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邪神労働記 〜黄衣の王は定時で帰りたい〜  作者: 相作
第一部『黄衣の王は帰れない』

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11/16

第11話 申請内容をご確認ください

金曜日、午後三時五十二分。


黄衣の王ハスターは、机の上に置かれた異常案件の記録を見下ろしていた。


『質問者:未確認』


先ほど現れた文字は、そのまま残っている。


誰が尋ねているのか。


誰に尋ねているのか。


何を確認すれば待機が終わるのか。


そのどれもが、わからない。


ただひとつ、確かなことがある。


「……これ以上、相手の質問に付き合う必要はない」


ハスターは記録を閉じた。


異常な書類が現れるたびに、発行元を調べる。


担当者を調べる。


権限を調べる。


その結果、さらに別の担当者が必要になる。


この数日間、ずっとそれを繰り返してきた。


「……順序が逆だ」


ハスターは、正規の保管記録を呼び出した。


調べるべきなのは、相手が新たに提示する役職ではない。


最初に、この問題が発生した経緯だ。


「召喚調整第七七四二号」


月曜日。


旧市民会館。


二つの団体が、同じ時刻に、同じ場所を使用しようとした。


黄昏の聖餐会。


深海の星辰会。


どちらも儀式の申請は済ませていた。


問題は、人間側の会場予約だった。


同一の管理番号で、二件の使用許可が発行されていた。


そして、その調整のために、ハスターは現地へ赴くことになった。


「……そもそも、あの重複がなければ」


ハスターは途中で言葉を切った。


過去の事故と、現在の未登録案件が同じ原因によるものとは限らない。


月曜日の空隙は、封鎖した。


残留干渉も、確認できる範囲ではなかった。


それを無視して、すべてを一つの事件として扱うのは危険だ。


「……関連の有無を調べる。それだけだ」


ハスターは調査項目を追加した。


『月曜日の会場使用許可と、未登録受付案件との関連』


『現時点の判定:未確認』


続いて、月曜日の会場使用許可記録を開いた。


二件の許可。


同一管理番号。


同一会場。


同一時刻。


そして、一方の担当者欄に残された、空白。


ハスターは目を細めた。


「……代理処理」


その文字は、当時から存在していた。


だが、誰が代理で処理したのか。


何の権限に基づいて処理したのか。


そこまでは確認されていない。


ハスターは記録を拡大した。


『代理処理者:記載なし』


「……」


不明な担当者。


不明な権限。


そして、後から発生した不明な受付業務。


似ている。


だが、似ているだけだ。


「……偶然か、関連があるのか」


そのときだった。


「おや」


背後から、聞き慣れた声がした。


「まだその件を調べているんですか?」


ハスターは振り向かなかった。


「……貴様か」


「ええ。私です」


黒いスーツの男が、いつの間にか執務室に立っていた。


ニャルラトホテプ。


手には、湯気の立つティーカップが二つ。


相変わらず、訪問の申請はない。


「紅茶はいかがです?」


「不要だ」


「ダージリンですよ」


「茶葉の種類を聞いているのではない」


「では、何を?」


ハスターはようやく振り向いた。


「入室の許可を取れ」


ニャルは少し考えた。


「今からでも?」


「帰れ」


「おやおや」


楽しそうに笑いながら、ニャルは机の端にカップを置いた。


ハスターはそのカップを見た。


「……置くな」


「まだ飲んでいませんよ」


「そういう問題ではない」


「難しいですねえ、職場の作法というものは」


「貴様が言うな」


ハスターはため息をついた。


そして、机の上の記録を指した。


「ちょうどよい。聞きたいことがある」


ニャルの笑みが、わずかに深くなった。


「私に?」


「月曜日の件だ」


「ああ、あれですか」


ニャルは懐かしそうに目を細めた。


「なかなか賑やかな夜でしたね」


「賑やかで済ませるな」


「大きな被害は出なかったでしょう?」


「結果として、だ」


ハスターは記録を示した。


「貴様は、二つの団体の会場予約に介入した」


「ええ」


あっさりとした返事だった。


「同じ場所、同じ時刻。実に不運な偶然でした」


「貴様が手を加えたのだろう」


「ですから、私が関わったことは認めていますよ」


「ならば、説明しろ」


「何をでしょう?」


ハスターは空白の担当者欄を指した。


「この代理処理だ」


ニャルは、記録に目を向けた。


「……ああ」


その声が、ほんの少しだけ変わった。


「そこですか」


ハスターは見逃さなかった。


「誰が処理した」


「さあ」


「貴様ではないのか」


「私が予約に手を加えたことと、この欄に記録された代理処理が、同じ行為だとは限りませんよ」


「質問に答えろ」


「答えています」


「答えていない」


ニャルは肩をすくめた。


「困りましたねえ」


まったく困っていない顔だった。


ハスターは、別の記録を開いた。


「水曜日から、発行元不明の受付案件が発生している」


「そうらしいですね」


「担当者として、地上の事務員の名前が使われている」


「お気の毒に」


「本人の承諾はない」


「それはいけませんね」


「発注者も、任命権者も、確認できない」


「ずいぶん不親切な職場ですねえ」


ハスターは机を指で叩いた。


「……貴様は、何を知っている」


ニャルは微笑んだ。


「何についてです?」


「未登録の受付案件だ」


「それについて、私が何か知っていると?」


「聞いているのは私だ」


「そうでしたね」


ニャルはカップを持ち上げた。


一口飲む。


ゆっくりと戻す。


そして、何でもないことのように言った。


「ところで、ハスター」


「何だ」


「その代理処理というのは、誰の代わりだったんでしょうね」


ハスターは動きを止めた。


「……何?」


「代理というからには、誰かの代わりなのでしょう?」


「……」


「では、元の担当者は?」


ハスターは記録を見た。


担当者欄は空白。


代理処理という記載だけがある。


「……未確認だ」


「そうですか」


ニャルは満足そうにうなずいた。


「それは、困りましたねえ」


ハスターは目を細めた。


「……貴様、何を言いたい」


「いえ、ただの感想ですよ」


「感想で済む話ではない」


「おや。では、正式な意見書にしましょうか?」


「するな」


ニャルは笑った。


「冗談です」


ハスターは、しばらく黙っていた。


代理処理。


その言葉を見たとき、彼は代理で処理した者を探そうとした。


だが、ニャルの言うとおりなら、もう一つ確認すべきことがある。


代理されるはずだった、元の担当者。


そもそも、その担当者は存在したのか。


ハスターは正規の記録を呼び出した。


会場使用許可の発行履歴。


担当者の登録状況。


代理処理の承認記録。


記録を一つずつ照合する。


やがて、結果が表示された。


『元担当者の特定:不可』


『代理処理の承認記録:確認できず』


ハスターは画面を見つめた。


「……」


存在しないとは書かれていない。


ただ、特定できない。


承認記録も、確認できない。


それだけだ。


だが、少なくとも、月曜日の時点で既に、担当者を確認できない代理処理が記録されていた。


「……これは、調査対象だな」


ハスターはつぶやいた。


「そうでしょうねえ」


ニャルが答えた。


ハスターは顔を上げた。


「貴様が誘導したのか」


「何を?」


「この確認だ」


「私は、ただ質問しただけですよ」


「……」


「質問しただけで何かが始まるなら、ずいぶん厄介ですねえ」


その言葉に、ハスターの表情が険しくなった。


「……貴様」


ニャルは微笑んでいた。


いつもどおり。


軽薄で。


愉快そうで。


何を考えているのか、まるでわからない。


だが、次の瞬間。


その笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。


ハスターは見た。


確かに見た。


「……何だ」


ニャルはすぐに笑顔へ戻った。


「いえ」


「何を見た」


「何も」


「嘘をつけ」


「困りましたねえ。何も見ていないと申し上げているのに」


ハスターは立ち上がった。


「ニャルラトホテプ」


「はい」


「月曜日の代理処理と、水曜日の未登録案件。その関連について、貴様の認識を聞く」


ニャルはカップを置いた。


「……正式な照会ですか?」


「違う」


ハスターは即答した。


「貴様個人への質問だ。業務の委任でも、承認でも、担当者の選定でもない」


「なるほど」


ニャルはうなずいた。


「ずいぶん用心深くなりましたね」


「貴様らのおかげでな」


「光栄です」


「褒めていない」


「でしょうね」


ニャルは、少しだけ目を細めた。


「では、私からも一つだけ」


「何だ」


「ハスター。あなたは、月曜日のあの場所で、何を止めたんです?」


ハスターは眉をひそめた。


「儀式の干渉によって生じた空隙だ」


「ええ」


「正式な祈祷開始前に発生した異常を封鎖した。残留干渉も確認した」


「そうでしたね」


「何が言いたい」


ニャルは答えなかった。


代わりに、窓の外を見た。


午後五時のままのカルコサ。


変わらない空。


「……あなたは、きちんと仕事をしました」


ニャルは静かに言った。


「そこは疑っていませんよ」


ハスターは黙った。


「ただ」


ニャルは再び笑った。


「会場の使用許可まで、封鎖したわけではありませんよね」


ハスターの視線が、机の上の記録へ戻った。


月曜日の事故。


会場の二重予約。


儀式の中止。


空隙の封鎖。


それらは、関連するが、同じ手続ではない。


「……当然だ」


ハスターは答えた。


「会場の使用許可は、人間側の管理記録だ。私が封鎖したのは空隙であって、許可証そのものではない」


「ええ」


ニャルは満足そうにうなずいた。


「そのとおりです」


「……貴様」


ハスターは低く言った。


「その許可証に、何かあるのか」


ニャルは答えなかった。


ただ、カップを持ち上げた。


「お茶が冷めてしまいますね」


「質問に答えろ」


「私は、何も断定していませんよ」


「……」


「では、そろそろ失礼します」


ニャルは軽く会釈した。


「お仕事、頑張ってくださいね」


「待て」


だが、その姿は、すでに消えていた。


机の端には、飲みかけの紅茶だけが残っていた。


ハスターは、それを見つめた。


「……片づけていけ」


返事はない。


午後四時十二分。


ハスターは、月曜日の事件記録をもう一度開いていた。


今度は、儀式そのものではなく、会場使用許可に関する記録を中心に調べる。


二件の許可。


空白の担当者欄。


代理処理。


そして、地上の事務員。


深町由紀。


彼女は、あの夜、使用許可証を確認していた。


その後、許可証の控えに何が起きたのか。


ハスターが持つ正規の記録だけでは、すべてを確認できない。


「……現物の確認が必要だな」


ハスターは、そこで手を止めた。


不用意に現物の提出を命じれば、それ自体が新たな接触の経路になる可能性がある。


まして、本人の承諾もなく、保管物を移動させるわけにはいかない。


ハスターは通常の連絡経路を選んだ。


宛先は、黄昏の聖餐会の正式な連絡窓口。


榊原。


件名は、月曜日の会場使用許可に関する確認依頼。


内容は、簡潔だった。


『月曜日の旧市民会館使用許可証について、現在の保管状況および記載内容を確認したい』


『未確認の原本・控えには直接触れず、安全な方法で確認可能な情報のみ報告されたい』


『本照会は未登録受付案件への対応、担当者の任命、承諾、その他の業務引受けを求めるものではない』


ハスターは文面を読み返した。


問題はない。


少なくとも、正規の照会として必要な条件は満たしている。


送信。


記録。


そして、待つ。


「……今度こそ、普通の問い合わせであってくれ」


ハスターは小さくつぶやいた。


午後四時十六分。


地上。


深町由紀は、榊原からの連絡を受け取っていた。


すでに事務所を離れ、休むための移動を始めていたところだった。


榊原の声は、いつもより少し硬かった。


『由紀さん。確認したいことがあります』


「はい」


『月曜日の旧市民会館の使用許可証ですが、控えはまだお持ちですか』


由紀は足を止めた。


「……はい」


『今、どこにありますか』


「自宅の引き出しです」


『わかりました。取りに戻る必要はありません』


「……あの」


由紀は、少し迷った。


そして言った。


「榊原さん。その控えなんですけど」


『はい』


「……実は、変なことがあって」


電話の向こうで、榊原が黙った。


由紀は続けた。


「月曜日の夜、担当者のところに、私の名前が出てきたんです」


『……名前が?』


「はい。最初は空欄だったのに」


由紀は、自分の声が震えていることに気づいた。


「それだけじゃなくて、裏にも変な文章があって……」


榊原は、しばらく黙っていた。


やがて、静かに言った。


『由紀さん。今は、その引き出しを開けないでください』


「……はい」


『許可証にも触れないでください。まず、今お聞きした内容を記録します』


「わかりました」


『それと』


榊原は、一度言葉を切った。


『今まで、そのことを誰かに話しましたか』


由紀は首を横に振りかけた。


電話なのだから、見えるはずがない。


「……いいえ」


『わかりました』


由紀は、鞄の持ち手を握り直した。


「榊原さん」


『はい』


「……私、ずっと、あれを持ってたんです」


『ええ』


「変だと思ってたのに、誰にも言わなくて」


『今、教えていただけました。それで十分です』


由紀は、少しだけ息を吐いた。


榊原は続けた。


『こちらで、確認できた事実と、まだわからないことを分けて報告します』


「……はい」


『由紀さんは、今日は休んでください』


「わかりました」


通話が終わった。


由紀は、しばらくその場に立っていた。


月曜日。


旧市民会館。


二枚の使用許可証。


空欄だった担当者欄。


いつの間にか現れた、自分の名前。


そして、裏面の文章。


あのとき、確かに書かれていた。


『次回のご利用を、心よりお待ちしております』


由紀は、ゆっくりと顔を上げた。


「……次回?」


その言葉を、初めて別の意味で考えた。


次の儀式。


次の会場利用。


次の受付。


何の「次回」なのか。


誰が待っているのか。


わからない。


ただ、月曜日の夜から、その言葉はずっとそこにあった。


午後四時二十三分。


カルコサ。


ハスターのもとに、榊原からの報告が届いた。


『月曜日の会場使用許可証の控えは、深町由紀が自宅に保管』


『本人申告によれば、当初空欄だった担当者欄に、本人の名前が出現』


『裏面にも出所不明の文章あり』


『現物未確認。本人には接触・移動を控えるよう連絡済み』


ハスターは、報告を読み終えた。


そして、しばらく動かなかった。


月曜日の時点で。


受付担当者として名前を使われるより前に。


会場使用許可証の担当者欄に、由紀の名前が現れていた。


少なくとも、本人はそう申告している。


「……なるほど」


ハスターは、低くつぶやいた。


「ようやく、調べるべき記録が見えてきた」


彼は正規の調査記録に、新しい項目を追加した。


『月曜日の使用許可証控えと、水曜日以降の未登録受付案件との関連』


『現時点の判定:未確認』


続けて、もう一行。


『使用許可証の代理処理と、担当者名の出現との関連』


『現時点の判定:未確認』


そして最後に。


『ニャルラトホテプへの聞き取り』


『月曜日の会場予約への関与:本人が認めている』


『代理処理の実行者:未確認』


『未登録受付案件への関与:未確認』


ハスターは、ペンを置いた。


「……逃がさんぞ」


誰に向けた言葉なのか。


ニャルラトホテプか。


正体不明の受付案件か。


それとも、月曜日から続いている何かなのか。


ハスター自身にも、まだ答えはなかった。


ただ、ひとつだけ変わったことがある。


これまでは、相手が提示する仕事に対応してきた。


これからは、相手が残した記録を調べる。


その違いは、大きかった。


ハスターは、机の端に置かれた紅茶を見た。


すっかり冷めている。


「……」


しばらく考えたあと、彼は通常の廃棄申請書を取り出した。


品目。


飲み残しの紅茶。


所有者。


ニャルラトホテプ。


廃棄理由。


無断放置。


ハスターは、迷わず記入した。


「……まずは、これから片づける」


金曜日、午後四時二十六分。


黄衣の王の退勤まで、まだ時間がある。


だが、今度は。


調べる相手が、ひとり増えた。

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