3 たった一つの居場所
「今日は、この部屋を綺麗にします!」
ダリアンがこの離宮に来て三日目の朝、彼は意欲満々にそう言い切った。
『この部屋』とは、アリシアが引きこもっていた、あの壁一面の本棚がある彼女の私室のことである。
突然、何を言い出すのだろう。昨日は大人しく見守っているだけだったのに。
「えっ!?」
赤い瞳を瞬かせて驚くアリシアの前で、ダリアンは抱えていた掃除道具を下ろす。バケツ、雑巾、ほうきに、床拭き用の長いモップまで。
今日の彼は重苦しい法衣を脱ぎ捨て、白い綿のチュニックシャツに黒いスッキリとしたズボンを履いていた。チュニックの袖はすでに肘の上までたくし上げられている。
「アリシア様がこのお部屋を気に入っていらっしゃるなら、ここを心地よく過ごせる場所に内装し直せばいいのです。まずはこの埃をやっつけて、窓もピカピカに磨きましょう!」
ダリアンは言うが早いか、少年らしい軽快さで部屋を横切り窓を開け放つ。そして、テキパキとほうきで床を掃き始めた。
忙しなく動く背中を呆然と目で追いながら、ようやくアリシアは彼が単なる気まぐれでやっているのではないと気づく。
「……っ」
三日前からアリシアは、ダリアンの勧めで離宮で唯一まともな部屋……男爵夫人の使っていた居室へ生活の場を移していた。
温かなスープと白パンは朝だけでなく、昼も夜も提供されている。新しく与えられた服だって、淡いアプリコット色のチュニックドレスだ。きちんと洗濯されて石鹸の香りがする木綿の服は、サイズもぴったりで着心地も抜群。こんな贅沢、文句のつけようもない。
けれど、あの部屋は夫人の意地悪そうな顔がチラついて、どうにも落ち着かないのだ。気づけば自然と前いた部屋へ足が向いてしまい、アリシアは今日も、ここにいる。
「……わたしも、する」
考えるよりも先に言葉がするりと飛び出した。自ら何かしようとしたのは、初めてかもしれない。
アリシアが自分の定位置である本棚の陰から立ち上がり、のそのそと近づくと、ダリアンは慌てたように両手を振る。
「お洋服が汚れてしまいます。何より王女殿下であるアリシア様に、掃除をさせるわけにはいきませんよ。どうか座っていてください、私一人で十分ですから」
「もう、汚れたもの」
床にうずくまったときに、ドレスの裾が埃まみれになっていた。アリシアは、床に置かれたバケツの縁から乾いた雑巾を指で摘まみ上げる。
すると、ダリアンは苦笑しながら、王女の強い意志を尊重するかのように、アリシアの持つ雑巾をバケツの水に浸した。一滴も水が垂れないよう固く絞り、アリシアに手渡す。
「では、これを使ってください。この棚の下の段を拭くのをお願いしてもいいですか。こうして……ゆっくり雑巾を滑らせて……」
ダリアンはアリシアの小さな手に自分の手を重ね、優しく雑巾の動かし方を教える。木肌に沿って横へ、それから下へ。
ダリアンの手がそっと離れると、アリシアは教わったとおりに自分の力でゆっくり雑巾を滑らせてみた。ほんの少し擦っただけで、棚に積もっていた灰色の埃が消え、こげ茶色の木目が顔を出す。
「うん、お上手です。その調子ですよ、アリシア様」
すぐ隣でダリアンが嬉しそうに微笑む。
上手? 上手なんですって……!
今まで、自分が何かを上手にこなせるなんて想像したこともない。湧き上がる高揚感を押さえられず、アリシアは夢中になって雑巾を動かした。
ダリアンはその様子を静観しながら、邪魔にならないよう少しだけ離れて、再びほうきを動かし始める。
二人は掃除に熱中し、部屋にはシャッ、シャッとほうきを掃く音だけが響く。
アリシアは次々に棚を拭き、あっという間に低い段を綺麗にしてしまった。
あとは……。
ここならなんとか届きそうだ。そう思ったアリシアは、つま先立ちになって少し上の段に手を伸ばす。その拍子にドレスの袖が肘の下まで大きくずれ落ち、痩せ細った腕が露わになった。
「きゃっ……」
びっくりして小さな叫び声を上げてしまう。
その時、不意に部屋から物音が消えた。規則正しく響いていたほうきの音が、唐突に途絶える。
アリシアが不思議に思って振り返ると、ダリアンは立ち尽くしたまま微動だにしない。眉間にしわを寄せ、剣呑とした顔でアリシアを見つめている。
細めた金目から放たれる鋭い視線は、かつて男爵夫人が自分に向けていた、あの忌々しいものを見るような表情によく似ていた。
「あ……」
とたんにアリシアの身体は、恐怖で凍りつく。
ダリアンを怒らせてしまった――。
何か、失敗した? 役立たずだから? 不吉だから? 汚いから?
だから……やっぱり、この親切な神官様にも嫌われてしまったのだ。きっと彼も男爵夫人のように、自分を見捨てて目の前からいなくなってしまう。
アリシアは、きゅっと唇を引き結び、ぶるぶると震える両手でドレスを握りしめた。大きな赤い目に、みるみるうちに涙の膜が張る。
すっかり怯えてしまったアリシアを見て、ダリアンはハッと我に返った。慌ててほうきを放り出すと、アリシアの前に膝をつく。
「申し訳ありません! 違うのです、アリシア様に怒ったのではないのです。貴女様の腕があまりにも痩せていたから……」
彼の端正な顔がくしゃりと崩れた。紡ぎ出す声には、怖がらせてしまった後悔がにじみ出ている。
「ダリアン。怒って、ない? わたしのこと、嫌いに……なった?」
「嫌ったりするものですか! これからは、私がいます。貴女様の側にずっとお仕えします。もう二度と、ひもじい生活も寂しい思いもさせません。ですから……どうか、私を怖がらないでくださいね」
注がれる真剣な眼差しは、男爵夫人のあの拒絶の目とは、まるで違っていた。
この人は自分を嫌ったのではなかった。この腕を見て、ただ悲しんでくれただけなのだ。
アリシアの胸に安堵が込み上げる。
「うん……わかった」
こくりと頷く。その顔は、知らず知らずのうちにほころんでいた。
**
それから、二人は掃除を続けた。
本棚の隅にある一角には、茶色く変色した古本が数冊、ぽつんと並んでいる。
なんだろう?
アリシアがじっと見つめていると、ダリアンは一冊の本を取り出し、ページを開いて見せてくれた。
「先代の王妃様が読んでいた小説みたいですね。アリシア様はどんな物語がお好きですか?」
ページを覗き込んだアリシアだが、すぐにきょとんと首を傾げた。書かれているのは、文字ということだけはわかる。しかし、その内容はさっぱり理解できない。
「……これ、なんて書いてあるの?」
「え……と?」
ダリアンの視線が泳いだ。考え込むように口に手を当てている。
その戸惑いは、決していいことではないような気がする。もしかしたら、文字を知らないということは、普通ではないのかもしれない。
「わたし、おばかさん……?」
「いいえ!」
すぐさまダリアンは否定し、大きく首を振った。
「王家や高位貴族のお子様であれば、普通は三、四歳のうちから家庭教師がついて、五歳になる頃には絵本の文字や聖典を読み始めます。アリシア様が読めないのは、貴女様がおばかさんだからではなく、これまで誰も教えようとしなかったからです。あの乳母は、まったく……」
途中で言葉を呑み込んだが、その声にはどこか、男爵夫人に対する抑えきれない憤りが宿っている。だが、ここで不満を漏らしても仕方がないと思ったのか、ダリアンは気を取り直すように明るい口調に戻った。
「ですが、これから私と一緒に覚えればいいのですよ。そうだ、明日は厨房にお願いして文字のクッキーを焼いてもらいましょう。ひとつ読めるようになるたびに、その甘ーいクッキーを食べてもいい、というお勉強はどうですか?」
甘い、クッキー。美味しそうな響きに、アリシアの喉がごくんと鳴る。
「クッキーを、食べながら、お勉強……?」
「ええ。甘くて美味しいお勉強です」
ダリアンは悪戯っぽく笑う。
どうやらお勉強とは楽しくて美味しいものらしい……ということだけは、アリシアの脳みそに、しっかりと刻み込まれた。
やがて掃除が終わり、部屋は見違えるほど清潔になった。窓から陽光が差し込み、磨かれた床に反射する。まだ壁はボロボロのままだが、これから少しずつ整えていけばいいとダリアンは言ってくれた。
「ではアリシア様、明日までに、私が特製の教科書を作っておきますね」
その晩、アリシアはベッドの中でダリアンとの約束を何度も反芻する。
甘くて、美味しいお勉強……。
「早く、明日にならないかな」
なんだか胸がドキドキして、瞳を閉じてもなかなか寝付けそうになかった。




