第8話 選考基準を開示してください
諸々修正
金曜日、午後二時二十六分。
黄衣の王ハスターは、自分の名前が記された休暇申請書を見つめていた。
申請者、ハスター。
希望日数、一日。
申請作成者、未登録。
承認者、未登録。
審査状況、受付待機。
別紙には、こう記されている。
『休暇の取得には、後任者の選定が必要です』
「……後任者」
ハスターは、その三文字をゆっくりと読み上げた。
一日休むために、後任者が必要だという。
代行者ではない。
後任者だ。
一時的に業務を預かる者ではなく、役職や職務を引き継ぐ者を指す言葉だった。
「……私は退職するつもりなどないのだが」
そもそも、三日休みたいと願っていただけだ。
それが一日に減らされ、さらに後任者まで要求されている。
誰が申請したのかも分からない。
「……人の休暇を勝手に申請するな。しかも条件を悪くするな」
書類は沈黙していた。
ハスターは申請書を裏返した。
何もない。
存在を構成する情報を調べても、作成者の痕跡は見つからなかった。
まるで、最初から作成者など必要ない書類であるかのように。
彼は新しい帳票を呼び出した。
『不正申請調査票』
申請者本人が作成を否認している。
提出も否認している。
承認記録もない。
ならば、正規の休暇申請として処理することはできない。
『本人による作成:否認』
『本人による提出:否認』
『承認記録:確認されず』
『処理方針:申請として受理せず、出所を調査』
印章を押す。
『調査記録を登録しました』
ハスターは、表示を確認した。
これは不正申請に関する調査記録だ。
休暇申請でも、受付依頼でもない。
新しい業務を発注したわけでもない。
その区別を明記したにもかかわらず、休暇申請書の表示は変わらなかった。
『審査状況:受付待機』
「…………」
ハスターは、机の反対側にある記録を確認した。
『受付待機件数:四十』
こちらも変わらない。
二つの記録には、同じ「受付待機」という言葉が使われている。
だが、それだけで同じ待機列に属すると判断することはできない。
四十件に休暇申請が含まれるのか。
別の受付が存在するのか。
あるいは、単に同じ言葉を使っているだけなのか。
どれも確認できていなかった。
ハスターは二つの記録を別々に保全した。
「……名前が同じなら、中身も同じだと思うなよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
時計は午後二時三十一分を示していた。
「……まだ昼過ぎか」
ハスターは、通常の申請書類へ目を向けた。
『申請理由:隣人の洗濯物が敷地へ飛んでくる』
『希望措置:対象住宅の消滅』
「……まず話し合え」
却下。
次。
『申請理由:好きな作家の新刊が出ない』
『希望措置:時間の加速』
「作家にも生活がある」
却下。
次。
『申請理由:金曜日なのに仕事が終わらない』
ハスターの手が止まった。
添付資料には、勤務表と未処理の業務一覧がある。
しばらく見つめたあと、彼は静かに呟いた。
「……同志よ」
しかし、世界を終わらせる理由にはならない。
却下印を押した。
*
午後二時四十二分。
黄昏の聖餐会の事務所では、深町由紀が一枚の紙を見つめていた。
榊原が午後一時五分に受け取った、差出人不明の文書だった。
扉の下から滑り込んできた白い紙。
『受付担当者候補の確認について』
『次の候補者への連絡を開始します』
その紙は、今も床の上に置かれていた。
榊原は触れていない。
由紀も、触れるつもりはなかった。
代わりに、少し離れた場所から内容を確認し、手元の用紙へ記録していた。
『未確認文書』
発見時刻。
発見場所。
記載内容。
現物への接触、なし。
由紀は文字を書き終えると、ペンを置いた。
「……これでよし」
榊原が小さく笑った。
「深町さんは、こういうときでも丁寧だね」
「こういうときだから、ですよ」
由紀は答えた。
「誰が持ってきたか分からない書類って、後から確認できなくなると困るじゃないですか」
「それはそうだね」
「前の会社でも、ありましたから」
「差出人不明の書類が?」
「いえ。誰が最初に頼んだのか分からない仕事です」
由紀は、少しだけ苦笑した。
「最初は、ちょっとしたお願いなんですよ。これだけ確認してくれないか、とか。ついでに、この数字も見てくれないか、とか」
榊原は黙って聞いていた。
「そのうち、いつの間にか担当業務になってるんです」
由紀は記録用紙を机に置いた。
「で、何かあったときに『ずっと深町さんがやってたでしょう』って言われるんですよね」
榊原は、気まずそうに目を伏せた。
「……耳が痛い話だね」
「榊原さんに言ってるわけじゃないですよ」
「分かっているよ」
由紀はメモ帳を開いた。
先ほど、榊原と整理した項目が並んでいる。
誰が依頼したか。
誰が承認したか。
誰が担当するか。
どこで実施するか。
いつまで続くか。
何を受け付けるか。
そして、その下に二重線で囲まれた一文。
『本人の同意なし』
「今の件も、ちょっと似てる気がするんです」
「受付のことかい?」
「はい。でも、普通の仕事なら、誰かが勝手に頼んだんだろうって分かるじゃないですか」
「そうだね」
「今回は、その誰かすら分からないんですよね」
由紀は、メモ帳を見下ろした。
彼女が知っているのは、あくまで自分の身に起きたことだけだった。
勝手に名前が使われたこと。
断っても、別の形で通知が届くこと。
榊原が連絡担当になったあとも、異常が終わらなかったこと。
誰が何を企んでいるのか。
どんな基準で人を選んでいるのか。
そんなことは分からない。
ただ、自分が承諾していない仕事を、誰かが始めようとしている。
それだけは確かだった。
「……私、受付の仕事は引き受けてませんからね」
由紀は念を押した。
榊原は頷いた。
「分かっているよ」
「何回も言って、すみません」
「何回でも言っていい」
榊原は、穏やかに答えた。
「その意思を、こちらが勝手に変えることはできないからね」
由紀は、ようやく少し笑った。
そのときだった。
事務所の複合機が、小さな音を立てた。
ぴっ。
二人は同時に顔を上げた。
操作画面が点灯している。
「……誰か印刷しました?」
「いや」
事務所には、二人しかいなかった。
複合機の内部で、ローラーが回り始めた。
がたん。
がたん。
紙を送り出す音がする。
しかし、排紙トレーには何も出てこない。
由紀は反射的に立ち上がりかけた。
「紙詰まりですかね」
「深町さん、待って」
榊原の声が、思いのほか強かった。
由紀は動きを止めた。
「今は触らないでおこう」
「……でも、壊れたら困りますし」
「機械の故障なら、あとで業者に確認してもらえばいい」
榊原は複合機を見つめたまま言った。
「今は、何が起きているか記録しよう」
由紀は、ゆっくり頷いた。
午後二時四十四分。
メモ帳へ書き込む。
『複合機が無操作で起動』
『印刷指示者:不明』
『排紙:なし』
『機器には未接触』
書き終えたところで、音が止んだ。
操作画面が消える。
事務所に、静寂が戻った。
由紀は、最後に一行を書き加えた。
『原因:未確認』
その文字を見たとき、妙な安心感があった。
分からないことを、分からないと書ける。
少なくとも、それだけは自分で決められる。
*
午後二時五十分。
カルコサの執務室に、新しい通知が現れた。
『代替発注者選定に関する審査基準』
ハスターは、まず発信元を確認した。
『発信元:未登録』
承認記録。
『承認記録:なし』
制定権限。
『制定権限:未確認』
「……基準だけは立派だな」
内容を開く。
そこには、五つの項目が並んでいた。
『第一項:業務の必要性を認識していること』
『第二項:業務に関する問い合わせを行ったこと』
『第三項:業務の停止または変更を指示したこと』
『第四項:業務に起因する異常へ対処したこと』
『第五項:上記のいずれかに該当する者は、代替発注者の候補となり得る』
ハスターは、しばらく黙っていた。
「……ふざけているのか」
必要性を認識した者。
問い合わせた者。
停止しようとした者。
異常に対処した者。
つまり、問題に気づいても、質問しても、止めようとしても、後始末をしても、候補にされる。
何もしなければ、異常は放置される。
何かすれば、その行為が役割を押しつける理由にされる。
「……逃げ道を塞ぐための基準に見えるな」
ハスターは呟いた。
しかし、すぐに首を振った。
そう見えることと、相手の目的が実際にそうであることは違う。
分かっているのは、基準が極めて広く、本人の意思を考慮していないことだけだ。
ハスターは異議申立てを作成した。
『選考基準の制定権限が確認できない』
『基準の適用対象が不明確』
『本人の意思および同意が考慮されていない』
『異常の調査・停止・救済を行った者に不利益を与えるおそれがある』
『当該基準に基づく役割の割当ては認めない』
印章を押す。
『異議申立てを登録しました』
その直後、選考基準の下部に新しい文字が現れた。
『異議申立てを行った者も、業務に関する問い合わせを行った者に含まれます』
「…………」
ハスターは、ゆっくりと書類を机に置いた。
「……自分に対する異議まで、選定理由にするのか」
返答はない。
反論する。
その反論が記録される。
記録された行為が、新たな選定理由にされる。
もし、この仕組みが続くなら。
異議を申し立てるほど、候補としての条件を満たしていくことになる。
「……実に嫌らしい」
そのとき、書棚の一番下で何かが音を立てた。
かさり。
普段は使用しない帳簿の並ぶ場所だった。
一冊の帳簿が、棚から少しだけ飛び出している。
表紙には、何も書かれていない。
ハスターは帳簿を手に取った。
最初の頁には、一行だけ文字があった。
『選考基準の開示請求を受け付けました』
「……誰が請求した」
次の頁。
『請求者:未登録』
さらに次。
『開示対象:代替発注者選定基準』
その次。
『回答期限:本日午後三時』
ハスターは時計を見た。
午後二時五十三分。
「……七分後か」
請求者が分からない。
回答者も分からない。
開示請求が正規に成立した記録もない。
それなのに、回答期限だけが設定されている。
「……また勝手に締切を作りおって」
宇宙の寿命は長い。
星が生まれ、燃え尽き、塵になるまでには、途方もない時間がかかる。
だが、事務手続きの締切は、いつだって突然やってくる。
そして、なぜか担当者の都合を考慮しない。
ハスターは、ほんの一瞬だけ、人間たちの気持ちが分かったような気がした。
*
午後二時五十六分。
黄昏の聖餐会の事務所では、由紀が複合機を見つめていた。
先ほどから、機械は動いていない。
操作画面も消えている。
紙詰まりの表示もない。
「……普通に戻ってますね」
榊原は頷いた。
「そうだね」
「業者さんに点検を頼みますか?」
「そうしよう。ただし、今は電源を入れないでおこう」
「分かりました」
由紀はメモ帳へ書き加えた。
『機器点検を依頼予定』
それから、ふと思い出した。
「榊原さん」
「何だい?」
「こういうのって、誰が判断するんでしょうね」
「点検のことかい?」
「いえ。あの、変な書類とか、受付とか」
榊原は少し考えた。
「少なくとも、私たちだけで判断していいものではないだろうね」
「ですよね」
由紀は椅子に座り直した。
「だから、確認するしかないんですよね」
「そうだね」
「でも、確認しただけで担当者にされるのは困ります」
榊原は、静かに頷いた。
「その点は、こちらからも繰り返し伝えておくよ」
由紀はメモ帳を閉じた。
「……ありがとうございます」
少しだけ笑う。
「何だか、変な話ですね」
「何がだい?」
「普通の会社なら、仕事を頼む人がいて、受ける人がいて、やることが決まってるじゃないですか」
「うん」
「でも、今は全部逆なんですよね」
由紀は窓の外を見た。
午後の街並み。
車が走り、人が歩き、遠くで信号が変わる。
何も変わらない景色。
その中で、由紀は静かに続けた。
「仕事だけが先にあって、あとから人を探してる」
榊原は、何も言わなかった。
由紀は窓から目を離した。
「……しかも、断っても終わらない」
その声は、小さかった。
だが、榊原にははっきり聞こえた。
「深町さん」
「はい」
「君は、断っていいんだよ」
由紀は顔を上げた。
榊原は、まっすぐに彼女を見ていた。
「分からないことは、分からないと言っていい。引き受けていない仕事は、引き受けていないと言っていい」
由紀は、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
そのとき、事務所の時計が午後三時を告げた。
*
午後三時。
カルコサの執務室で、ハスターは例の帳簿を見つめていた。
『回答期限:本日午後三時』
時計が、ちょうど午後三時を示した。
その瞬間、帳簿の頁がひとりでにめくられた。
一頁。
二頁。
三頁。
紙の音が、執務室に響く。
やがて、最後の頁で止まった。
そこには、赤い文字が浮かび上がっていた。
『回答期限を経過しました』
ハスターは目を細めた。
「……それで?」
次の文字が現れる。
『未回答のため、開示対象を自動確定します』
「待て」
『代替発注者選定基準』
先ほどの五項目が、そのまま表示された。
ハスターは、静かに言った。
「その基準は承認していない」
『確認中です』
「制定権限も確認できていない」
『確認中です』
「ならば、確定するな」
『開示対象を確定しました』
ハスターの触手が、机の上でゆっくりと広がった。
「……確定したのは、開示する文書の指定だな」
返答はなかった。
「文書を開示したことと、その内容が正当であることは違う」
『確認中です』
「回答期限が過ぎたことも、内容を承認したことにはならん」
『確認中です』
「そもそも、誰が開示請求を行った」
『確認中です』
ハスターは、ゆっくりと目を閉じた。
「……何もかも確認中だな」
そのとき、帳簿の最後の頁に、新しい文字が現れた。
『選考基準の適用対象を確認します』
ハスターは目を開いた。
「……対象?」
『はい』
「誰を対象とする」
『基準に該当する者です』
「具体的には」
『検索中です』
ハスターは、すぐに命令を入力した。
『対象者の無断検索を禁止』
返答。
『指示登録済み』
その直後。
『検索を継続します』
「…………」
ハスターは、しばらく無言で画面を見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「……本当に、腹立たしい」
だが、怒りだけでは何も変わらない。
彼は、権限照合原簿を再び開いた。
選考基準を定める権限。
対象者を選ぶ権限。
選定結果を確定する権限。
そのいずれも、まだ確認できていない。
ならば、検索結果が表示されても、それを正規の選定として扱う必要はない。
ハスターは、そう判断した。
ただし、相手がその判断を尊重する保証もなかった。
帳簿の頁が、静かに光った。
『条件該当者を検出しました』
ハスターは動きを止めた。
「……誰だ」
一行目に、名前が現れた。
『ハスター』
「……当然、そう来るか」
二行目。
『榊原』
ハスターの触手が止まった。
「……連絡担当者まで含めるか」
三行目。
『深町由紀』
執務室の空気が、静かに冷えた。
ハスターは、ゆっくりと立ち上がった。
「……その名前を消せ」
『基準に該当します』
「本人は、受付業務を承諾していない」
『業務に関する問い合わせを行っています』
「それは、拒否の意思を確認するための問い合わせだ」
『基準に該当します』
「問い合わせを行った事実と、発注者になる意思は無関係だ」
『基準に該当します』
ハスターは、机に手をついた。
「……貴様らは」
声が低く響いた。
「誰かが助けを求めれば、その者に仕事を押しつけるのか」
返答はなかった。
「誰かが拒否すれば、拒否したことを理由に候補へ入れるのか」
『基準に該当します』
「誰かが問題を止めようとすれば、その者を責任者にするのか」
『基準に該当します』
ハスターは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、三つの名前を見つめた。
ハスター。
榊原。
深町由紀。
それぞれ、立場も役割も違う。
だが、全員が何らかの形で、受付の異常に対応している。
相手は、その事実だけを抜き出していた。
意思も、権限も、経緯も無視して。
「……選考基準とは名ばかりだな」
ハスターは言った。
「これは、誰かに責任を負わせるための条件に見える」
『確認中です』
「……好きに確認していろ」
彼は、権限照合原簿へ新しい記録を追加した。
『検出された三名は、条件該当者として表示されたにすぎない』
『正式な候補者認定、選定、任命のいずれも確認されていない』
『三名のうち、受付業務または代替発注者の役割への同意が確認された者はいない』
『検索結果は、正規の任命記録として扱わない』
印章を押す。
『指示登録済み』
ハスターは、三つの名前を見つめ続けた。
そのとき。
名前の下に、小さな文字が現れた。
『条件該当者数:三』
続いて、もう一行。
『選定予定人数:一』
ハスターは目を細めた。
「……一人?」
『はい』
「何のために」
『代替発注者の選定です』
「だから、その選定を認めていない」
『確認中です』
ハスターは、しばらく黙った。
三人のうち、一人。
誰か一人を選べば、残りの二人は対象から外れるのか。
それとも、選ばれた一人が、さらに別の役割を埋めるために利用されるのか。
分からない。
だが、少なくとも、この表示は選択を迫ろうとしているように見えた。
誰を犠牲にするか。
誰に責任を押しつけるか。
その判断を、誰かにさせようとしている。
ハスターは、ゆっくりと首を振った。
「……選ばせるつもりか」
返答はなかった。
「私に」
沈黙。
「この三人から、一人を」
帳簿の文字が、淡く光った。
『選定者:未登録』
ハスターは、静かに笑った。
「……なるほど」
その笑みには、楽しさなど微塵もなかった。
「次は、選ぶ者まで探すつもりか」
帳簿は答えなかった。
ただ、最後の頁に新しい項目が追加された。
『選定者候補の検索を開始します』
ハスターは、天井を見上げた。
二つの黒い太陽が、窓の外で静かに浮かんでいる。
世界は、今日もまだ終わらない。
だが、仕事は増え続ける。
しかも、今度は。
誰が仕事を押しつけられるかを決める仕事まで、増えようとしていた。
ハスターは、静かに呟いた。
「……もう、勘弁してくれ」
その声は、誰にも届かなかった。
少なくとも、彼が望む相手には。
金曜日の午後三時。
黄衣の王の休日は、今日も遠かった。
声は届かない




