『演算する死神:デリート・ゼロ』
ここは巨大企業のデータセンターの最深部。
国家規模の情報処理を担うその空間は、外界から完全に隔離され、冷却ファンの音が、低く唸るような音を立て続けている。
今回のターゲットは、この場所の守護神とも言えるセキュリティ・チーフだ。
彼が警報を上げれば、数分以内に増援が到達する。
失敗は許されない。
リクは、暗闇の中で一切の熱を排したような眼差しで、ターゲットを見下ろしていた。
その指先には、研究室で綴り上げた「死の切符」——『薄氷』が、
モニターの青白い光を透かすように握られている。
目を閉じ、一つ息を吸う
静かに目を開け、息を吐く
「……作戦開始」
誰にも届かない声
彼にとって、現場は「戦場」ではない。
「数式」だ。
リクの脳内には、ハッキングした防犯カメラの映像、警備員の歩数、空調の風向……あらゆるデータが、膨大な文字列となって流れていく。
「……右、三歩。心拍数、上昇。」
リクの体が、影のようにしなやかに動いた。
驚異的なバランス感覚で死角を抜け、ターゲットの背後に滑り込む。
——それは一瞬。
リクの手が、相手の顔にそっと触れた。
まるで親愛の情を込めて、優しく目を覆うような、穏やかな動作。
その瞬間、指先に仕込まれた『薄氷』が、ターゲットの角膜に吸着した。
ターゲットが驚愕に目を見開くが、もう遅い。
十五秒。
視界が歪み、毒素が毛細血管を通って、静かに心臓を掌握していく。
崩れ落ちる巨体を、リクは14歳の細い体で静かに受け止め、床へと寝かせた。
その所作には、一切の慈悲も、殺意も、高揚感もない。
ターゲットのバイタルサインが「ゼロ」を示すのを確認する。
「......。」
だが、仕事はまだ終わっていない。
リクは倒れた男の傍らに膝をついたまま、持参したデバイスをメイン・コンソールに接続した。
ここにあるすべての記録を、なかったことにしなければならない。
「……一ビットも、残さない」
指先がキーボードの上で、冷徹なリズムを刻む。
僅かに熱を持つ指先。
監視カメラの記録、入退室のログ、そして今この場所にリクが存在したという事実さえも、膨大な「無」で塗りつぶしていく。
ここに存在した痕跡を、誰にも解析させないために。
最後のEnterキーが沈み込んだ瞬間、
[アーカイブ・セクタ:選択]
[プロトコル:オーバーライト]
[実行:オール・クリア]
モニターの光が激しく明滅し、
数秒後、すべてのウィンドウが静かに閉じた。
物理的な破壊ではない。
ただ、論理的な死がこのセンターを支配した。
冷却ファンだけは変わらず低く唸るような音を立て続けていた。
明日、ここを訪れる者は、何も失われていないはずのシステムの中に、巨大な「空白」を見つけることになるだろう。
「リク、終わったか?」
「……全部消した。終わったよ、香太」
無線から、香太の明るい声が届く。
その声だけが、この無機質な空間で唯一の「熱」を持っていた。
「……ん。帰りたい」
リクのフォグ・グレーの瞳から「死神」の光が消え、いつもの温度のない、所在なげな少年の色に戻る。
演算と消去を繰り返すことでしか世界と関われない彼にとって、香太の声は、決して消すことのできない唯一の「定数」だった。
「よし、よくやった! 帰りに何か美味いもん食おうぜ。今日は何が食べたい?」
リクは、倒れ伏した男から視線を外し、暗い天井を仰いだ。
喉の奥が、温かくて甘いものを求めている。
「……マシュマロ二つ入った、ココアがいい」
「了解、とびきり美味いやつ奢ってやるよ!」
リクは、自分を「外」へと連れ戻そうとする声に静かに頷き、血の通わない数字の世界から、一歩だけ踏み出した。




