第11話 申請内容をご確認ください
金曜日、午後三時五十二分。
黄衣の王ハスターは、机の上に置かれた異常案件の記録を見下ろしていた。
『質問者:未確認』
先ほど現れた文字は、そのまま残っている。
誰が尋ねているのか。
誰に尋ねているのか。
何を確認すれば待機が終わるのか。
そのどれもが、わからない。
ただひとつ、確かなことがある。
「……これ以上、相手の質問に付き合う必要はない」
ハスターは記録を閉じた。
異常な書類が現れるたびに、発行元を調べる。
担当者を調べる。
権限を調べる。
その結果、さらに別の担当者が必要になる。
この数日間、ずっとそれを繰り返してきた。
「……順序が逆だ」
ハスターは、正規の保管記録を呼び出した。
調べるべきなのは、相手が新たに提示する役職ではない。
最初に、この問題が発生した経緯だ。
「召喚調整第七七四二号」
月曜日。
旧市民会館。
二つの団体が、同じ時刻に、同じ場所を使用しようとした。
黄昏の聖餐会。
深海の星辰会。
どちらも儀式の申請は済ませていた。
問題は、人間側の会場予約だった。
同一の管理番号で、二件の使用許可が発行されていた。
そして、その調整のために、ハスターは現地へ赴くことになった。
「……そもそも、あの重複がなければ」
ハスターは途中で言葉を切った。
過去の事故と、現在の未登録案件が同じ原因によるものとは限らない。
月曜日の空隙は、封鎖した。
残留干渉も、確認できる範囲ではなかった。
それを無視して、すべてを一つの事件として扱うのは危険だ。
「……関連の有無を調べる。それだけだ」
ハスターは調査項目を追加した。
『月曜日の会場使用許可と、未登録受付案件との関連』
『現時点の判定:未確認』
続いて、月曜日の会場使用許可記録を開いた。
二件の許可。
同一管理番号。
同一会場。
同一時刻。
そして、一方の担当者欄に残された、空白。
ハスターは目を細めた。
「……代理処理」
その文字は、当時から存在していた。
だが、誰が代理で処理したのか。
何の権限に基づいて処理したのか。
そこまでは確認されていない。
ハスターは記録を拡大した。
『代理処理者:記載なし』
「……」
不明な担当者。
不明な権限。
そして、後から発生した不明な受付業務。
似ている。
だが、似ているだけだ。
「……偶然か、関連があるのか」
そのときだった。
「おや」
背後から、聞き慣れた声がした。
「まだその件を調べているんですか?」
ハスターは振り向かなかった。
「……貴様か」
「ええ。私です」
黒いスーツの男が、いつの間にか執務室に立っていた。
ニャルラトホテプ。
手には、湯気の立つティーカップが二つ。
相変わらず、訪問の申請はない。
「紅茶はいかがです?」
「不要だ」
「ダージリンですよ」
「茶葉の種類を聞いているのではない」
「では、何を?」
ハスターはようやく振り向いた。
「入室の許可を取れ」
ニャルは少し考えた。
「今からでも?」
「帰れ」
「おやおや」
楽しそうに笑いながら、ニャルは机の端にカップを置いた。
ハスターはそのカップを見た。
「……置くな」
「まだ飲んでいませんよ」
「そういう問題ではない」
「難しいですねえ、職場の作法というものは」
「貴様が言うな」
ハスターはため息をついた。
そして、机の上の記録を指した。
「ちょうどよい。聞きたいことがある」
ニャルの笑みが、わずかに深くなった。
「私に?」
「月曜日の件だ」
「ああ、あれですか」
ニャルは懐かしそうに目を細めた。
「なかなか賑やかな夜でしたね」
「賑やかで済ませるな」
「大きな被害は出なかったでしょう?」
「結果として、だ」
ハスターは記録を示した。
「貴様は、二つの団体の会場予約に介入した」
「ええ」
あっさりとした返事だった。
「同じ場所、同じ時刻。実に不運な偶然でした」
「貴様が手を加えたのだろう」
「ですから、私が関わったことは認めていますよ」
「ならば、説明しろ」
「何をでしょう?」
ハスターは空白の担当者欄を指した。
「この代理処理だ」
ニャルは、記録に目を向けた。
「……ああ」
その声が、ほんの少しだけ変わった。
「そこですか」
ハスターは見逃さなかった。
「誰が処理した」
「さあ」
「貴様ではないのか」
「私が予約に手を加えたことと、この欄に記録された代理処理が、同じ行為だとは限りませんよ」
「質問に答えろ」
「答えています」
「答えていない」
ニャルは肩をすくめた。
「困りましたねえ」
まったく困っていない顔だった。
ハスターは、別の記録を開いた。
「水曜日から、発行元不明の受付案件が発生している」
「そうらしいですね」
「担当者として、地上の事務員の名前が使われている」
「お気の毒に」
「本人の承諾はない」
「それはいけませんね」
「発注者も、任命権者も、確認できない」
「ずいぶん不親切な職場ですねえ」
ハスターは机を指で叩いた。
「……貴様は、何を知っている」
ニャルは微笑んだ。
「何についてです?」
「未登録の受付案件だ」
「それについて、私が何か知っていると?」
「聞いているのは私だ」
「そうでしたね」
ニャルはカップを持ち上げた。
一口飲む。
ゆっくりと戻す。
そして、何でもないことのように言った。
「ところで、ハスター」
「何だ」
「その代理処理というのは、誰の代わりだったんでしょうね」
ハスターは動きを止めた。
「……何?」
「代理というからには、誰かの代わりなのでしょう?」
「……」
「では、元の担当者は?」
ハスターは記録を見た。
担当者欄は空白。
代理処理という記載だけがある。
「……未確認だ」
「そうですか」
ニャルは満足そうにうなずいた。
「それは、困りましたねえ」
ハスターは目を細めた。
「……貴様、何を言いたい」
「いえ、ただの感想ですよ」
「感想で済む話ではない」
「おや。では、正式な意見書にしましょうか?」
「するな」
ニャルは笑った。
「冗談です」
ハスターは、しばらく黙っていた。
代理処理。
その言葉を見たとき、彼は代理で処理した者を探そうとした。
だが、ニャルの言うとおりなら、もう一つ確認すべきことがある。
代理されるはずだった、元の担当者。
そもそも、その担当者は存在したのか。
ハスターは正規の記録を呼び出した。
会場使用許可の発行履歴。
担当者の登録状況。
代理処理の承認記録。
記録を一つずつ照合する。
やがて、結果が表示された。
『元担当者の特定:不可』
『代理処理の承認記録:確認できず』
ハスターは画面を見つめた。
「……」
存在しないとは書かれていない。
ただ、特定できない。
承認記録も、確認できない。
それだけだ。
だが、少なくとも、月曜日の時点で既に、担当者を確認できない代理処理が記録されていた。
「……これは、調査対象だな」
ハスターはつぶやいた。
「そうでしょうねえ」
ニャルが答えた。
ハスターは顔を上げた。
「貴様が誘導したのか」
「何を?」
「この確認だ」
「私は、ただ質問しただけですよ」
「……」
「質問しただけで何かが始まるなら、ずいぶん厄介ですねえ」
その言葉に、ハスターの表情が険しくなった。
「……貴様」
ニャルは微笑んでいた。
いつもどおり。
軽薄で。
愉快そうで。
何を考えているのか、まるでわからない。
だが、次の瞬間。
その笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
ハスターは見た。
確かに見た。
「……何だ」
ニャルはすぐに笑顔へ戻った。
「いえ」
「何を見た」
「何も」
「嘘をつけ」
「困りましたねえ。何も見ていないと申し上げているのに」
ハスターは立ち上がった。
「ニャルラトホテプ」
「はい」
「月曜日の代理処理と、水曜日の未登録案件。その関連について、貴様の認識を聞く」
ニャルはカップを置いた。
「……正式な照会ですか?」
「違う」
ハスターは即答した。
「貴様個人への質問だ。業務の委任でも、承認でも、担当者の選定でもない」
「なるほど」
ニャルはうなずいた。
「ずいぶん用心深くなりましたね」
「貴様らのおかげでな」
「光栄です」
「褒めていない」
「でしょうね」
ニャルは、少しだけ目を細めた。
「では、私からも一つだけ」
「何だ」
「ハスター。あなたは、月曜日のあの場所で、何を止めたんです?」
ハスターは眉をひそめた。
「儀式の干渉によって生じた空隙だ」
「ええ」
「正式な祈祷開始前に発生した異常を封鎖した。残留干渉も確認した」
「そうでしたね」
「何が言いたい」
ニャルは答えなかった。
代わりに、窓の外を見た。
午後五時のままのカルコサ。
変わらない空。
「……あなたは、きちんと仕事をしました」
ニャルは静かに言った。
「そこは疑っていませんよ」
ハスターは黙った。
「ただ」
ニャルは再び笑った。
「会場の使用許可まで、封鎖したわけではありませんよね」
ハスターの視線が、机の上の記録へ戻った。
月曜日の事故。
会場の二重予約。
儀式の中止。
空隙の封鎖。
それらは、関連するが、同じ手続ではない。
「……当然だ」
ハスターは答えた。
「会場の使用許可は、人間側の管理記録だ。私が封鎖したのは空隙であって、許可証そのものではない」
「ええ」
ニャルは満足そうにうなずいた。
「そのとおりです」
「……貴様」
ハスターは低く言った。
「その許可証に、何かあるのか」
ニャルは答えなかった。
ただ、カップを持ち上げた。
「お茶が冷めてしまいますね」
「質問に答えろ」
「私は、何も断定していませんよ」
「……」
「では、そろそろ失礼します」
ニャルは軽く会釈した。
「お仕事、頑張ってくださいね」
「待て」
だが、その姿は、すでに消えていた。
机の端には、飲みかけの紅茶だけが残っていた。
ハスターは、それを見つめた。
「……片づけていけ」
返事はない。
午後四時十二分。
ハスターは、月曜日の事件記録をもう一度開いていた。
今度は、儀式そのものではなく、会場使用許可に関する記録を中心に調べる。
二件の許可。
空白の担当者欄。
代理処理。
そして、地上の事務員。
深町由紀。
彼女は、あの夜、使用許可証を確認していた。
その後、許可証の控えに何が起きたのか。
ハスターが持つ正規の記録だけでは、すべてを確認できない。
「……現物の確認が必要だな」
ハスターは、そこで手を止めた。
不用意に現物の提出を命じれば、それ自体が新たな接触の経路になる可能性がある。
まして、本人の承諾もなく、保管物を移動させるわけにはいかない。
ハスターは通常の連絡経路を選んだ。
宛先は、黄昏の聖餐会の正式な連絡窓口。
榊原。
件名は、月曜日の会場使用許可に関する確認依頼。
内容は、簡潔だった。
『月曜日の旧市民会館使用許可証について、現在の保管状況および記載内容を確認したい』
『未確認の原本・控えには直接触れず、安全な方法で確認可能な情報のみ報告されたい』
『本照会は未登録受付案件への対応、担当者の任命、承諾、その他の業務引受けを求めるものではない』
ハスターは文面を読み返した。
問題はない。
少なくとも、正規の照会として必要な条件は満たしている。
送信。
記録。
そして、待つ。
「……今度こそ、普通の問い合わせであってくれ」
ハスターは小さくつぶやいた。
午後四時十六分。
地上。
深町由紀は、榊原からの連絡を受け取っていた。
すでに事務所を離れ、休むための移動を始めていたところだった。
榊原の声は、いつもより少し硬かった。
『由紀さん。確認したいことがあります』
「はい」
『月曜日の旧市民会館の使用許可証ですが、控えはまだお持ちですか』
由紀は足を止めた。
「……はい」
『今、どこにありますか』
「自宅の引き出しです」
『わかりました。取りに戻る必要はありません』
「……あの」
由紀は、少し迷った。
そして言った。
「榊原さん。その控えなんですけど」
『はい』
「……実は、変なことがあって」
電話の向こうで、榊原が黙った。
由紀は続けた。
「月曜日の夜、担当者のところに、私の名前が出てきたんです」
『……名前が?』
「はい。最初は空欄だったのに」
由紀は、自分の声が震えていることに気づいた。
「それだけじゃなくて、裏にも変な文章があって……」
榊原は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
『由紀さん。今は、その引き出しを開けないでください』
「……はい」
『許可証にも触れないでください。まず、今お聞きした内容を記録します』
「わかりました」
『それと』
榊原は、一度言葉を切った。
『今まで、そのことを誰かに話しましたか』
由紀は首を横に振りかけた。
電話なのだから、見えるはずがない。
「……いいえ」
『わかりました』
由紀は、鞄の持ち手を握り直した。
「榊原さん」
『はい』
「……私、ずっと、あれを持ってたんです」
『ええ』
「変だと思ってたのに、誰にも言わなくて」
『今、教えていただけました。それで十分です』
由紀は、少しだけ息を吐いた。
榊原は続けた。
『こちらで、確認できた事実と、まだわからないことを分けて報告します』
「……はい」
『由紀さんは、今日は休んでください』
「わかりました」
通話が終わった。
由紀は、しばらくその場に立っていた。
月曜日。
旧市民会館。
二枚の使用許可証。
空欄だった担当者欄。
いつの間にか現れた、自分の名前。
そして、裏面の文章。
あのとき、確かに書かれていた。
『次回のご利用を、心よりお待ちしております』
由紀は、ゆっくりと顔を上げた。
「……次回?」
その言葉を、初めて別の意味で考えた。
次の儀式。
次の会場利用。
次の受付。
何の「次回」なのか。
誰が待っているのか。
わからない。
ただ、月曜日の夜から、その言葉はずっとそこにあった。
午後四時二十三分。
カルコサ。
ハスターのもとに、榊原からの報告が届いた。
『月曜日の会場使用許可証の控えは、深町由紀が自宅に保管』
『本人申告によれば、当初空欄だった担当者欄に、本人の名前が出現』
『裏面にも出所不明の文章あり』
『現物未確認。本人には接触・移動を控えるよう連絡済み』
ハスターは、報告を読み終えた。
そして、しばらく動かなかった。
月曜日の時点で。
受付担当者として名前を使われるより前に。
会場使用許可証の担当者欄に、由紀の名前が現れていた。
少なくとも、本人はそう申告している。
「……なるほど」
ハスターは、低くつぶやいた。
「ようやく、調べるべき記録が見えてきた」
彼は正規の調査記録に、新しい項目を追加した。
『月曜日の使用許可証控えと、水曜日以降の未登録受付案件との関連』
『現時点の判定:未確認』
続けて、もう一行。
『使用許可証の代理処理と、担当者名の出現との関連』
『現時点の判定:未確認』
そして最後に。
『ニャルラトホテプへの聞き取り』
『月曜日の会場予約への関与:本人が認めている』
『代理処理の実行者:未確認』
『未登録受付案件への関与:未確認』
ハスターは、ペンを置いた。
「……逃がさんぞ」
誰に向けた言葉なのか。
ニャルラトホテプか。
正体不明の受付案件か。
それとも、月曜日から続いている何かなのか。
ハスター自身にも、まだ答えはなかった。
ただ、ひとつだけ変わったことがある。
これまでは、相手が提示する仕事に対応してきた。
これからは、相手が残した記録を調べる。
その違いは、大きかった。
ハスターは、机の端に置かれた紅茶を見た。
すっかり冷めている。
「……」
しばらく考えたあと、彼は通常の廃棄申請書を取り出した。
品目。
飲み残しの紅茶。
所有者。
ニャルラトホテプ。
廃棄理由。
無断放置。
ハスターは、迷わず記入した。
「……まずは、これから片づける」
金曜日、午後四時二十六分。
黄衣の王の退勤まで、まだ時間がある。
だが、今度は。
調べる相手が、ひとり増えた。




