10話 心のリハビリ
13の月19日目の放課後。
年末式を明日に控え、俺は中央校舎一階の廊下を歩いていた。
年末式とは冬期休暇に入る前の式のことで、校長から家での過ごし方の説明を受けるものだ。ダリエは二期制なので終業式という言い方はしない。冬期休暇は13の月21日目から1の月7日目の2週間である。
俺は医務室を訪ねた。
どうぞーといういつもの緩い声が聞こえ、それだけで少しだけ安心できた。
先生は優雅にテーブルの上の花瓶の水を替えていた。花瓶に生けられた白く大ぶりな花たちは生き生きと嬉しそうにしているように見えた。
相変わらず白衣の下にセーターは着込んでおらず薄着である。本当にこの人は寒さに強いようだ。
「先生、こんにちは。あれからすぐ来れなくてすみません。お礼も言えず」
「いいえ。あの従者からペナルティでもくらったのかしらって少し心配してたの。元気そう、、ではないけれど、年末式前に顔が見れてよかったわ」
先生は俺の目元を凝視していた。多分俺の目の下のクマを見ているのだろう。
「その通りです。毎日山のような課題を出されて、夢の中でも追われてました。眠れてる気がしません」
「それは大変だったわね。私が余計なことを言ってしまったかしら。ごめんなさい」
「え?ブルーノにどんなことを言ったんですか?」
「貴方が知る必要はないわ。そうそう、今日は心の整理についてかしら?」
軽くはぐらかされてしまったけれどしょうがない。
「はい。すみません、お忙しいとは思うんですがいいですか?」
「ええ。他に生徒が来たらそっちを優先するけどいいわね?」
「もちろんです」
俺がそう答えると、先生は紙と万年筆を持ってテーブルにいらっしゃいと言った。
俺は先生の言うとおりにして席についた。
「まずは自分の長所をできるだけ書いて」
俺は筆を走らせようとしたものの、剣術が得意、ぐらいしか書くことができなかった。なんと面白みのない男なのだろうか。
俺筆が止まったところで先生は無理しなくていいしまた後で書いてもいいわと言った。
「次に自分の短所を」
長所よりはこっちのほうが書きやすかった。興味が持てない、冷酷、などの言葉が並んだ。
こんなことして何になるという自分と、先生の言うことだから信じようという自分が数分に一度のペースで喧嘩をしていた。結果としては微妙なところで後者が連勝を続けている。
先生は俺の作業中、向かい側に座って分厚い何かの本を読んでいた。茶色のカバーがかけられており何の本かはわからなかった。
「書き終わったようね。次は今まででうれしかったことを書けるだけ書き出して」
嬉しかったことと言われてまず思いつくのは、フランツ生まれた時だった。こんなに可愛い生き物がいるのかと一日中眺めていたこともあったほどだ。後は家族やフォルカーに褒められたことや、フランツが剣術を始めたことなどが続いた。
「次は嫌だったことね」
最初は筆が止まってしまった。けれど、心の中にブルーノが出てきて、"嫌いなどという非効率的な感情は捨ててしまいなさい"と言われ、その瞬間にいくつも思い出したのだった。
俺は無意識のうちに相当ブルーノのことを嫌っていたようだ。
先生は書き終わったかしら?と言い、自身の読んでいた本を机に戻しに行った。
「それぞれの項目の中で共通点はないかしら?」
先生は嬉しかったこと、嫌だったことの中でね、と付け加えた。
先生はまた静かに俺の向かい側の席に座った。今度は俺の話に真剣に耳を傾けてくれる。
「嬉しかったことは家族に関することが多いですね。嫌だったのは、主にブルーノの発言です。あとは、、」
「言わなくていいわ。まぁ、聞いたところでプライバシーは守るけどね」
俺としてはすべて話しても構わなかったのだけれど、そう言われると少し恥ずかしくなってしまったので先生に従うことにした。元婚約者に言われたことを気にしているなど先生に知られたくなかったというのもある。
俺は書き出した物を見つめ、徐ろに口を開いた。
「僕にはこんなに嬉しいとか嫌だと思ってることがあったんですね。無関心ではなかったんだ」
それは生きてきた中で大きな大きな発見だった。
その瞬間トクトクと自分の心臓の鼓動を感じ、自身の体中にしっかりと血が流れているのを自覚した。
"俺は生きてるんだ。血の通ってる人間だ"
俺は目の前にいる先生を見た。花瓶の白い花の奥にいる先生は嬉しそうにして微笑んでいた。
「ええ。あなたは人形なんかじゃないわ」
俺は先生の言葉に驚きを隠せなかった。
先生はいつの間にこの紙を見たんだろうか。
嫌だったことの項目にその言葉があったのだ。
それはまたしてもブルーノからの言葉で、6歳ほどの時に同級生と喧嘩し苛ついていた俺に彼は"そんなことでイラつくとは。貴方よりも人形のほうがマシですね"と言ったのだ。
幼いながらに自分は人形よりも劣っているのかとショックを受けたのだった。それ以来俺はイラつくようなことがあるたびに"人形よりも理性的であるように"と心を落ち着かせるようにしたのだった。
チクチクと胸が痛んだ。
これが多分本来心が受けるべきダメージだったんだ。
俺の心は頭でガチガチに制御され、何も感じなくなっていたのかもしれない。
「先生、いつの間に俺の紙見たんですか?」
「見てないわ。まさか、そんなこと言われたの?」
先生は目を見開いた。
「ええ。6歳ごろの時人形のほうがマシだと。ブルーノに」
「控えめに言って最低ね、あんたの従者」
先生は苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
普段先生はあんたとは言わない。それほどまでに感情的に出た言葉ということだ。
そのおかげで胸につっかえていたものがすっと消え去る感覚がした。
「代弁してくださってありがとうございます」
俺は満面の笑みを浮かべて言った。
「これは私のやり方だし、何か医学的な根拠があるわけじゃないけどね、私は定期的に嬉しかったことと嫌だったことをそれぞれ紙に書き出すの。嬉しかったことはノートでもいいかもね」
「え、嫌だったことは?ノートではだめなんですか?」
「見返したら嫌な気持ちになるでしょう?だから私は嫌だったことは紙片に書いて燃やしちゃうの。キレイに灰にしてやるのよ。嬉しかったことは何度見返してもいいからノートに書くようにしてるわ」
「そうなんですね。燃やすのは楽しそうですね」
俺はブルーノからの言葉が燃えていくのを想像してワクワクした。
不気味な笑みを浮かべないで、と先生が引き気味に言った。そんなにひどい顔をしていたのだろうか。
「あ、燃やす前に自分がどんな事で嫌な思いをしたかを分析することを忘れないで。自分を知る手がかりになるはずだから」
「わかりました。ふふ、今回は8割以上がブルーノの言葉なので問題ないですね」
俺は早くこの紙片を燃やしたくてしょうがなかった。
それが顔に書いてあったようで、先生は苦笑いを浮かべていた。
「そ、そう。自分の長所と短所もノートに書いておくといいわ。見つけたときに書き足せばいいの。変わったら斜線で消すもいいし。あと、坊やの場合は何かに興味を持ったときはそれも記しておくといいかもね」
「やってみます」
「押し付けるつもりはないから自由にやってみて。自分のことは自分が一番わからないものよ。私も未だにわかってないもの」
「そうですか?」
「ええ。こういう時にイライラするとか、こういう時に嬉しくなるとかはわかるけれど、私が何者なのかはやっぱりわからないの。それでも、それも含めて自分なんだなって受け入れることはできるようになってきたわ」
「大人ですね」
「いや。貴方も知ってるでしょ?生徒たちの悪口に押しつぶされて善良な坊やにやつあたりするようなガキなのよ、私」
「あぁ、そんなこともありましたね。いい思い出です」
俺はわざとニコリと笑ってみせた。
先生はすみませんでした、と光の速さで謝り深々と頭を下げた。俺はその様子にふふっと吹き出してしまった。
「おかげで少し距離が縮まった気がします。僕も先生のような大人になりたいものです」
「やめておいたほうがいいわ。相当ひねくれてるわよ?」
どこがひねくれているのだろうか?俺には全くわからなかった。
「そこは置いておいて。ちゃんと謝れる人間になりたいんです。領主にならなかったとしても、どこかで働いていずれは部下を持つようになるかもしれない。家庭を持って子供に恵まれるかもしれない。そうなって自分が間違いを犯したときはちゃんと謝れるようになりたいなって」
「でも貴方は後継者教育で、むやみに謝るなって習ってるんじゃなくて?」
詳しくは知らないけれど、と先生は付け加えた。
「はい。言いたいことはわかるんです。一番上の者が簡単に謝ったのでは示しがつかないし、周りも不安がってついてこないということも。でも、すごく古い気がして。あなたと接していく中でそう思い始めました」
「私はただの平民よ。貴族様とはまた別の価値観で育ってきたのだもの。参考にしてはいけないわ」
俺はその言葉に少し距離を感じてモヤモヤした。
そんなことはわかっているけれど、先生に言われると苦しくなるのはなぜなのだろう。
「同じ人間なのに?」
「ふふ、リット坊やは変わってるわ。いい意味でね。貴方が上に立つ姿を見てみたいものだわ」
先生は微笑んでいた。こんなふうに笑ってもらえるなら上に立てる人間になりたいとも思ってしまうから不思議である。
先生は人の感情を引き出すのが上手い。
学校医とはそういうものなのだろうか。
いや、前任のおじいちゃん先生はそんなことなかったなと思い出した。おじいちゃん先生は基本的に"どうにかなるべー"しか言わなかった。
「あ、そうそう。御三家って威張り散らす人が全然いないわよね。そういう教育でも受けてるの?他の上級・中級貴族にはちらほらいるのに」
先生は、疑問に思ってたのよーと付け加えた。
「確かにそう教育されてると思います。少なくともメーヴェは。自分で言うのは変ですけど、御三家は威張る必要なんてないですからね。父曰く、"威張るのは品格が足りていない証拠。メーヴェには十分に備わっているだろ?"だそうで。それに今ダリエに通ってる直系はメーヴェの僕とフランツ、ライアーのリリーとルイス、シュヴァンのフォルカーだけです。皆顔なじみですが威張り散らすような面子ではないですから。あ、それぞれ傍系になると少し様子が変わりますので、気をつけてください」
「傍系ってことはあなた達にとっては従兄弟とか再従兄弟とか?」
「ええ。それぞれ従兄弟などたちの家も子爵などの爵位持ちでそれぞれの領地の一部を治めてたりします。表では仲良くしていますが、裏では嫉妬なり憎悪なりが渦巻いていたり、、なんて知りたくないですよね」
「小説の世界ね。すごいわ」
「僕たちにとっては現実です」
俺はため息をついた。
従姉や再従兄弟もダリエに通っている。彼らは直系の俺たちにあまり良い思いをしていないようだ。それでも血みどろの骨肉の争いにならないのは、メーヴェに関しては直系に近い傍系(直系の弟など)にはそれなりの爵位や土地が与えられるからである。御三家のように大きな土地を持っていればそれが可能だが、小さな領地であったり宮廷貴族だとそうもいかないのでやはり骨肉の争いに発展することもある。それは、基本的に嫡男以外は爵位を継げないのでそれ以外の弟たちはほぼ平民扱いになるからだ。
それでも近年では婚姻制度が整っているためにシンプルになったそうだ。一昔前は普通に愛人を囲っていた貴族も多く、異母兄弟同士の殺し合いやなりすましなどもしょっちゅう起こっていたらしい。今ではそういうこともほぼ聞かなくなったし、貴族の子どもたちは学園に通う関係で子どもたちが殺し合いに巻き込まれるなどということも少なくなった。壮年の教員たちは"本当に平和になった"と遠い目をする者も多い。
「あ、じゃあもしかして坊やの1つ上のイダ嬢って、」
先生は気づいていたようだ。俺の左眉がピクリと反応した。
「僕の従姉です。父さんの弟の子どもで、僕が誰とも婚約しなかった場合の最終手段先とも言われてます」
自分で言ってゾッとした。
「そうなのね。従姉弟同士で結婚ってのも、大変ね」
「ええ。それに彼女には想い人がいますので、彼女からそれはすごい圧力をかけられてます。"誰か見つけてこいよ、私に迷惑をかけるな"と。万が一あの人と結婚なんかしたら心の安らぎはないでしょうね」
俺は遠い目をした。初等部の頃に彼女に追いかけ回されたり胸ぐらを掴まれたりした記憶が蘇る。うん、やはり彼女と結婚することだけは避けたい。彼女と結婚するくらいなら聖職者や軍官になって貴族の肩書を捨てたほうがましとも思えた。
「もう一度言うわ、大変ね。いい相手と巡り会えることを祈ってる。あ、そうか。坊やはローゼ様とも従姉弟にあたるのよね?」
「そうなりますね。まぁあっちは王族ですし、僕が生まれてすぐに亡くなりましたけれど。え?先生、ローゼ様と面識があるんですか?!ローゼ様が生きていれば先生と同じくらいですよね?」
「ないわ。そして歳は秘密」
俺は無意識に舌打ちをした。それに気づいたころには遅かった。
「やだ!舌打ちしたわ、この子!」
俺は茶化してきた先生を無視することにした。
「話がそれてしまいましたね。ノートや紙に書いてみます。嫌なことは燃やします。ふふ、主にブルーノとのことですのですごくスッキリしそうです」
「どんだけ自分の従者を嫌ってるのよ。気持ちはわかるけど。そういうのって信頼関係が大切なんじゃないの?」
「ブルーノは有能ですからね。性格に目を瞑れば問題ありません」
「そ、そう。聞かなかったことにするわ。では、良い年末を」
その言葉に、しばらくこんなやり取りもできなくなるのかと寂しさを覚えた。もちろん久しぶりに兄さんや母さんたちにも会えるし、ブルーノと過ごす時間が減るのが嬉しすぎるわけなのだが。
「先生も。あ、里帰りするんですか?」
俺はさり気なく質問をした。もしかしたら故郷について何か聞けるかもしれない。
「しないわ。こっちの暖かさになれてしまったからもう戻れないの」
先生は少しだけ寂しそうに笑った。
当時の俺はその言葉を聞いて、やっぱり先生の寒耐性はおかしいなくらいしか考えていなかった。
先生の寂しそうな笑みの理由を知るのは、もう少し後の話であった。




