五章 19 フェルトの奇襲
この日、朝の執務室には、地平線を這う太陽の赤紫の光が差し込んでいた。
赤く丸い輪郭がほぼ表れてはいるものの、まだ辛うじて薄闇を保っている。しかし、陽が昇るのは時間の問題だろう。明日か、明後日か、あるいは……。
アリシアが窓から外の薄明りを覗いていると、定刻どおりにイヴァルが書類を持って入ってきた。この老宰相が小難しい顔をしているのはいつものことで、机の上へ急ぎの書類から順番に並べる仕草に変わった様子はない。
「陛下、本日の決裁書類でございます。それから、先王マテウス様と廃太子ヨアキム様の移送が完了いたしましたので、こちらがその報告書です」
アリシアは机から報告書を摘まみ上げた。先王に忠誠を誓う護衛たちの名前や移送に費やした金額などの詳細が、小さな文字でみっしりと書かれている。
「そう、無事に着いたのね」
「はい。カリーナ様の静養先の別邸で、現在は穏やかに過ごされているとのことです」
家族水入らずで……と、言外にそう言われているような気がした。
父マテウスの愛しい妻で、叔父フェルトの優しい姉、兄ヨアキムからすれば温かな母は、アリシアにとって自分を厭う他人のようなものだ。決して、その輪の中には入れない。
アリシアは、小さく吐息して報告書を机に戻す。
「ご苦労様。下がっていいわ」
「では、また正午に回収にまいります」
恭しく礼をして去っていくイヴァルを見送り、机に向かったアリシアは、真面目に羽根ペンを走らせていく。
並べられた書類の中には、ブラントからの報告書もあった。
あれから間もなくして暴動が鎮静化したとの一報が入り、その後は、逃亡している残党の追跡に手こずっているのだ。報告書には彼の武骨な文字で、王都への帰還は、もうしばらくかかるだろうと記されていた。
暴動が広がらずに鎮静化できたことはよかった。しかし、兵力の心もとない田舎ならいざ知らず、王家と権力を二分するレーヴ家の領地で残党の追跡に苦慮することなんてあるだろうか? レーヴ公爵の部下たちは? 土地勘のある私兵たちは、何をしているのだろう? どうにも腑に落ちない。
「フェルトとレーヴ公爵がグルだとして……」
アリシアは、雑記用の白い紙切れに書きつけていく。
最初は地方で小さな暴動を次々と起こす。王家が軍を派遣するように仕向け、王都の兵力を分散させて削いでいく。そうやって王宮の守りを手薄にすることが狙いだったとするなら……?
「もしかして、自分たちの本拠地で暴動を起こしたのは、王家に援軍を要請してブラントを……いえ、白鷹親衛連隊を呼び寄せるため……? まさか暴動は囮で、残党が捕まらないのは時間稼ぎなんじゃ……」
今、王都にいるのは近衛だけだ。彼らは王都の治安維持もしなければならないから、女王だけを守るわけにはいかない。いかに強固な結界があろうと、商人などの行き来に紛れて少数精鋭の部隊を中へ送り込むことさえできれば、攻め入ることは容易なのではないのか?
これは単なる思いつきだ。けれど、嫌な予感がする。
その時、正午を告げる鐘の音が響き渡り、窓の外へ目を向けたアリシアは、思わず息を呑む。
「いつの間に……」
そこに広がっていたのは、澄み切った青空だった。
アリシアは、朝から灯しっぱなしのランプを消して窓辺に駆け寄る。
自分の身体からは、もう闇の力は感じられない。何度試しても漆黒の触手は、一本も出てきやしなかった。
洗脳も解けたはずだ。その証拠に、毎日正午ぴったりに書類を回収しに来るイヴァルは、姿を現さない――。
アリシアは王宮の様子を把握するため、執務室を出てひとまず小食堂へ行ってみることにした。途中でスヴェンの部屋へ寄り、共に廊下を歩く。
昼食の時間なので、通常であれば二人分の食事が用意されているはずだ。
「お腹が空きましたね」
「おまえは呑気ね。闇の力がなくなって、結界が消滅したっていうのに」
「こんな時こそ食べないと、元気が出ないじゃないですか」
スヴェンが腹をさする。
すれ違う臣下や使用人たちに、特に混乱は見られない。しかし、仕事をこなしながらも、どこか合点がいかないように首を傾げたり、ぼんやりとした表情を浮かべていた。
洗脳されていない貴婦人たちは「まあ、久しぶりの青空ですわ」「これで、やっとお茶会が……」などと喜びの声を上げ、浮かれている。
小食堂に入ると、厨房へ続く中扉から料理長が顔を覗かせて、二カッと笑った。
「お二人さん、ちょうどエンドウ豆のスープが出来上がったところだ。さあ、座った、座った!」
湯気の立ったスープ皿を乗せたトレイを持つ、恰幅のよい身体が姿を現す。その様子は、昨日と少しも変わらない。
いや、そもそもこの男は、正気と洗脳時の区別がつきにくいのだった。
「料理長……混乱していないの? 洗脳が解けたんでしょう?」
思わずアリシアが尋ねると、料理長は手早く皿をテーブルに置きながら答えた。
「なんだか長い夢から醒めたような気分ではあるんだが、これが洗脳かどうかは、俺にはよくわからん。だがな、姫さん――いや、女王様、俺の仕事は、うまい料理を作ることだ。これまでも、これからもな」
「……これからも、私のために作ってくれるの?」
料理人の仕事は美味しい料理を作ること。アリシアがその矜持に胸を打たれていると、料理長は怪訝な顔になる。
「当たり前だろう。女王様が小さかった頃から、ずっと作ってきたんだからな」
アリシアは料理長の言葉に耳を疑った。
「え……ずっと!? 冷めたスープと硬い黒パンじゃなくて?」
「はあ? それはエッペのやつが用意していた夜食のことじゃないのか? この厨房が閉まったあとは、使用人用の調理場しか開いてないからな。一日三食、ふわふわの白パンを乳母やロニーたちが持って行ってたはずだぞ。女王様のために腕を振るった料理と一緒に」
「……っ」
料理長は、ずっと料理を作り続けてくれていた。それなのに、乳母や食事係の見習い神官たちは、使用人の食事と入れ替えて届けていたのだ。豪華な料理は、自分の代わりに乳母やロニーたちが食べていたのだろう。
フェルト……!
彼の差し金に決まっている。よもや養育費だけでなく、食事まで横取りしていたとは。
アリシアは、怒るよりも呆れてしまい、開いた口が塞がらなかった。
そうしているうちにも、テーブルにはエンドウ豆のスープのほかにベーコンとライ麦パンが並べられた。
白パンではなかったけれど、今までの昼食で一番美味しく感じられる。
「……まあ、今日は、薪を節約するために二日前に焼いたライ麦パンだから少し硬いがね。このエンドウ豆のスープに浸して食べれば絶品だ」
ライ麦パンを齧るのに苦労するアリシアを見た料理長は、そう言って鷹揚に笑った。
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昼食を済ませてアリシアが執務室へ戻ると、そこにはイヴァルが立っていた。
「もう、ここへは来ないと思っていたわ」
洗脳が解けた今、呪い子の女王に仕える義理はないはずだ。それとも、自分を操り人形にしたと、文句でも言いに来たのだろうか。
不思議に思っているアリシアに、イヴァルは真っすぐ視線を向ける。
「この身に何が起きたのか、すぐには理解できませんでした。ゆえに、陛下が即位されてからの過去七十日分の宰相日録を読み、各省の執務状況を確認しておりました」
「宰相日録を?」
「はい。陛下は毎日欠かさず執務をこなし、この『終末の極夜』の対策にも積極的に取り組んでおられました。ここで政務を滞らせることは得策ではないと判断し、部下たちには通常どおり職務に励むよう通達しました。王宮内に大きな混乱は起きないはずです」
イヴァルは、宰相として国の利益を優先し動いていた。それもまた、矜持なのだろう。彼や大臣たちが優秀だから、アリシアは決裁書類にサインをするだけなのだが。
その宰相の顔が険しくなった。
「ですが陛下……これは嵐の前の静けさに過ぎませぬ。王都の結界が消えたと、先ほど近衛隊長から報告がございました。ブラント将軍も不在……フェルトは、この好機を逃しますまい」
重々しい言葉が発せられると、先ほど心を温めてくれた料理がなかったかのように、アリシアは自分の窮地を実感させられ急に心細くなる。
「至急、ブラントを呼び戻して」
「畏まりました。しかし、レーヴ領からは時間がかかりますゆえ、王都近郊の街に派遣中の第二守備部隊にも召集をかけてはいかがでしょう」
「お願い……」
イヴァルが執務室を出ていき、アリシアだけが残された。
フェルトは王都を去ったあと、計画的に事を進めてきたはずだ。洗脳が解けた王宮礼拝堂の神官たちも、フェルト側につくだろう。
果たして間に合うだろうか?
「ああ、私って、闇の力がないと本当に無力なんだわ」
アリシアは執務椅子の背もたれに身体を投げ出した。
それから、じりじりと時が過ぎ、手元の懐中時計が十四時を回った頃、慌ただしい靴音とともに一人の近衛兵が入ってきた。
「陛下! フェルト猊下の手勢が正門を突破し、王宮に侵入! 礼拝堂の神官たちも彼らに続き、進攻中です」
「なっ……! もう王宮に?!」
予想よりも早いフェルトの行動に、アリシアは驚きの声を上げる。
嫌な予感は、最悪の形で的中した。彼らは遠くから進軍してきたのではない。すでに王都内に潜み、虎視眈々と奇襲の機会を狙っていたのだ。
「彼らの狙いは、陛下ただお一人です! フェルト猊下は『極夜を招いた呪い子であり、真教の許しなき不当な簒奪者だ』と陛下を糾弾。貴族や近衛の中にはその言い分に寝返る者も現れ、敵軍はほぼ無血のまま、進軍を続けております」
初代ギルデンローゼンがソルテス神より託されたこのハヴィルンド王国では、最高位の聖職者から王冠を授かることに大きな意味がある。真教に認められるということは、神に認められることと同義だからだ。そして、アリシアは、まだ戴冠式を終えていない。
真教の最高位にあるフェルトが不当だと主張するのなら、人々が賛同するのも道理だった。
「わかったわ。近衛は、王都の治安維持に注力しなさい」
アリシアは言うが早いか、執務室を飛び出した。向かうはスヴェンの部屋――。
廊下にいる日和見の貴族たちが「女王側についていたと知られたら罰せられるんじゃないか」「フェルト猊下についた方が……」と戸惑い右往左往している。
その間を縫って駆け抜けていく。赤いドレスの裾をなびかせ、アリシアは体当たりするように彼の部屋の扉を開けた。
「逃げなさい、スヴェン! 今すぐに」




