一章 1 孤独な王女
王宮の広大な敷地の片隅にある、小さな離宮。
そこが、五歳になった王女アリシアの世界のすべてだ。
先代の王が愛妃のための読書部屋として贈ったというその建物に、当時の優美さは見る影もない。
外壁に蔦が絡み、手入れの途絶えた室内はシミだらけの壁布がだらりと垂れ下がっている。高価な詩集が並んでいたであろう壁一面の本棚も、茶色に変色した数冊の本が残されているだけだ。
かつて神官長フェルトによって、闇を意味する『カレド』という忌み名を与えられた彼女は、がらんとした一室で息を潜めるように暮らしている。
昼の十二時を知らせる鐘と同時に、コンコンと無機質なノック音が響く。
返事も待たずに扉が開かれ、食事を持って入ってきたのは、この離宮で唯一アリシアの身の回りの世話をしている乳母だった。
「……ああ、本当に嫌。夫の出世のためとはいえ、なぜ私がこんな不吉な子の世話を続けなければならないの」
男爵夫人である彼女は、アリシアを無視して目を合わせようとはしない。誰もいないかのように泣き言をこぼすのは、いつものことだ。
本来、王女の乳母といえば、いずれ王女の側近として女官長の座が約束される名誉ある役目である。しかし、相手が黒髪赤眼の呪い子となれば、そんな輝かしい未来はやってこない。
夫人は王命によって、嫌々ながら乳母にさせられた身だった。乳が必要なくなってからは、ただの義務として最低限の世話をこなすだけ。
近年、長く延びていく『神の蝕』の時間を、夫人はこの呪い子のせいだと本気で恐れていた。
「こんな生活、もう堪えられない……でも、もう少し……もう少しで任期が終わるわ」
夫人は色褪せたテーブルの上にガタンと乱暴に銀のトレイを置くと、アリシアに背を向け、呪いが移っては堪らないとばかりに急いで部屋を出ていった。
再び扉が閉まり、静寂が戻る。
本棚の陰にうずくまっていたアリシアは、のろのろと顔を上げた。そのまま這うように進み、テーブルの椅子に座る。
「ごはん……」
マナー教育など一切施されていない五歳の少女は、スプーンの正しい持ち方すら知らない。ただ生きるために、冷めたスープの皿を両手で掴み、直に口をつけてすする。添えられているのは、王族のための白いパンではなく、使用人たちが口にする酸味の強い黒パンだ。アリシアはカチコチになったパンを必死に噛み砕き、味わうこともなく胃袋へと流し込む。
歴代の大神官に伝わる『呪い子は決して殺してはならない』という禁忌ゆえに王命が下り、食事は粗末ながらも一日三食、こうして欠かさず運ばれてはきた。だが、それだけだった。
アリシアが纏うのは、きらびやかなドレスではなく、サイズも合わない着古されたぶかぶかのワンピースだ。手入れもされず艶を失った黒髪は長く伸びきり、血のようだと恐れられる赤い瞳からは希望の光が消え、淀んでいる。
彼女に与えられるのは、死なないだけの施しと他者からの拒絶だけだ。
空腹が満たされたアリシアは、服の袖で口元を拭う。そして、また自分の居場所へと戻り、小さく膝を抱えた。
無言でうずくまるアリシアの脳裏には、繰り返し甦る言葉がある。
お前など、生まなければよかった――。
ある日、追いすがるように反対する侍女たちを押し切り、母親の王妃カリーナが初めて離宮へとやってきて言い放ったのだ。我が子の顔を見るなり、その言葉を口にした彼女はひどくやつれていた。
呪い子を産んだという自責の念で精神を病み、王領の別邸へ移されたのは、それから間もなくのこと。
母親が娘に残した最初で最後の言葉……それがアリシアにとって唯一の母の記憶だ。
なぜ自分が人々から忌み嫌われるのかは、わからない。ただ、生まれてきてはいけない存在だったのだということだけは、深い絶望とともに幼い胸に刻みつけられた。
それから数か月後、乳母が退職する日はやって来た。
「今日で最後。ああ、やっと、やっとこの忌々しい部屋とおさらばできるわ! 女官長になれなかったときはどうなることかと思ったけど、我が家は陞爵して今日から私は子爵夫人ね。 夫も念願の徴税官になれたことだし、あんな呪い子の世話なんて、もう二度と御免だわ!」
五年の任期を終えた男爵夫人の声は、これまでにないほど弾んでいた。衣服や私物を詰め込んだ大きな鞄を引っ提げ、アリシアを振り返ることもなく離宮を去っていったのは、十五時の鐘が鳴る前である。
「今夜はお祝いよ! 一番高価なワインを開けなくちゃ」
遠ざかっていく高らかな歓喜の声が、アリシアの耳に残った。
一人残された物音ひとつしない部屋で、彼女はじっと座っている。することも、したいこともない。ただ無為に時間が過ぎるのを待つ。
そして、いつもなら夕刻に届けられるはずの食事が、夜二十二時の鐘が鳴っても運ばれてこなかったときに、ようやく夫人が予定よりも早くこの場所から逃げ出したのだと気づいた。
明日からどうなるのだろう?
一抹の不安が胸をかすめる。どれだけ疎まれ無視されようとも、あの乳母の運んでくる粗末なスープと黒パンだけが自分の命綱だったのだ。このまま人知れず、侘しく死んでゆくのかもしれない。
けれど、それでもいい――。
「ううん……それが、いい」
小さな声が、ポツリと零れた。
アリシアは固い床の上に身を横たえ、そっと赤い瞳を閉じた。生まれてきてはいけなかったのなら、いっそ今すぐ消えてしまいたかった。
**
翌朝。
誰も来ないはずの離宮の廊下にコツコツと軽快な靴音が響いた。
冷たい床の上で目を覚ましたアリシアは、ピクリと肩を揺らし、咄嗟に身を縮こまらせる。
一瞬、男爵夫人が戻ってきたのかと思った。だが、あの高い踵の鳴らす神経質な音とは明らかに違う。
迷いなくまっすぐ近づいてくる靴音は、アリシアの部屋の前でピタリと止まった。
「だ、誰……?」
アリシアは固唾を呑んで扉を見つめた。
入ってきたのは、真っ白な法衣を纏った少年神官だった。
年の頃は十一、二歳だろうか。柔らかな金髪ときらめく金の瞳に目を奪われる。ポカンと口を開けて呆けている間にも、彼は優しく微笑みながら目前で跪いた。
「アリシア・カレド・ギルデンローゼン王女殿下。本日より、未熟ながらこのダリアンが、貴女様のお世話を仰せつかることとなりました」
アリシア……? ギルデンローゼン?
「呪い子」「不吉な子」「カレド」、今まで自分のことを示す名前はこれだけだった。それも嫌々世話を焼く乳母が不平不満を吐き出すためだけに使う記号のようなもので、直接呼びかけられたことはない。
きっと人違いだ。この少年はうらぶれた離宮に打ち捨てられた自分などではなく、もっと高貴な方のために呼ばれてきたのだろう。
「わたし……名前、カレド。アリシア、違う」
アリシアはふるふると頭を振り、ダリアンの勘違いを正そうとする。
するとダリアンは跪いたまま、困ったようにアリシアの赤い瞳を見つめた。
「いいえ。『アリシア』が貴女様の本当のお名前なのです」
嘘を言っているようには思えない。
困惑するアリシアを気遣いながら、彼はゆっくりと言葉を重ねる。
「貴女様が生まれた日、先代の大神官猊下によって、王太后様の名を受け継いだ、この国でも伝統あるお名前が紡がれました。そして貴女様の父君であられる国王陛下が、それを俗名として正式に採用なさったのです。『ギルデンローゼン』は、このハヴィルンド王国を統べる尊き王家にのみ許された姓。金の薔薇を意味するとても格式高い、美しい名前なのですよ」
「そんなの、知らない……」
だって、誰も教えてくれなかったから。
アリシアは父親に会ったこともなければ、薔薇なんて見たこともない。王家の格調など、知りようもないのだ。
「先代の猊下が崩御されたので、お耳に届いていないのも無理はありません。現在はフェルト猊下が新たな大神官として大聖堂を率いておられます。実は私がここへ派遣されたのも、そのフェルト猊下の命令なのです」
「ふぇると、げいか……?」
「はい。フェルト猊下のご実家は、現王家の分家にあたるレーヴ公爵家です。この度、貴女様のお世話を務めてこられた男爵夫人が乳母の職を退かれることになりまして、猊下は次の体制を整える前に、まずは現在の離宮の様子を正しく把握すべきだとお考えになりました。そこで先代の猊下の側仕えを務め、大聖堂の勝手を知る私に――」
ぐううぅぅぅ……。
朗々と語るダリアンの声が、頼りなく響く大きな音に遮られた。昨日の昼から何も食べていないアリシアの腹の虫が悲鳴をあげたのだ。
お腹は空いていたけれど、アリシアはそれどころではなかった。せっかく話しかけてくれたのに、機嫌を損ねてしまったらどうしよう。
アリシアの顔が、たちまち赤く染まる。
「あっ……あ、あの……」
取り繕おうと慌てて口を開く。だが、ダリアンは気を悪くするどころか穏やかに笑っていた。
「私としたことが、ついお喋りが過ぎてしまいましたね。さあ、まずは温かいお食事にしましょう」
ダリアンはふわりと立ち上がると、朝食を用意するために部屋を出ていった。




