終章 黒髪赤眼の聖女
昼の光は、ソルテス神の恵みと希望。
夜の闇は、ノクティア女神の癒しと救い――即ち愛である。
*
その後、ソレニア帝国を訪れたアリシアは、熱烈な歓迎を受けた。
「聖女アリシア様!」
「おお、闇の聖女よ……!」
「艶やかな黒髪とルビーのような瞳の美しいこと!」
「ノクティア女神とソルテス神の祝福ですわ」
かつてフェルトによって与えられた忌み名も、ここでは一転、祝福の名に変わる。
今まで「滅びをもたらす呪い子」「不吉な黒髪」と蔑まれてきたアリシアにしてみれば、その価値観の違いに驚き、にわかには信じられなかった。
法王フォルシウスに謁見したらすぐに帰国するつもりだったのだが、皇帝陛下への謁見、聖女お披露目の式典、歓迎パーティー、晩餐会……と、とにかく予定が目白押しだ。
さらにはハヴィルンド王国が鎖国を解き、正教に改宗することが決まったことで、戴冠式の打ち合わせや皇帝と外交的な話し合いもせねばならず、当分は帰れそうにない。
そう、アリシアは、正式にハヴィルンドの女王になることに決めたのだ。
「アリシア様は昔から真面目でしたからねぇ。文字の勉強に熱心に取り組み、女王になってからも休みも取らずに、毎日政務をこなしていましたし……もっと肩の力を抜いてもいいのですよ?」
そう言ってスヴェンは半ば呆れ、心配していたけれど、将軍のブラントはギルデンローゼンにしか忠誠を誓わず、かといって、一度廃した父と兄を復帰させるわけにはいかない。それに、国教を正教に改めるにあたり、聖女が国を治めたほうがいいだろうというのが、イヴァルを始めとする国の重鎮たちの意見である。
結局アリシアとしても、自ら座った玉座を簡単に放り出すことは、やはりできなかった。
そういうわけで、現在は使節団とともに帝都の迎賓館へ入り、その中でも一番格の高い特別室に滞在中だ。
豊かな大国らしい豪華なつくりのこの部屋は、寝室とは別に広々とした居間があり、大理石の床と壁、臙脂の布張りソファ、厚いガラス板のテーブルなど、選び抜かれた上質な家具が配置されている。
ハヴィルンドでは王にしか許されない金糸も、帝国ではカーテンやテーブルクロスといったあらゆる身分の布製品に惜しみなくあしらわれ、親しまれていた。
ここへは、スヴェンも一緒に来ている。彼は聖女の専属護衛騎士に任命されたのだ。
スヴェン・レナトゥス・フォン・ヴァルハイト……フォン・ヴァルハイトは、貴族の名前である。
彼は法王から新しい名前とともに聖騎士爵を授かっていた。この正教最高峰の特別名誉位があるお陰で、どんな格式高い場所にでも誰に咎められることなく同行できるのだ。
「……ア様……アリシア様!」
「ハッ……いけない、ぼーっとしてたわ。どこまでだったかしら?」
向かい側に座るスヴェンに呼びかけられて、我に返ったアリシアは、慌てて教科書をめくった。
聖女お披露目の式典など、公式行事はすべて帝国語で行われるため、母国語しか話せないアリシアは、急遽、帝国語を勉強しているのである。
真鍮脚のガラステーブルの上には教科書とノート、そしてクッキーが並べられた白い平皿が置かれていた。ひと口大の丸いクッキーには、砂糖で帝国語の言葉が書かれている。
「もう、集中してください。式典まで日にちがないんですから」
スヴェンの焦る気持ちはもっともなので、アリシアは文句を言わずに素直に従う。
「わ、わかったわよ。えーっと、この文字は……愛の『ヴェル』?」
「惜しい! 正解は『ヴォル』、願望です」
「うぐ……似たような綴りが多くて難しいわ。まさか、帝国語を覚えることになるなんてね」
また間違えてしまった……。
アリシアは、器用になんでもこなすスヴェンと自分を比べ、ため息が出そうになる。
彼はソレニア帝国へ渡り、たったの八年で聖騎士の団長にまで昇りつめた。当然のことながら帝国語も完璧で、そのうえリュートまで弾けるようになったのだ。
真教は聖職者の結婚が禁じられているが、正教では結婚して家庭を持つことはめずらしくない。
帝国における聖騎士の人気は高く、特に眉目秀麗なスヴェンの花嫁にと願うご令嬢は多かったのだそうだ。それが、生涯、聖女の騎士として忠誠を誓ったというので、ショックのあまり卒倒する女性が続出したらしい。
そんな非の打ち所がない彼にだって、何か一つくらい不得手なものがあるだろう。
そう思い、目の前の彼をじっくり観察してみるのだが、背筋をピンと伸ばしペンを持つ所作は優雅で、書き出される美文字も申し分なく、聖女専属騎士用の濃紺の騎士服がよく似合っていて、早速出端をくじかれてしまった。
「正教の本山がここですからね。公式の場は帝国語でないと。ほら、今回は特別ですよ? さあ、口を開けてください」
「あ……ん……」
スヴェンの手によって差し出されたクッキーを、アリシアは無意識のうちに口に入れていた。サクサクと咀嚼しているうちに、食べさせてもらったのだと気づき、急に恥ずかしくなる。
「も、もう、子どもじゃないんだから、自分で食べられるわ」
「おや、おかしいですね。いつもは、そんなことおっしゃらないのに……今日、心ここにあらずなのは、フェルト大神官とレーヴ公爵の処遇が決まったからですか?」
「……っ」
アリシアは、図星を指されて言葉に詰まった。
フェルトと彼に協力していたレーヴ公爵は反逆の罪に問われ、昨日その処遇が決まったばかりなのだ。
アリシアの母方の叔父と祖父にあたるこの二人は、死罪を免れた。身内を処刑すると聖女のイメージに傷がつきかねないと、政治的な判断がなされたのである。
その結果、フェルトはルビー鉱山で強制労働となり、高齢のレーヴ公爵は爵位を剥奪され修道院で事実上の幽閉となった。
アリシアはレーヴ公爵とは一度も会ったことはないが、彼はカリーナ先代王妃の父親で、宰相日録に記録があった先々代の王に婚約を破棄されたレーヴ公爵令嬢の兄である。
彼は反逆の理由について、こう述べていたそうだ。
『ギルデンローゼンなんぞ、信用できるか。王妃となるはずだった姉は婚約を破棄され、格下の地方貴族へ嫁がされたのだぞ。次の世代に持ち越された縁談は履行されたが、娘は精神を病む羽目になった。しかも、産んだ子どもは呪い子だという。これでは、我らレーヴ家が国を率いたほうが余程マシというものだ』
長年に渡って蓄積された憤懣が、彼に王家を見限らせたのだった。そのせいで、謀反と直接関係のない一族の幼子までもが、平民に落とされ領地の屋敷から無一文で追い出されることになる。
アリシアがしょんぼりすると、スヴェンは教科書を閉じた。
「今日はここまでにして、気分転換に庭を散歩しましょうか」
「え、ええ……」
立ち上がるスヴェンに誘われ、アリシアはガラス張りの両扉から中庭へと足を踏み入れる。
軒下を出た瞬間、昼の陽射しが顔を照りつけ、まぶしさに手をかざしながら空を見上げた。
青天を、一頭の飛竜が悠々と翼を広げている。
キュルルルルル……。
その鳴き声に答えるように、スヴェンが空に向かってピュゥゥゥと指笛を吹くと、馬の二倍ほどの大きさの竜が、ぐんぐんとアリシアたちのいる庭園に近づいて来た。
陽光を反射してきらめく純白の鱗と淡い銀の翼膜が肉眼でも見える距離まで降下し、まるでアリシアに挨拶するように低空飛行しながら小さく旋回すると、再び空高く昇っていく。
「あれは私の飛竜ですよ。聖騎士には一人一頭ずつ飛竜が与えられているのです」
「わぁ……! 本当にここは、何もかもがハヴィルンドとは違うのね」
手を伸ばせば届きそうなほど肉薄した白竜の迫力に、アリシアは感嘆の声を漏らす。
その様子を見たスヴェンが穏やかに言った。
「だから申し上げたでしょう。世界は広いのです。あの国の常識や価値観がすべてではないのですよ」
「そうね。帝国や他国では、夜空に架かる、あの虹のカーテンは見られないの?」
青空を翔ける竜も素晴らしいが、いつか見たあの夜空が虹色に揺らめく光景も美しかった。もしやハヴィルンドでは滅多に見られないだけで、異国ではもっと頻繁に起こるものなのではないか。ならば、もう一度見たいと思ったのだ。
「ハヴィルンドの王宮庭園で見た、夜空の虹のことですか? あれはオーロラと言って、聖女の力が発現する前兆だそうですよ。次に現れるのは、聖女の役目が終わるとき、つまり『神の聖夢』のあと、再び白夜が戻ってくるときですね。それは、三十年後のお楽しみとして――」
アリシアの願いとは裏腹に、聖典に示された貴重な光景なのだとスヴェンは言う。
そして彼は、アリシアの手を取り、裏庭の奥へと進んでいく。段々と濃くなる、ふんわりと包み込むような甘い香り……。
「あちらに薔薇が咲いていますよ」
よく手入れされた庭園には、鮮やかなピンクの薔薇が咲き誇っていた。
それは、二人が初めて会った日に、大理石の浴槽に浮かべられていた花びらと同じ色の薔薇だった。
「なんて綺麗なの……!」
花びらしか知らなかったアリシアは、もっと近くで見ようと駆け寄る。
白昼の大輪の薔薇……。
見ることはないと思っていたのに。
顔をほころばせるその後ろから、スヴェンが優しく問いかける。
「部屋に飾ってもらいましょうか?」
けれど、アリシアの口から零れたのは、答えとはまったく別の言葉だった。ふと首を傾げ、心底不思議そうな顔をして振り向く。
「そういえば、初めて会った日から、やたらと親切にしてくれたわよね。呪い子の私に膝を突いたり、お風呂に薔薇の花びらまで浮かべてくれて……。あの頃は聖女だって知らなかったはずでしょう。それなのに……どうして?」
「そ、それは……初めてお会いして…………アリシア様を……一目で…………」
いつも冷静なスヴェンが、明らかに動揺してモゴモゴと口ごもる。刹那、一陣の爽やかな風が吹き、庭の花草を揺らした。
「…………ったからですよ」
「え、なあに? 聞こえないわ」
「女神だと思ったからです……」
そう告白するスヴェンの顔は、耳まで赤く染まっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もう一話、スヴェン視点のおまけの番外編があります。




