第二話 身投げ
リワンとエイジャが 二階のアイラの部屋のバルコニーから身を乗り出して下の湖を見ると
、白い小さな無数の泡と、水面に波紋が揺れているのが見えた。
エイジャ「!! あんの… 、クソバカ!!」
エイジャの言葉の途中で、リワンは出口に向かって駆け出していた。楽天家のエイジャも、この時ばかりは血相を変えて走って続いた。
二人が城の裏口から湖の畔へ走り、水面を見渡すと、アイラの姿はもう見当たらなかった。二人は急いで上半身裸になると、アイラのバルコニーの下辺りを目がけて、ザブザブと水へ入って行った。
二人は、目撃者が居ないか、周囲に素早く視線を走らせた。
湖は城の裏側にあり、北門へ向かって北大路が走る脇に のどかな田園風景が続いている。
民家も農家がまばらにある程度で、昼下がりの強い日差しの照りつける湖畔には、幸いな事に、王女の身投げを目撃して驚愕している者の姿は見当たらなかった。
落ちた時、アイラはそれ程 見通しの良くない水中で、暫くもがいていた。
アイラ(何よ、私ったら、飛び込んだくせに助かろうとするなんて…)
しかし次の瞬間、アイラは図らずも むせた拍子にガバガバと水を飲み込む羽目になった。
アイラ(ぐふっ…! やだ、苦しい! やっぱやめる! 死ぬの、やっぱりやめる!)
そう思った時には 時すでに遅し、水を吸い込んだ服が 彼女を水面へ上げる事を許さなかった。アイラは意識を失った。
エイジャがその抜群の視力と運動神経で 水の中に人影を見つけると、急いで近付き、服をひっ掴んで水面に引き上げた。主人はぐったりとしていたが、まだ頬に赤みが差している。
エイジャ「リワン! 居たぞ! リワン!!」
エイジャの大声に リワンは水面に顔を出し、アイラの姿を必死な目で確認した。
エイジャはアイラの胴に腕を回すと、彼女の顔を水面に出すようにして泳ぎ、岸辺の濡れた砂の上へ どさりとやや乱暴に放った。彼女の青緑色の靴は片方無くなり、裸足の足先は、まだチャプチャプと水ぎわに浸っている。先に岸に上がっていたリワンが駆け寄ると、アイラの首の脈を取りながら 顔を近付けて息を確認した。
リワン「呼吸は無いが、脈はまだある。溺れて間もない」
リワンはすぐさまアイラの鼻をつまみ顎を上げ、胸が上下するのを確認しながら、繰り返し息を送り込んだ。腰に手を当て突っ立っていたエイジャは、やや面食らった。
ふと、リワンはハッとして息を送るのを止めた。
エイジャ「?! どうした?」
リワン「姫は…、この先 生きて、幸せなんだろうか…」
エイジャ「?! あ?! 何言ってんだ!」
リワン「弟を取られ、最愛の母も取られ、その母も死に、今度は彼女の番。属国の姫がどういう扱いを受けるかなど、目に見えている。そんな辛い目に遭う位なら、今このまま死んでしまった方が、まだマシなんじゃないか…」
エイジャ「?! おめー何言ってんだ! 先で何が起こるかなんて、わかんねーだろが!! おめーが判断すんな!」
リワン「そう…だよな…」
リワンは、我ながら医者としての自らの迷いにやや動揺して、再び息を送った。
何度目かで、アイラは水を吐き出し、激しく咳き込んだ。
護衛の二人は安堵にうなだれ、ため息をついた。
リワン「姫、姫…」
首の脈に指を当てたまま、リワンがアイラの肩を軽く揺さぶって呼びかけた。
アイラは薄く目を開けた。ぼんやりとした視界で 誰かが心配そうに、もう一人は服を着ながら不機嫌そうな顔でこちらを見ている。
リワン「良かった、気が付きましたね」
両耳に水が入って、声が遠くに聞こえるが、アイラはその声が大好きなリワンのものだと分かった。
リワンは ため息と共にどっと疲れたような表情になり、先程 脱ぎ捨てた服を 砂を叩いて着始めた。
エイジャ「お前さぁ! お前…、ふざけんなよ?!」
ずぶ濡れでぐったりと横になったままのアイラの傍に、服を着終わったエイジャがしゃがみ込むと、怒って言った。
アイラは 焦点が定まらないまま、エイジャの遠くに聞こえる声をぼんやり聞いていた。
アイラ(エイジャ…? 怒ってる? あれ? どうしたんだっけ…?)
エイジャ「何したかわかってんのかよ!? いくらお前がバカだって、ちったぁ後先のこと考えろよ!」
アイラ(あぁそうか、飛び込んだんだった…)
エイジャは、ぼんやりとしたアイラの背に手を回すと、無理矢理立たせようとした。
エイジャ「ホラ立て! 行くぞ! 大事になる前にズラかるぞ!」
リワン「エイジャ! まだダメだ、よせ!」
リワンの声が遠くに聞こえたと思うと、アイラの視界は急に真っ黒になった。
エイジャ「〈膝をつくアイラを支えながら〉っと! おい! んだよもう!」
リワン「〈アイラをエイジャから引き受けながら〉エイジャ、姫の部屋を、湖に面してない部屋に移すよう、王様に頼んでくれ。他の者の耳には できるだけ入らないようにしたい。部屋の準備ができるまで、取り急ぎ 姫は家に連れて行く」
エイジャ「〈だるそうに舌打ちして〉あぁ…」
エイジャは不機嫌に返事をすると、濡れた頭を犬のようにぶんぶん振りながら、裏口の方へのそのそ歩いて行った。
リワンは びしょ濡れのアイラのスカートを軽く絞ると、彼女を背負い、城の裏門とは反対側へ向かって湖畔を歩き出した。
アイラ「〈目を瞑ったまま力無く〉…歩ける…わ」
アイラは意地でそうは言ってみたものの、目を瞑っているのに世界がぐるぐると回っていた。
リワン「〈表情を変えずに〉……。安静に」
程なくして、リワンの首の前で繋いでいたアイラの両手が外れた。
リワンは訝しげにアイラを振り返った。
リワン(また意識が途切れた…)
彼は表情をやや曇らせて、足を早めた。