヴァルカ城の秘密』である。
物語はちょうど、『神の蝕』の闇の中で起こる怪奇現象――長い廊下の奥から響く不気味な音に、作中のヒロインが怯える佳境の場面だった。
カチャ……カチャ……ギイィィ…………。迫りくる金属音、蝋燭の炎が消えて――。
「……っ!」
ヒロインになり切って恐怖の世界に引き込まれていたアリシアは、飛び上がりそうになった。まさにその瞬間、離宮の玄関の方からカチャ……カチャ……ギィ……という奇妙な音が響いてきたからだ。
ドクンと心臓が波打つ。しかし、すぐにパタンと扉が閉まり、鍵をかけてタタタッと走り去る気配がした。
きっと、マルクだ。ものぐさな彼は、時々アリシアの部屋まで食事を運ぶ手間を省き、玄関に置いていくことがある。時計は間もなく十五時を迎える。昼食としては遅すぎる時間になったことをとやかく言われたくなくて、コソコソ行動していたのだろう。
人騒がせな……!
「……本当に、しょうがない人ね」
アリシアは呆れ顔で、玄関の床から昼食のトレイを拾い上げ、茹ですぎのパスタと一欠けらのチーズでお腹を満たす。それから、かつて男爵夫人の居室の窓辺にあったペールブルーのアームチェアに身を預け、再びページをめくった。
途中で昼寝を挟み読書に没頭しているうちに、徐々に部屋が薄暗くなっていく。
そろそろ二十二時なのね……。
赤紫の空の深まりとともに、アリシアの身体から底知れない力が溢れだす。気分は高揚し、赤い瞳が妖しく光を放った。
時刻を告げる鐘が鳴る。
しばらくして玄関扉の鍵が開き、部屋へ入ってきたのは、銀のトレイを手にしたロニーだった。ランプの灯らない薄闇の中、アリシアがアームチェアに静かに腰掛けている姿を見つけると、勝ち誇ったように顎を上げた。
「ふん、呪い子の分際で、朝からスープを残すなんていい身分だな。そもそも、なんでこの僕が呪い子の食事係なんてやらなきゃならないんだ……。いいか、次は絶対に残すなよ」
トレイをテーブルに置きながら、朝のミルクスープを残したことを責め立てる。
やはりあの悪戯はロニーの仕業だったのだ。彼はアリシアにショックを与えられたと確信しているのか、ニヤニヤと笑う。
「くだらない。そんなことを言うために、わざわざスープが冷めきるのを待って運んできたの? 暇人ね。それとも時計が読めないのかしら。夕食の時間は十八時よ。今、何時だと思っているの」
「なんだその態度は! 少しくらい食事の時間に遅れたからって生意気な。呪い子のおまえが冷めた食事をとるのは当然だろう」
アリシアの平然とした態度にロニーはいきり立つ。声を荒げ、威圧するようにアリシアの方へ一歩踏み出した、その時だった。
「――うるさいわね」
ロニーの身体が激しく壁に叩きつけられた。
アリシアの足元の影から黒い触手が伸びてきて、しなやかな鞭のように彼を打ち据えたのである。
「ぐぅ……」
ロニーは呻き声を漏らす。
アリシアは、衝撃で動けなくなっている彼のほっそりとした胴体に両腕ごと触手を巻きつけると、そのまま壁に押しつけた。アームチェアから立ち上がり、苦痛と恐怖に顔を青ざめさせる彼の目の前までゆっくりと歩み寄る。
「おまえ、私のスープに何を入れたか、覚えてる?」
静かな問いかけ。アリシアがわずかに目を細めると、触手の締め付けが一段と強くなり、ロニーの足先が床から浮く。
「……申し、訳……ござい、ません……」
ロニーが涙目で絞り出したのは、謝罪だった。名門貴族の三男坊として甘やかされて育った彼は、プライドが高く、他人に謝ったことなどなかったに違いない。口の端を悔しそうに引きつらせている。
これで終わりではないわよ……。
アリシアはロニーの頬を両手で挟み、強引に自分の方へ向けさせた。
「私の瞳を見なさい」
有無を言わせぬ物言いに、ロニーは吸い寄せられるように視線を動かす。見る者を惑わせる宝玉のような赤い瞳と目を合わせると、彼の緑眼に宿る傲慢さが消えた。魂を抜かれたかのごとく虚ろな表情で、ぼんやりとアリシアを見つめている。
「お腹が空いているの。すぐに夕食を持ってきてちょうだい、デザートも忘れずにね。それからお風呂の用意も。あとは書庫から『ヴァルカ城の秘密』の四巻を借りてきて。いい? 四巻よ。この前、マルクに頼んだら、二巻と間違えるんだもの」
「御意の、ままに……王女殿下……」
アリシアに操られたロニーは一礼し、彼女の命令を遂行するため離宮を出ていく。
「彼もこの性格さえなければ、何度も痛い思いをせずに済むのにね……」
白い法衣の後ろ姿を見送りながら、アリシアは独り言ちた。




