甘い報酬と、灰色の教練
第一章 EP.4
1. 鳴り響いた電話と、事務所の沈黙
虫の音が響く夜。
事務所の電話が鳴った。
数ヶ月間、眠り続けていた男の子。
一時的に意識が戻った、という連絡だった。
だが――状態はあまり良くないという。
受話器を置いた指先が微かに震える。
「……起きたけど、パニックを起こしているって…。誰も近づけないって…」
その言葉に、龍也は言葉を失う。
不安と心配が入り混じり、握った拳に力が入る。
「……俺たち、余計なことしたのかな」
戸惑いが混じる声
助けたはずの命が、絶望の叫びを上げた。
その事実に、二人はただ、立ち尽くすしかなかった。
ソファで紫煙を燻らせていた所長 春 は、そんな少年たちの迷いを見透かすように、静かに口を開いた。
「…それでも、行くのでしょ?」
「……うん。」
春は、小さく息をつき、
「一つだけ言っておくわ。今は、無理に踏み込んじゃだめよ?」
煙が琥珀色の灯りを霞ませていく
2. 香太という「嵐」と、リクの産声
それから、香太は病院に通い詰めた。
男の子の意識はまだ不安定で、完全には戻っていなかった。
まずは、ガラス越しに会いに行った。
顔を覚えてもらいたくて。
二週間が過ぎた頃、
出発の準備をしていると、龍也が声をかけてきた。
「午後、病院に行くなら、俺も一緒に行く。」
「わかった。じゃあ、昼飯食ったらすぐ出発な」
昼間の日差しは眩しすぎた。
昼の白い光が二つの影を作る。
二つの影は病院へ向かう。
道中で、驚かせないようにするにはどうしたらいいか話し合った。
が、いい案は出なかった。
病院の薬品の匂いが満ちる、薄暗い廊下を抜け、男の子の病室の前に立つ。
大きく一つ息をする。
コン、コン…
ドアを軽くノックする。
香太は意を決して、初めて病室のドアを開けた。
――
カチャカチャという音と機械音が遠くから聞こえる。
その音は徐々に大きくなって、ついには自分の隣で鳴っていることがわかった。
自分はまだ死んではいないらしい。
ぼんやりとした意識の中、それは確認できた。
やがて、カチャカチャという音は聞こえなくなり、人の気配も消えた。
規則正しい機械音だけが部屋の中に響いている。
薬品の香りが鼻につく。
瞼を震わせ、目を開ける。
まず映ったのは、真っ白な天井。
視線を動かし、周囲を確認する。
……誰もいない。
ここはどこなのだろうか……
身体は鉛のように重く、動かせそうにない。
思考は何とか出来ているが、ぼんやりとしている。
状況が掴めない。
この白い場所はどこなのか。
最後に記憶にあるのは雪の降る山の中。
歩き疲れて、休憩をとっていたはず…ん?
…なぜ……雪山にいたのだろうか。
思い出せない。
思い出さないといけない事だというのもわかる。
おかしい。
とても大事な事のはずなのに…。
――その時、遠くに人の声が聞こえてきた。
声を聞いたその瞬間、とてつもない恐怖が襲う。
本能なのかわからないが、怠い体を無理にでも動かして逃げないといけないと思った。
身体の末端が急速に冷え、痺れていく。
鼓動が、呼吸が…徐々に上がるのがわかった。
逃げないと…
声はどんどん近づいてきて
部屋の前で止まった。
「……っ」
自由のきかない身体を動かそうとするが、動いたのは指先だけ。
首を持ち上げることも出来ない。
動け、動いて…!
そう念じるが、動く気配はない。
自分の体なのに……
コンコンと扉を叩く音がする。
「……!」
逃げられない…
心臓が全速力で脈を打ち、恐怖で全身が震えだす。
視界が滲む。
そんなのお構いなしに、容赦なく扉が開いた。
――
「失礼しまーす」
静かな少し高い声が部屋に響く。
すぐには入らない。
扉から少しだけ体を乗り出し、中の様子を確認する。
ぽろぽろと涙を流す男の子と目が合った。
起きてる。
「……っ!」
「……――大丈夫。これ以上は近づかない。驚かせて、悪かったな」
震える姿を見て、これ以上近づいてはいけないと思った。
慌てて両手を上げ、静かに優しく伝える。
恐怖を湛えた濡れた瞳がこちらをじっと見つめる。
「……誰かわからないと、怖いよな。俺は香太。…雪山でお前を助けた、お兄さんだよ。隣にいるのが、龍也。お前を運ぶのを手伝ってくれたんだぜ。……俺たちは、お前を傷つけるためにここにいるんじゃないから。それだけは信じてくれ。」
男の子の早く荒い呼吸音が静かな部屋に響く。
それから毎日、俺は喋り続けた。
数週間が過ぎたある夕暮れ
琥珀色と薄紅が混じり合う光の中
声が零れた。
「……リク」
震え、消えそうな小さな声、だった。
はじかれたように男の子、――リクを見る。
「…、――リク。いい名前だな。」
口元が勝手に上がる。
香太は静かに立ち上がる。
「明日もまた来るよ」
3. 春の「宣告」:暴かれた真実と「真珠」の残響
夜の帳が下り
静寂が戻った病室。
リクはベッドの上から動けないでいた。
目の前には、ブロンドの髪を一つに縛り上げた春がいた。
ベッドから数歩離れた位置で足を止め、
静かな瞳で見つめる。
ポケットから、泥を落としたペンダントとピアスを取り出し、彼の目の前に差し出す。
「真珠王国の、王子様」
静かな、確信に満ちた声。
「――っ」
息が止まる。
リクの瞳が大きく見開かれる。
彼女の顔と手元を交互に見る。
「……き、みは……だれ」
恐怖が滲む声。
「私?春。――影よ」
影…
「絶望するならそれでもいい」
静かに、穏やかなのに
逃れられない声
「でも…まだ終わらせるには早いわ」
冷徹な光が、春の瞳の奥に宿る。
「あなたを拾ったのは、偶然ではないわ。……死に損なった王子として果てるか、それとも、私の『道具』としてもう一度立ち上がるか。考えておきなさい」
春は、リクの震える手を取りペンダントとピアスを静かに置く。
「明日、迎えに来るわ」と言い残して去っていった。
リクは掌の中の冷たい金属を、痛いほど強く握りしめた。
――王子として死ぬか、影の道具として生きるか。
それが、この世界で生きていくための唯一の契約だった。
4. 約束のふわふわ(十五歳の日常)
――それから、七年の月日が流れた。
十五歳になったリクの部屋に、十七歳の香太が飛び込んでくる。
「おい!リク、オムライス食いに行くぞ!」
明るく、弾むような声。
「……ノックぐらいしてよ、香太」
小さく息をつく。
読んでいた本を片付け、上着を羽織りフードを被る。
「はは!わりぃな、今度から気を付ける。よし!行こう」
その声は、あの日より少しだけ低くなった。
でも、変わらない。
街中を進む。
リクは香太の斜め後ろを静かについていく。
街のノイズが遠のき、少しだけ呼吸が楽になる。
まだ、他人との距離は苦手だ。
それでも、香太の隣は少し違った。
細い路地裏の喫茶店。
香太のお気に入りの店。
琥珀色が包み込む空間。
運ばれてきた黄金色のオムライス。
鼻腔をくすぐる、ケチャップの酸味とバターの優しい香り。
一口。
「……おいしい」
頬が綻ぶ。
――
事務所に戻れば、冷徹で苛烈な春の教練が続く。
春は息ひとつ乱さず告げる。
「…立ちなさい、リク。心臓が動いている限り、思考を止めてはいけないわ」
それは静かに、しかし確実に「生」への手段を叩きこむ。
リクは自らの知識を武器に変え、最小限の動きで急所を突く戦い方を習得していく。
――
今では当たり前のように隣にいる三人の兄。
彼らを本当に「家族」だと認め、春から「あの言葉」を贈られることになるのは……まだ少し遠い話だ。




