4 文字とクッキー
今日も十五時を報せる鐘が鳴る。
さあ、甘い勉強の時間だ……!
アリシアは気合を入れるとテーブルの椅子に座り、ダリアンが作ってくれた特製の教科書を開いた。そこに書かれた文字を、人差し指でゆっくりとなぞる。
この教科書は、リンゴや小鳥の挿絵が軽やかなタッチで描かれた、ダリアン手書きの冊子だ。先代大神官の小間使いだった彼は、写本の訓練を受けているため、驚くほど字が綺麗で絵も上手だった。
白い平皿に並べられているのは、銅貨ほどの大きさと形をしたクッキーだ。こんがりと焼き色がついたお菓子の表面に、ピンクや水色の砂糖でアルファベットが書かれている。
本宮の貴婦人たちのティータイムを狙って、ダリアンが厨房からもらってきてくれたのだ。
「……これは……ダリアンの……『でぃー』?」
アリシアは教科書の子犬の絵と見比べながら、皿の上の「b」の文字のクッキーを手に取る。
「惜しいです! 形はそっくりですが、丸が反対側についているので、そちらは『ビー』ですよ。小鳥の『b』です」
「『びー』……」
文字の授業の初日にアリシアが真っ先に覚えたスペルは、自分の名前の『アリシア』、次に『ダリアン』だった。ダリアンの丁寧な指導のお陰で大文字は数日で書けるようになり、現在は小文字の勉強に移っているのだが、棒のどちら側に丸があるかで、どうしても迷ってしまう。
アリシアはダリアンをびっくりさせようと、ひとりの時間もこの教科書を開いて一生懸命に文字を復習していた。
今日こそはと思ったのに……。
「わたし、また間違えちゃった。クッキー、食べられない?」
アリシアは、しょげて下を向く。
「そんなことありません。アリシア様が一生懸命頑張っていたこと、ちゃんとわかっていますよ。だから今回は特別です。さあ、あーんしてください」
「あん……」
小さなクッキーが口元へ運ばれる。アリシアは大きく口を開け、パクリとダリアンの指ごと頬張った。
バターの香りが鼻を抜ける。サクッと小気味よく砕ける歯触りと、舌を包み込むような濃密な甘さが、アリシアのちっぽけな世界を一瞬で満たしていく。
うっとりと目を瞑り味わいながらも、彼女はずっと胸に燻っている疑問を口にした。
「ねえ、ダリアン。これ、お砂糖がついてる」
「はい。甘くて美味しいお勉強ですからね」
「でも……お砂糖って、すごーく高くて、偉い人しか食べられないって、乳母が……。わたしが食べたら、怒られちゃう……?」
自分は偉くないから、食べてはいけないはずだ。もし見つかったら、これをくれたダリアンまで怒られてしまう。それは、いけないことだ。
もう、いらない――。
そう言おうと息を吸い込んだ瞬間、アリシアの懸念を吹き飛ばすように、ダリアンはクスクスと呑気な笑い声を上げた。
「大丈夫ですよ、アリシア様。これは王宮の厨房で、廃棄処分になるはずだったものなんですから」
「はいき……?」
「はい。本宮の偉い方々に出すお菓子は、ほんの少し形が歪んでいたり、端が欠けたりしているだけで捨てられてしまいます。このお砂糖も晩餐会の飾り付けで余ったものを、料理長にお願いして譲ってもらったんですよ」
だから誰にも怒られないのだと、ダリアンはそっとウインクしてみせた。
味はまったく変わらないのに、形が綺麗ではないというだけで、偉い人たちは見向きもせずに捨ててしまう。それは、すごくもったいないとアリシアは思う。
こんなにも甘くて美味しいのに……。
「わたし、ぜんぶ食べる。お勉強がんばって、ひとつ残らず、平らげるもん!」
「ははは、頼もしいですね。では、次の文字に挑戦しましょうか」
以来、アリシアは、より一層勉強に打ち込むようになった。
午前中、鼻歌交じりのダリアンが、部屋の隅で剥がれ落ちたボロボロの壁布を貼り替えている間も、ひたすら特製の教科書とにらめっこを続ける。
アリシアがめきめきと文字を覚えていくものだから、ダリアンは毎回のように「もうこんな難しい単語まで読めるようになったのですか!?」と目を丸くした。
そしてアリシアが得意げに胸を張ると、彼は甘いクッキーを「よくできましたね」と笑いながら、いつもより一つ多く口の中へ入れてくれるのだった。
そんな、ある日。
ダリアンは手書きの教科書の代わりに、紙表紙の本をテーブルの上に置いた。
これは大量に印刷され安価で出回っている家庭用の聖典で、学の低い大人でも読めるように子ども向けの易しい言葉で書かれているのだという。離宮にはなかったけれど、各家庭に聖典が置いてあるのは、どうやら当たり前のことらしい。
「アリシア様、ずいぶんと文字が繋げて読めるようになりましたね。今日は、このハヴィルンド王国で信仰されているソルテス真教の聖典を、少しだけ一緒に読んでみましょう。ここには、この国の成り立ちが書かれているんですよ」
「くにの、なりたち……?」
ダリアンが指さすページには、鎧を着た騎士の挿絵を囲むように、大きくて丸みのある文字が並んでいる。単語と単語の間が広くあけられていて、小文字を覚えたばかりのアリシアにもわかる言葉がページのあちこちに散らばっていた。
「むずかしい?」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
ダリアンに教わりながら、アリシアはゆっくりと一文字ずつ声に出して読んでいく。
「さん、びゃく、ねん、まえ……たいようの神と、たたかう、黒い、かみと、赤い、めの、あんこく神が、世界を、よるのやみで、おおいかくし……」
聖典には続いて、太陽神が暗黒神との戦いに勝ったこと。慢心し堕落していく人々を憂いた太陽神が、黄金の髪に昼空の青い瞳を持った一人の騎士に祝福を与え、ハヴィルンド王国を作らせたこと。そして、今も人々は、いつか復活するであろう暗黒神と同じ『黒髪と赤い目』を凶兆として恐れているのだと記されていた。
そうだったのか――。
自分の頭にそっと触れる。それから、長い髪が真っ黒に塗りつぶされた暗黒神の挿絵を見た。
同じだ……。
生まれついたときから母親や男爵夫人に「不吉だ」「呪い子」と忌み嫌われ続けた理由のすべてが、この白黒ページの中にあった。
「……ダリアン」
「はい、アリシア様」
「これ……は、わたし? わたしが、あんこく神……だから、みんな、わたしを『呪い子』って、いうの?」
アリシアは、確かめずにはいられなかった。自分は本当に人々の敵となる闇そのものなのかどうかを。
「いいえ、違いますよ、アリシア様。それは大昔に作られた、ただのおとぎ話です」
「あんこく神……じゃない?」
「はい。アリシア様は、悪いことなんて何一つしていません。ただこの世界に生まれてこられただけです」
「……わたし、わるくない?」
「ええ、絶対に悪くありません」
ただ生まれてきただけ。この黒い髪も、たまたま運が悪かっただけ。
でも……だからといって、この先も呪い子と呼ばれる事実に変わりはないのだ。そう思うと行き場のない虚しさが澱となって、心の奥底へと沈んでいく。
すっきりとしないアリシアの表情をくみ取り、ダリアンは元気づけるようにふわりとその手を包んだ。
「アリシア様。お部屋の修繕もひとまず終わりましたし、今日は天気も良いですから、少しだけ外へ出てみませんか?」
言われて初めてアリシアは、部屋の壁布がミントグリーンに一新されていることに気がついた。
自分が毎朝教科書とにらめっこをしている間に、ダリアンが少しずつ進めていた壁布の貼り替えは、いつの間にか終わっていたのだ。
見違えるほどお洒落で明るくなった空間は、もはや寂れた書庫などではなかった。
「きれい……」
「ええ、とても綺麗です。ですが外には、もっともっと綺麗なものがあるんです。健康のためには、お日様の光を浴びて歩くことも大切ですよ」
ダリアンは窓の向こうに広がる庭に視線を移した。そしてアリシアの手を引き、部屋を出ていく。
ギィ、と音を立てて開いた裏口の扉の向こう側に、一歩足を踏み出す。
その瞬間、アリシアは思わず感嘆の声を漏らした。
「わぁ……」
そこは、青々としたツゲの低木が生い茂る静かな裏庭だった。
柔らかな木漏れ日が差し込み、その光芒を浴びてダリアンの金髪がキラキラと輝いている。
爽やかな風がさらさらと木の葉を揺らし、肌をなでるように吹き抜けていく。
ふと足元に目を落とすと、白いデイジーの花が辺り一面に咲いていた。
「ね? 綺麗でしょう」
「うん……!」
じわりと胸に熱いものが込み上げてくる。
アリシアはしゃがみ込み、デイジーの花へと指先を伸ばした。乱暴に扱ったら壊れてしまいそうだ。
「摘んでお部屋に飾りましょうか?」
ダリアンが気を利かせて尋ねてくれたけれど、アリシアは黙って首を横に振った。
生きている……。木も花も風も、そして自分も。
今はこの可憐な花に、ただ触れていたかった。




