『雨の隙間と、空漠の獣』
「次の任務はこれよ」
手渡された紙面上には、住所と簡潔に記された依頼内容。
香太はそれを見るなり、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あー……あそこの研究所を狙うの? 所長、マジで言ってる?」
「ええ。決行日は三日後。今回は潜入して、目標の秘匿データのみを回収。証拠は匂いの一つも残さないでね」
「……了解」
隣で、リクが淡々と、けれど思考の海に沈むような瞳で呟いた。
――決行日前日。
事務所の一角で、香太の作ったココアを飲みながら、二人は小さなスプレーボトルを挟んでいた。
「匂いの一つも残さない、か……。時間がなかったけど、力作だよ。名前は仮だけど……『空漠』」
リクが差し出したのは、無色透明の液体。
「なにそれ! すげぇ!」
「…体臭を消す。使ってみる?」
香太の反応に、リクの細い声が、ほんの少しだけ弾んだ。
――
決行当日の深夜。
街は冷たい雨が降っていた。
「雨か……。足音を消すには好都合だけど、リクの体調が心配だな」
研究所の外壁を見上げながら、香太は無線に向かって小さく呟く。
「……俺の心配はいいから、早く動いて。あと三秒で監視カメラのログがループする。……今」
「了解。ありがとな、相棒!」
雨が降りしきる中、香太は音もなく壁を駆け上がった。
リクが開発した「空漠」の効果は絶大だった。
濡れた犬のような獣臭も、香太自身の汗の匂いも、今の彼からは一切しない。
まるで、空間そのものがぽっかりと空いたような、奇妙な無機質さが香太を包んでいた。
[視界共有:正常]
[隠密ステータス:最適]
[ターゲット座標:ロック]
「……三階、北側のダクトから侵入して。警備員の巡回ルートは、今ハッキングして書き換えた。彼らは君の五メートル手前で必ず右に曲がる」
「未来予知かよ……。お前のオペレーション、やっぱ怖いくらい正確だな」
指示通り、香太は研究所の深部へと進む。
廊下の角で、大きなシェパードを連れた警備員とすれ違った。
本来なら、犬の嗅覚からは逃れられない至近距離。
だが、犬は香太のすぐ横を通り過ぎても、鼻をピクリとも動かさなかった。
「……リク、今の見たか? 犬が完全にスルーしたぞ」
「見たよ。……でも、油断しないで。サーバー室の電子ロック、俺が遠隔で開けるから、五秒だけ時間をちょうだい」
リクの指先が、暗闇の端末の上で猛烈な速さで踊る。
数秒後、
カチリと乾いた音がして、重厚な扉が開いた。
「回収完了。……撤収するよ、香太。……あ、待って。出口のルートを少し変更。警備員がコーヒーをこぼして、清掃員がそっちに向かってる。そこを通ると、ワックスに足跡が残る」
「ははっ、了解だ。最後まで完璧なエスコート、助かるぜ」
三十分後。
降り続く雨の中、二人はいつもの裏路地にいた。
ずぶ濡れの香太とは対照的に、リクは大きな傘を差し、端末を片手に平然と立っている。
「……一滴も、俺たちの匂いは残ってない。任務完了だね」
リクが端末を閉じると、鋭かった瞳が少しだけ和らいだ。
「あー! 疲れた! 神経使ったわー。あのプレッシャーは寿命が縮むぜ」
香太が自分の頭をガシガシと拭きながら、リクの傘に潜り込む。
「……近づかないで。濡れるってば」
「いいじゃねえか! それよりさ、リク。今日は何食べる?」
リクは少しだけ考え、雨に濡れた路地の先、いつもの喫茶店の温かい琥珀色の灯りを見つめた。
「……甘いものがいい。パンケーキ」
「おっ、パンケーキか! じゃあ、生クリームたっぷりのやつにするか!」
「……バターとメープルシロップだけでいい」
二人は雨の音に紛れるように、扉へと吸い込まれていった。
店内に漂う、甘く懐かしい小麦粉の匂い。
さっきまで「空漠」の世界で死線を潜り抜けていた二人にとって、その香りは何よりも平和な、任務完了の合図だった。




