18 夜明けの足音
ブラントが出陣して七日目の朝、アリシアは身体の異変を感じて目を覚ました。
わずかな倦怠感。昨日までみなぎっていた闇の力が勢いを失くし、少し弱くなっている気がする。
風邪かしら……?
このところ、禁書庫を探したり、乳母を断罪したりと立て続けにいろいろなことがあって慌ただしかった。即位直後に退屈していたのが嘘のようだ。もしかしたら疲れが出たのかもしれない。
水を飲もうとベッドから身体を起こすと、窓辺のカーテンが目に映る。吸い寄せられるように近づいていったのは、いつもと比べて、なんだか明るく感じられたからだ。
あれから不思議な虹のカーテンは一時間ほどで消え、以来、一度も現れていない。もしや、またあの美しい光景が見られるのではないかと期待して、アイボリーのカーテンを引く。
「そんな……空が……」
深い闇だったはずの夜空が、見覚えのある濃い赤紫に染まっていた。極夜が訪れる直前の、あの薄闇だ。
アリシアは急いで身支度を整え、何が起きているのかを直接自分の目で確認しようと、建物の最上階――地平線まで見渡せる小さな塔へと向かう。
はやる気持ちを押さえ、息を切らせて螺旋階段を駆けあがった。急に視界が開けたその先には、信じがたいことに、ほんのわずかに太陽が顔を覗かせている。
夜が明けたわけではないから、洗脳が解けることはないはずだ。けれど、王都に張り巡らせている茨の結界の力は弱まってしまう……。
ブラントからレーヴ領の暴動を鎮圧したという報告は、まだ届いていない。
国や民のことを考えるのなら、このまま夜が明けることが望ましい。しかし、それはアリシアを窮地に追いやることでもあるのだ。
洗脳が解け、イヴァルやロニーが正気に戻ったら? 衛兵のなかにはマテウスとヨアキムに忠誠を誓う者もいる。
王都の結界を維持できなくなり、漆黒の触手さえ操れなくなれば、フェルトは好機を逃さず攻め入って来るだろう。
その時は今度こそ、自分は呪い子として処刑されるかもしれない。
そんなふうに焦る自分を、アリシアは滑稽に感じた。
どうせ、三十年後に夜は明けるのに、そのあとはどうするつもりだったのか。ずっと遠い未来のことだからと甘く考えていた。
まるで、『終末の極夜』が訪れる未来を憂慮することなく、すべての資料を破棄してしまった初代ギルデンローゼンみたいだ。
アリシアは塔を下り、トボトボと自分の部屋へ戻る。
廊下をすれ違う貴婦人たちは「吉兆ですわ」「神に祈りを……!」と感涙し、いそいそと王宮礼拝堂の方へ歩いて行く。
いつものように、執務室にイヴァルが書類を持って現れる頃には、宮廷の至るところから歓喜の声が上がっていた。
「陛下、王都の民たちも『ソルテス神が戻られたのではないか』と湧きたっております。夜明けの前兆に違いない、と。もしかすると、例の物を待たずして、救われるやもしれませぬぞ!」
「……そう。よかったわね」
興奮気味に報告するイヴァルに、アリシアは、そう短く返すのがやっとだった。
わずかに顔を出した太陽は、正午過ぎに再び地平線の向こう側へと沈み、暗い夜空へと戻った。
国の安寧を願わねばならない身でありながら、アリシアは内心ホッとする。そんな醜い心根に嫌気がさし、しばらく一人で頭を冷やそうと庭へ向かう。すると、どこからともなく現れたスヴェンが、後ろからついてきた。
「呼んでないわよ。せっかくだから、自由な時間を楽しんだらどう?」
演奏は不要だと言うと、「お言葉に甘えて自由にしていますよ」と答えるので、結局二人並んで庭を歩くことになった。
「…………」
「何かあったんですか?」
目で見えないものに敏感なスヴェンは、二人の間に流れる空気がいつもと違うことを察して口を開く。
けれど、訊いてほしくはなかった。どうしたら、この弱く醜い自分を誤魔化せるだろう?
アリシアは慎重に言葉を選ぶ。
「何もないわ。ただ、ほんの少し太陽が顔を覗かせただけ。皆は喜んでいるわ」
「アリシア様は? 嬉しくないのですか?」
事実だけを述べたのに声色を読んでくるから、この男はやりにくい。嘘をついても仕方がないので、アリシアは率直に答えた。
「もし夜が明けるなら、喜ばしいことだわ。だけど、私の力は陽が昇っている間は発動しないの。王都を囲う茨の結界が壊れる事態になれば、将軍のブラントと白鷹親衛連隊の主力がいない今、フェルトたちが攻めてきたときにひとたまりもないわ」
「怖い、ですか?」
「……そうね。あの男は私を恨んでいるから、また幽閉されるか……いえ、処刑するでしょうね。呪い子を殺してはいけないなんて教義は、『終末の極夜』が終わってしまえばもう関係ないんだもの」
スヴェンは何も言わずに、アリシアの言葉を受け止めていた。
二人は、ひんやりとした夜風に吹かれながら、ゆっくりと歩く。
生垣を抜けた先には、母である先代王妃のカリーナが好きだったという薔薇園がある。極夜のせいで、今はもう見る影もないが。
そういえば白昼の薔薇を見たことがなかったと、アリシアは、はたと気づいた。離宮の裏庭に薔薇はなく、自由に散歩できるようになった頃には、空は赤紫の薄闇に包まれていたからだ。
アリシアは、呪い子ではあるが昼の光が嫌いなわけではない。ただ、慣れ親しむ機会がないというだけで。
「せめて一度くらい、昼空の下に咲き誇る薔薇を見たかったわ……」
うっかり弱音を吐露してしまい、唇を噛む。隣のスヴェンの顔を盗み見ると、彼はクスッと笑った。
「そんな言い方、アリシア様らしくないですよ。どんな夜も、いつかは明けます。その時、存分にご覧になったらいいじゃないですか」
「でも、その時は……!」
不意にスヴェンの温かな手が、アリシアの両手を優しく包み込んだ。
「その時は、私がアリシア様を連れて逃げて差し上げます。貴女様に、このハヴィルンド王国を捨てるつもりがあるのなら」
「異国へ……?」
予想もしなかった言葉。想像もつかない選択肢だ。
逃げる……スヴェンと二人で……?
「ええ。誰も私たちを知らない土地です。世界はね、広いのですよ。この小国の常識や価値観がすべてではないのです」
アリシアの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
スヴェンがそう言うのなら、この世界で一人しかいない黒髪赤眼の自分を受け入れてくれる、そんな場所がどこかにあるような気がした。
けれど、思い出すのは、王位を望んだあの日の散歩道。衛兵に言われてヨアキムを避けるために引き返した王宮庭園は、ちょうどこの薔薇園の近くだった。
「……スヴェンと一緒なら、きっと楽しいでしょうね」
アリシアはぽつりと呟き、スヴェンの手をそっと振りほどく。
「でも、ダメよ。私はハヴィルンドの女王だもの。お父様から奪った玉座を、途中で投げ出すことなんてできないわ。それに決めたの。もう無様に尻尾を巻いて逃げ出したりなんかしない、って」
「アリシア様、私は……いえ、わかりました。でもきっと、貴女様が心配しているようなことは何も起こらないと思いますよ。目が見えないせいか、昔からこういう勘はよく当たるんです」
アリシアの決意に満ちた声が凛と響くと、やはりスヴェンは穏やかなまま言葉を紡いだ。そして、彼女の手を取り、慣れた道を進む。
何を言いかけたのか訊きそびれたまま、顔を赤くしたアリシアは、スヴェンの大きな手に引かれ後を追う。
これは、ただの散歩だ。
けれど、繋がれた手を離したくないと思ってしまうのは、きっと…………その続きは考えないことにした。
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この日を境に、太陽は地平線からほんの少し顔を出すようになった。
初日に正午までだった濃い赤紫の薄闇の時間は、数日で夕刻まで延び、太陽の輪郭も日を追うごとに少しずつ膨らんでいく。
それは人々にとっては希望の兆しであり、王宮の者たちの表情も明るい。
このまま太陽が復活すれば、畑を耕すことができるようになるだけでなく、ランプオイルの消費も少なくなる。いいことずくめだ。
しかしアリシアの目下の悩みは、その光り輝く姿が露わになるにつれ、弱まっていく己の闇の力だった。
そして、とうとうイヴァルが血相を変えて執務室へ駆け込んできた。
「陛下、王都を覆っていた茨の結界が、目に見えて脆くなっております!」
今日は、太陽が半分ほど顔を出していた。空は赤紫の薄闇。少なくとも王宮の中では問題はない。けれど、王都を網羅できるだけの力は、もう……。
「もしや、あのスヴェンという楽師が宮廷に来てから、陛下の力が弱まっているのではございませんか? 奴が陛下に何かしたのでは……」
「黙りなさい、イヴァル!」
アリシアの一喝で、イヴァルは口を噤んだ。
「違うわ、スヴェンのせいじゃない。夜の闇が薄れたからよ」
「……言葉が過ぎました。無礼をお許しください」
「ブラントからの報告は、まだ?」
ブラントが出陣してから二十日ほど経つ。そろそろ一報があってもおかしくはない。無事に暴動を鎮圧できていればいいが……。
しかし、イヴァルは首を横に振った。
「はい」
「……そう」
深々と頭を下げて退出していく宰相の背中へ、アリシアは寂しげに呟く。
「洗脳が解けたら、あなたも敵に回るんでしょうね……」
それからしばらくの間、執務に没頭していたアリシアは気分を変えようと思い立ち、庭にスヴェンを呼んで一曲所望した。
「明るい曲にしましょうか?」
女王を元気づけるかのように問いかけるスヴェンに返した言葉は、その答えではなかった。
「どうしよう……スヴェン。もう、結界が保たない……!」
涙が零れ、彼に縋りつく。
いつから自分は、こんなに弱くなったんだろう……。
そんなアリシアをスヴェンは優しく抱き留め、何も言わずにずっと背中をさすり続けた。




