20 女王の弾劾
「逃げなさい、スヴェン! 今すぐに」
一人佇むスヴェンの後ろ姿に叫ぶと、彼は金色の髪をさらりと揺らして振り向いた。ゆっくりとリュートを担ぐ動作に苛立ちながら、アリシアは息を弾ませもう一度大声を出す。
「逃げるのよ! フェルトが攻めて来たわ。彼の狙いは私だけだけど、女王の寵愛を受けているという噂の楽師を見逃すとは限らない。玉座の間に隠し通路があるの、ついて来て」
スヴェンの左手首を強く引っ張った拍子に、彼の手の中にあったリピーターが時を刻む。
ピーン……ピーン……。
スヴェンが太陽の紋様が彫られた蓋を閉め、ポケットに入れるのを見届けてから、もう一度手首を引っ張るとさして抵抗もなく彼の足は動いた。
「こっちよ」
目の見えないスヴェンに配慮して人の少ない南側の廊下を進み、王家専用の控えの間に入ってから続き扉を開けて隣接する玉座の間へとたどり着く。
がらんとした広間の重厚な正面扉は閉められたまま……。
アリシアはぐるりと辺りを見回し、誰もいないことを確認してから、玉座の後ろの壁にある巨大な王家の紋章のレリーフへ手を伸ばした。
「前にイヴァルが言ってたわ、非常時の隠し通路が、このレリーフの裏側にあるって。確か、仕掛けはっ……」
中央に刻まれた勇猛そうな鷹、交差する二本の長剣、そして下部を優美に包み込む大輪の薔薇――アリシアは、なでるようにレリーフに触れて仕掛けを探す。だが、なかなか見つからない。
こんなことなら、もっと真剣にイヴァルの説明を聞いておけばよかった……。
焦燥感に駆られて「どこよっ……」と声を荒げたとたん、ずっと黙っていたスヴェンがのんびりとした口調で問いかけてきた。
「一緒に逃げる覚悟ができたんですか?」
振り向くと、スヴェンはリュートを背負ったまま、危機感などなさそうな穏やかな笑みを浮かべている。
「いいえ、逃げるのはスヴェンだけよ。前にも言ったじゃない、もう逃げ出さないって」
「だったら私も逃げません」
スヴェンがあまりにもあっさりと即答するので、アリシアは一瞬、たじろいだ。そして、噛んで含めるように言い聞かせる。
「なっ……ちょっと、人の話を聞いてなかったの!? いい? フェルトの狙いは私だけなの。王宮の敷地から出てしまえば、わざわざ追跡はしないはずよ。でも一緒に捕まれば、きっと無事ではいられない。あの男の性格は最悪だもの、私の寵愛を独占していたという噂が耳に入れば、どんな嫌がらせでもするわよ。だから、おまえは逃げるの。わかったわね」
再びレリーフを探ろうとスヴェンに背を向きかけると、彼のよく通る声が響く。
「嫌ですよ。ここで逃げたら、一生後悔するじゃないですか。そんなの御免です」
「何を言っているのよ! これは私の問題で、おまえは無関係でしょ。一時の感情で巻き込まれてどうするのよ」
「おや、もう巻き込まれているのかと思っていましたよ。一緒に禁書庫の隠し扉を探したり、宰相日録を読み漁ったでしょう。もうお忘れですか?」
「こんな時に、ふざけないで! 解雇よ……おまえはもう私付きの楽師じゃないわ。出ていって」
「自由の身なら、自分の意志でここにいます。そうそう、まだ演奏料をいただいていませんしね」
「……お金なら、このルビーの耳飾りとダイヤモンドのネックレスをあげるわ」
「それに、私の目では途中で捕まってしまうかもしれませんよ?」
「だったら隠れていればいいでしょう! もうっ、どうしてそんなに頑固なのよっ!?」
アリシアは、とうとう癇癪を起した。それに対して、目の前で落ち着きを払っているスヴェンは、どこか余裕さえ感じられる。
なんなのよ、もう……。
「……私、おまえがただの楽師じゃないって知ってるわ」
アリシアがかねてより抱いていた疑念を口にすると、スヴェンは初めてその口元から笑みを消した。
「転びそうになったとき、抱き留められて気づいたの。楽師とは思えない鍛え抜かれた身体よね。でも、フェルトの刺客にしては危害を加える様子はないし、外部と連絡を取っている気配もない。おまえが何者で、何が目的なのかは訊かないわ。でも、もし私の敵だというなら、今ここで殺しなさい。そうでないなら……お願いだから、今すぐ逃げてよ!」
「アリシア様……」
名前を呼ばれ、堪らずアリシアはスヴェンの身体を揺さぶった。
フェルトに捕まるくらいなら、スヴェンに殺されたほうが何倍もいい。けれど、何より、彼に無事でいて欲しかった。
「逃げて……スヴェンが死んだら、私は……生きていけない……」
絞り出すように紡いだ言葉は、アリシアの素直な気持ちだった。
すると、ぽん、とスヴェンの大きな手のひらが彼女の頭の上に置かれ、優しい声が落ちてくる。
「まったく貴女様ときたら……。アリシア様に何かあったら、私が生きていけないとは思わないのですか?」
「え……?」
意外な言葉に驚いて、アリシアがスヴェンを見上げると、彼の顔に笑みが戻っている。
「お互い何かあったら生きていけないなら、いっそ一緒にいたほうがいいじゃないですか。それに、私は――」
スヴェンが言い終わらないうちに、バァァンと正面扉が開け放たれる荒々しい音が響き渡った。
反響する重音と、玉座の間へとなだれ込んでくる不規則な靴音。
レーヴ家の私兵と思しき兵士たちを従え、堂々と先頭に立ち広間の真ん中を進むのは、大神官フェルトであった。
兵士のあとには洗脳から醒めた神官たちが続き、その中にはロニーやエッペの姿もある。神官の列に混じり、数名の大臣と事の次第を見届けようとする貴族の姿もちらほら見受けられた。
フェルトは銀糸の刺繍された祭服を纏い、胸に太陽徽章をつけている。そして、右手には王家の紋章と同じ長剣を握っていた。
フェルトは壇上の玉座の前で寄り添う二人を一瞥し、侮蔑を含んだ笑みを浮かべる。
「もはや逃げ場もなく追い詰められているというのに、こんな時までお気に入りの楽師を侍らせているとは。つくづく浅愚なことだ」
「フェルト……!」
アリシアは、大神官を真正面から睨みつける。しかし、彼は自身の勝利を確信したかのように切れ長の青眼を細め、その視線を受け止めた。
「カレドよ。おまえは不当に先王を廃して玉座に居座っている、ただの簒奪者だ。真教は……神はおまえを王などとは認めていないのだよ。呪い子が女王と称するなど、断じて許されない。そればかりか――」
広間にいる皆に聞かせるように、自らの正当性を朗々と語り出したフェルトは、さらに声を強める。
「呪い子のおまえは、災いそのもの。存在すらしてはならないのだ」
「なんですって! 決して呪い子を殺してはならない、それが大神官に代々受け継がれてきた真教の絶対教義でしょう? それを大神官自ら曲げようっていうの!?」
アリシアが言い返すと、神官たちが騒めきだす。貴族の中からも「教義ゆえに王命が下ったと聞いていますわ」とヒソヒソと会話する声が聞こえてくる。
彼らのどよめきを打ち消すように、フェルトは大声を張り上げた。
「そもそも、その教義こそが間違いだったのだ!」
再び広間が静かになる。
「おまえという呪い子のせいで、現実に極夜が訪れてしまった。農作物は育たなくなり、食糧庫の備蓄も残りわずか……。だが、見よ! 本日、こうして空は晴れ渡った。これこそが、呪い子を排除せよというソルテス神の思し召しに他ならない!」
フェルトが高らかに持論を主張した直後、神官や貴族たちの冷ややかな視線がアリシアに突き刺さった。
「……っ」
アリシアは唇を噛む。何も言い返せない。
どうして呪い子を殺してはならないのか? その根拠を示した文献さえ、初代ギルデンローゼンが遺してくれていたら、フェルトの言い分など覆せるのに。
フェルトは、はたとアリシアを見据え、嘲笑うかのように口の端を持ち上げた。
「本来ならば宗教裁判にかけ、その罪を裁くべきところだが……」
握っていた白銀の長剣を両手で構え、ゆっくりと玉座のある壇上へ一段ずつ上っていく。
「この呪い子がいる限り、いつまた世界が極夜に呑み込まれるかわからん。よって、真教の大神官である私が神の御名において、今ここで聖なる裁きを下す!」
白い祭服の裾をなびかせ、頭上高く剣を掲げたフェルトは、勢いよくアリシアの首元へと振り下ろした。
アリシアは動けなかった。死を覚悟して、咄嗟に目を瞑った――その時。
キィィンッ……。
刃と刃が重なり合う音とともに、木片が砕ける気配がした。
アリシアが目を開くと、そこには自分を庇うように躍り出たスヴェンの背中が見える。
「なっ……!」
フェルトが驚愕の声を上げる。
スヴェンが掲げたリュートは一撃を受け止め、バラバラに砕け散っていた。そして、内部に仕込まれていた腕の長さほどの小剣が露わになる。
スヴェンは、剥き出しになったその柄を素早く握り直すと、大きく横に薙ぎ払いフェルトの剣を弾き飛ばした。




