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砂漠の月(第一部 碧沿)  作者: kohama
第二章 春
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第19話 落月

春の草原は まだ一面の雪景色で、そこに倒れているユエの血は 余りにも色鮮やかだった。

ユエは、狼に喰いつかれた手を、チラチラと粉雪の舞う空に伸ばした。

細い指の間からは、細かな雪と共にポタポタと鮮血が落ち、ユエの首元を赤く染めた。

ユエ「アイラ…、ごめんね…」

そう呟いた白い息はすぐに消え、その美しい唇に落ちた雪は、なかなか溶けなかった。



ユエは瞳を閉じた。

消えかかる脳裏に、港町にある 白い壁に青い屋根の小さな家が浮かんできた。

夕暮れ時、灯のともったその家からは、赤ん坊の泣き声とスープの匂いが漏れ出ていた。


体格の良い男が、本を片手に帰って来た。

男「ただいま」

ユエ「おかえり」

ユエは、一日中 赤ん坊に拘束されて疲れ切り、帰って来た男を見もしなかった。

男は 苛立った彼女をチラリと見ると、ギャアギャア泣く赤ん坊を抱き上げた。

母親から離された赤子は、まるでこの世の終わりのように、輪をかけてギャアギャアと泣いた。

男「今日は ご機嫌斜めでしゅかぁ。ヨシヨシ」

男は 赤ん坊のプヨプヨのほっぺに二、三度 口付けると、背中をトントンと叩いて揺れた。

男「今日はどうだった?」

ユエ「どうもこうも、毎日同じよ。何にもできないわ…。お城に居た頃は面倒を見てくれる人が沢山居たから、一人で育てるのがこんなに大変だって、私、知らなかったんだわ」

ユエは卑屈な顔で台所へ行くと、男にスープとパンを机の上に用意した。

男「そっか…。お疲れ様」

男は、カリカリしたユエに 困ったように微笑んだ。


ユエは本当は、彼にお疲れ様と言わなくてはいけないのは分かっていた。

が、どういう訳かこの所、全く脈絡の無い 彼への嫌悪感でいっぱいになっていた。

ユエ「…あなたは? 今日はどうだった?」

男「下働きだからね、何でもやるさ。言葉を覚えるのは大変だけどね」

男はそう言うと、赤子をユエに渡して 食事を始めた。

赤子は泣き疲れたのか、うとうとと眠り始めた。

ユエは 赤子をそっと寝台に寝かせた。

男「眠りに入る時、いつも泣くね。眠るのが下手なのかな」

ユエ「そうね…」


ユエは寝台に腰掛けて 赤子の寝顔を見ながら、燻(くすぶ)ったように黙っていた。

男「…どうしたの?」

器用なその男は、彼女の雰囲気を察して 訊(き)いた。

ユエはポツリ、ポツリと言葉にした。

ユエ「分からないの…。あなたが今、どんなに大変か、知っているのに…。本当に、感謝してる。こんなこと、あなたに言ったって、仕方がないんだけど…」

男「うん」

ユエは俯(うつむ)いたまま、自分でも嫌になるような顔で言った。

ユエ「あなたの事が嫌いで仕方がないの。こんなに幸せな筈なのに…!」

男はキョトンとして、追い詰められたようなユエの横顔を見た。

男「そっか…」

男はパンをムシャムシャと頬張りながら、暫く考えた。

男「繁栄を誇っている種の生存戦略は、実に巧妙だね。そうやって 一つの繁殖がうまく行くと、違うオスの子供を求めるんだ」

今度は、ユエがキョトンとして彼を見た。

ユエ「……。何それ…?」

男「知識っていうのは、役に立つよね。知っているか知らないかで、雲泥の差がある。試験勉強とはいえ、生物学から考察できる事は大きいよ」

男は、狭い机の上に積まれた本を ポンポンと叩いた。

男「我々男が、自分の種(たね)を より多くの女にばら撒きたい欲求があるように、女も自分の子供に より多くのより多くのバリエーションを求める。男も女も、自分では そうしようと意識していないのにね。実際に、あなたは既に 二(ふた)パターンの子供を獲得している。次世代への生き残りに、より多くの可能性を求めているんじゃない? あなたは優秀なメスだってことだよ」

ユエ「……。」

ユエは目をパチパチして、頬杖をついて面白そうに自分を見る、男の青い瞳を見つめた。

男「あなただって、何かおかしいと 分かってはいるんだろう? 男も女もそういう風に そもそも作られていると 理性的に知っておかないと、今 その本能や衝動に従ったら、あなたにとって有益じゃない筈だよ」

ユエ「作られてる…?」

男「そう。生物の 生き残る為の戦略は、天才的だよ。神の域だ。そこら辺の虫でさえね。だけど残念ながら、その手には乗ってあげないよ。こんなに苦労して手に入れたんだ。それに、お互いに多くのものを捨てた。俺としても、もう一人位は俺の子を産んでもらわないと、割に合わないな」

男は冗談っぽくそう言うと、スープを飲み干し、彼女の隣へ来て座った。

男「まだ、食べ足りない」

男は 白い指でユエの顎を捉(とら)えると、彼女の茶色い瞳を見据えた。

ユエ「え…、わ、私…、できるか…。回復してるとは思うけど…」

男「できなくてもいいよ。ゆっくり、やってみよう?」

男はそう言うと唇を重ね、ユエの上に覆い被さった。

ユエは愛撫を受けながら、すぐ隣に寝ている小さな我が子をチラリと見た。

男は 彼女の視線にすぐに気付いて、笑った。

男「潰さないから、大丈夫」


ユエの身体は緊張してカピカピだったが、産後で伸び切っていたので、受け入れには全く問題は無かった。

男は 優しく苦笑した。

男「もう少し、締められる?」

ユエは、カァッと赤面した。

ユエ (どこだっけ、どこの筋肉だったっけ…? お、お尻…?!)

ユエは唇を噛んで、必死に要求に応えた。

男「ふふ、ありがとう」

その時、すぐ横で寝ていた赤子がぐずり始めた。

二人は顔を見合わせた。

ユエ (嘘でしょ?! さっき寝たばっかりなのに…)

ユエは 疲れ切ったように息をついた。

試合中止だと思った。

男はまた苦笑した。

男「なかなかのスリルだね。痛かったら教えて?」

そう言うと彼は、知り尽くしているユエの身体の 使えるものは全て使って、一気に彼女を峠へ押しやった。

想定外の事態で 全くゆっくりではなかったが、彼女は痛がっていないようだった。

ユエ「んっ! んんんっ!」

絶頂で必死に声を噛み殺しているユエを見て、男は征服感に酔いしれ、その唇も奪った。

そして自らも一緒に越えた時、すぐ横の我が子は 地震の為にギャン泣きしていた。

二人は何だか可笑しくて、まだ繋がったまま笑った。



男「ユエ、少しお散歩しておいで? 眠れてないし、子供にもご近所にも言葉が通じないし、一日中 二人きりで、おかしくなっちゃうよ。俺、見てるから。今夜はいい風が吹いてるよ」

男は急いで服を直すと、ギャンギャン泣く赤子を抱き上げた。

男「あぁ、俺にもおっぱいがあったら便利なのになぁ」

男は立ち上がって、ギャン泣きする我が子をあやし始めた。

ユエは 机の上に新しく積まれた、彼の持ち帰って来た本を見た。

ユエ (あぁ、この人は 一日働いてきて、この上 勉強だってあるのに…)

ユエは 男から赤子を抱き受けると、テーブルの椅子に座って授乳し始めた。

ユエ「お勉強、あるんでしょ。おっぱいあげて眠ってから行くわ」

男「そう? 助かるな」

男は 本当は困ってたんだというように笑うと、水入れから コップに水を注いでユエの側(そば)に置き、水入れも側に置いておいてくれた。

ユエは、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲み、またもう一杯飲んだ。

男は、暫く幸せそうに彼女を見ていたが、本に手を伸ばして 集中し始めた。

程なく、赤子はまたスースーと眠り始めた。

ユエが 再び赤子をそっと寝台に寝かせると、男は顔を上げて 小声で言った。

男「気を付けて」

ユエ「うん」

ユエも小さな声で答えると、久々に 何も背負わないで、一人で家を出た。



まだほんの少しだけ明るさが残る宵(よい)の空に、時折、カモメが思い出したようにミャアと鳴いた。

灯(あかり)のともった夕闇の港町は まるで絵のようで、家々からは夕食の匂いと賑やかなお喋りの声が聞こえてきた。

坂を下って港に近付くと、仕事を終えた漁師達が 酒場で一杯やっつけていた。

彼の言う通り、今夜は素晴らしく心地良い風が吹いていた。


ユエは、チャプチャプという波の音を聞きながら、一人 船着場を歩いた。

その音に、彼女は故郷の湖畔を思い出した。

ユエ (アイラ…)

ユエは、捨ててきてしまった子供を思った。

彼女は、自分も 漁師達の居る酒場で一番強い酒を頼んで、何もかも分からなくなるまで酔ってしまいたかった。

が 授乳しているので、そういう訳にもいかなかった。

ユエは転がっていた木箱に座って、完全に暮れた夜空を見上げた。

黄色い月が出ていた。

ユエ (アイラ…、ごめんね…)

ユエは、黄色い月に手を伸ばした。

指の間を、潮風が通り過ぎていった。


・・・


遠くから、薄く積もった雪の草原をドカドカと鳴らして、馬の足音が近付いて来た。

それはすぐ近くまで来ると止まり、その後は人の足音になった。

ジン『碧沿(へきえん)妃! 碧沿妃、しっかり!!』

男はユエを抱き上げると、その あちこち獣に喰いちぎられた身体を見て、もう助からないと悟った。

ジン『すまない…! あぁ、間に合わなかった…!!』

男は 奥歯を噛み締めた。

ユエは薄く目を開け、右の頬から首にかけて刺青(いれずみ)のあるその男を見て、微(かす)かに笑った。

ユエ『これ…を…、娘…に…』

ユエは血だらけの手で、金色の首飾りを握った。

ジン『分かりました。あの、跳ねっ返りですよね?』

ジンはそう言いながら、ユエの首飾りを外し、懐に入れた。

ユエは苦しそうに笑った。

ユエ『そんなに…悪く言わないで…下さい…な。良い子…なんです…よ?』

ジン『フッ、そうかもしれません』

ユエ『アイラ…に…、頼め…ます…か?』

ジン『はい。もう何も…、心配しないで…』

ユエは安らかに笑うと、瞳を閉じた。

ユエ『ありが…と…』

ジンは、ユエの血だらけの手を組み合わせてやった。

二人の上に、春の粉雪が 絶え間なく降り積んだ。



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ユエ「お父さん、紹介したい男性(ひと)がいるの」

ユエは 、ミニカーのコレクションに被ったホコリを几帳面に払う父の背中に、恥ずかしそうに話しかけた。

ハゲ散らかしたごま塩頭の父は、ジャガイモのような疲れた顔をハッと強張らせて、娘を振り返った。

父「……。」

父は目を丸くして、嬉しそうに はにかんだ娘を見た。


娘が連れてきた青年は、凛々しい体躯と 美しい瞳をした、優しそうな青年だった。

二人は とてもお似合いだった。

幸せそうに笑う二人を見て、父は何だか寂しいような、苦しいような感じがして、その日は娘が寝てしまうと、亡くなった妻の仏壇の前で、元々弱い酒を 浴びるように飲んでしまった。

彼は、仏壇の引き出しに"お母さんに成長の様子を伝えるため"とか何とか言って溜めてきた、娘の写真を取り出した。

そして その一枚一枚を、ベロベロになりながら大事そうに見た。



結婚式の当日、バージンロードの扉の前で、ユエは父と腕を組んだ。

ユエはヒールを履いているのもあったが、ずんぐりむっくりの父よりも背が高かった。

父は緊張して、散らかした頭にかいた汗を、白いハンカチで拭(ぬぐ)った。

花嫁姿の娘は それはそれは綺麗で、父は、この世のどんな娘よりも美しいと思った。

ユエは、父の耳元に顔を寄せると、小さな声で言った。

ユエ「お父さん、本当の娘じゃないのに 今まで大事に育ててくれて、本当にありがとう」

父は、ドキリとなった。

彼は、日に日に美しくなる娘に 密かに憧れを抱き続けていた事を 決して悟られまいとしてきたが、ついにそれが成し遂げられたと知った。

父は眉間に皺を寄せた。

泣いてはいけない所だった。

父は口をへの字に曲げると、口を開いた。

父「こちらこそ…、今まで一緒に居てくれて、ありがとう。お前は、母さんと私の、大事な一人娘だ…。幸せにな」


ユエの瞳が潤んだのを見たその時、扉が開いた。

二人が腕を組んでバージンロードへ進むと、結婚行進曲が流れた。

身内だけの小さな結婚式に、見知った参列者が 式場のスタッフから渡されたであろう祝福の花びらを振り撒いてくれた。

アイ「おめでとう!!」

黒髪を短めのボブに切った女性が、花びらを一気に掴んで、バサァっと投げてくれた。

ユエ「ちょっと! もう!」

ユエはあちこちに花びらをくっつけて、幸せそうに彼女の前を通り過ぎた。


父は、赤い絨毯を、始終 口をへの字に曲げたまま歩いた。

断じて、泣いてはいけない所だった。

神父の前に、あの若く美しい青年が、こちらを振り返って立っていた。

正装した彼は それはそれは美しく、ユエが彼の元に行くのは、至極当然であると父は思った。

父は、娘を青年に渡した。

ユエは 青年の腕を取ると、神父の前へ進み出た。

父は 最前列の席へ入ると、椅子に置いてあった花びらの籠(かご)を握りしめた。

誓いの言葉の後に、青年はユエのベールを上げ、彼女の額に口付けた。

父は 口をへの字に曲げたまま 目をうるうるさせて、二人に祝福の花びらを投げた。

父 (おめでとう、ユエ…! 良かったな…! おめでとう…! おめでとう…!!)



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春の草原には、粉雪が 絶え間なく降り積んでいた。

ユエの魂は、その踊り込み、そしてズタズタになった身体から ふわりと出ていた。

安らかで、暖かく、これまでの苦しみや悲しみの間を、暖かい光が満たしていくようだった。


親しかった人の姿や、覚えてもいないような場面が、次々に思い浮かんだ。

どこかから声が聞こえた。


踊りの友人「精一杯、生きた?」

ユエ (あぁ、懐かしい…。先輩から虐(いじ)められた時、よく励ましてくれたっけ…)

ユエは嬉しくて、少女時代に彼女と切磋琢磨した日々を 胸一杯に見つめた。

ユエ「生きたわ」


楽師「やりたかったことは、やれた?」

ユエ「やれたわ。私、あなたに教えて貰ったから、城の踊り手になれたのよ」


ナザル「行きたい所には、行きましたか?」

ユエ「あんまり行けなかったけど、一日として、同じ夕日は無かったわ」


ミーナ「食べたいものは、食べた?」

ユエ「食べたわ。何もかも、美味しかった!」


チェン「会いたい人には、会えました?」

ユエ「会えたり、離れてしまったり、思うようにいかなかったの」


リヤン「知りたいことは、知れました?」

ユエ「そうね。憎しみや悲しみの消し方を、知りたかったな…」


リワン「楽しかったですか?」

ユエ「楽しかったわ。踊りを沢山作って、皆で舞ったのよ」


リファ「言いたいことは、言えましたか?」

ユエ「言えたり、言えなかったり…。でも、言ったらいけない立場だったの」


エイジャ「自由だった?」

ユエ「あんまりそうじゃなかったけど、まぁ 仕方なかったかな」


アイラ「自分を大事にした?」

ユエ「そうだったり、そうじゃなかったり。あなたみたいに、もっと大事にできたのかもしれない」


カルファ「精一杯、愛した?」

ユエ「愛したわ。舞への愛は成就できたけど、人への愛は上手くできなかった。でもこれが、私の精一杯だったの」


母「沢山、喜んだかい?」

ユエ「沢山、喜んだ。嬉しかった事が、沢山あった」


王「そうか。それならもう、良いのか?」

ユエ「いいわ。もう、これで良い。あぁでも できるなら、もう一度 皆に会いたいな…」

王「…そうか」


その瞬間、ユエの世界は 下の方から順に、白銀と黄金の 夥(おびただ)しい光の粒に分解されていった。

それは、あの懐かしい故郷の 無数の砂の大地のようで、その数え切れない一粒一粒は、マグネシウムを燃やしたような閃光を放っていた。

雪も、草原も、ユエの身体も魂も、迎えにきた刺青(いれずみ)の男さえも、ユエの世界は 小さな光の粒で埋め尽くされていった。


とうとう 彼女の世界の上まで全て、隅から隅まで その光の粒で満ちた時、彼女は、自分が暖かく満ちる光 自体になっていることに気が付いた。

(あぁ、これは愛なんだわ…)

彼女は思った。

それは 何にも遮られず、全てが満たされ、無条件で、永遠だった。

最後に 無数の光の粒は一際 光を増すと、次元の綾(あや)の中へ、花火のように散っていった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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草馬の将「何ィ?! 江(ごう)が通行料の撤廃と碧沿(ここ)の解放を求めてるだとぉ?! そんなもん、聞くわけなかろうが!! バカめ!」

草馬の将は 二階の広間の王座から立ち上がり、伝達役が持って来た声明文を 床に投げ捨てた。

側近「しかし…、折悪く本国で碧沿(へきえん)妃が亡くなったばかりで、我々には切り札がありません。対して江(ごう)は碧沿(ここ)の王子と王女を持っています。江に翻(ひるがえ)られたら、我々は不利です」

将「ならば、人質を確保しろ! まだ第一王女が残っているではないか! 今すぐ捕らえよ!」

側近「それが…、昨日あたりから見かけませんで…」

将「何だとぉ?! 碧沿王を呼んで来い!!」


・・・


王「遠乗りに出かけている」

王は、自分が座っていた王座の前に立ち、胃をさすりながら言った。

後ろに、ナザルと側近が立っていた。

二階の広間の隅の方には、チェンも来ていた。


将「何だと?! 遠乗りぃ?! さては逃したな?!」

王「ラクダの乗り方を覚えてな、遠くまで行ってみたいと せがまれたのだ」

将「ハッ! 見え透いた嘘を。…ならば何処へ行ったというのだ!」

王「……。なぜそれが必要なのだ?」

将「江がここへ攻めてくる。第一王女を守るのは、我々の責務だ」

王「守る…。それはありがたい話だな」

王は無感情に言った。

将「つべこべ言ってないで、言え!!」

王「…西の三日月湖だ」

将「本当だろうな?」

王「あぁ。だが、既にこの情報を聞いて、逃げているかもしれんがな」

将「フン。〈臣下に〉探し出してこい!! それから貴様ら、もしも江に寝返ったら、承知せんぞ! こんな小さな国、丸ごと滅ぼしてやる!」

王「……。我々は平和な暮らしを望んでいるだけだ。…宜しく頼む」

将「フン! それはお前達次第だ!」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


アイラが気が付くと、そこは知らない、酷く狭い天井だった。

アイラ (…?)

寝台の上で首を傾けると、すぐ側(そば)の床に 町人の服を着たリワンが腕枕で寝ていた。

戸の外からは、子供達の 控え目に遊ぶ声が 時折聞こえてきた。


エイジャ「うーっす。あ、美味(うま)そう。いただきーっす」

戸の向こうからエイジャの声がしたと思うと、戸が開いて、やはり町人の格好をしたルカが籠(かご)を持って入って来た。

ルカ「昼にしよう…って、あれ? 姫、目、覚めたんですね!」

ルカは いい匂いのする籠を持って、アイラの寝台に寄って来た。

ルカの声に、床で寝ていたリワンはハッとして起き、エイジャも戸を薄く開けて、モグモグしながら中の様子を見た。

リワン「良かった。発作が起きてから、丸一日眠ったままだったんですよ」

アイラ「…発作?」

リワン「…あれ? 覚えてませんか? 浴室で水浴びされた後に…」

アイラは記憶を辿ろうとしたが、水浴びの後のことは 頭にモヤがかかって、思い出せなかった。

アイラ「覚えてないわ…」

リワンとルカは顔を見合わせた。

ルカ「もしかして…、王妃さまの事は…?」

アイラ「母さま…? …あぁ、亡くなった…のよね…」

アイラはポツリと言ったが、何かまたザワザワするようで、片手で頭を押さえた。


リワンは不穏な空気を感じて、話題を変えた。

リワン「とりあえず、お昼にしましょうか」

ルカ「あぁ、露店で美味しそうなの 買って来ましたよ」

ルカは 甘い揚げパンをアイラに差し出すと、リワンの隣に座った。

アイラは一口食べると、

アイラ「美味しい…」

とルカに微笑み、パンを持った手を下ろした。

本当は、砂を噛んでいるようだった。

玄関から覗いていたエイジャは 呆れたようにため息をつくと、顔を引っ込めた。


アイラ「ここって…、もしかして…、母さまの実家…?」

リワン「そうです。誰も貧民街に王女が居るとは思わないでしょう。王様が、江軍が近くに来るまで ここに潜んでいろ、との事です。ここに居るのを知っているのは、王様の側近と、ナザルさんだけです。いよいよ江軍が近付いて来たら、草馬に見つからないように 城に移動してこいとの事です」

アイラ「そう…」

ルカが声を潜めた。

ルカ「勝った方に屈する事になりますが、恐らく…、江に翻(ひるがえ)る事になると思います。少なくとも、我々は草馬の味方はしません。王妃様を失いましたからね」

アイラ「……。」

母の死を聞くと、アイラの胸は またザワザワした。

アイラ (あぁ、母さまは死んだんだ…)

アイラは、ルカを見ながら ぼんやりと思った。


ルカ「姫は、碧沿(ここ)へ出稼ぎに来た私の、一番末の弟という事になってますから。もしも誰かに聞かれたら」

エイジャ「似ってねぇ〜、全員!」

エイジャが扉の向こうから突っ込んだ。

ルカ「複雑な家庭ってことにしろ!」

エイジャ「へーい」

ルカ「あと、声だけは隠せないので、外では なるべく喋らないで下さいね」

アイラは頷いた。

ルカ「ちょっと窮屈ですが、どうにかここで息を潜めておきましょう。今回も、生き残らないと…」

アイラは、ルカの追い詰められたような目を見た。

アイラ (あぁそうか。きっとルカ、赤ちゃんが産まれたんだ…。そんな時に、私に付かなきゃならないなんて…。こんなことになるなんて…! しっかりしなくちゃ…)


アイラはそう思うと、手に持っていた揚げパンを見つめ、やけっぱちになって大きくかぶりついた。

リワン・ルカ「……。」

リワンとルカは、目を見開いてアイラを見た。

アイラ (母さまが死んで、江が攻めてくる)

アイラはザラザラするような揚げパンを咀嚼した。

アイラ (母さまが死んで、江が攻めてくる)

アイラは口の中の異物を、無理矢理ゴクリと飲み込んだ。

アイラ (あぁ、母さまは死んだんだ。おばあさまがこの家に帰って来たら、知らせるんじゃなかったの?)

アイラはまた パンを大きく頬張った。

彼女の目から、涙が溢(こぼ)れた。

リワンとルカは、ギョッとしてアイラを見た。

リワン「…姫? 体調が優れなければ無理しなくても…」

アイラ「今度は、っ…お粥がいいわ…っ」

アイラは口の周りに砂糖を沢山つけて、しゃくり上げながら言った。

リワンとルカは、呆気に取られてアイラを見た。

エイジャ「贅沢なヤツ」

アイラは玄関から聞こえたエイジャの悪態を無視して、涙と鼻水でしょっぱい口で、更にもう一口、おまけにもう一口、砂のような揚げパンにかじりついた。

アイラ「うっ…うぅっ…お粥が…っ…いい…うっ…うっ…うわぁああああああ」

アイラは口をパンで一杯にしたまま、くぐもった声で泣き出した。

リワンとルカは、沈痛な面持ちで俯(うつむ)いた。

エイジャは玄関先で、アイラの目の前に居合わせないで良かったと 心底思った。

狭い狭い母の実家は、無様な彼女の泣き顔を隠す場所さえ無かった。

ゴスペラーズさん 「永遠に」

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