人形でなくなった日
第一章 EP.3
春が終わろうとしていた。
ガラスの向こうで、カーテンが風で揺れる。
男の子はあの事件以来、人の目が届く所で眠っている。
時間がある時は、お見舞いに行った。
医師からは
「生きていても意識が戻るのかは、わからない」
そう言われている。
あの日、一命を取り留めた男の子は、
ただ、静かに眠り続けていた。
更に季節は静かに流れた。
あの嵐の夜から数ヶ月。
空から黄色の膜が消え、青さが一段と増した、暑さの厳しい日。
男の子が、“目をさました”。
文字通りの意味だった。
ガラス越しに見た男の子は、珍しいフォグ・グレーの瞳をしていた。
目ざめた彼の『瞳』には何も映っていなかった。
その瞳は、焦点を結ぶことを拒むかのように虚空を彷徨っている。
アッシュブロンドの髪は、シーツの白さに溶け込みそうなほど色素が薄く、
まるで、綺麗な人形のように、
静かにそこにいた。
目覚めた後、医師たちは様々な検査をした。
身体の異常は見られなかった。
「命は繋ぎ止めましたが……」
手元のカルテを見つめたまま、主治医は苦渋の表情を浮かべる。
カルテを持つ指に少しだけ力がこもっていた。
「脳の損傷というより、精神的な何かが、覚醒を拒んでいるのかもしれません」
傍らに立つ看護師も、抜け殻のような男の子の横顔を見つめ、小さく溜息を漏らす。
どれほど声をかけても、温かいタオルで手を拭っても、反応がかえってくることは無かった。
命は助かった。
――彼の心を置き去りにして。
――
“目を覚ました”という連絡が来てから、俺は毎日のようにお見舞いへ行った。
「また行くのか?」
「無理していないか?」
「たまには休みなさいよ?」
最初は、龍也や茘枝、事務所の所長からよく言われたが、いつからか言われなくなった。
名前も知らない男の子に、そこまでする必要はないのかもしれない。
しかし、何故か『行かないといけない。』そう思った。
香太は廊下からガラス越しに、触れたら壊れてしまいそうな男の子を見つめ、拳を強く握りしめた。
雪山で、そしてあの嵐の屋上で。
この子は一体何を背負っているのか。
抜け殻のようなこの子は、一体どんな子供だったのか。
触れたガラスは冷たかった。
ふと、零れ出た、一方的な約束。
「……なあ。目が覚めたらさ。俺のお気に入りの店に、オムライス食べに行こうぜ。卵がふわふわで、お前、絶対気に入るからさ」
聞こえないことは解っている。
それでも、伝えたかった。
1. 悪夢と覚醒、そして絶望の「檻」
ふわふわと心地よい浮遊感。
霧に包まれ、黄白色の淡い光が包み込んでいる世界。
僕の意識は、ずっとどこかを漂っていた。
熱さも寒さも、痛みも苦しみもない。
(……僕は、死んだのかな。…わからない……でも、それならそれでいい)
そう思ってふわふわの浮遊感に身を委ねようとしたとき。
遠くから声が聞こえた気がした。
「目を開けろ」
「死ぬな」
「頑張れ」
音が割れた。
――瞬間、穏やかだった世界は、突然すべてが真っ赤に染まる。
「葛籠!!逃げろ!!」
父様の叫びが鼓膜を突き抜ける。
恐怖が僕を覆いつくした。
――――っ!
心臓が跳ね上がる。
無理やり目蓋がこじ開けられる。
最初に見えたのは、闇。
濃紺じゃない
黒。
――くるしい……。
酸素が…ない。
喉の奥が引きつる
酸素を求めて喘ぐが、全然入ってこない。
腕が、足が、指先が…
体のどこにも力が入らない。
ここはどこなのか。
雪山にいたはずなのに…
自分に何が起きているのかさえ分からない。
ただ、体に這う幾つもの管の感覚が、強烈な「拒絶」として体のすべてを支配する。
零れ落ちる酸素。
痺れる指先。
「 っ」
闇が滲み
涙が零れた。
――その瞬間、緊急アラームが部屋に鳴り響いた。
『ピーッ! ピーッ! ピーッ!』
耳に突き刺さる不快な音。
心臓の音を監視していた機械が、パニックを感知して鳴り響く。
複数の足音の波が迫ってくる。
扉が勢いよく開く。
突然視界が白く明るくなり、眩しくて反射的に目を瞑る。
薄く目を開ける。
ぼやけてよくわからないが、白い影の集団が僕を取り囲む。
その直後、一人の影が何かを言っている。
しかし、何を言っているのかわからない。
誰かが体に触れている。
体が強張る。
息もできず、動くこともできず、
幾つもの影に体を触られる不快感がたまらなかった。
その感触が、眠っていたはずの恐怖を鮮明に呼び起こした。
薬品の匂いも、白い影も、俺を拘束する管も。
そのすべてが、自分を壊そうとする「害意」としか認識できなかった。
肩に影の手が触れる。
(…いやだ……さわらないで)
「……っ!」
声を出しているつもりだった。
けれど、開いた口からはひゅっと漏れる空気の音しか出ない。
そのあとは何もわからない
ただ、ぼんやりと覚えているのは、白い光に包まれ、徐々に呼吸が楽になってきたことだけだった。
――
緊急アラームが、職員ステーションに鳴り響いた。
305号室
雪山で遭難していた男の子がいる部屋。
部屋に向かう。
灯りを付けると、そこには苦しみ、涙を流す男の子の姿。
「患者、覚醒です!」
「了解。……パニックと過呼吸か」
肩を叩きながら、声をかける。
「……わかるかな?先生の声、聞こえるかい?」
声に反応して、瞳が揺れる。
涙がぽろぽろ零れ、髪を濡らしていく。
呼吸はますます荒れていく。
「大丈夫だ…落ち着いて」
落ち着かせようと、肩に手を置いた。
「……っ!」
その瞬間、男の子はビクリと全身を硬直させ、声にならない拒絶を上げる。
大きく見開かれた瞳。
その瞳に宿っているのは、救い主への感謝などではない。
追い詰められ、逃げ場を失った獣のような、純粋な絶望だ。
「先生、心拍160、血圧上昇してます!離れてください!」
「……っ!これ以上は危険だな…」
看護師の鋭い進言に、苦々しく頷く。
無力感に唇を噛む。
「……落ち着くまで、一定のリズムで声をかけ続けて。刺激を与えないように。」
医療従事者たちの懸命な処置。それすらも
「……今は、ただの『手』すら、この子には恐怖そのものなんだろう」
呼吸が落ち着いたとき、
頬に伝った涙を拭うが、男の子からの反応は無かった。




