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13話 運命が変わった日

そして、忘れもしないあの日がやってきた。


それは3の月19日目のことだった。温かい春の日であったが、俺は強烈な寒気に襲われていた。


その日は朝から熱っぽさがあったのだが課題レポートの締切も近づいていたため無理をして学校に行ったのだ。そして昼食時にダウンしてしまい、食堂にて昼食を共にしていたフォルカーや他の友人に肩を貸してもらいどうにか医務室までたどり着いたのだった。


放課後になればブルーノが馬車で迎えに来るので、それまで休ませてもらうつもりだった。

先生は直ぐにベッドを貸してくれ、氷水で冷やしたタオルを額に当ててくれた。


「先生、すみません」

「ほら患者はおとなしくしてなさいな」

「でも、氷なんて使わなくていいですから。温かくなってきたし貴重でしょう?」

医務室の隣には小さな氷室があり、そこに氷をストックしているというのをかつて先生から聞いていた。氷室自体は大小は別として貴族の家ともなれば家に一つはあるものだが、外気が温かくなればなるほど氷の維持にはコストもかかるのだ。

「バカね。貴方みたいな患者のために使うものでしょう?リット坊や」

先生は相変わらず顔色がよくなかったけれど、口調はかつてのように優しかった。

「すみません。えへへ、久しぶりにそう呼んでくれましたね」

「病人には優しいの。ほら、馬車が来る時間になったら起こしてあげるからしっかり寝てなさいな」

先生の言葉に安心した俺はそれからすぐに眠りについた。



少し眠って回復してきたものの、正門に来ているであろう馬車に乗り込む気力もないほどであった。

先生はガラス製の体温計で俺の熱を計るとうーんとうなった。

「熱が高いわ。ねぇ、背負って貴方の馬車まで連れていきましょうか?」

「いえ、一人で歩いていけます。体の丈夫さが取り柄ですし」

「その様子じゃ説得力に欠けるわね。私こんな見た目だけど力がないわけじゃないわ。坊やひとりくらいならちゃんと背負えるから」

「いや、申し訳ないです。先生だって体調良くないでしょう?」

「私は平気なんだけれど。わかった、じゃあ少しだけここで寝てて。貴方の従者を連れてくるわ。正門にいるわよね」

「ええ。すみません、お願いします」


先生はベッドの周りの白いカーテンを引き、ドアへ向かって歩いていったようだった。彼の足音が少し遠ざかったところでドアがノックされた。

先生はドアを開けたようだった。



「マグノーリエ先生」

その声は体育担当のディルク・オッター先生のものだった。

誰か生徒が怪我でもしたのだろうか。



「すみません、今対応中でして。もう少しでイレーネさんが戻ってくるはずですので彼女に」

「あんたに拒否権なんてないだろう?」

先生の声を遮ったオッター先生の声は低く冷たいものだった。

俺は熱と寒気で聴覚がおかしくなってしまったのだろうかと思った。

イレーネさんとは3月から配属された看護助手の40代半ばほどの女性である。


「今は本当にそれどころでは」

「いいんだぞ、学校やかわいい生徒達にお前の2つの秘密をばらしても。いや、俺とのこともあるから3つか。」

ふふっと笑うオッター先生の声が聞こえた。



"先生がオッター先生に脅迫されている?!"

俺は働かない頭をフル回転させた。

もしかしたらここしばらく先生がおかしかったのはアイツのせいなのかもしれない、そう思った。

俺はカーテンを開けようと手を伸ばしたが、あと少しのところで届かない。

"くそ、体が自由に動かない"

俺は力が入らない自分の体を恨むことしかできなかった。



「普通の市民になりすまそうったってそうはいかないだろ?おとなしく俺のものになっておけばいいものを」

オッターがそう言った瞬間、カチャとドアの鍵が締まった音がした。俺は朦朧とする意識の中嫌な予感がした。頭の中でガンガンと警鐘が鳴っていた。


"俺のものって、え?!"

嫌な動悸とともに、焦りと不安と怒りと黒い何かが心を侵食していく。


「本当にやめてください。今忙しいんです。早く行かないと」

「ここでしたことはなかったな。ちょうどイレーネのババアも居ないことだしさ。こっちの準備はできてんだよ。いつもみたいにやれよ。ほらっ」

「痛い!やめて!」

先生のその声とともに椅子か何かが倒れる音が聞こえた。


"え、これはヤバいんじゃないか?しかもこんなところで?!"

俺はパニックになりそうにながらも、どうすべきか考えていた。ここで出ていこうにも俺は何もできる状態ではなかった。しかもオッターは俺よりも体格のいい男だ。剣が手元にあるわけもなく、こんなフラフラな状態でどうにかできるとは思えなかった。


そんなことを考えている間にカチャカチャとベルトか何かをいじる音が聞こえた。

これはいよいよまずい。先生を助けなければという気持ちだけで俺は声を発した。


「オッター先生。ダメですよ、こんなところで」

俺はできるかぎり平然とした声で言ったつもりだった。


「っ!!誰だよ。ったく、お前も誰かいるなら先に言えよ。なぁ、ロイス?」

「坊や、ごめんなさい。早く行かないと行けないのに」

「はーん。もしやロイスのお気に入りか?顔拝んでやるよ」

「やめてください!彼はただの病人です。関係ないわ!」


「その必要はありませんよ。僕から行きますから」

俺は持てる体力をすべて費やしてカーテンを開けた。

「っ、お前は!!」

「授業でお世話になってます。オッター先生」

俺はふらつく脚を必死にこらえながら言った。


俺の顔を見るなりオッターの顔が青くなっていった。

この日ほど御三家の力に感謝したことはなかった。


「ロイス、お前、メーヴェ本家の次男坊に手を出してたのかよ。男を手玉に取るのがうまいやつは格が違うな」

オッターは俺がいつもの状態じゃないことに気づいたらしく、顔色が戻り、下品な笑みを浮かべた。


本当に腹立たしかった。その一言で俺と先生との仲を穢されたような気がした。


「下品な言い方はやめてください。僕らはそういう関係じゃありませんよ」

「へーそうかい。坊っちゃんは知らないだろうけどな、コイツはなぁ」

「やめて!」

先生は今までにないくらいの声を上げた。

その様子を見てオッターはニヤリと口元を歪め徐ろに話し始めた。


「俺のお袋から親父を奪ったんだよ」



「やめて。言わないで」

先生は力なく俺から目を背けた。

俺にはオッターの言っている意味がわからなかった。

オッターは俺達の様子を見てさらに饒舌に語りだした。

「親父は買い取ったこいつに心酔しちまってさ。お袋は離縁を突きつけられ、俺も一緒に屋敷を追い出されたわけ。おかげで俺たちはお袋の実家で惨めな暮らしをさせられたわけさ。こいつが屋敷を逃げ出して行方不明になったのは風の噂で聞いたが、十数年経ってまさか学園(ここ)で再会するとはな」

オッターは満足そうにニヤついていた。

先生は俺の方を見てくれない。それはそうか、自分の知られたくない秘密を生徒に知られてしまったのだから。


先生は前に特殊な生い立ちだと言っていた。それがまさかこんなにひどいものだったなんてと、ショックと熱とで今にも倒れそうだった。

「しかも、こいつは」

オッターは楽しそうに続けようとした。

「やめてって言ってるでしょう!彼には関係ない。早く手を離して!」

先生が手を振りほどこうとするも体格差がありすぎてどうにもならない。


"あぁ、そうか。いつしかの手首の包帯はこいつにつけられたアザのせいだったのか"


心の中で何かがグツグツと煮える感覚がした。



「離すかよ。俺もあの親父の血を引いてるからな。昔からお前をめちゃくちゃにしたかったんだ。他のやつに見られながらするのもいいかもしれないな。どっちみちメーヴェの坊っちゃんに見られたんならどうにもならねえんだし。だったら見せつけてやろうぜ」

オッターは狂っていた。俺に見られたことでもう逃げられないと悟ったのかもしれない。


オッターは先生の腰に腕を回し無理やり唇を奪おうとした。先生は必死に抵抗しているが彼の力ではどうにもならなそうである。俺は言葉で抵抗するしかできない今の自分に苛立ちを覚えた。それでもやるしかなかった。

「その汚い手を離してもらえますか?先生が穢れてしまう」

「メーヴェの坊っちゃん、体調悪いんだろ?無理せずそこで見てろよ。あ、お前も仲間に入れてやろうか。昔親父が仕込んでただけはあるぞ」

「ふざけるな、変態。先生が嫌がってる。早く離せよ」

「こいつは嫌がってるふりをしてるだけだ。本当は俺のが欲しくてたまらないんだよな、ロイス?」


"やめろ、先生を穢すな"


心の煮えたぎるものはドロドロと赤黒く変色していった。


「本当にやめて。とても教員の取る行動とは思えないわ。あんたとしたのは罪悪感からしょうがなくよ。勘違いしないで」

先生が睨んでもオッターはニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべるだけだった。

先生の言葉に心臓は変な動きをした。本当に先生はこいつとしたんだと思うと、先程のドロドロが心から溢れ出しそうだった。


俺には、この気持ちが何なのかわからなかった。

でもまずは先生を助けなければ。それしか考えられなくなっていた。

「先生、待っててください。こんなやつ素手で十分ですから」

俺は一歩また一歩と二人に近づいた。

右手の拳はうまく握れきれない。それでもここで弱みを見せるわせにはいかない。俺はできる限りオッターを睨み続けた。

「ははっ。メーヴェの坊っちゃんは流石だな。あのシュヴァンの次男坊と渡り合えるだけはある。でもフラフラじゃねえか。お前も俺のものにしてやろうか。そうすればみんな解決だな」


その言葉に心のドロドロが決壊した。

あぁ、これは"キレる"感覚だ。思い出した、初等部の時に消し去った負の感情だ。


こんな低俗なやつから勉強を教わってたなんて反吐が出そうであった。


俺が口を開こうとしたとき、先に言葉を発したのは先生であった。

「オッター。いいかげんにして」

先生のその言葉に強い決意のようなものを感じた。

「なんだとてめぇ」

「私はともかく、リット様に何かしようとするのであれば」

「お、おい、待てよ。ここで屋敷のときと同じことすれば騒ぎになるぞ」

オッターは先程とは打って変わって青ざめていた。

屋敷のときと同じこととは何なのだろうか。


「大丈夫。もっと別の方法もあるの。試してみようかしらね。今までおとなしくしてればいい気になって。わかってないのはあなたでしょう?もう私はあのときの何もできない子どもじゃないのよ。伊達に生きてきたわけじゃないわ」

先生の言葉にオッターは口をパクパクさせるだけだった。

形勢は逆転したようだった。一体何が起こったのか俺にはわからなかった。


「リット様、ごめんなさいね無理させてしまって。少し、目をつぶって耳を塞いでてもらってもいいでしょうか?」

「え?」

「やっぱりだめよね、言いなりになっていては。最初は罪悪感からそうしてたのだけれど。貴方にここまで無理させといて学校医失格ね。さぁ、早く。目と耳を塞いで。カーテンも締めて、その中に居てくださいませ」

先生のその目が鈍く光ったように感じ、俺は寒気を感じた。先生の言うとおりにカーテンを締め耳をふさいだ。


耳を塞いでも声は完全には消えなかった。オッターが何かを言った後、先生が何かを言ったのはわかったけれど内容は分からなかった。

その瞬間部屋の空気が一気に冷えたのを感じた。それは明らかにこの季節にそぐわないものだった。

寒気がいきなりひどくなったのだろうかと俺の体は震えに震えた。



そしてオッターのつんざくような悲鳴が聞こえた。



「先生?!」

俺はとっさにカーテンを開け、先生の方を見た。


目の前に広がるその光景に、俺は目を見開いた。

先生が長さ30センチもあろう氷柱の切っ先をオッターの喉に当てようとしていたのだ。

「ロ、ロイス!やめてくれ!」

オッターは青ざめてプルプルと震えていた。

「リット様。なぜ見たのですか」

先生の冷たい眼差しが俺を射抜いた。

「だって、先生に何かあったんじゃ、ないかっ、て」

俺は意識が遠のく感覚がした。



きっとこれは夢に違いない。

あまりの高熱に悪夢にうなされただけなのだろう、そう思い込もうとした。



こうして俺は倒れた。




◇◆◇



「ここは」

気がつくと夜中で、俺は屋敷の自分のベッドで横になっていた。熱は少しばかり引いた感じがあった。

「リット様。よかった、お目覚めになって」

横にいたのは従者のブルーノだった。彼はずっと俺に付き添っていたのだろうか。

「俺はどうしてここに」

「マグノーリエ先生が背負って来てくださいまして、急いで馬車で運ばせていただいたのです」

「そうだったのか。すまなかった。先生にも悪いことをしてしまったな」

「こちらこそ、迎えに来るのが遅くなってしまって申し訳ありませんでした。あと、マグノーリエ先生から、風邪に効く薬草をいただきまして。煎じて飲むようにと」

今用意します、ブルーノはそう言うと部屋を後にした。



俺は窓の外に浮かぶ少し欠けた月を見上げた。


"あれは夢だったのだろうか"

脳裏に浮かぶのは先生がブルーノに氷柱を突きつけている場面だった。

もしも夢でなかったとしたら、あの後どうなってしまったのだろうか。先生はまさか、オッターを、、

俺は首を横に振った。

"あれは夢だったんだ、きっとそうだ"

俺はそう思い込むことにした。



ブルーノが持ってきたのは独特な香りのする濃緑のお茶であった。俺は恐る恐る口をつけたが、あまりの苦さにむせてしまった。

「苦っ」

「ティーカップ一杯分飲めば回復も早まるでしょう、とのことだそうで。なんでも彼の故郷の特産の薬草だそうですよ」

「なんとひどい特産品だ。頑張って飲むけど」

「無理なさらずに」

ブルーノは俺からティーカップを受け取ろうと手を伸ばした。

「いや、頂いたものだし」

俺はブルーノを制止し、顔をしかめながらお茶を飲み続けた。

しばらくすると味覚が麻痺したのかすんなりと飲めるようになった。

「リット様が執着されるのは珍しいですね」

ブルーノはくっとメガネを上げた。

これをしながら褒めるのは、彼があまり快く思ってないときだった。

「そうか?」

「最近、リット様が活き活きなさってて我々も嬉しいのですよ。フランツ様も喜んでおられます」

「そうか」

ブルーノの言葉の端々に嬉しさとは逆のものを感じた。しかし、フランツが喜んでいると聞けば嬉しくないわけはない。

「でも、学校医には深入りするのはよしてください。彼には様々な噂がありますので」

"なるほど、これが本題か"

俺は気づかないふりをした。

「深入りなんて。例えば?」

「何人も生徒や教員が餌食になった、ですとか、暗くなった医務室にいくつもの火の玉が揺らめいていた、などですね。得体がしれませぬ。ましてや平民出身ですし」

ブルーノは早口でまくし立てた。彼は俺の知らないところで先生について調べていたらしい。何という執念だろうか。

「へぇ」

だから何だというのだろうか。噂は噂でしかないというのに。

「私はリット様こそメーヴェの当主にふさわしいと思っているのですよ。ベルンハルト様はお体が弱いですしね。こうなったらフランツ様の婚約者リリー様をリット様にと」

「ブルーノ。フランツはリリーのことを気に入っている。リリーもだ。それに僕は」

「誰にも興味が持てない、と」

「そうだ。」

それは既に嘘であった。今は周りの人間を個人としてしっかりと認識しているし、それぞれに良いところや悪いところがあるのも少しずつわかってきた。

でもブルーノには知られたくなかった。知られてしまえばこの"芽"がまた潰されてしまうのではないかと思ったのだ。

「まさか、本当に男色なのでは?」

ブルーノの眼鏡の奥にある感情は"軽蔑"であった。

あぁ、そうか。ブルーノは俺が先生のことが好きだと思っているのか。

確かに俺は先生を好ましいとは思っている。でもそれは尊敬と呼べるものだ。そこに恋愛的な感情はない。

「ないな」

ブルーノはその言葉を信じております、と言った。

俺は心の中で舌打ちをした。


「とりあえず、あの学校医とこれ以上何かあるのであれば、御主人様に報告しなければなりません。そうなれば、ただの平民である彼は職を辞することになりましょう」 

ブルーノはそう言うと口角をくっと上げた。

俺は再び心の中で舌打ちをした。


「先生は学校医でそれ以上でも以下でもない。俺に対する脅しと受け取っていいんだな?」

「まさか。従者ごときがそんなことはできません」


ブルーノは深々と頭を下げた。

そして、おやすみなさいませと言うと部屋を後にした。



俺はなんとかお茶を飲みきり、再び眠りにつこうとした。



しかし、先生がオッターに色々される夢を何度も見てしまい深く寝付けずにいた。


熱は一時期より下がったようだったが、一晩中ずっと先生のことを考えてしまっていた。

オッターが先生にしたであろうことを想像して欲を満たそうとしている自分がおり、激しい自己嫌悪に陥った。

俺は一体どうしてしまったのだろうか。



俺は本当に男色なのだろうか、と自分を疑いため息をついた。



"これはあの出来事とお茶とブルーノの言葉のせいだ。きっとそうだ。俺が先生に抱く念は尊敬だ。恋愛的な感情ではない"



俺はそう思い込みながら、空が白み始めた頃にどうにか眠りについた。




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