2 新たな世話係
昨日まで男爵夫人が寝泊まりしていた居室は、痛みの激しいアリシアの部屋とは違い、最低限の修繕が施され見栄え良く整えられていた。
清潔なベッドに、窓際にはペールブルーの布張りのアームチェア。そして、マホガニーの丸テーブルの上には、ホカホカと湯気を立てた温かなミルクスープが置かれている。他にもコケモモのジャムとふわふわの白パン、こんがりと焼いたチーズまで。
ダリアンに手を引かれ、連れてこられたアリシアは目を見張った。
「……これ、わたしの?」
「ええ、アリシア様のお食事ですよ。どうぞ、こちらへ」
金の瞳を細めて微笑むダリアンに促され、おずおずと椅子に腰掛ける。
信じられない……。
ダリアンは、男爵夫人のように呪いを恐れて足早に立ち去ろうとはしなかった。それどころか、スープの皿を掴もうと腕を伸ばすアリシアの手を取り、優しく銀のスプーンを握らせたのである。
「気をつけないと火傷しますよ」
「う、うん」
自分の小さな手を包み込んでくれたダリアンの手のひらの温もりに、心臓がトクンと跳ねる。
「ふぅ~、ふぅ~と息を吹きかけて、少しずつ口に運んでみてください」
熱い食事など一度も与えられたことがない。促されるままにスープをすくい、唇を近づけた。ふぅ、ふぅと吹き冷まし、そっと舌先に乗せる。
「っ……!」
濃厚なミルクのコクとじゃがいもの優しい甘みが、口いっぱいに広がっていった。
「どうですか?」
「……すごく、おいしい……」
ダリアンは、夢中になってスプーンを動かすアリシアを横目に、今度は白パンを二つに千切った。内側から小麦の香りをのせた湯気が、一気に解き放たれる。
「この白パンに、コケモモのジャムを乗せてみてください」
アリシアは素直に、渡された白パンに宝石のような赤いジャムを乗せて、ぱくりと頬張った。その瞬間、口の中でとろける。
「甘い! やわらかい……」
昨日まで食べていた、すっぱいパンとは大違いだ。こんなに甘くて美味しいものがあるなんて。
アリシアの脳裏に、男爵夫人の姿が浮かぶ。
「呪い子のせいでお茶会にも呼ばれないわ。ここにいたら王宮のお菓子も満足に食べられない。お砂糖がどれだけ高価だと思っているの!」と、彼女はいつも苛立っていた。
きっと甘いお菓子は夫人ですら、おいそれとは買えない高級品なのだ。
「よかったです。厨房の料理長にお願いして、王族用のジャムと焼き立ての白パンを用意してもらった甲斐がありました」
「いつも、黒いパンしか、くれなかったのに……わたし、食べても、いいの?」
「ええ、もちろんです。これから甘くて美味しいものは、すべてアリシア様のものにいたしましょう」
ダリアンはふっと目元を和らげ、恐る恐る尋ねるアリシアに冗談めかした口調で答える。
事実、冗談なのだろう。呪い子の自分が口にしていいものではないはずだ。
「私が毎日、こうしてアリシア様の温かい食事を運ばせます。私の分もありますから、一緒に食べましょう」
そう言ってダリアンは、少年らしい無邪気な顔でアリシアの向かいの席に座り、自分の前に置かれたスープ皿にスプーンを伸ばす。
「コケモモのジャムは、焼きチーズにも合うんですよ」
「れ、れいぱゆ……?」
焦げ目のついたチーズは、どうやらデザートらしい。コケモモやブルーベリーのジャムを乗せるのが定番の食べ方だという。
一緒に食卓を囲みながら、時折こうして料理や食べ方について教えてくれるダリアンとの食事は、夢のような時間だった。
これが毎日続くの……?
夢ならどうか醒めないでほしい。諦めることしか知らなかったアリシアは、生まれて初めて自分のために願った。
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食事が終わると、アリシアは再びダリアンに小さな手を引かれ、隣の浴室へと案内された。
そこは、先代の王妃が読書の疲れを癒すために設けられた場所だった。贅沢に削り出された深緑色の大理石の浴槽は、なみなみと豊かな湯で満たされ、その水面を覆うように鮮やかなピンクの花びらが浮かんでいる。
「アリシア様」
ダリアンはアリシアの名を呼びながら膝をつき、目線を合わせた。
「新しいお召し物を用意してあります。着替える前に、まずはお風呂に入ってすっきりしてしまいましょう。私はこの衝立の向こうで、背を向けて待っています。ご自身で脱いで、お湯に浸かられますか? 準備ができたら、声をかけてくださいね」
アリシアが返事をする前に、ダリアンはサッと木製の衝立の向こうへと隠れてしまった。
今まで、この浴槽に浸かるのは、男爵夫人だけだった。週に何度か、雑用係の下男にお湯を張るように命じて、まるで唯一の楽しみであるかのようにバスタイムを満喫していたのだ。
アリシアはその冷めかけの残り湯を桶ですくい、頭から流して身を清めていた。
一人で、入ってもいいの?
自分なんかが――。
「……本当に?」
うっかり心の声が漏れてしまう。すかさず衝立の裏からダリアンが尋ねてきた。
「お手伝いしますか?」
「じ、自分で……できるっ」
慌ててアリシアは、薄汚れたぶかぶかのワンピースを脱ぎ捨てる。
誰も自分に触れたがらないから、物心つく頃には服の脱ぎ着ができるようになっていた。
逃げ込むように浴槽の中へ身を沈めると、水面が大きく波打つ。勢いをつけすぎて頭の上まで潜ってしまい、濡れた髪に花びらがいくつも絡んでいた。
「……ダリアン」
アリシアが助けを求めると、ダリアンは衝立の脇から顔を覗かせクスッと笑う。
「それは薔薇という花ですよ。王宮の庭師に頼んで、朝露の残る一番香りのよいものを分けてもらったのです」
「ばら……これが、薔薇……。いい匂い……」
朝食のとき、ダリアンが教えてくれた王家の姓『ギルデンローゼン』。金色ではないけれど、その本物の薔薇の花びらが、今、目の前で揺れている。
「アリシア様、失礼しますね」
濡れないように上着を脱ぎ、下に着ているチュニックの袖をまくりながら、ダリアンがゆっくりと近づいてきた。
彼はアリシアの裸体を見ないように、彼女の後ろ側へ回り込んで浴槽の脇に腰を下ろす。その手には、つるりと滑らかな白い塊が握られている。
「それは、なに?」
「これは石鹸といいます。これで髪や体を洗うと、とても綺麗になるのですよ」
ダリアンは手を伸ばし、アリシアの黒髪から一つ一つ丁寧に花びらを取り除きながら、彼女の問いに答えた。時々、その指先がアリシアの頬にかすかに触れる。そうして、すべて取り去ってから、石鹸を手のひらで転がして、またたく間にふわふわの泡を作り出した。
「髪を洗わせてくださいね。石鹸が目に入らないように、少しだけ上を向いてくださいね」
このふわふわで何をされるのか見当もつかないけれど、逆らわずに、つんと顎を持ち上げる。頭に泡が載せられると、ダリアンの手がゆっくりと動き、アリシアの凝り固まった頭皮をほぐしていった。
「アリシア様は、本当に美しい髪をされていますね。まるで紡ぎたての極上の絹糸のようです。なめらかで、とても心地がよい」
「でも、まっ黒。ふきつ、きらい、きたない、よらないで……って」
言われてきた言葉を挙げていく。闇と同じ黒い髪は、世界広しと言えど呪い子のアリシアだけ。
アリシアの髪を優しく洗っていたダリアンの指が、ピタリと動きを止めた。
「そんな悲しいことは、もうおっしゃらないでください」
「ダリ……」
背後からの痛ましげな声音に、アリシアは思わず振り返ろうとした。けれど、それを遮るようにダリアンの手のひらが、彼女の小さな頭をそっと包み込む。
「たとえ誰がなんと言おうと、私は貴女様のその髪が大好きですよ。こんなに柔らかくて綺麗なのですから」
慈しみの言葉のあとにダリアンは、アリシアの豊かな黒髪をたっぷりのお湯ですすぎ流した。
神に仕える神官だから、誰にでも、こんなに優しいの……?
風呂から上がり、ペールブルーのアームチェアに座って髪を拭いてもらっている間、アリシアは考えた。
赤子のときから育ててくれた乳母にさえ嫌われた自分を、今日初めて会ったダリアンは、壊れやすい宝物のように丁寧に扱ってくれている。
話しかけ、名前を呼んでくれた。もうそれだけで、特別な日だというのに、この黒髪が好きだなんて。
安堵とともに視界がぼやけ、うとうとする。
「……明日も……あの、あたたかいスープ……くれる……?」
夢現で言葉を紡ぐ。
ダリアンが何か言っているような気がしたけれど、その声は白い靄の中へと消えていった。




