5 コケモモの散歩道
それから、二年後――。
かつて薄汚れ、がらんとしていたアリシアの部屋は、今やすっかりくつろぎの空間に様変わりしていた。
数冊の古書しかなかった壁一面の本棚には、紙表紙の聖典のほかにも図鑑や詩集が並べられ、手作りの小物が置かれている。風に揺れるアイボリーのカーテン。ダリアンが貼り替えてくれたあのミントグリーンの壁に飾られているのは、アリシアが描いた拙いパステル画である。
「アリシア様、お茶の時間ですよ。今日は厨房から、特別にパウンドケーキをもらってきたんです」
十五時。部屋に入ってきたダリアンが、紅茶のカップとともにテーブルに置く。
相変わらずアリシアの世話係として側に寄り添う彼は、この二年の間にすくすくと背が伸び、少し大人っぽくなっていた。少年の面影を残しながらも、金の瞳に力強さが増し、どこか凛とした端正さが際立ち始めている。
一方で、七歳になるアリシアも、頬に健康的な赤みが差し、愛らしく育っていた。たどたどしさはすっかり消え、パウンドケーキを見るなり「わぁ」と素直に喜んだかと思えば、茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。
「今日もおねだりに成功したのね!」
「おねだりだなんて、人聞きの悪い。これでも午前中、真面目に働いたのですから、そのご褒美ですよ」
「ふふ、冗談よ。ありがとう、ダリアン」
アリシアは楽しそうに笑いながら、しっとりと焼き上げられたケーキを口に運んだ。
利発で明るいダリアンは、皆に好かれている。金髪金目だから、という理由もあるのかもしれない。神の光の色を宿すその容姿は、まさにソルテス神の愛し子。とにかく彼にお願いされると、皆は嫌と言えないらしい。「特別」というわりには、ほぼ毎日、誰かに何かをもらってくる。
毎日熱々のスープが食べられるのも、新品同様の古着を分けてもらえるのも、本棚の図鑑も、すべてダリアンの“おねだり”のお陰だと、アリシアには、もうわかっていた。
呪い子の自分には、自力で手に入れられるまともな品など、ありはしないのだから。
「食べ終わったら、腹ごなしに散歩しようかな。ダリアン、一緒に行く?」
「あいにく私は、このあと外せない用事がありまして」
まだ神官見習いのダリアンには、アリシアの世話以外にも王宮礼拝堂での勤めがある。王族や貴族が礼拝するための準備や神学の勉強をしなくてはならない。忙しい身なのだ。
あっさり断られてしまったアリシアだが、こんなやり取りは日常茶飯事なので傷つくことはない。
「じゃあ、一人でいってくる」
馥郁としたバターの香りごとケーキを味わってから、アリシアは口元を拭って立ち上がった。
「行ってらっしゃい。あまり奥へ行ってはダメですよ」
「はいはーい。いつもの場所だから、だいじょうぶ!」
アリシアは耳にタコができるほど聞かされているお小言を軽く受け流す。
「迷子になって泣いても、迎えに行ってあげませんからね」
「もう泣かないもん。ダリアンのばか……」
ぷっと少しだけ頬を膨らませ、ひらひらと手を振ると、アリシアは一人で裏庭へと足を踏み出した。
長い間手入れがされていない静かな裏庭は、ツゲの木の茂みが広がり、その根元には地面を這うようにブルーベリーやコケモモが自生していた。
アリシアは深い青紫色の実を手際よく摘み、口の中へ放り込む。いつの間にか、こうして歩きながらつまみ食いをするのが癖になっていた。
「あっ……コケモモ」
色づき始めたコケモモをうっかり摘みそうになり、アリシアは手を引っ込める。
この赤い実は、すっぱいのだ。美味しそうだが、見かけに騙されてはいけない。
アリシアは懐かしくなって、ふっと笑みをこぼした。
そう、あの日も――。
ダリアンに手を引かれ裏庭に出てからというもの、アリシアは度々散歩をするようになった。最初は離宮の側でデイジーの花を愛でるだけだったが、ダリアンに導かれて少しずつ庭の奥へ――。
そうして、木の根元を覆うように群生している、朝食の甘いジャムに似た赤い実を見つけたのだった。
「ダリアン、みて。これ、あさのジャム?」
アリシアは嬉しくなって、つい手を伸ばす。
「よく気がつきましたね。そうですよ。この小さな赤い実は、コケモモと言って……ああっ……!」
説明しているダリアンが止める間もなく、アリシアは摘み取ったコケモモの実を食べてしまった。
「す……っぱい……!」
「……ですから生のままではすっぱいと言おうとしたのです。これは、砂糖で煮詰めないと甘くならないんですよ」
きゅぅと口をすぼめるアリシアに、ダリアンは一瞬眉をひそめたものの、すぐさま口元を緩ませた。そして、笑いを堪えながら、近くの黒みがかった青紫色の実を摘み取る。
「では、こちらの青紫の実はどうでしょう?」
アリシアは涙目になっていた。ダリアンに口へ入れてもらい、ゆっくり噛みしめると甘い果汁が広がる。
「……おいひい……」
「よかった。それはブルーベリーという果実ですよ」
「ぶるー……べりー」
アリシアは、今度は自分で青紫の実を採って口の中へ入れた。
後日、二人でコケモモをたくさん集めて作ってもらった赤いジャム……。
あれは格別だった。
そんなことを思い出しながら、アリシアは薄ピンクのチュニックドレスの裾を軽やかに揺らし、さらに奥へと庭を抜けていく。
そうだ、またジャムを作ってもらおう!
気まぐれにコケモモの実を摘み始め、両手に持ちきれなくなると綿のハンカチを広げ、その中に包み込んだ。
「ここにも、あっちにもたくさんある……。あぁ、籠を持ってくるんだったわ」
少しだけ後悔しながらも、一粒、また一粒と、目の前の赤い実を追いかけることに夢中になるあまり、自分が離宮から遠く離れてしまったことに、アリシアは全く気づいていなかった。
**
もう少しだけ……この実が最後……。
身を乗り出してコケモモの実に手を伸ばすと、不意に前方から蹄の音に混じる人声が風に乗って近づいてきた。
「――殿下、少々速度が上がっております。まだ馬に慣れていないのですから、どうかご無理をなさらぬよう」
「並足だから、大丈夫だよ」
しまった……!
アリシアは引き返そうとしたが、もう遅かった。生い茂る木々に遮られた林道の先から、艶やかな毛並みの白馬に乗った少年が姿を現したのだ。
十二歳くらいだろうか。まばゆい黄金の髪と、吸い込まれそうな空色の瞳、仕立ての良い上質な乗馬服を纏っている。後ろに護衛を従え、一見して高貴な身分であることが窺えた。
アリシアの背中に冷たい汗が伝う。ダリアンは健康のためにと散歩を許してくれたけれど、幽閉されている身で外に出るなんて、ましてや他人と顔を合わせるなどあってはならないのだ。
遠くへ行ってはいけないと、何度も言われていたのに……!
アリシアの手からハンカチが離れ、包まれていたコケモモの赤い実がコロコロと土の上に転がり落ちていった。
「っ……止まれ!」
少年が手綱を引く。白馬はいななき、土を蹴り上げてアリシアのすぐ手前で止まった。馬を降りて黒髪赤眼の少女へ一直線に近づいていく少年に続き、護衛の男も馬を降りる。
「ヨアキム殿下!」
焦るような護衛の呼び掛けを無視して、彼はアリシアの前に立つと顔を歪め憎悪を露わにした。
「おまえ……なんでこんなところにいるんだよ!」
ヨアキム……この国の王太子にして、アリシアの兄の名だ。
アリシアは言葉を失い、詰め寄る兄に何も言い返すことができなかった。
「母上は、おまえのせいで病気になってしまったんだぞ! おまえのせいで……おまえさえいなければっ……」
ヨアキムの両手が、後ずさりするアリシアの首に伸びた。彼が一歩近づくたびに、地面に転がったコケモモが踏まれ、ぐしゃりと潰されていく。
「ぐ……ぅ……」
細い首に強い力が加わる。
躊躇することなく喉を圧迫され、アリシアの視界がチカチカと明滅した。抵抗する術も持たないまま、彼女は激昂する兄の空色の瞳を見上げることしかできない。
「殿下、おやめください!」
背後から駆け寄った護衛の男が、ヨアキムの腕を力ずくで引き剥がした。
「放せっ、 なぜ止めるんだ!?」
引き離されてなお、ヨアキムは声を荒らげて護衛を睨みつける。しかし、護衛の男は厳しい表情で、抵抗する彼を抑え込んだ。
「王命にございます。如何なる理由があろうとも、王女を――呪い子を殺してはならぬ、と」
自分の父が下した命令に、ヨアキムはようやくその腕から力を抜いた。しかし、荒い呼吸を繰り返すその目は、まだ諦めていない。
「父上は甘い……」
ヨアキムは苦々しく呟く。そして、ゴホゴホと激しく咳き込み、地面にへたり込んでいるアリシアを見下ろした。
「僕は父上のように甘くないからな! いつか僕が国王になったら、その時は必ず……必ずおまえを処刑してやる!」
ヨアキムは辛辣な言葉を浴びせると、荒々しく白馬に跨り来た道を駆け去っていった。
「お待ちください、ヨアキム殿下! そんなに速度を出しては危険ですっ」
慌てて後を追う護衛の蹄の音が遠ざかる。
一人残された足元には、泥を噛んで赤黒く潰れたコケモモの残骸だけが散らばっていた。
アリシアは恐怖で身体が震え、溢れ出す涙を拭うこともできない。やがてノロノロと身体を起こすと、引きずるように足を動かし裏庭の散歩道へと戻っていった。
やっとの思いで人気のない離宮へたどり着き、床の上に崩れ落ちる。その白い首には、はっきりと赤黒い指の痕がついていた。
「ダリアン……早く、早く帰ってきて……」
唇を動かすも、声が出ない。
彼の「ただいま戻りました」と言って部屋に入って来る、あの声が無性に聞きたかった。
けれど、夕方の鐘が鳴っても、薄明るい白夜の夜が明けても、扉は開かない。
アリシアは部屋の隅で一人膝を抱えている。
ダリアンは、まだ、帰ってこない。




