四章 16 乳母の断罪
「あーあ。結局、フェルトを見つけないと、あの禁書金庫は開けられないなんて……」
スヴェンと二人、小食堂で夕食をとりながら、アリシアはガックリと肩を落とした。ついつい口から愚痴が零れる。
テーブルの上には、琥珀色のオニオンスープにパン。香ばしく焼かれた子羊のロースト、その横にバターで煮詰めたニンジンのグラッセが添えられている。
陽が昇らなくなって一月が過ぎた今は、もう新鮮な野菜や果物は食卓に上らない。乾燥させたキノコやトマト、長期保存が可能なジャガイモなどの根菜類、瓶詰にした酢漬けなど、備蓄用の野菜を使用した料理である。白くふわふわだった王族用のパンも、保存性の高いライ麦パンに変わった。燃料の節約のために、一度に焼いたパンを数日に分けて食べるのである。
そんな食事事情に危機感を抱いたのか、貴婦人たちのお茶会の頻度は目に見えて減っていった。
「猊下の行方は、まだわからないのですか?」
「ブラントも手を尽くしているけど、まだ掴めていないわ。レーヴ家が匿っているかもしれない、とイヴァルが。なんだか、振り出しに戻った気分だわ」
「筆頭公爵家の邸宅を、勝手に家探しするわけにはいきませんからね。お気持ちはわかります」
スヴェンは、以前より品数の少なくなった晩餐に不満を言うでもなく、ニンジンのグラッセを口へ運ぶ。そして、ゆっくりとワインで喉を湿らせてから、アリシアが考えもつかなかったことを口にした。
「ですが、アリシア様。猊下を見つけ出さなくとも、もう一つ方法がありますよ。ソルテス正教の原典を紐解けばいいのです。あちらはこの国と違い、過去に何度も『終末の極夜』を乗り越えているはずですからね。それが一番、手っ取り早い」
あっ、と声が出そうになった。子羊の肉にナイフを入れていたアリシアの手が止まる。
確かに、分派の真教よりも本流である正教の方が歴史も長く、資料も充実しているに違いない。もし取り寄せることができれば……いや、しかし――。
「そうだけど……この国では厳罰に処される大罪よ。おまえは、女王である私に罪を犯せというの?」
ソルテス真教を国教とするこのハヴィルンド王国では、それ以外の宗教を布教することは禁じられ、特に罰則が厳しい。交易の際の検問も厳重だ。
アリシアが悩んでいると、スヴェンはそれを察したように肩をすくめた。
「無理にお勧めはいたしません。そういう方法もある、というだけの話です」
「考えてみるけど……たぶんイヴァルが反対するでしょうね」
すぐには決断できず、アリシアは曖昧に言葉を濁すことしかできなかった。
翌朝、アリシアは、執務室で決裁書類を受け取りながらイヴァルに尋ねる。
「どうやら禁書金庫の鍵は、大神官が持つ太陽徽章のことらしいの。だけど、ブラントがフェルトを見つけ出すより、ソレニア帝国から正教の原典の写しか『終末の極夜』に関する資料を手に入れたほうが早いと思うのよ。イヴァルの考えはどう?」
洗脳済みのこの男に意見を求めるのは、自分の考えが正しいのかそうでないかを判断するためだ。
イヴァルは、アリシアの命令には絶対に逆らわないが、尋ねれば躊躇せずに反対意見を言う。おそらく、今までもそうやって父に仕えてきたのだろう。
案の定、イヴァルは苦り切った顔になった。
「な……! さすがに陛下でも、それは……」
アリシアが権力で法を改定し強引に事を成せば、信徒たちの反感を買うだろう。それでは、フェルトを始めとする反乱分子を勢いづかせ、自分の首を絞めることになりかねない。
「わかってるわ。でもね、三十年もの極夜なのよ。食料の備蓄はあと二月もすれば尽きてしまう。このまま国民が飢えるのを待つのか、それとも正教に一縷の望みを託すか、どちらが為政者のとるべき道だと思う?」
アリシアの言葉に、イヴァルは細い顎をさすり黙り込む。しばらくそうしてから、アリシアのすぐ傍まで近づき、盗聴を警戒するかのように声を落とした。
「……確かに、悠長にしている時間はないかもしれませぬ。ならば、裏から手を回して取り寄せる方法を考えましょう。スヴェン殿を王宮に連れて来た、あの辺境の領主を利用するのです」
「あの領主を?」
アリシアも声をひそめる。
「はい。あの男の領地は帝国側にある東の交易エリアに近く、陛下への貢物も相当なものでございました。おそらく普段から商人たちと懇意にしているのでしょう。彼の伝手を使って、密かに物を運び込ませるのです。陛下は、ただ貢物の褒美として一時的に交易特権を与えてくださればいいのです」
「スヴェンを気に入ったその褒美という名目で、彼の取引する荷だけ検問を緩めるということね」
「左様にございます」
「わかったわ。それで進めてちょうだい」
アリシアが命じるとイヴァルは一礼して数歩後退し、元の位置まで戻った。
「ところで、お父様とお兄様のことだけど……」
決裁書類に署名をしながら、アリシアは先ほどの密談などなかったかのような口ぶりで切り出す。
「このままいつまでも地下牢に入れておくわけにもいかないでしょう? お母様の静養先の別邸に移して、そこで幽閉しようと思うの」
「処刑はされないのですね」
意外そうな顔をするイヴァルに、アリシアは書類から顔を上げて頷く。
「ええ。地下牢で情報をくれたお父様と、そういう約束をしたからね。それにお母様と一緒なら、お父様たちも妙な気を起こさないと思うし、監視の目も行き届きやすいでしょう」
「なるほど、畏まりました。さっそく移送と警備、生活のための予算を組みましょう」
イヴァルは上着のポケットから使い込まれた小さな手帳を取り出し、素早く書き留めると、ふっと遠い目をした。
「実を言うとこのイヴァル、陛下のご決断に安堵しております。マテウス様とカリーナ様は、仲睦まじいご夫婦でいらっしゃいました。お二人はアリシア陛下の誕生を、本当に楽しみにされていたのですよ」
イヴァルがポロリとこぼした昔話を、アリシアは特に感動する様子もなく聞いていた。そして、また一枚、決裁書類に署名をして淡々と言う。
「へえ。生まれてすぐ私の首を絞めたって聞いたけど?」
「……王には、清濁併せ呑む覚悟も必要なのでございます。マテウス様は情を移してはならないと、離宮へ会いには行かれませんでしたが、暮らしに困らぬよう十分すぎるほどの予算をお与えになっておりました」
「地下牢のお父様からは何も聞いてないけど? 冷えたスープとカチコチのパンの食事が十分な予算? ふうん、この国は随分と予算に余裕があるのね」
「マテウス様は、言い訳を好まれぬ性格ゆえ……」
アリシアの嫌味にイヴァルは、毎月の定期報告に異常はなかったのだと説明した。だからこそ、アリシアが金糸の刺繍された豪華な深紅の衣装を纏って玉座の間に現れたときは、その潤沢な予算で誂えられたものだと思ったらしい。
つまり、予算をかすめ取った者がいるということ……。
「……お調べしましょうか?」
「お願い」
アリシアは、怒気を含んだ鋭い声で命じた。
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その数日後、王宮の謁見の間では、玉座に腰掛けたアリシアが、目の前に跪く男女を冷たい視線で見下ろしていた。
かつての乳母である男爵夫人のウルリカと、その夫であり徴税官の職を得たハラルドである。
ウルリカが乳母の職を全うした対価として男爵から子爵に格上げとなったため、ホート子爵夫妻と言った方が正しいだろう。
アリシアが離宮にいた頃は、彼女の名前を知る機会がなく、イヴァルの報告書で初めて覚えたのだが。
「……さて、なぜここに呼ばれたか、わかっているわよね?」
アリシアは腕を組み、重々しく問いかけた。肩にかけたショールの衣擦れの音が、やけに大きく感じられる。
その瞬間、ウルリカは顔面蒼白となり、ガタガタと震え出した。アリシアの赤い瞳と目が合うと、床に額を擦りつけるように平伏する。彼女の後頭部が露わになり、薄茶の髪を飾るエメラルドがランプの明かりにきらめく。
一方、その隣で跪くハラルドは何も知らないのだろう。妻のただならぬ様子に眉をしかめつつもアリシアに返答した。
「恐れながら陛下、私どもには身に覚えがございません。私の務める徴税官の職務にも滞りがあるとは思えませんが……?」
「これを見なさい」
アリシアは漆黒の触手を使い、イヴァルからの証拠書類をハラルドの目の前に突きつけた。
自分のすぐ近くで蠢く黒い触手を見るなり、ハラルドは「ヒッ」と短く悲鳴を上げる。
「五年間の任期中、王家から私の養育費として支払われていた予算のほとんどが、あなたたちの懐に流れているわ。そうよね? ホート子爵夫人」
「な……っ!?」
ハラルドは目を見開き、平伏したまま震える妻を凝視した。その目の前にアリシアの触手がもう一本伸びてきて、エメラルドの髪飾りを彼女の髪から抜き取っていく。
「これも横領したお金で買ったのかしら? まったく、おまえたちが愚かなことをしたせいで、しなくてもいい苦労をさせられたじゃないの。粗末な食事に、ボロボロの服……」
アリシアはエメラルドの髪飾りを触手から受け取り、ランプの光に照らして眺める。そして、平伏しているウルリカの髪を触手で掴み、顔を上げさせた。
「覚悟はいいわね?」
ウルリカの顔は、涙と崩れた化粧でグチャグチャになっている。昔から呪い子の赤い瞳を怖がっている彼女は、アリシアの眼光が鋭くなると一層身を震わせ顔をひきつらせた。
「ウルリカは横領罪で直ちに投獄。夫ハラルドは徴税官の職を解き、今この時を以て子爵位を剥奪する。横領したお金は、すべて国庫へ返還しなさい」
アリシアが言い渡すと、ハラルドが顔色を変えた。
「お、お待ちください。私は何も知らなかったのです! この金額はとても支払えるものでは……どうかお慈悲を!」
必死に訴えかけるハラルドを無視して、アリシアは衛兵に合図を送る。
無理やり立たされ捕縛されるなか、それまで恐怖に震えているだけだったウルリカが、突然、狂ったように笑い声を上げた。
「あは、あははは……違うわ、私は悪くない。私はただ、フェルト猊下の指示に従っただけなのにっ!」
二人が連れて行かれバタンと扉が閉まったとたん、謁見の間は静寂に包まれる。
乳母の任期後、多額の予算がソルテス真教へ献金として流れていることは調べがついていた。しかし、乳母の横領までもがフェルトの指示だったとは……。
――世界を滅ぼす黒髪赤眼の呪い子が身内など、生涯の恥でしかない……。
――少しは己の罪深さを知りなさい。
かつて自分に言い放った彼の言葉を思い出し、アリシアは指先でこめかみを押さえた。




