第10話 お待ちの方は、どちら様ですか
今日はもう終わりと言ったな、あれは嘘だ
金曜日、午後三時三十一分。
黄衣の王ハスターは、机の上に並んだ二種類の書類を見比べていた。
一方は、通常業務の申請書。
もう一方は、発行元も責任者も確認できない、例の異常案件に関する記録だった。
通常業務の書類には、申請者がいる。
担当部署がある。
不備があれば差し戻す相手もいる。
それが、どれほどありがたいことだったのか。
ハスターは今週になって、嫌というほど思い知らされていた。
「……必要性判断者、未登録」
彼は異常案件の記録を読み上げた。
第九話の終わりから、状況は変わっていない。
代理決裁者を選ぶには、その代理が必要かどうかを判断する者が必要らしい。
だが、その判断者が登録されていない。
「ならば、そこで止めればよい」
至極当然の結論だった。
ところが、記録の下部には別の表示がある。
『必要性判断者の選定手続:準備中』
「準備するな」
ハスターは即座に言った。
『選定手続の停止理由:未入力』
「停止理由は、選定手続そのものに根拠がないことだ」
『停止理由の審査担当者:未登録』
「……」
ハスターは黙った。
そして、ゆっくりと記録を机に置いた。
「……よくできている」
褒めているわけではない。
何かを止めようとすれば、止めるための担当者が必要になる。
担当者を決めようとすれば、その決定を承認する者が必要になる。
承認者がいなければ、代理を立てる。
代理を立てる必要があるかどうかも、誰かが判断しなければならない。
そして、その誰かがいない。
「……存在しない組織の人員配置だけが、際限なく膨らんでいく」
ハスターは額を押さえた。
「最悪の人事制度だ」
窓の外には、彼自身が設定した午後五時の景色が広がっている。
あの空だけは、今日も変わらない。
変わらないことが、これほど心強いとは思わなかった。
ハスターは通常業務の書類を一枚処理した。
深海から届いた騒音苦情だった。
苦情の対象は、海底の裂け目から聞こえる歌声。
発生源は未確認。
ただし、申請者の連絡先は明記されている。
「……素晴らしい」
ハスターは思わずつぶやいた。
「少なくとも、誰に返答すればよいかわかる」
処理済みの書類を脇へ寄せる。
そのとき、異常案件の記録に新しい文字が浮かんだ。
『必要性判断者の選定手続:保留』
ハスターは目を細めた。
「……ほう」
初めて、手続が止まった。
少なくとも、表示上は。
だが、次の行を見て、彼の期待は消えた。
『保留解除条件:関係者による確認』
「……関係者とは誰だ」
『関係者:未確認』
「だろうな」
ハスターは短く答えた。
すぐに正規の記録用紙を取り出す。
表示が変化した時刻。
保留という文字が現れたこと。
解除条件が提示されたこと。
そして、条件を定めた者の権限が確認できないこと。
一つずつ記録した。
保留と表示されたことと、実際に処理が停止したことは別だ。
この数日間、彼が繰り返し確認してきた区別だった。
午後三時三十四分。
地上、黄昏の聖餐会の事務所。
深町由紀は、机の上に置かれたスマートフォンを見つめていた。
画面は下を向いている。
先ほどまでに、三度の振動があった。
最初の二度は、通知が表示されなかった。
三度目は画面を伏せていたため、表示の有無を確認できていない。
一瞬だけ見えた白い反射のようなものについても、正体はわからなかった。
「……榊原さん」
「はい」
「これ、持って帰っても大丈夫なんでしょうか」
榊原はすぐには答えなかった。
「安全だとは言い切れません」
「ですよね」
「ただ、ここに置いておけば安全だという根拠もありません」
「……それもそうですね」
由紀はため息をついた。
今日、彼女が事務所に立ち寄ったのは、給与確認に必要な事項を確かめるためだった。
金曜日の勤務は休むよう指示されている。
正式に勤務へ復帰したわけではない。
それなのに、気づけば午後三時を過ぎていた。
「……私、ずいぶん長居しちゃいましたね」
「ええ」
榊原は時計を見た。
「本来なら、もう休んでいただくべき時間です」
「すみません」
「謝る必要はありません。私も、記録の整理を続けてしまいました」
由紀は机の上の書類を見た。
自分たちで作成した観察記録。
異常な表示を転記した控え。
未確認の文書についての報告。
どれも、通常の業務で作成したものではない。
そして、そのどれにも共通していることがあった。
「……結局、誰が頼んだ仕事なのか、わからないんですよね」
榊原はうなずいた。
「はい」
「受付担当者も決まっていない」
「決まったという正当な記録はありません」
「発注した人もわからない」
「そうです」
「なのに、待っている記録だけは四十件ある」
「……ええ」
由紀は腕を組んだ。
「普通の受付だったら、もう苦情の嵐ですよね」
「普通の受付なら、そもそも受付を始めません」
「ですよね」
二人は黙った。
由紀は、ふと顔を上げた。
「……でも、ひとつだけ気になるんです」
「何でしょう」
「その四十件って、何を待ってるんでしょう」
榊原は答えなかった。
答えられなかった。
待機記録は四十件。
それが四十人なのか、四十件の依頼なのか、あるいは別の何かなのか。
誰にもわかっていない。
「……聞かないほうがいいですよね」
由紀が言った。
「少なくとも、正体不明の相手へ直接問い合わせるのは避けましょう」
「はい」
「調べるとしても、通常の連絡経路を通してです」
由紀はうなずいた。
そして、観察記録に一行を書き加えた。
『待機記録四十件の対象・目的は未確認』
それだけだった。
質問を送信したわけではない。
誰かに応答を求めたわけでもない。
ただ、わかっていないことを書き留めた。
午後三時三十八分。
カルコサ。
ハスターは、先ほどの保留表示を再確認していた。
『必要性判断者の選定手続:保留』
文字は変わっていない。
ただし、その下に新しい項目が増えていた。
『保留解除に必要な確認事項』
「……」
ハスターは読み進めた。
『関係者の特定』
『関係者の権限確認』
『対象案件の確認』
ここまでは、少なくとも手続の形をしている。
問題は、その次だった。
『対象案件:受付待機記録』
「……何?」
ハスターは目を細めた。
代理決裁者の必要性を判断する手続と、受付待機記録。
本来なら、別々に確認すべき事項だった。
それが、同じ記録の中で結びつけられている。
「……誰が関連づけた」
答えはない。
ハスターは、正規の権限照合原簿を開いた。
受付待機記録に関する正式な発注者。
未確認。
代理決裁者の任命権者。
未確認。
必要性判断者の選定権限。
未確認。
そして、両案件を関連づける正式な決定記録。
確認できず。
「……予想どおりだ」
ハスターは原簿を閉じた。
この関連づけを承認する根拠はない。
しかし、異常案件の記録には、さらに別の表示が現れた。
『対象案件の確認方法:待機者照会』
ハスターの動きが止まった。
「……待機者照会?」
『照会対象:受付待機記録』
『対象件数:40』
「待て」
ハスターは低く言った。
「四十件の記録があることは確認している。だが、それが四十名の待機者を意味するとは限らない」
記録は沈黙していた。
「まして、待機者を照会する権限が誰にあるのかも不明だ」
新しい文字が浮かぶ。
『照会権限者:未登録』
「……」
ハスターは深く息を吐いた。
「また一人増えたな」
照会権限者。
必要性判断者。
代理決裁者。
決裁権限者。
選定者。
代替発注者。
受付担当者。
存在するかどうかもわからない組織の役職が、次々と増えていく。
「……この調子では、職員名簿だけで一冊の書物になる」
ハスターは記録用紙に書き込んだ。
『待機者照会の権限根拠:未確認』
『照会の実施:未承諾』
『待機記録四十件の実体:未確認』
書き終えたところで、異常案件の記録に一行増えた。
『照会者候補:ハスター』
「候補にするな」
ハスターは即座に言った。
『候補者の異議を確認』
「確認したなら、反映しろ」
『異議の審査担当者:未登録』
「……」
ハスターは、ゆっくりと椅子にもたれた。
「……見事だ」
もちろん、褒めてはいない。
午後三時四十二分。
地上。
榊原は、由紀が作成した記録を確認していた。
「この書き方で問題ないと思います」
「よかったです」
「ただし、ここは分けましょう」
榊原が指したのは、スマートフォンの振動についての記載だった。
『振動三回。通知なし』
「最初の二回は、通知が表示されなかったことを確認しています」
「はい」
「でも、三回目は画面を伏せていましたね」
「あっ」
由紀はペンを取り直した。
『一回目・二回目:通知表示なし』
『三回目:通知表示未確認』
「……こうですね」
「はい」
由紀は修正した記録を見つめた。
「なんか、細かいですね」
「細かいです」
榊原は認めた。
「でも、今はその細かさが必要なんです」
「ですよね」
由紀は小さく笑った。
「見てないものを、見たことにしちゃ駄目ですもんね」
「そのとおりです」
机の端には、以前から保全している未確認の書類に関する記録があった。
正体不明の紙には、二人とも触れていない。
複合機も、無操作で動いたあと、何も排出していない。
点検はまだ完了していなかった。
由紀は自分の記録を閉じた。
「……じゃあ、今日はここまでにします」
「そうしてください」
榊原はうなずいた。
「残りはこちらで管理します。あなたは休んでください」
「はい」
由紀は鞄を持った。
そして、机に伏せてあるスマートフォンを見た。
「……これ、どうしましょう」
榊原は少し考えた。
「今の状態を記録してから、持ち帰るかどうか判断しましょう。安全性が確認できたわけではありませんから」
「わかりました」
由紀はうなずいた。
そのときだった。
机の端に置かれた、受付待機件数の控えが、かすかに震えた。
二人は動きを止めた。
紙には触れない。
ただ、観察する。
震えはすぐに収まった。
由紀が目を凝らす。
控えの余白に、文字が浮かんでいた。
『待機開始時刻』
その下に、もう一行。
『受付開始以前』
「……え?」
由紀は思わず声を漏らした。
榊原も、その文字を見つめていた。
「受付を始める前から、待っていた……?」
由紀がつぶやいた。
榊原は首を横に振った。
「そう書かれています。ただし、それが事実かどうかはわかりません」
「ですよね」
由紀は新しい記録用紙を取り出した。
『午後三時四十四分、受付待機件数の控えに文字が出現』
『表示内容:待機開始時刻/受付開始以前』
『記載者・正確性:未確認』
そこまで書いて、ペンを止めた。
「……これ、変じゃないですか」
「どの部分ですか」
「受付が始まってないのに、待機してるって」
榊原は黙った。
「しかも、受付担当者も決まってないんですよね」
「はい」
「誰が頼んだのかもわからない」
「そうです」
由紀は控えを見つめた。
「……じゃあ、誰に会うために待ってるんでしょう」
その問いに、榊原は答えなかった。
代わりに、静かに言った。
「由紀さん。その質問は、ここで止めましょう」
由紀ははっとした。
「……あ」
「答えを知りたい気持ちはわかります。でも、相手が何を質問や確認として扱うのか、まだわかりません」
「……はい」
由紀は口を閉じた。
そして、記録用紙の最後に書き加えた。
『質問したが、照会依頼および受付業務への承諾なし』
午後三時四十七分。
カルコサ。
ハスターの机上にある異常案件の記録が、静かに変化した。
『待機開始時刻:受付開始以前』
ハスターは目を細めた。
「……何だと」
彼はすぐに時刻を記録した。
同じ表示が地上に現れていることを、この時点のハスターは知らない。
わかるのは、自分の目の前の記録に新しい情報が追加されたということだけだった。
「……受付開始以前」
ハスターは繰り返した。
受付は、正式には開始していない。
担当者も決まっていない。
承諾もない。
それでも待機記録だけが存在する。
「……いつからだ」
問いかけた直後、ハスターは眉をひそめた。
また余計なことを言った。
異常案件の記録に文字が増えた。
『待機開始日時:未確認』
「……そうだろうな」
さらに一行。
『待機終了条件:受付担当者による確認』
ハスターの表情が変わった。
「……誰が、その条件を定めた」
『条件設定者:未確認』
「……」
ハスターは黙った。
そして、正規の記録用紙に書き込んだ。
『待機終了条件の提示を確認』
『条件設定者の権限:未確認』
『条件の有効性:未確認』
『受付担当者の正式任命:確認できず』
『本人の承諾:確認できず』
書き終えたところで、異常案件の記録に別の表示が現れた。
『確認行為を検出』
ハスターの手が止まった。
『受付担当者候補との照合を開始』
「……違う」
低い声だった。
「私は、条件が提示された事実を記録しただけだ」
表示は消えない。
「待機者を確認したわけではない」
沈黙。
「受付業務を引き受けたわけでもない」
さらに沈黙。
ハスターは、正規の記録用紙に大きく書き込んだ。
『照合開始の表示を確認。ただし、照合の成立・有効性は未確認』
そのとき。
異常案件の記録に、新しい欄が現れた。
『待機者情報』
その下には、複数の空欄が並んでいた。
ハスターは目を凝らした。
欄の数は、四十。
だが、それが待機記録四十件と一対一で対応しているかどうかはわからない。
まして、四十人の存在を示す証拠にもならない。
ハスターは無言で記録を取った。
すると、空欄とは別の位置に、一つの番号が浮かび上がった。
『受付番号:000』
ハスターの視線が止まった。
その番号には覚えがある。
木曜日から繰り返し現れている、正規の照会では存在を確認できない番号。
ただし、今回の四十の空欄とどう関係するのかは不明だった。
「……また、お前か」
ハスターは小さくつぶやいた。
番号の下に、新しい一文が現れた。
『お待ちの方は、どちら様ですか』
ハスターは、その文字を見つめた。
誰が尋ねているのか。
誰に尋ねているのか。
誰が答えることを期待されているのか。
何ひとつ、明らかではない。
そして何より。
その問いに答えること自体が、受付行為として扱われる可能性がある。
ハスターは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとペンを置いた。
「……まず、質問者の所属と権限を明らかにしろ」
一瞬の沈黙。
そして、記録の最下部に文字が浮かんだ。
『質問者:未確認』
ハスターは目を閉じた。
「……だろうな」
金曜日、午後三時五十分。
黄衣の王の退勤まで、まだ遠い。
そして、誰が待っているのかも、まだわからない。




