15 鍵の行方
執務机の上には、ガッシリとした体躯のブラントが両腕で抱えて運び込んでくれた、重厚な金庫が置かれている。
マテウスの言う禁書庫とは、部屋ではなく人が抱えられるほどの大きさの古い金庫だったのだ。
旧執務室を探索した際に埃まみれになった身体を清め、さっぱりとしたアリシアは、その鉄の箱に顔を近づけ、じっくりと眺めたのちに嘆息した。
「どうしたんです? ため息なんてついて」
「ひゃっ……」
すぐ後ろからスヴェンの声がして、アリシアは驚きのあまり声を上げる。
耳に息がかかるほどの至近距離。石鹼の匂いがするしめった空気は、彼も湯あみをしてきたからだろう。
「んもうっ、びっくりさせないでよ」
頬を膨らませて振り向くと、まだ乾ききってないスヴェンの髪がランプの柔らかな光に照らされ、金色にきらめいていた。
そのしっとりとした艶っぽさにドキマギする。
そういえば、年齢を聞いていなかった。見たところ四歳違いの兄ヨアキムよりも、少し年上な気がする。二十一か、二か……。
大人の男、だ。そんな当たり前の事実を今さらながら実感していると、スヴェンはいつの間にか何事もなかったように、禁書金庫の太陽の彫刻を指でなぞっていた。
彼の平然とした態度に、アリシアは一瞬で現実に引き戻されていく。
「……見つかったのはいいけれど、問題は行方不明の鍵なのよね」
「どんな鍵かは聞いていらっしゃらないのですか?」
スヴェンの指が滑らかに移動して、確かめるように鍵穴に触れる。
「太陽を模した鍵の持ち手で、真っ赤なルビーがついているらしいの。お父様も実際に見たことはないそうよ」
「随分と豪華な鍵ですね。王家が厳重に保管して然るべきなのに、行方不明とはおかしな話です」
「そうなのよ。お兄様が知るわけないし、一体どこを探せばいいのやら。いっそ、この禁書金庫ごと叩き切ってやりたい気分だわ」
しかし、無理だろう。建国時から存在していたであろうこの古い金庫は、とても頑丈な作りで重さも相当なものだ。鍛え上げられたブラントでさえ、運ぶのに苦労していた。切れるわけがない。
アリシアは、もう一度、深いため息を吐く。
スヴェンが何か言いかけるが、扉をノックする音にかき消された。
「お呼びでございますか、陛下」
イヴァルが入ってきた。机の上に置かれた金庫に気づき、ピクリと眉が上がる。
「これが例の禁書庫ですか……」
「ええ、でも鍵が行方不明なのよ。持ち手に赤いルビーのついた鍵だそうなんだけど、保管場所はひいおじい様にしかわからないの。イヴァルは何か聞いていない?」
問いかけられたイヴァルは、細い顎に手を当てて考え込む。
「ルビーを施した鍵でございますか。さあ……恐れながら、私もそのような鍵の存在は耳にしたことがございません。しかし、マテウス様は知らされていなくとも、当時の宰相ならば、宰相日録に何か書き残しているかもしれません」
「宰相日録?」
「はい。日々の執務を記録したもので、宰相室の奥に保管されております。三代前の王の時代であれば、習慣化されていたかと思いますが……」
「それだわ!」
かろうじて解決の糸口を掴み、アリシアの顔がパッと明るくなった。
スヴェンが、ふと思いついたように衣服のポケットから銀の懐中時計――リピーターを取り出す。
ピーン、ピーン、ピーン……。
高く澄んだ音色が五回。
「十七時を過ぎていますよ」
「もうそんな時間なの? 今日は、もう無理そうね」
アリシアたちは、日を改めて明日、午前の通常業務をこなしてから宰相室へ行くことにした。
**
宰相用の執務室に直結する資料保管庫にある宰相日録は、アリシアの予想を遥かに超える量だった。
「うわ……これ全部?」
「三代前の御代ですと、この棚のここから……ここまででございます」
イヴァルに指定された分厚い冊子は、ざっと三十冊。一冊手に取って開いてみると、当時の宰相の直筆らしき癖のある文字が並んでいた。
隣のスヴェンをチラリと見る。彼は目が見えないため、手伝ってもらうわけにもいかない。これらすべてに自分一人で目を通すとなると、何日かかるか……。
「弱ったわね……。私一人じゃ時間がかかりすぎるわ。誰か手伝える人は……」
宰相室は宰相用の執務室と控えの間に別れており、隣の控えの間では書記官や秘書たちが忙しそうに羽ペンを走らせている。各部署からの出入りも多く、慌ただしい。
アリシアが考え込んでいる間にも、イヴァルは「しばらく執務室へは誰も入ってこないように」と人払いを済ませていた。
「ロニーはどうですか? 神官見習いですから、文字は読めるのでは?」
横からスヴェンに声をかけられる。
なるほど、打ってつけだ。アリシアの意のままに動く彼は、字が読めるだけでなく、決して秘密を漏らさない。
「そうね、そうしましょう」
イヴァルにロニーを呼び出してもらい、待っている間、革張りの応接ソファのローテーブルに宰相日録を積み上げていく。そうしてから、アリシアはソファの端に腰を落ち着け、日録を一冊手に取った。
しばらくするとロニーがやって来て――。
「あなたはスヴェンの目となって、そこにある宰相日録を音読するのよ。私はこっちから目を通していくから」
「御意のままに……」
アリシアの命令に、相変わらず感情のこもらない声で従順な返事をする。そしてスヴェンの隣に腰を下ろし、一冊目のページを開くとすらすらと読み上げ始めた。
「…………エテルナ大聖堂にて、戴冠式が滞りなく行われる。王都パレードは四頭立ての馬車二台と――」
カサリとページをめくる音がする。どうやら、大丈夫そうだ。
安堵したアリシアも手元の日録を読む。
そこには、当時王太子であった先々代の王――アリシアの祖父のことが書かれていた。
〈王太子殿下と婚約者レーヴ公爵令嬢の不仲が及ぼす影響は甚大。懸念される〉
〈陛下の誕生日パーティーに、王太子殿下は伯爵家のアリシア嬢を伴い参加〉
〈レーヴ家より抗議。王太子殿下、自室にて謹慎処分〉
アリシア……自分と同じこの名前は、先々代王妃である祖母のものだ。彼女のために祖父は、のちに自分が幽閉されることになるあの離宮を建てたのである。
かつて祖父はレーヴ家の令嬢と婚約していたらしい。しかし、彼の心は伯爵令嬢にあるのは明らかだ。日録には、日々の政務のほか、頻繁に二人の不仲を懸念する記述が出てくる。
アリシアは恋物語を読んでいるような気分になり、夢中で日録のページをめくった。
途中で休憩を挟みながら数時間が経過し、夕刻の鐘が鳴ると、隣の控えの間の書記官たちが次々に退勤していく気配がする。
もうすぐ夕食の時間だ。そろそろ戻らないと、料理長の熱々の料理が冷めてしまうかもしれない。
「今日は、このくらいで終わりにしましょう」
アリシアはページを閉じて顔上げた。すると――。
「アリシア様、ここにそれらしき記述があります」
スヴェンがロニーの朗読を止めて、声をかけてきた。
「何が書いてあるの?」
アリシアが尋ねると、スヴェンはロニーに「もう一度読んでくれるかい?」と頼む。
ロニーは日録の一行を指でなぞりながら、静かに読み上げた。
「レーヴ家との関係改善の条件として、王家所蔵『太陽のルビー』を猊下へ譲渡。縁組は次世代へ持ち越しとし、これにより事態の収拾を図る……」
「王家のルビーを大神官猊下に……?」
レーヴ家は代々高位神官を輩出している王家の分家である。先代大神官も、現大神官のフェルトもレーヴ家の出身者だ。父親の言葉を借りれば、王家と二人三脚でこの国を治めてきたという……。
「……太陽にルビーなら、大神官が身につける太陽徽章のことではないですか? 太陽を模したデザインに丸いルビーをあしらった銀の胸飾りですよ」
「ちょっと待って。おまえは辺境で行き倒れていた、ただの楽師でしょう? なんでそんな大神官の徽章のデザインや名前を知っているのよ」
さも見てきたかのように話すスヴェンに、アリシアは疑いの目を向ける。
やはり彼はブラントの言うように、フェルトの手先なのかもしれない。けれど、今まで何度も機会はあったのに、危害を加えようとはしなかった。
彼は一体、何者……?
警戒感をにじませたアリシアに、スヴェンは少し困ったような表情を浮かべながらも、ゆったりとソファに座っている。
「おや、お疑いですか? 私は盲目ですから、人一倍、噂話に敏感なだけですよ。以前、大きな祭事の際、大神官猊下の祭服を見た市井の者たちが『胸の大粒のルビーが、まるで本物の太陽のようだ』と噂しておりました」
「噂、ねぇ……」
怪しいけれど、一理ある。
アリシアは鋭い視線でスヴェンを射るが、目を瞑っている彼は気づかない。いつものように穏やかに微笑んでいるだけなので、バカらしくなり瞳を逸らす。
その時、パタンと日録を閉じたロニーが「あの……」と口を挟んだ。
「太陽徽章は、式典や地方へ出向く際に大神官が必ず着用するものなので、市井で噂になっても不思議ではないかと……。確かフェルト猊下は、王宮を逃げ去ったときも祭服の胸元に徽章を身につけておられました。あの日は、王宮礼拝堂で猊下自ら祈りを捧げる予定だったので、よく憶えています」
「そう……まあ、いいわ」
どうやら太陽徽章を目にする機会は、庶民にも少なからずあるらしい。スヴェンを疑うなど気の回しすぎだったか。
いささか拍子抜けして、アリシアはソファの背にもたれかかる。
「なるほどね……。その太陽徽章が禁書庫の鍵だとするなら、今はフェルトが持っているってことね」
フェルトの居場所は、未だ掴めていない。
せっかく進めた盤上の駒をスタート地点へ弾き飛ばされたようなもどかしさが、アリシアの胸に広がった。




