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「ふぁあ……」
ある日の朝、ナダールは心地好く目を覚ます。
ナダールは他領の貴族の屋敷まで遠出する都合上、森や路地裏で野宿する時も多かった。
宿を使う場合も、節約の為に安い所しか借りられず、駱駝の背中のような凸凹の酷いベッドで眠らされていた。
その為、これ程にフカフカなベッドの上で目が覚めるのは新鮮で、情けない声が漏れてしまう。
このベッドにどれ程の値段がするのか、余りにも高価そうで、想像するだけで怖くなってくる。
起き上がって周りを見れば、貴族の屋敷にしか無いような豪華な家具が取り揃えられている。
壁は塗装されて絵画が飾られており、元は岩だらけだったと言うのに、立派な部屋となっている。
ここはフランコが管理する鉱脈だ。
マークスとリンがフランコの指揮下で働き、補佐をしていると、貴族の情報を集めている際に耳にした。
だが、それは表向きの話である。
実際は、フランコがマークスに"説得"されて言いなりの手駒となっており、マークスが鉱脈を支配している。
この豪華な部屋や高級なベッドも、本来はフランコが使っていた物だ。
『フランコは僕が"説得"してあるから、変な事は気にしないで、ここで数日間自由に暮らして良いよ』
休暇を貰う際に、マークスにそう言われてこの部屋を紹介された。
説得ねぇ……。
ただ普通に説得しただけでは、公爵家の貴族が平民であるナダールに、これ程豪華な部屋を提供する訳が無い。
フランコもエルナのような狂信者になったのだろう。
ナダールは、マークスには狂信者を生み出せる、洗脳に近い素質があるのだと睨んでいる。
そういう素質は聞いた事ねぇんだがな。
説得の様子や鉱脈の奥は見せてくれないし、質問もよくはぐらかされて、マークスに関する情報は殆ど無い。
そこまで信用されてねぇんだろうな。
いや、説得されないだけマシなのか?
そんな事を考えながら扉を開けて隣の部屋に入れば、職務に勤しむマークスの姿があった。
隣には当然リンも居る。
そしてリンの反対側には、見慣れない女性が愛嬌のある笑みを浮かべて、こちらを見ていた。
レインとエリックに続く、新たな手駒だろうか。
マークスめ、いつの間にこんなに増やしたのか。
マークスがこちらに気づいて、器用に仕事をこなしながら話しかけて来る。
「やぁナダール、観光や休暇でゆっくり休めただろう? また今日から働いて貰うよ」
あぁ、休暇も今日で終わりか。
憂鬱な日々がまた始まってしまう。
「分かったよ。それでその隣の女性は、新たな手駒か?」
「よく分かってるじゃないか、自己紹介してご覧」
「は〜い、私はツグミ! 宜しくね、ナダールさん!」
エリックと同様に、外見は大人なのに子供らしさを感じさせる、朗らかな声で挨拶をしてくる。
更には手を差し出して来る。
「あぁ、宜しく」
そう言って手を握り握手をする。
やはり、普通の人間にしか見えない。
彼女もマークスの狂信者なのだろうか。
自然過ぎて、自ら従っているようにも見えてくる。
いやいや、あのマークスに自ら従うような人間がリン以外に居る訳が無い。
命を救われる程の恩がある俺でも、全く従おうという気持ちが湧かないのだから。
きっと彼女も、マークスに洗脳された被害者なのだろう。
「それでだ、ナダール。今回の任務として、ツグミの頼み事を聞いて欲しいんだ」
「頼み事ぉ?」
よくよく考えると、ツグミは先程の二人とは異なり、観光をしていない。
何か外へ出せない理由でもあるのだろうか。
「あのね! 私、鉱脈の外に居る人間が欲しいの! ナダールさんは一人攫って来てくれないかな!」
「人を……さら……う?」
ツグミの明るい笑顔から発せられた物騒な言葉に、思わず目を丸くして言葉を反芻してしまう。
「うん、出来れば二十歳位の大人位が欲しいかな? 性別は問わないよ〜!」
楽しそうに話すツグミを、マークスは何も言わずに眺めている。
何も口を出して来ないと言う事は、その物騒な頼み事を容認していると言う事。
――遂に来てしまった。
今までの任務は貴族の情報収集ばかりで、人を襲うような任務は無かった。
マークスの協力者に成り下がったと言えども、己の手を汚さずに済むのでは無いか……。
ナダールはそう僅かに期待していた。
だが、現実は非情だ。
命を救われる代償がこれ程までに重いとは。
今すぐここから逃げ出したい気持ちで一杯になる。
それでも指輪のせいで逃げ出す事は出来ない。
一応、頼み事なので断る事は出来るが、断っては"説得"されるだけだろう。
殺される可能性だって十分にある。
説得されて狂信者になるのも、殺されるのも嫌だ。
何より白銀の乙女のあの人が悲しむ。
「分かった……」
マークスは頼み事と称しているが、ナダールにはそう答える以外に選択肢は無かった。
「ありがと〜! それじゃあ、遠くの田舎の村からなるべく見つからないように攫ってきてね! 頑張って〜!」
ナダールは、ツグミの何一つ有難くない声援を背に、情けない顔付きで鉱脈の外へと向かった。
――――――――――――――――――――
「わ〜可愛い〜! ナダールさんありがとう!」
ツグミから純粋な感謝の気持ちを向けられるが、喜びの感情は一切湧き上がって来ない。
「うん、お疲れ様。向こうの部屋で白銀の乙女が休んでいるから、会いに行っていいよ」
ナダールは何も言葉を返さない。
黙って白銀の乙女の居る部屋に足を向ける。
人を攫うのは容易だった。
辺境の村で悠々と一人で散歩する村娘を、気配を殺して背後から襲って眠らせるだけだ。
冒険者時代は仲間からも評価され、ナダール自身も優秀だと思っていた『気配遮断』の素質が、今では恨めしい。
何故人攫いに向いた素質になってしまったのか。
人を殺した事はあった。
その人達は盗賊で、依頼してきた村人が盗まれた物を取り返すために、盗賊の拠点を襲って皆殺しにした。
罪悪感は湧かず、寧ろ英雄になった気分だった。
だが、今回の対象は何の罪も無い人間だ。
村の外れに一人で居たから……女性で弱そうだったから……それだけの理由で襲い掛かった。
襲われて倒れた村娘を回収する為に手に持った瞬間、どうしようも無い程の罪悪感に苛まれた。
村娘を少しでも早く手放したくて、我武者羅に鉱脈まで走り続けた。
俺はどうしてこんな事をしているのだろうか。
どうしようも無い虚無感に襲われて、心に薄暗い霧が立ち込めている。
このままマークスの手駒として、悪事に手を染め続けて生涯を終える。そんな想像をしてしまう。
澱のような虚しさが、ナダールの心に積もっていた。




