6 夢の終わり
アリシアは部屋の隅で膝を抱えたまま、まんじりともせず朝を迎えた。
朝六時の鐘が鳴り、のっそりと顔を上げる。
いつもなら、この鐘のあと、自分を起こしにダリアンはやって来るのだ。アイボリーのカーテンを開けて「おはようございます、アリシア様」と、笑いかけてくれるはずだった。そして、この長い黒髪をブラシで梳かし、サテンのリボンを結んでくれる。
けれど、来ない。
アリシアは、また下を向いた。時折、ガタッと風音がするたびに、扉へ視線を走らせる。
どうしたんだろう……。
怪我でもしたのではないか。それとも、急な病に罹ってしまったのか。
「いいえ、用事が長引いているだけ……きっと、そうよ……」
込み上げる不安を打ち消すように、アリシアは呟いた。声はガラつき、ヒリヒリとした痛みが走る。
彼女の首には、まだヨアキムの指の痕がくっきりと残っていた。お気に入りだった薄ピンクのドレスは泥だらけで、ところどころにコケモモの汁が赤くにじんでいる。
離宮に人がやって来たのは、もうすぐお昼の鐘が鳴ろうかという頃だった。静まり返っていた廊下を、カツ、カツと複数の足音が近づいてくる。
帰ってきた……。
アリシアは弾かれたように立ち上がり、縋る思いで扉へと駆け寄る。
「ダリアン……!」
しかし、勢いよく開いた扉の向こうにいたのは、精緻な銀の刺繍が施された白絹の法衣を纏った男だった。その後ろに、ダリアンと同じ飾り気のない綿の法衣を着た側仕えの神官見習いが控えている。
白銀の髪に青い切れ長の目をしたその男は、部屋に一歩足を踏み入れると、傍らの神官見習いに顎をしゃくった。
「下がっていなさい」
「は、はい」
神官見習いの少年は、恭しく一礼して立ち去っていく。
男はパタンと扉を閉め、一人でアリシアに対峙した。彼女を見るなり、薄い唇が不快そうに歪む。
「ふん……。その首の痣は、ヨアキム殿下のお手を煩わせた証拠ですか。実の兄にそこまでさせるとは、やはりあなたは誰にとっても害悪でしかない」
「……だれ……?」
いきなり投げつけられたむき出しの敵意に、アリシアはたじろいだ。かすれた一言が、辛うじて喉から漏れる。
男はそんなアリシアを蔑むように見下ろし、冷ややかに名乗った。
「初めまして、カレド。私は大神官のフェルト。そして、由緒正しきレーヴ公爵家の令嬢であった王妃殿下の弟であり、あなたの叔父にあたる者です」
「おじ……さま……?」
「気安く呼ばないでいただきたい。真教の最高位にある私にとって、世界を滅ぼす黒髪赤眼の呪い子が身内など、生涯の恥でしかないのですから。あなたのせいで、あの優しかった姉上が心を病んでしまわれた……」
フェルトは、ふとアリシアから視線を外し、部屋をぐるりと見回した。ミントグリーンの壁、本棚に並ぶ図鑑や小物。
「それにしても、ずいぶんといい暮らしをしていたようですね。ここが幽閉先だという自覚が足りないようだ」
「……っ、ダリアンは、どこですか!?」
この暮らしを与えてくれたのはダリアンだ。それが大神官猊下の意に沿わぬものであったなら、発覚すれば厳しい罰を受けるに違いない。だから昨夜は帰って来られなかったのではないか。
もし、酷い目に遭っていたらどうしよう……。
しかし、心配するアリシアを、フェルトは鼻で笑った。
「フッ、ダリアンなら、もうここには来ませんよ。あの子は自ら世話係を辞めると申し出て、離宮を去りました。やっとあの気味が悪い化け物の世話係を辞められる、せいせいしたと言ってね」
「…… 嘘よ。 ダリアンがそんなこと言うはずないわ!」
「嘘? 私がなぜ、あなたごときに嘘を吐かねばならないのですか。勘違いしてはいけませんよ。もともとダリアンは、あなたを監視するためにこの私が送り込んだ駒に過ぎない。あの子は、あなたとの忌まわしい二年間の生活を一刻も早く忘れたがっていましたよ。まあ、呪い子に親切にしたところで『神の蝕』の進行を止められなかったのですから無理もないですがね。可哀相に、とんだ無駄骨ですよ」
監視? 駒? 親切だったのは、年々長くなる『神の蝕』の進行を止めるため……?
確かに、この数年で『神の蝕』の時間は、うんと長くなった。アリシアが生まれる前は二時間ほどだったという闇の夜は、今やその倍の四時間に迫ろうとしている。今年の冬はもっと長くなるだろう。
その元凶たる呪い子の機嫌を取れば、あるいは……そう考える者がいたとしても不思議ではない。思惑が外れたのなら、去るのも道理だ。
うそ……よ。
アリシアは、開きかけた口を閉じた。
「カレド。あなたも、もう七歳でしょう。これ以上の世話は必要ありませんね。これからは一人で暮らしなさい。食事は使用人に運ばせますから」
フェルトは淡々と告げると、法衣の裾をひるがえした。去り際、思い出したように足を止め、呆然とするアリシアへ向けて首だけ振り返る。
「ああ、それから。ヨアキム殿下に首を絞められたことを恨んではいけませんよ。あなたが生まれた日、その首を一番最初に絞めようとしたのは、他ならぬ国王陛下ですからね」
「え……」
「実の父親にすら望まれず、生まれた瞬間に殺されかけた命だ。少しは己の罪深さを知りなさい」
フェルトが離宮を出ていくとすぐに、ガチャン、と玄関の扉の外鍵が閉められた。
一方、窓の外ではカチャカチャと金属が擦れ合う音のあとに、ゴーン、ゴーンと激しい衝撃音が轟く。驚いて窓へ駆け寄ると、そこではフェルトが連れてきたであろう屈強な鉄職人たちの手によって、黒々とした頑丈な鍛鉄の格子が、外側から窓枠に嵌め込まれているところだった。巨大なハンマーを力任せに振り下ろす振動が、離宮の石壁を通して伝わってくる。
もう、どこへも行けない。
アリシアは耳を塞ぎ、固く目を閉じたまま、地響きのような揺れと轟音に耐えるしかなかった。
**
離宮に静けさが戻っても、アリシアは本棚の陰で身を縮こまらせたまま動けずにいた。
どのくらい、こうしていただろうか。耳を塞いでいた両手をゆっくりと下ろす。こわごわと目を開け、その赤い瞳に飛び込んできたのは、呪い子の自分を閉じ込めるための鉄格子だ。縦横に交差する金属の影が、アリシアの足元まで伸びている。
――あの気味が悪い化け物。
――忌まわしい二年間の生活。
フェルトの放った言葉が耳の奥で繰り返される。
本当に……。
「……本当に、いなくなっちゃったの……?」
アリシアの唇が小さく震えた。苦い思いがインクの染みのように広がっていく。暖かな陽気だというのに部屋の中が寒々しく感じられ、床に触れる指先は冷たい。逃れるように立ち上がり、その拍子に足をもつれさせてしまった。
「きゃっ……」
咄嗟に本棚に掴まる。
そこに並べられているのは、ダリアンが持ってきてくれた植物や動物の図鑑だ。普段、アリシアが見ることのできない薔薇や鹿や蛇を教えようと、彼は“おねだり”で本宮の書庫番から手に入れてきたのである。
『アリシア様、これがヘビですよ。足も手もないのに体をくねくねさせて、とても速く進むんです。脱皮と言って、自分の古い皮を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変わるんですよ』
背の部分に鎖のような模様のある毒蛇を指差しながら説明するダリアンの姿が、アリシアの脳裏に甦った。
ここは彼との思い出が溢れている。
図鑑の上段には、手作りの小物入れ。その中には黄色や青など色とりどりのリボンが収められ、毎朝アリシアの髪に結んでくれた。
色あせたマホガニーのテーブルを磨いてくれたダリアン。
ミントグリーンの壁布を貼ってくれたこと……。
アリシアはフラフラとした足取りでその壁に近寄り、飾られた自作の絵に手を伸ばす。
「……痛っ……」
右腕を上げた瞬間、肩から指先にかけてズキッと鋭い痛みが走った。どうやらヨアキムに首を絞められたときの影響が、今になって現れたらしい。
アリシアは絵を手に取ることを諦めて、描かれている赤いアネモネをぼんやりと眺めた。
『いいですか。パステルはこうして指先で優しく持って……そう、次は描いた線を、指の腹でそっと擦ってみてください』
『わあ。 赤い色がふわっと広がったわ。お花みたい!』
『上手です。とても綺麗な色ですね。私の指も、アリシア様と同じ赤色になってしまいました』
パステルの粉で染まった指先をお互いに見せ合ったこと。この時、アリシアはうっかり頬や服まで触り、赤く汚してしまったのだ。
アリシアは部屋を出ていく。
ダリアンの残影を追うように向かったのは、かつて男爵夫人がいた居室だった。
『スプーンはこうして握るんですよ。ほら、お皿のスープを上手にすくえるでしょう?』
ミルクスープと白パンの温かな食事。手を添えてスプーンの使い方を教えてくれた。
そんな優しい記憶をなぞりながら、さらに奥へと歩みを進める。
隣にあるのは、大理石のバスルーム。扉を開けると、石鹸の香りが鼻をくすぐる。
『たとえ誰が何と言おうと、私は貴女様のその髪が大好きですよ』
ダリアンがそう言ってくれたから、アリシアは皆が嫌う自分の黒髪を好きになれた。
これが……これがすべて嘘だというの……?
わからない……。
彷徨い歩きながら、アリシアは離宮の中の多くはない部屋の扉を一つ一つ開けていく。
最後にたどり着いたのは、玄関のすぐ傍にあるダリアンの部屋。もともと先代王妃の侍女の控室だった場所を、彼は自ら掃除をして私室にしていた。
「ダリ、アン……?」
アリシアは、疲れた体をもたれかけるように扉を押し開ける。
何も、なかった。
こぢんまりとした室内には、簡素なベッドと縦長のキャビネット、青い布張りの安楽椅子、書き物をするための机が整然と配置されている。だが、ベッドのシーツも、キャビネットに仕舞われているはずの着替えや法衣も、机の上のインク瓶すらも彼の物は消え失せていた。まるで、もとからいなかったかのように。
これが答え……。
ダリアンは、最初からいなくなるつもりだったのだ。
――これからは、私がいます。貴女様の側にずっとお仕えします。
アリシアの瞳から、すうっと光が消えていく。
初めから、わかっていたはずだ。生まれた直後に父親には殺されかけ、母親は心を病んでしまった。兄にも乳母にも厭われる自分を、一体誰が好きになるだろうか。
「ダリアンの……ばか……」
バカは自分だ。どうして彼だけは違うなんて、愚かな期待をしてしまったのだろう。
もう誰も信じられない。
ううん……。
アリシアはゆっくりと頭を振った。そして、今度こそ胸に固く誓う。
もう、誰も信じない――。




