第12話 代理の方はお呼びですか
文字数少なくなってきて淋しかったので12〜14話を統合、話の整合性やら諸々を詰めました。
これからは各話1万字超を目指して書き進めます。
予定では第1部は15話構成でしたが諸々変わるかもしれません。
金曜日、午後四時二十九分。
カルコサの管理局では、今日も午後五時の夕暮れが続いていた。
黒い湖の水面には、空に存在しない星々が映っている。
湖岸に並ぶ尖塔は、見るたびに本数が違った。あるものは水面から伸び、あるものは空から吊り下がり、またあるものは、塔の形をした空白として景色に穴を開けている。
二つの黒い太陽は、相変わらず光を放っていない。
それでも、執務室には黄昏の明るさがあった。
ハスターは、窓を見た。
それから、机上の時計を見た。
午後四時二十九分。
再び、窓を見る。
午後五時の夕暮れ。
「……」
黄衣の王は、深く息を吐いた。
「……仕事の終わりを思わせる景色を、一日中眺めているというのも、考えてみれば残酷な話だな」
返事はなかった。
壁に掛けられた古い時計が、規則正しい音を刻んでいる。
かちり。
かちり。
時刻は進む。
書類は減らない。
「……まったく」
ハスターは椅子に座り直した。
机の向こう側には、来客用の椅子が置かれている。
少し前まで、そこにはニャルラトホテプがいた。
黒いスーツの男は、紅茶を飲み、笑い、厄介な問いを残して帰っていった。
誰が代理だったのか。
その問いだけが、まだ執務室に残っている。
「……本人が帰った後まで、仕事を増やすとは」
ハスターは、空になった椅子を睨んだ。
「……実に迷惑な客だ」
もちろん、椅子に罪はない。
彼はそれを理解していた。
理解していたが、文句を言わずにはいられなかった。
机の上には、通常の業務書類と、今回の異常に関する保全記録が積まれている。
白い紙。
黒い紙。
正規の照会記録。
発行者不明の通知。
番号が存在しないはずの受付札。
そして、月曜日の旧市民会館に関する調査記録。
ハスターは、最後の一冊を手に取った。
「……まずは、ここからだ」
月曜日の会場使用許可。
同一の管理番号で発行された二件の記録。
そのうち一方には、担当者欄の空白と『代理処理』の記載がある。
先ほどの調査で確認した事項だ。
ハスターは、その記録を改めて広げた。
「……」
あの夜、儀式の干渉によって生じた空隙は封鎖した。
残留干渉も、確認できる範囲では認められなかった。
だが、会館の利用許可に関する処理は別の問題だ。
「……私が裂け目を閉じたからといって、会館の予約台帳まで正常になるわけではない」
ハスターは、記録用紙に書き込んだ。
『月曜日の儀式事故については、境界封鎖および残留干渉の確認を完了』
続いて、別の一行。
『会館の利用許可に関する事務処理は、別件として未解決』
二つの文章を見比べる。
似ているようで、まったく違う。
儀式の危険を取り除くことと、利用許可が正しく発行されたかどうかを確認することは、別の仕事だ。
管理局が直接管理しているのは、神格への接触や儀式による影響である。
人間社会の会場予約まで、ハスターが決裁できるわけではない。
「……なぜ、あやつはそこを嬉しそうに指摘するのだ」
ハスターは、ニャルラトホテプがいた椅子をもう一度見た。
黒いスーツの男は、月曜日の二重予約に手を加えたことを認めている。
だが、今回の異常すべてについて、自分が仕組んだと認めたわけではない。
由紀の名前が許可証に現れたこと。
水曜日の受付通知。
木曜日の待機数。
金曜日の担当者選定。
それらが同じ主体によって引き起こされたという証拠は、まだない。
「……やりかねん、とは思うが」
ハスターは呟いた。
「……やりかねんという理由で犯人にできるなら、管理局など必要あるまい」
彼は、書類へ視線を戻した。
まず確認したのは、管理局側に保存されている会場使用許可の記録だった。
二件の許可。
同一の管理番号。
一方の担当者欄に残された空白。
そして、『代理処理』という文言。
これは、ハスターが先ほど自ら参照した記録である。
ただし、会館が保管する原本の発行履歴を直接確認したわけではない。
まして、由紀の自宅にある許可証の控えを手に取ったわけでもなかった。
「……」
ハスターは、続いて榊原からの報告を開いた。
午後四時二十三分に受信したものだ。
『月曜日の会場使用許可証の控えは、深町由紀が自宅に保管』
『本人申告によれば、当初空欄だった担当者欄に、本人の名前が出現』
『裏面にも出所不明の文章あり』
『現物未確認。本人には接触・移動を控えるよう連絡済み』
ハスターは、最後の二行を見つめた。
裏面に文章がある。
それはわかった。
だが、何と書かれているのかは、この報告には記載されていない。
「……文言が必要だな」
ハスターは、正規の連絡文を作成した。
宛先は榊原。
『追加照会』
『先ほど報告された使用許可証裏面の文章について、深町由紀が記憶している具体的な文言を確認したい』
『本人がすでに説明した内容、または安全に回答可能な範囲に限る』
『原本の取り出し、撮影、再確認を求めるものではない』
『本照会は受付業務の依頼または担当者の指定を意味しない』
ハスターは文面を読み返した。
そして、送信した。
机上の時計が、静かに進んでいる。
その間に、彼は別の書類を開いた。
水曜日に保全した、差出人不明の黒い紙。
その表面には、管理局の正規書式には存在しない文言が並んでいる。
ハスターは、そのうちの一行に目を止めた。
『次回のご利用を、心よりお待ちしております』
「……」
何度読んでも、奇妙な文章だった。
何を利用したことになっているのか。
何の次回を待っているのか。
そもそも、誰が待っているのか。
何一つ明らかではない。
ハスターは、紙を閉じずに待った。
榊原からの回答が届いたのは、それから数分後だった。
午後四時三十六分。
『追加報告』
『深町由紀が月曜日の許可証控えの裏面に見たと申告した文言』
『次回のご利用を、心よりお待ちしております』
『本人の記憶に基づく申告。現物との再照合は行っていない』
ハスターは、二つの記録を並べた。
一方は、水曜日に管理局で保全した黒い紙。
もう一方は、由紀の記憶を榊原が取りまとめた追加報告。
文言は一致している。
ハスターは、筆を取った。
『報告された月曜日の許可証裏面の文言と、水曜日に保全した黒い紙の文言が一致』
そこで一度、筆を止めた。
そして、続けた。
『ただし、月曜日の許可証控えとの直接照合は未実施』
「……よし」
月曜日の許可証の控えは、ここにはない。
由紀が自宅の引き出しに保管している。
そして、現物の安全性も確認できていない。
「……無理に取り出させるわけにもいかん」
ハスターは呟いた。
由紀は、すでに十分すぎるほど巻き込まれている。
本人が望んでもいない役割を押しつけられ、職場にも自宅にも異常が現れている。
彼女は、今、ホテルへ向かっているはずだ。
少なくとも、安全確保のために離れた場所から、わざわざ危険な自宅へ戻らせる理由はない。
ハスターは、紙を閉じた。
二つの文言が一致した。
それは確かだ。
だが、同じ文章が使われたことと、同じ者が書いたことは別である。
月曜日の許可証と水曜日の黒い紙が、同じ仕組みで作られたと証明されたわけでもない。
「……一致は一致。原因は未確認」
彼は、そう記した。
かちり。
時計の音がした。
ハスターは顔を上げた。
午後四時四十七分。
「……」
彼は、少し考えた。
人間世界の役所が閉まるまで、あと十三分。
「……今なら、まだ間に合うかもしれん」
彼は、榊原宛ての連絡文を作成した。
旧市民会館の管理担当者へ確認してほしい事項。
月曜日の午前九時十四分に発行された二件の利用許可について、発行記録が残っているか。
同一管理番号が付された経緯。
『代理処理』という文言が、会館側の正規の書式や処理区分に存在するのか。
存在するなら、どのような場合に使われるのか。
処理担当者や承認者を確認できるか。
そして、発行時点の担当者欄の状態を確認できるか。
ハスターは、文面を読み返した。
問い合わせの目的は、あくまで会館側の記録の確認である。
人間の施設管理者に、邪神の受付異常を解決させようというものではない。
彼は、最後の一文を加えた。
『確認できない事項については、推測による回答を求めない』
「……これでよい」
午後四時五十五分。
ハスターは、正規の連絡経路で榊原へ送信した。
送信記録が残る。
異常側の受付表示とは違う、管理局の通常の記録だった。
彼は、画面を確認した。
送信済み。
榊原からの返信は、まだない。
「……当然か」
人間の役所が閉まるまで、残り五分。
仮に榊原がすぐに連絡したとしても、その場で必要な資料がそろうとは限らない。
担当者が不在かもしれない。
確認に時間がかかるかもしれない。
すでに窓口の受付が終わっている可能性もある。
「……回答は、次の営業日以降だろうな」
ハスターは、そう判断した。
金曜日の夕方。
人間の役所には、土曜日と日曜日に休むという制度がある。
彼は、しばらく虚空を見つめた。
「……羨ましい」
心の底から出た言葉だった。
カルコサの管理局にも、休暇制度は存在する。
制度は存在する。
問題は、制度が存在することと、実際に休めることが一致しない点にある。
「……私も、三日ほど」
彼は言いかけて、口を閉じた。
今日の午後、自分の名義で一日分の休暇申請が勝手に現れたことを思い出したのである。
提出した覚えのない申請。
承認された事実もない申請。
あれを、自分の望む三連休と混同するわけにはいかない。
「……いや。今は仕事だ」
彼は自分に言い聞かせた。
それが、かえって悲しかった。
午後五時。
窓の外の景色は変わらなかった。
相変わらず、午後五時の夕暮れである。
ハスターは、時計を見た。
「……また、五時か」
机の上を見る。
書類がある。
もう一度、時計を見る。
午後五時。
もう一度、書類を見る。
やはり、ある。
「……時刻が進んでも、仕事は減らんのだな」
黄衣の王の問いに答える者はいなかった。
ただ、遠くの廊下で、小さなベルが鳴った。
ちりん。
ハスターは顔を上げた。
耳を澄ます。
廊下は静かだった。
足音もない。
話し声もない。
「……気のせいか」
そう呟いた直後、彼は自分の言葉を訂正した。
「……いや、音はした」
気のせいだと決めつける理由はない。
かといって、何者かが訪れたと判断する理由もない。
「……音を聞いた。それだけだ」
彼は、記録用紙の端に時刻を書き留めた。
それから、木曜日の保全記録を開いた。
待機数、四十三。
四十二。
四十一。
四十。
三件の減少。
『接触完了』
ハスターは、指先で紙を押さえた。
記録を確認するたびに、同じ疑問が残る。
誰が、誰と接触したのか。
そして、何をもって完了としたのか。
彼は、木曜日の時刻を確認した。
午前九時十分。
待機数が四十三から四十へ減少した時刻。
その三分後。
午前九時十三分。
ハスターが接触禁止と退避を緊急送信した時刻。
そして、同じ時刻に記録された『代理呼び出し』。
ハスターは、二つの時刻を並べた。
『09:10 待機数43→40』
『09:13 接触禁止・退避の緊急送信』
『09:13 代理呼び出しの記録』
「……順番は、こうだ」
待機数の減少は、代理呼び出しの記録より前に起きている。
その事実は、動かせない。
「……代理呼び出しが、三件の減少を引き起こしたと考えるには、順序が合わん」
もちろん、異常側の記録において時刻がどの程度信頼できるのかという問題はある。
だが、それは記録を無視してよい理由にはならない。
「……まず、記録に書かれている順序を守る」
ハスターは、紙に書き込んだ。
『待機数の減少は、代理呼び出しの表示に先行』
『両者の因果関係は未確認』
続いて、三件の『接触完了』を見つめた。
接触完了。
その言葉だけを見れば、何かが終わったように思える。
しかし、受付状態は未了のままだ。
「……接触と受付は、同じではない」
ハスターは呟いた。
誰かが誰かに会ったとしても、それだけで受付業務が成立するわけではない。
誰かが返事をしたとしても、それだけで担当者になったわけではない。
誰かが書類を読んだとしても、それだけで申請を承認したことにはならない。
「……当たり前のことだ」
彼は、思わず声を荒らげた。
「……なぜ私は、当たり前のことを一つずつ確認せねばならんのだ!」
執務室に声が響く。
壁に掛けられた古い絵画の中で、遠い海がわずかに波立った。
ハスターは、絵画を睨んだ。
「貴様も反応するな」
波は静かになった。
彼は深く息を吐いた。
怒っても、記録は変わらない。
怒ったところで、待機数が四十から減るわけでもない。
「……いや」
ハスターは、そこで考え直した。
「……減ればよいというものでもない」
待機数が減ったからといって、問題が解決したとは限らない。
三件の表示が消えたのか。
三件の待機が終了したのか。
それとも、何か別の状態へ移ったのか。
現段階では判断できない。
ハスターは、さらに別の記録を開いた。
『待機開始時刻:受付開始以前』
『待機終了条件:受付担当者による確認』
以前に確認した二つの項目である。
「……受付開始以前」
彼は、最初の一文を読み上げた。
受付が始まる前から待っている。
それが、異常側の記録の主張だった。
次に、二つ目。
「……受付担当者による確認」
ハスターは、ゆっくりと顔をしかめた。
受付担当者。
その役職は、管理局の正規の職務として設けられていない。
由紀の名前は表示されている。
しかし、彼女が正式に任命されたという記録も、本人が承諾したという事実も確認できない。
榊原も、代理受付を引き受けていない。
ハスター自身にも、当該受付業務の担当者としての正式な任命はない。
では、誰が確認したというのか。
そして、三件の『接触完了』は何を意味するのか。
「……待機終了条件と、接触完了の表示が、そもそも同じ手続きに属するとは限らん」
ハスターは、そこで筆を止めた。
『接触完了』という表示を、待機終了条件が満たされた証拠として扱ってはいけない。
二つの記録が関係している可能性はある。
だが、関係していると証明されたわけではない。
ハスターは、紙の上に二本の線を引いた。
一方には、待機数の変化。
もう一方には、受付状態。
二本の線は、途中で交わらない。
「……わからんものは、わからん」
彼は静かに言った。
「……だが、わからんことを理由に、他人へ責任を押しつけることだけは許さん」
午後五時三分。
こん、こん。
執務室の扉が叩かれた。
ハスターは、動きを止めた。
音は二回。
規則正しく、控えめだった。
乱暴な訪問ではない。
むしろ、訪問先への礼儀を心得た者の叩き方に聞こえた。
「……誰だ」
返事はなかった。
ハスターは、椅子から立ち上がらなかった。
扉へ近づくこともしなかった。
ただ、机に置いた記録用紙へ視線を落とした。
「……名を名乗れ」
数秒の沈黙。
それから、扉の向こうで声がした。
『お忙しいところ、失礼いたします』
穏やかな声だった。
男とも女とも判別しにくい。
若いようにも、年老いているようにも聞こえる。
奇妙なのは、声の大きさだった。
扉を隔てているはずなのに、声が遠くならない。
まるで、耳元で囁かれているように聞こえる。
「……用件を述べろ」
『確認事項がございます』
「何の確認だ」
『代理の方はお呼びですか』
ハスターは、机の上の記録を見た。
木曜日、午前九時十三分。
『代理呼び出し』
そして、今。
扉の向こうから、代理の者を呼んだかと尋ねる声。
同じ言葉が現れた。
しかし、それだけで木曜日の記録と、この訪問者が同一の仕組みに属すると断定することはできない。
ハスターは、慎重に問い返した。
「何の代理だ」
『確認中です』
「誰の代理だ」
『確認中です』
「誰が、何を委任した」
扉の向こうで、何かが紙をめくる音がした。
さらり。
さらり。
「……確認中、か?」
『はい』
ハスターは、天井を仰いだ。
「……貴様の返答まで代行できそうだな」
『ありがとうございます』
「褒めておらん」
執務室の時計が、低い音を響かせた。
ハスターは、その音を聞きながら、奇妙な既視感を覚えていた。
責任者が決まっていない。
業務の内容も決まっていない。
それなのに、手続きだけが進もうとしている。
彼は、月曜日の許可証に関する報告へ目を向けた。
『代理処理』
月曜日の代理処理と、木曜日の代理呼び出し。
そして、今の訪問。
似た構造があるように見える。
だが、見えるだけだ。
ハスターは、その考えを結論として記録しなかった。
代わりに、未確認事項の紙へ書き込んだ。
『代理という語の使用に共通性あり』
『同一の手続き、主体、目的であるかは未確認』
扉の向こうから、再び声がした。
『代理の方はお呼びですか』
「呼んでおらん」
『承知しました』
「受付担当者も任命しておらん」
『承知しました』
「貴様の訪問を許可した覚えもない」
『承知しました』
ハスターは、眉間に深い皺を寄せた。
「……貴様は、承知したと言いながら、何一つ従っておらん」
『承知しております』
「……そういうところだ」
廊下の向こうで、かすかな音がした。
ちりん。
受付に置かれた小さなベルを思わせる音だった。
ハスターは、音のした方角を見た。
扉は閉まっている。
廊下の様子は見えない。
そこに何者かが立っているかどうかさえ、確認できない。
彼は、扉へ向けて言った。
「入室は認めん。受付も引き受けん。代理も呼ばん」
『承知しました』
「今の応答をもって、何らかの確認が完了したと扱うことも認めん」
沈黙。
少し長い沈黙だった。
やがて、声が返ってきた。
『確認中です』
ハスターは、額を押さえた。
「……貴様はそれしか言えんのか」
返事はなかった。
彼は、訪問の記録を残した。
訪問者の氏名、不明。
所属、不明。
姿、未確認。
入室、なし。
受付、未成立。
代理の呼び出し、なし。
訪問の目的、本人の申告によれば確認事項。
ただし、その内容は不明。
最後に一文を加えた。
『当該応答は、担当者就任、受付業務の承諾、代理の指名を意味しない』
「……よし」
彼は、筆を置いた。
扉の向こうは静かだった。
立ち去ったのか。
まだそこにいるのか。
そのどちらも、確認できない。
ハスターは、扉を見つめた。
もし、これが本当に受付業務であるなら。
もし、待機している何かが本当に存在するなら。
その受付を誰が管理しているのか。
そして、なぜ人間の事務員である由紀の名前が、そこに記載されたのか。
ハスターは、手元の資料を見た。
月曜日の許可証に関する報告。
水曜日の通知。
木曜日の待機記録。
金曜日の訪問。
それぞれに共通する要素はある。
しかし、すべてが同じ原因によるものだという証拠はない。
「……だからこそ、順番を間違えるわけにはいかん」
彼は呟いた。
少なくとも、管理局として最初に確認すべきなのは、誰が何を正式な業務として認めたのかという点だった。
ハスターは、正規の権限照合原簿を取り出した。
それは、異常側が勝手に現す帳簿とは違う。
管理局が管理する職務と権限の記録である。
表紙には、古い文字で管理局の印章が刻まれていた。
紙は重く、頁をめくるたびに乾いた音がする。
頁の縁には、長い年月の間に付いた細かな傷が残っていた。
幾度となく開かれ、確認され、閉じられてきた記録。
そこには、華やかな神話も、恐ろしい予言もない。
ただ、誰に何の権限が与えられたのかという、地味な事実だけが記されている。
ハスターは、静かに頁をめくった。
今回の受付業務に該当する登録を探す。
存在しない。
管理局による担当者の任命記録を確認する。
存在しない。
管理局による代理者の指定を確認する。
存在しない。
管理局の正規業務としての受付完了記録を確認する。
存在しない。
ハスターは、原簿を閉じた。
これで、怪異が存在しないと証明されたわけではない。
扉の向こうの声が幻だったと証明されたわけでもない。
四十という待機数の意味が明らかになったわけでもない。
そして、未知の主体が独自に何らかの役割を定めている可能性まで否定できたわけではない。
しかし、一つだけ確認できたことがある。
「……少なくとも、我が管理局は、この受付を正式な業務として設けておらん」
その一点は、管理局自身の記録によって確認できる。
ハスターは、椅子に深く座り直した。
そして、別の紙を取り出した。
正規の記録用紙だった。
表題を書く。
『未登録受付に関する取扱確認』
彼は、少し考えた。
今回の問題は、怪異が勝手に何かを表示することだけではない。
その表示を、誰かが正規の事実として受け取ってしまうことにもある。
『接触完了』と書かれているから、接触は完了した。
『代理呼び出し』と書かれているから、代理は呼ばれた。
由紀の名前があるから、由紀が担当者だ。
そのように扱われた瞬間、異常側の主張が、人間や管理局の責任にすり替わってしまう。
「……それは、認めん」
ハスターは、筆を進めた。
『対象』
『受付番号000として表示される未登録案件、および関連が示唆される待機記録』
『確認事項』
『一、当該受付業務について、管理局による正式な職務設定は確認されていない』
『二、深町由紀、榊原、ハスターのいずれについても、当該受付業務の正式な担当者任命は確認されていない』
『三、木曜日に表示された三件の「接触完了」について、管理局は受付成立、接触の実在、待機終了のいずれも認定していない』
『四、当該案件に対する調査、照会、保全、拒否および異議申立ては、受付業務の遂行または承諾を意味しない』
『五、未登録案件の表示を根拠として、管理局の正規記録に受付完了、担当者就任または代理行為の成立を転記してはならない』
ハスターは、書き終えた文面を読み返した。
これは、怪異を封じるための術式ではない。
異常側の記録を消すための命令でもない。
ましてや、存在するかどうかもわからない待機者たちに、立ち去るよう命じるものでもない。
管理局が、自らの記録をどう扱うかを明確にしただけだ。
それでも、必要な措置だった。
相手が勝手に何かを書き込んだとしても、こちらまで同じことを事実として扱う義務はない。
「……確認したことには、ならん」
ハスターは、静かに言った。
「……何度書かれようと、確認しておらんものは確認しておらん」
彼は、正規の印章を取り上げた。
重い印章だった。
長い年月を経ても、その重さだけは変わらない。
ハスターは、最後に文面をもう一度確認した。
断定できないことを断定していないか。
異常側の主張を、正規の事実として扱っていないか。
由紀や榊原に、新たな義務を課す内容になっていないか。
すべて確認した。
そして、印章を押した。
『取扱確認』
文書が、管理局の正規記録へ収められた。
異常側の表示は消えていない。
待機数も四十のままだ。
受付番号000も、なお未登録の表示として残っている。
だが、少なくとも管理局の内部では、相手の表示をそのまま正式な業務記録として取り込まないための扱いが明文化された。
それは、新たな権限を獲得したということではない。
これまでも、管理局は異常側の受付業務を正式なものとして認めていなかった。
今回の文書は、その立場を記録として整理し、今後の照合や処理で混同しないためのものだった。
ハスターは、しばらくその記録を見つめていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……一つ」
彼は呟いた。
「……一つだけ、片づいた」
それは、あまりにも小さな成果だった。
事件の全容はわからない。
怪異の正体もわからない。
誰が待っているのかも、誰を待たせているのかもわからない。
だが、少なくとも、管理局が何を確認しており、何を認めていないのかは明確になった。
ハスターは、窓の外を見た。
黒い湖に、黄昏の光が揺れている。
いつまで経っても変わらない夕暮れ。
その景色を眺めながら、彼はふと思った。
人間の世界には、夜が来る。
夜が明ける。
仕事が終われば、帰る場所がある。
もちろん、人間の暮らしにも理不尽はある。
それでも、少なくとも彼らは、夕暮れが永遠に続く窓を見ながら退勤時刻を待つ必要はない。
ハスターは、机の端に置かれた正規の業務書類を見た。
まだ数枚、残っている。
「……少しは減ったか」
彼は、その一枚を手に取った。
管理番号。
申請者。
儀式の実施場所。
添付資料。
すべてそろっている。
「……素晴らしい」
思わず声が出た。
「……何という、健全な書類だ」
ハスターは、感動すら覚えながら内容を確認した。
申請に問題はない。
彼は印章を押した。
『承認』
書類が正規の処理を終える。
午後五時二十八分。
こん、こん。
再び、扉が叩かれた。
ハスターは、ゆっくりと顔を上げた。
『確認事項がございます』
彼は、手元の記録を閉じた。
「述べろ」
『接触完了の確認をお願いいたします』
ハスターは、しばらく黙っていた。
それから、落ち着いた声で尋ねた。
「誰との接触だ」
『確認中です』
「時刻は」
『確認中です』
「方法は」
『確認中です』
「完了と判定した者は」
『確認中です』
ハスターは、静かにうなずいた。
「ならば、確認はできん」
『承知しました』
「必要な事実が提示されていない」
『承知しました』
「管理局は、三件の接触完了を認定しない」
『承知しました』
扉の向こうが静かになった。
ハスターは、拒否の内容を記録した。
受付はしていない。
代理も呼んでいない。
待機数も変わっていない。
彼は、記録を閉じた。
「……さて」
通常業務に戻ろうとした、そのときだった。
『それでは』
扉の向こうから、声がした。
『確認が済むまで、お待ちしております』
ハスターは、動きを止めた。
「……待つことについて、私の許可を得たつもりか」
『いいえ』
「ならば、何を待つ」
『確認です』
「誰の確認だ」
『受付担当者の確認です』
「担当者は任命されておらん」
『承知しております』
ハスターは、目を細めた。
「……承知している?」
『はい』
「少なくとも、管理局が正式な担当者を任命していないことを、知っているのか」
『はい』
「では、なぜ待つ」
少しの沈黙。
そして。
『お待ちいただく必要がございますので』
ハスターは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……誰が、誰を待たせている」
返事はなかった。
彼は、扉を見つめた。
これまで、待っているのは受付を求める側だと思っていた。
少なくとも、異常側はそう見える表示を繰り返していた。
だが、今の言葉は違う。
『お待ちいただく必要がございます』
誰に。
何を。
なぜ。
待ってもらう必要があるのか。
ハスターは、記録用紙を取り出した。
『異常側の発言:「お待ちいただく必要がございますので」』
『発言の対象、意図、拘束力は未確認』
『従前の待機記録との関係も未確認』
彼は、そこまで書いて手を止めた。
そして、静かに言った。
「……待たせているのは、貴様らのほうか」
返事はない。
窓の外には、いつもの午後五時の景色が広がっている。
ハスターは、しばらくその景色を見つめた。
三連休。
たった三日でいい。
誰にも呼ばれず、誰の書類も見ず、何も決裁せずに過ごしたい。
そんなささやかな願いさえ、いまだに叶っていない。
彼は、机に積まれた正規の申請書を見た。
その向こうには、未登録の受付記録がある。
さらに、その向こうには、いつ終わるとも知れない照合作業が待っている。
ハスターは、深く息を吐いた。
「……誰か、代理で処理してくれる者はいないのか」
ちりん。
廊下のベルが鳴った。
ハスターは、即座に顔を上げた。
「待て」
沈黙。
「今のは独り言だ」
『確認中です』
「確認するな」
『承知しました』
「正式な依頼ではない。代理の指名でもない。誰かに権限を与えたわけでもない」
『承知しました』
ハスターは、額を押さえた。
「……念のため、記録しておくか」
彼は、紙を一枚引き寄せた。
『独語の直後にベル音を確認』
『反応の主体、意味、因果関係は未確認』
『当該独語は、代理の依頼、指名、任命、承諾のいずれにも該当しない』
書き終えると、ハスターは筆を置いた。
「……これでよい」
彼は、ゆっくりと椅子に座った。
「……待つのは得意そうだな、貴様ら」
ちりん。
扉の向こうで、ベルが鳴った。
『はい』
ハスターは、少し考えた。
そして、言った。
「ならば、私の三連休が取れるまで待っていろ」
沈黙。
長い沈黙。
やがて。
『終了予定日をお知らせください』
ハスターは、天井を仰いだ。
「……私が知りたい」
黄衣の王の悲痛な声が、カルコサの執務室に響いた。
そのころ、カルコサの別の場所では。
黒いスーツの男が、紅茶を一口飲んだ。
ニャルラトホテプは、窓の外に広がる景色を眺めながら、楽しそうに笑った。
「……三日で済むといいですね」
彼は、それ以上何も言わなかった。




