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邪神労働記 〜黄衣の王は定時で帰りたい〜  作者: 相作
第一部『黄衣の王は帰れない』

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第9話 決裁権限をお持ちの方はいらっしゃいますか

諸々修正

金曜日、午後三時一分。


カルコサの執務室で、黄衣の王ハスターは一行の文字を睨んでいた。


『選定者候補の検索を開始します』


つい先ほどまで、問題は代替発注者を誰にするかという話だった。


それ自体、承認した覚えはない。


そもそも、代替発注者という役割が必要であることさえ証明されていない。


ところが、今度はその発注者を選ぶ者まで探し始めた。


「……待て」


ハスターは、ゆっくりと指を立てた。


「発注者がいないから代替発注者を探し、代替発注者を決める者がいないから選定者を探す。そういうことか」


帳簿は答えなかった。


代わりに、新しい項目が表示された。


『選定者の資格要件を確認しています』


『第一項:選定対象者を認識していること』


『第二項:選定に関する異議を申し立てたこと』


『第三項:選定結果の妥当性を判断できること』


『第四項:上記のいずれかに該当する者は、選定者の候補となり得る』


ハスターは目を閉じた。


一秒。


二秒。


三秒。


「……なぜ、異議を申し立てた者が選定者になる」


返答はない。


「決定に反対した者へ、その決定の責任を押しつけるつもりか」


『資格要件に該当します』


「質問に答えろ」


『確認中です』


ハスターは、静かに息を吐いた。


この相手には、どうやら二種類の返答しかないらしい。


都合のよいときは「該当します」。


都合の悪いときは「確認中です」。


「……実に効率的な会話だな」


嫌味を言っても、帳簿は動じなかった。


当然だった。


紙だからである。


もっとも、最近は紙のほうが人間よりよほど積極的に仕事を増やしてくる。


ハスターは権限照合原簿を開いた。


『選定者の任命権限』


検索。


『未登録』


『選定者の資格要件を制定する権限』


検索。


『未登録』


『選定結果を確定する権限』


検索。


『未登録』


三つの項目が並んだ。


ハスターは頷いた。


「……やはり、何も確認できん」


ただし、未登録であることと、絶対に存在しないことは同じではない。


どこかに未知の権限がある可能性まで、現時点で否定することはできなかった。


だからこそ、確認できないものを勝手に認めるわけにはいかない。


ハスターは記録を追加した。


『資格要件の制定権限が確認されるまで、当該要件に基づく選定を承認しない』


『条件への該当表示は、候補者としての正式な認定または就任の同意を意味しない』


『選定行為が確認された場合も、その権限を別途照合する』


印章を押す。


『指示登録済み』


続いて、別の表示が現れた。


『選定者の条件該当者を検出しました』


ハスターは嫌な予感を覚えた。


一行目。


『ハスター』


「……だろうな」


二行目。


『榊原』


「……またか」


三行目。


『深町由紀』


ハスターは机を叩かなかった。


怒鳴りもしなかった。


ただ、静かに帳簿を閉じた。


その動作があまりに穏やかだったため、執務室の壁に掛けられた古い星図が、かえって不安そうに震えた。


「……一つ確認する」


ハスターは言った。


「この三名を、誰が選定者として認めた」


『資格要件に該当します』


「認めた者を聞いている」


『確認中です』


「……そうか」


ハスターは椅子から立ち上がった。


「ならば、確認できるまで誰も選定者ではない」


帳簿の文字が淡く光った。


『選定者:未確定』


「それでよい」


『選定者の確定が必要です』


「必要性の根拠を示せ」


『確認中です』


ハスターは、ゆっくりと首を振った。


「……堂々巡りだな」


そのときだった。


執務室の扉が三度叩かれた。


とん。


とん。


とん。


ハスターは顔を上げた。


「……今度は何だ」


扉の向こうから、例の声がした。


『決裁権限をお持ちの方はいらっしゃいますか』


ハスターは、しばらく黙った。


そして、低い声で答えた。


「……案件による」


     *


午後三時九分。


深町由紀は、事務所の給湯室で紙コップにお茶を注いでいた。


電気ポットの湯気が薄く立ち上る。


いつもなら、何も考えずに済む時間だった。


だが今日は、背後にある複合機のことが気になって仕方がなかった。


先ほど、誰も操作していないのに動き出した機械。


紙を送る音がしたのに、何も出てこなかった。


榊原の判断で、二人とも触れずに記録だけ残した。


その後、複合機は沈黙している。


由紀は紙コップを持ち上げた。


熱い。


当たり前のことに、少しだけ安心する。


熱いお茶は熱い。


紙コップは紙コップ。


勝手に名前を書き換えたり、仕事を押しつけたりしない。


「……普通って、ありがたいなぁ」


思わず呟いた。


給湯室の入口から、榊原の声がした。


「深町さん」


「はい」


「少しいいかな」


由紀は紙コップを持ったまま振り向いた。


「何でしょう」


「今朝の文書について、追加で確認したいことがあるんだ」


「また何か届いたんですか?」


「いや。新しいものは届いていないよ」


榊原は首を横に振った。


「ただ、あの文書を受け取ったあと、私たちがどう対応したかを整理しておきたい」


由紀は頷いた。


「分かりました」


二人は事務室へ戻った。


机の上には、由紀が先ほど作成した記録用紙が置かれている。


一番上には、『未確認文書』と記されていた。


差出人不明の紙そのものは、二人とも触れていない。


榊原は、その記録用紙を前にして言った。


「深町さん。今朝の文書が届いたとき、私は何をしたかな」


「ええと……内容を確認して、正式な連絡経路で報告しました」


「そのあと?」


「受け取ったことと、勝手な業務の割当てを認めないことを伝えたと思います」


「そうだね」


榊原は頷いた。


「では、私はその文書の指示に従ったかな」


由紀は少し考えた。


「……従ってないと思います」


「うん。私もその認識だよ」


榊原は静かに続けた。


「ただ、文書が届いたことは事実なんだ」


「はい」


「内容を確認したことも、報告したことも事実だ」


「そうですね」


「その事実を、相手がどう扱うかは分からない」


由紀は紙コップを机に置いた。


お茶の表面が、わずかに揺れた。


「……また、何かの担当にされるかもしれないってことですか」


「可能性としては、考えておいた方がいいと思う」


榊原は、そこで言葉を切った。


「でも、それは私たちが引き受けたという意味じゃない」


由紀は頷いた。


「……はい」


榊原は、記録用紙の横に一枚の紙を置いた。


「だから、記録を分けようと思う」


「分ける?」


「実際に起きたことと、相手が主張していることを」


由紀は目を瞬いた。


榊原は紙の中央に縦線を引いた。


左側に、


『確認した事実』


右側に、


『未確認の主張』


と書いた。


「例えば、今朝、差出人不明の文書が届いた。これは事実だ」


左側に記入する。


「でも、その文書に書かれた指示が正当かどうかは、確認できていない」


右側に記入する。


「深町さんの名前が受付担当者として表示されたことも、事実だ」


左側に記入する。


「ただし、深町さんが受付担当者に就任したという主張は、認められない」


右側に記入する。


由紀は、しばらくその紙を見つめていた。


「……これ、いいですね」


「そうかい?」


「はい。今まで全部、一緒くたに考えてました」


由紀はメモ帳を開いた。


「名前が書いてあるから、そうなっちゃったのかな、とか。通知が来たから、何かしなきゃいけないのかな、とか」


榊原は頷いた。


「そう感じるのは自然だと思う」


「でも、書いてあることと、本当に決まったことは違うんですよね」


「そのとおり」


由紀は少しだけ笑った。


「じゃあ、今後は分けて記録します」


「うん。そうしてくれると助かる」


榊原は、そこで小さく息を吐いた。


「……それと、もう一つ」


「はい」


「私自身も、判断を間違えるかもしれない」


由紀は顔を上げた。


榊原は、いつもの穏やかな表情のまま続けた。


「だから、私が何かを決めたように見えても、遠慮なく確認してほしい。連絡担当になったからといって、何でも決められるわけではないからね」


由紀は少し考えてから頷いた。


「分かりました」


そして、真面目な顔で付け加えた。


「じゃあ、榊原さんが突然『今日から深町さんは受付担当です』って言っても、断ります」


榊原は苦笑した。


「うん。断ってほしい」


「その場合、榊原さんも何かに操られてる可能性がありますし」


「……そこまで疑われるのは、少し寂しいね」


「でも、今週いろいろありましたから」


「……それは否定できないな」


二人は、少しだけ笑った。


笑い声は小さかった。


けれど、事務所に漂っていた息苦しさが、ほんのわずかに和らいだ。


そのとき。


由紀の机の上で、スマートフォンが震えた。


一度だけ。


ぶっ。


画面が点灯する。


由紀は反射的に視線を向けた。


通知はなかった。


着信履歴にも、メッセージにも、変化はない。


「……あれ?」


榊原が顔を上げた。


「どうしたんだい?」


「今、スマホが震えたんですけど」


由紀は画面を見つめた。


「何も来てないですね」


榊原は、少しだけ表情を硬くした。


「……時刻だけ記録しておこうか」


由紀は頷いた。


午後三時十六分。


メモ帳に書き込む。


『15:16 スマートフォンが振動』


『通知表示なし』


『原因:未確認』


書き終えた瞬間。


スマートフォンが、もう一度震えた。


ぶっ。


由紀の指が止まった。


画面には何も表示されていない。


ただ、黒いガラスに自分の顔が映っていた。


その背後。


誰もいないはずの事務所の入口に、白いものが見えた。


由紀は、ゆっくりと振り向いた。


何もない。


入口は空いている。


廊下にも、人影はなかった。


もう一度、スマートフォンを見る。


黒い画面には、自分の顔だけが映っていた。


由紀は紙コップを握りしめた。


お茶は、まだ熱かった。


「……榊原さん」


「どうしたんだい?」


「今、画面に……入口のところに、白いものが映った気がして」


榊原は入口を見た。


そこには誰もいない。


「……そうか」


彼は少し考え、由紀に言った。


「そのまま、スマートフォンには触らないでおこう」


「はい」


「今のことも記録しておいてくれるかな。見えたものと、確認できたことを分けて」


由紀は頷いた。


その声が落ち着いていたので、かえって少しだけ怖くなった。


榊原も、これを単なる機械の不調とは考えていないのかもしれない。


だが、彼は決めつけなかった。


由紀も、決めつけたくなかった。


二人が見たものは、まだ同じではない。


     *


午後三時十八分。


カルコサの執務室。


ハスターは、扉の向こうにいる何者かと向き合っていた。


『決裁権限をお持ちの方はいらっしゃいますか』


先ほどから、同じ質問が繰り返されている。


「案件を示せ」


ハスターは答えた。


『選定者の確定です』


「その選定自体を承認していない」


『決裁が必要です』


「必要性の根拠を示せ」


『確認中です』


「では、決裁できん」


『決裁権限をお持ちの方はいらっしゃいますか』


ハスターは静かに目を閉じた。


「……話を聞いているのか」


『確認中です』


「だろうな」


彼は執務机へ戻り、権限照合原簿を開いた。


決裁とは、単に名前を書いたり印章を押したりすることではない。


決める権限を持つ者が、定められた範囲で判断を下す行為だ。


権限のない者が決めても、正規の決裁にはならない。


ましてや、誰かを勝手に選んでよい理由にはならない。


ハスターは新しい照会を作成した。


『選定者確定に関する決裁権限の照会』


『当該選定に必要な決裁権限の根拠を提示されたい』


『根拠が確認されるまで、いかなる人物にも決裁を求めない』


『照会行為を決裁権限の承諾と解釈しない』


印章を押す。


『照会を登録しました』


その直後、扉の向こうから声がした。


『照会を確認しました』


ハスターは顔を上げた。


『決裁権限をお持ちの方を検索します』


「……待て」


『検索を開始します』


「今、誰にも決裁を求めるなと書いたはずだ」


『照会を確認しました』


「確認しただけか」


『はい』


「内容は理解したか」


『確認中です』


ハスターは天井を見上げた。


「……なぜ、返事だけは早いのだ」


扉の下から、細長い影が伸びてきた。


以前と同じような、細長い影だった。


光を遮るものがないのに、床を這っている。


影は執務机へ向かって伸びた。


ハスターは動かなかった。


影が机の脚に触れる。


その瞬間、机上の帳簿が一斉に開いた。


ぱらぱらぱらぱら。


紙の音が、執務室を満たす。


一冊。


二冊。


三冊。


四冊。


どの帳簿にも、同じ文字が浮かんでいた。


『決裁権限者を検索しています』


ハスターは、ゆっくりと立ち上がった。


「……勝手に私の記録へ触れるな」


影は止まらなかった。


書棚の奥へ伸びる。


床の模様を越える。


窓の下を這う。


まるで、執務室そのものの輪郭を確かめているようだった。


ハスターは右手を上げた。


黄色い霧が床を覆う。


空間がわずかに軋んだ。


影は、その霧に触れた瞬間、ぴたりと動きを止めた。


「……ここは私の執務室だ」


声が低く響いた。


「無断で記録を改変することは許さん」


影は、しばらく動かなかった。


やがて、ゆっくりと扉の下へ引き戻されていった。


帳簿が閉じる。


紙の音が止む。


執務室に静寂が戻った。


ハスターは机上の記録を確認した。


『決裁権限者:未確定』


『検索状況:継続中』


「……止まってはいないか」


影を退けることはできた。


だが、検索そのものが終わったとは限らない。


むしろ、まだ続いていると表示されている。


「……厄介だな」


彼は椅子に腰を下ろした。


そのとき。


机上の一冊だけが、再び開いた。


『決裁権限者の条件該当者』


ハスターは、ゆっくりと目を向けた。


そこには三つの名前が並んでいた。


『ハスター』


『榊原』


『深町由紀』


「……また同じ三人か」


ただし、今度は名前の横に、小さな欄が追加されていた。


『決裁意思』


ハスターの欄。


『未確認』


榊原の欄。


『未確認』


深町由紀の欄。


『未確認』


ハスターは、しばらくそれを見つめた。


「……当然だ」


誰も承諾していない。


誰も決裁権限を引き受けていない。


誰も、他人の役割を勝手に決める権利など与えていない。


少なくとも、確認された記録は存在しない。


もっとも、この表示だけをもって、相手が事実を正しく記録していると信用することもできなかった。


ハスターは、権限照合原簿へ改めて記載した。


『三名について、決裁権限の授与記録は確認されていない』


『条件該当者の表示は、正式な決裁権限者への就任を意味しない』


『本人の意思が不明であることを、承諾と解釈してはならない』


印章を押す。


『指示登録済み』


その直後。


三人の名前の下に、新しい文字が現れた。


『決裁意思が確認できない場合』


ハスターは目を細めた。


続く一行。


『代理決裁の要否を確認します』


「…………」


さらに、もう一行。


『代理決裁者の条件該当者を検索します』


ハスターは、しばらく無言でその文字を見つめていた。


それから、ゆっくりと天井を見上げた。


「……代理、か」


発注者がいない。


だから、代替発注者を探す。


代替発注者を決める者がいない。


だから、選定者を探す。


選定者を決める権限者がいない。


だから、決裁権限者を探す。


決裁権限者の意思が確認できない。


だから、代理決裁者を探す。


どこまで続くのか。


どこで終わるのか。


そもそも、終わりがあるのか。


ハスターは静かに呟いた。


「……無限に増やすつもりか」


返答はなかった。


ただ、帳簿の最後の頁に一行だけ文字が現れた。


『必要な手続きです』


ハスターは、その文字を見つめた。


そして、静かに笑った。


「……必要かどうかを決める者も、探すつもりか?」


帳簿は、しばらく沈黙していた。


やがて。


新しい項目が表示された。


『必要性判断者:未登録』


ハスターは、ゆっくりと顔を覆った。


「……聞くのではなかった」


     *


午後三時二十七分。


黄昏の聖餐会の事務所では、由紀がスマートフォンを机に伏せていた。


画面は消えている。


通知もない。


それでも、先ほど黒い画面に映った白いものが、頭から離れなかった。


誰かがいたのか。


光の加減だったのか。


それとも、疲れて見間違えたのか。


由紀には分からない。


榊原は机の向こうで、報告書を作成していた。


件名は、


『未確認の端末動作および視覚的異常に関する報告』


だった。


「深町さん」


「はい」


「確認させてほしいんだけど、画面に文字は出ていなかったんだね」


「はい。通知もメッセージもありませんでした」


「名前を呼ばれたり、何かをするよう求められたりは?」


「それも、ありません」


榊原は頷き、記録した。


由紀は少し迷ってから尋ねた。


「……これも、例の受付と関係あるんでしょうか」


「分からない」


榊原は、はっきり答えた。


「ただ、もし関係があるなら、深町さんへの直接接触を禁止するよう求めた件に関わる。だから報告しておく」


「……禁止されてるんですよね」


「そう聞いているよ」


「でも、もしあれが……」


由紀は言葉を止めた。


禁止されているから、起こらない。


そう信じられれば、どれほど楽だろう。


だが、木曜日には、禁止されていたはずの声が聞こえた。


その事実を、由紀は忘れていなかった。


榊原は、報告書の末尾に一文を加えた。


『当該現象と受付異常との関連は未確認。ただし、禁止済みの直接接触に該当する可能性を否定できないため、調査を要請する』


「……これで送るよ」


由紀は頷いた。


そのとき。


机の上のスマートフォンが、三度目の振動をした。


ぶっ。


由紀は息を止めた。


画面は伏せたままだ。


通知音もない。


榊原が顔を上げた。


「……今のも?」


由紀は頷いた。


「はい」


「触らずに、そのままにしておこう」


「……分かりました」


由紀は、メモ帳へ時刻を書き加えた。


『15:27 端末が再度振動』


『通知表示:未確認』


『操作:なし』


書き終えて、ペンを置いた。


スマートフォンは、それ以上動かなかった。


榊原は報告書へ、三度目の振動について追記した。


それから、正式な組織連絡経路を開いた。


「……今度こそ、送るよ」


由紀は頷いた。


榊原が報告を送信する。


由紀自身が、正体不明の相手へ応答することはなかった。


     *


その直後。


カルコサの執務室に、正式な連絡が届いた。


発信者は、黄昏の聖餐会。


組織連絡担当者、榊原。


ハスターは内容を読み、動きを止めた。


『深町由紀の端末に、原因不明の振動が三度発生』


『通知の表示は確認されず』


『画面に白い像を視認したとの本人申告あり』


『受付異常との関連は未確認』


『直接接触禁止命令への抵触の有無について調査を要請』


ハスターは、ゆっくりと書類を置いた。


「……またか」


木曜日、午前九時十六分。


禁止命令が登録されたあと、由紀には正体不明の声が届いた。


その違反は、すでに記録している。


今回も同じものかどうかは分からない。


ただ、もし今回の端末動作が受付異常によるものなら、禁止命令は再び破られたことになる。


ハスターは調査記録を開いた。


『接触対象:深町由紀』


『報告された現象:端末振動三回、反射像の異常一件』


『接触主体:未確認』


『受付異常との関連:未確認』


『禁止命令への抵触:調査中』


その下に、もう一行を追加した。


『調査を理由として、本人への直接接触を行ってはならない』


印章を押す。


『調査記録を登録しました』


ハスターは、しばらくその記録を見つめていた。


「……こちらが手続きを増やすほど、向こうも増やしてくる」


だが、だからといって記録をやめるわけにはいかない。


分からないことを、分からないまま残す。


誰が何をしたのか、確認できる範囲を区切る。


本人が承諾していないものを、承諾したことにさせない。


それは、少なくとも今のハスターにできることだった。


彼は、机の端に置かれた休暇申請書を見た。


『審査状況:受付待機』


その隣には、選定者の記録。


『選定者:未確定』


さらに、決裁権限者の記録。


『決裁権限者:未確定』


そして、最後に。


『必要性判断者:未登録』


ハスターは、しばらく黙っていた。


「……一つの受付から、ずいぶん増えたものだ」


仕事があるから担当者が必要になる。


担当者を決めるために発注者が必要になる。


発注者を決めるために選定者が必要になる。


選定者を決めるために決裁権限者が必要になる。


その権限者がいなければ、代理が必要だと言い出す。


しかし、最初の仕事を誰が頼んだのかは、まだ分からない。


ハスターは窓の外を見た。


二つの黒い太陽が、動かないまま浮かんでいる。


「……仕事とは、何なのだろうな」


その問いに、答える者はいなかった。


しばらくして、彼は小さく呟いた。


「……いや。哲学を始める前に、発注者を確認せねばならん」


机の上で、一枚の書類が光った。


『発注者:未確認』


ハスターは目を閉じた。


「……知っている」


金曜日の午後は、まだ終わらない。


そして、黄衣の王の休日は、今日も遠かった。

今日はここまでかなー

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