第7話 発注者が存在しません
色々修正
金曜日、午後一時二十分。
カルコサの執務室では、再びノックが響いていた。
こん。
こん。
こん。
ハスターは扉を見つめていた。
つい先ほど、扉の向こうに現れた奇妙な影は消えたはずだった。
しかし今、その下から再び細長い影が伸びている。
光源の位置から考えて、そこに影が生じるはずはなかった。そもそも、扉の向こうには何者の気配もない。
それなのに、何かがいる。
ハスターは机上の記録へ視線を落とした。
『受付待機件数:四十』
数字は木曜日から変化していない。
その下には、先ほど登録した警告が残っていた。
『未承認の接触事象を確認』
『接触主体:未確認』
『接触先:組織連絡担当者』
金曜日の午後一時五分。
榊原の事務所に、三度のノックとともに紙が届けられた。
榊原はそれを正式な連絡経路で報告した。
ハスターは、本人の同意を得ない接触が繰り返されている事実を確認し、禁止命令を再度記録した。
しかし、命令を記録したことと、相手がそれに従うことは別だった。
その区別を、ハスターはすでに嫌というほど思い知らされている。
「……名乗れ」
扉の向こうへ告げた。
返答はなかった。
代わりに、紙を一枚ずつ重ねるような音が響いた。
とん。
とん。
とん。
ハスターの触手が、わずかに持ち上がった。
「名乗れと言っている」
『確認中です』
声がした。
男とも女ともつかない。
若くも老いてもいない。
声帯を震わせて発せられた音というより、文章そのものが空間へ置かれたような響きだった。
「何を確認している」
『発注者を確認しています』
ハスターは動きを止めた。
「……発注者?」
『はい』
「何の発注者だ」
『受付業務です』
しばらく、沈黙が続いた。
ハスターは机の上に積まれた記録を見下ろした。
存在しない受付番号。
発信元の分からない通知。
承諾していない人間への担当者指定。
拒否の意思を無視した候補者の選定。
木曜日には、禁止していた直接接触まで発生した。
そして今、正体不明の訪問者が、発注者を確認しているという。
「……順序が逆だな」
ハスターは言った。
『どのような意味でしょうか』
「仕事には、通常、それを依頼する者がいる。依頼の内容を定め、必要な権限を確認し、引き受ける者の同意を得る。それから業務が始まる」
『通常の手順は確認済みです』
「ならば、なぜ今になって発注者を探している」
少しの間があった。
『業務が開始されているためです』
ハスターは目を細めた。
「誰が開始を承認した」
『確認中です』
「発注者は」
『確認中です』
「受注者は」
『確認中です』
「開始日時は」
『確認中です』
「業務内容は」
『受付です』
「それは業務の名称だ。何を、誰から、どのような条件で受け付けるのかを聞いている」
『確認中です』
ハスターは天井を見上げた。
「……何も確認できていないではないか」
『受付待機件数は確認されています』
「それだけか」
『四十件です』
「知っている」
『処理が必要です』
「誰が必要だと判断した」
『確認中です』
ハスターは、ゆっくりと息を吐いた。
この相手と会話を続けることに意味があるのか。
それすら、分からなかった。
だが、黙っていれば、相手の主張だけが記録に残る。
それは避けなければならない。
「よいか。待機しているという記録が存在することと、正規の受付業務が成立していることは別だ」
『待機者が存在します』
「その記録が正しいかどうかも、まだ確認できていない」
『四十件です』
「数の話ではない」
『処理が必要です』
「必要性の根拠を示せ」
返答はなかった。
扉の下の影が、わずかに揺れた。
ハスターは執務机へ戻り、正式な管理局の記録に指示を記入した。
『受付業務の成立根拠が確認されるまで、業務開始を承認しない』
『担当者および発注者の無断指定を禁止する』
『深町由紀への直接接触禁止命令を維持する』
『榊原の権限は組織連絡業務に限定する』
『既存の待機記録は証拠として保全し、受付済みとは扱わない』
最後に、もう一行を加えた。
『発注者の確認を目的とする調査は、第三者への役割の割当てを伴ってはならない』
印章を押す。
赤い文字が浮かび上がった。
『指示登録済み』
ハスターは、その表示を見つめた。
登録はされた。
だが、登録されたという事実だけでは安心できない。
「……今の命令を理解したか」
扉の向こうから返答があった。
『承知しました』
「ならば、勝手な選定を行うな」
『承知しました』
「深町由紀にも、榊原にも接触するな」
『承知しました』
ハスターは触手を一本、静かに揺らした。
「……返答だけは立派だな」
『ありがとうございます』
「褒めていない」
扉の下の影が、ゆっくりと後退し始めた。
「待て」
ハスターは呼び止めた。
「貴様は何者だ」
影が止まった。
しばらくして、声が答えた。
『確認中です』
「……自分が何者かも分からんのか」
『確認中です』
「では、何の権限でここへ来た」
『確認中です』
ハスターは椅子に腰を下ろした。
「……帰れ」
『承知しました』
影が消えた。
扉の向こうから、最後に一言だけ聞こえた。
『なお、発注者が確認できない場合は、代替発注者の選定が必要となります』
ハスターは目を閉じた。
「……今、禁止したばかりだろうが」
返事はなかった。
*
午後一時三十四分。
黄昏の聖餐会の事務所では、榊原が電話を切ったところだった。
「……つながらないね」
深町由紀は、少し離れた席から顔を上げた。
「どちらにかけてるんですか?」
「旧市民会館の管理事務所だよ」
「例の使用許可証ですか?」
「うん。月曜日の予約記録について、改めて確認しておこうと思ってね」
榊原は受話器を置いた。
「ただ、何度かけても話し中なんだ」
「金曜日だから忙しいんでしょうか」
「そうかもしれない」
由紀はパソコンへ視線を戻した。
画面には、いつもどおりの会計ソフトが表示されている。
入金確認。
支払予定。
備品費。
交通費。
そのどれもが、今の由紀には妙にありがたかった。
数字は、まだ信用できる。
一万円は一万円だ。
百円を十枚集めれば千円になる。
少なくとも、今のところは。
本来なら、今日は休暇だった。
午前中、榊原から安全のために休むよう指示されていたし、午後一時五分にも、仕事を考えず休んでほしいという連絡が届いていた。
それでも由紀は、給与計算の締め切りが気になってしまった。
ホテルの部屋で何度も時計を見た末、榊原に電話をかけたのだ。
『……すみません。給与関係の確認だけ、少しできませんか』
榊原は、最初は断った。
『今日は休んでほしいんだけどね』
『分かってます。でも、締め切りが近くて……』
結局、榊原は条件を付けた。
第三会議室には近づかない。
未登録案件に関する通知や書類には触れない。
異常があれば、すぐに作業を中止する。
そして、必要な確認が終わったら、ホテルへ戻る。
由紀は、その条件を受け入れた。
あくまで、短時間の確認だった。
休暇を取り消して、通常勤務に戻ったわけではない。
「……深町さん」
榊原が声をかけた。
「はい」
「少し、相談してもいいかな」
「何でしょう」
「例の受付の件について、問い合わせる内容を整理したいんだ」
由紀は椅子を回した。
「問い合わせる内容、ですか?」
「うん。今までは、起きたことへの対応ばかりだったでしょう」
「……そうですね」
「でも、本来なら、誰かが何かを依頼しているはずなんだよ」
由紀は首を傾げた。
「依頼?」
「受付をしてほしい、とか。待っている人を案内してほしい、とか。そういう仕事は、普通なら依頼する人がいるだろう?」
由紀は少し考えた。
確かに、そのとおりだった。
受付という仕事があるなら、受付を設置した人がいる。
誰かを待たせているなら、その人たちを集めた人がいる。
少なくとも、普通の仕事なら。
「……誰が頼んだんでしょうね」
由紀は呟いた。
榊原は頷いた。
「そこを確認したいんだ」
「でも、確認先が分からないんですよね」
「そうなんだよ」
二人はしばらく黙った。
事務所の時計が、秒針を進めている。
由紀は、机の上のメモ帳を引き寄せた。
「じゃあ、まず整理しましょうか」
「整理?」
「はい。分からないことを、分からないままにしておくと、余計に混乱するので」
ペンを取る。
一番上に書いた。
『受付業務について』
その下に、思いつくまま項目を並べた。
『誰が依頼したか』
『誰が承認したか』
『誰が担当するか』
『どこで実施するか』
『いつまで続くか』
『何を受け付けるか』
特別な規則を参考にしたわけではない。
由紀が以前の職場で、仕事の引継ぎに必要だと思っていたことを並べただけだった。
榊原はメモを覗き込んだ。
「……なるほど」
「普通なら、最初に決まっていることですよね」
「そうだね」
「今のところ、どれが分かってるんでしょう」
二人は、もう一度メモを見つめた。
由紀はペン先を止めた。
榊原も黙った。
しばらくして、由紀が言った。
「……全部、分からないですね」
「……そうだね」
「……これ、仕事として成立してるんですか?」
榊原は、答えられなかった。
由紀はメモ帳を閉じようとして、手を止めた。
「榊原さん」
「何だい?」
「一つ、確認していいですか」
「もちろん」
「私、受付の仕事を引き受けたことにはなってないですよね」
榊原の表情が、わずかに変わった。
「なっていないよ」
「本当に?」
「うん。深町さんは一度も承諾していない。それに、私は君をその仕事に任命していない」
由紀は、ようやく息を吐いた。
「……よかった」
「ただし、あちらがそう扱ってくれるかは、別の問題だ」
榊原は静かに続けた。
「だから、こちらの意思は何度でも明確にしておこう」
由紀は頷いた。
メモ帳の一番下に、新しい一行を書き加えた。
『本人の同意なし』
そして、その文字を二重線で囲んだ。
*
午後一時四十八分。
カルコサの執務室に、正式な照会が届いた。
『受付業務に関する照会』
発信者は、黄昏の聖餐会。
組織連絡担当者、榊原。
水曜日から継続している異常に関する、正規の連絡経路を通じた問い合わせだった。
ハスターは内容を確認した。
『当該受付業務について、発注者および承認者を確認したい』
『深町由紀は当該業務への同意を行っていない』
『組織連絡担当者は、受付担当者への就任を承諾していない』
『問い合わせを行うこと自体が、業務の引受けと解釈されないことを確認したい』
ハスターは、ゆっくりと頷いた。
「……ようやく、まともな質問が来た」
これまで届いていた問い合わせの多くは、儀式を続けてもよいか、受付を再開してよいか、誰が担当すればよいか、といったものだった。
しかし、榊原の照会は違った。
誰が、この仕事を依頼したのか。
誰が、開始を承認したのか。
業務が成立する前提そのものを問うていた。
ハスターは回答書を作成した。
『発注者:未確認』
『承認者:未確認』
『受注者:未確定』
『業務開始の正式な承認記録:確認されず』
『現状:受付業務の開始を承認しない旨の指示を登録済み』
『既存待機記録:四十件。受付済みとは扱わず、調査のため保全』
最後に、注意事項を加えた。
『本照会およびその回答は、いかなる人物の受付業務への同意、就任、または業務開始を意味しない』
ハスターは、その一文を見つめた。
以前なら、ここまで書く必要はなかった。
問い合わせは問い合わせ。
回答は回答。
それ以上の意味を持つことなど、普通はない。
だが、今は違う。
質問しただけで受付を引き受けたことにされかける。
拒否しただけで担当者の候補にされる。
誰かの代わりに連絡しただけで、その仕事まで引き継いだことにされかける。
そうした異常が、実際に起きていた。
だからこそ、言葉を一つずつ定義しなければならない。
ハスターは印章を押した。
『回答送付』
書類が消える。
その直後、机上の別の記録が光った。
『受付待機件数:四十』
数字は変わらない。
しかし、その下に新しい項目が現れた。
『代替発注者候補』
ハスターは動きを止めた。
「…………」
候補欄には、まだ名前がない。
ただ、一行だけ文章が表示されていた。
『業務の必要性を最初に認めた者』
ハスターは、その文字を見つめた。
「……待て」
記録が、静かに明滅した。
『候補者を検索しています』
ハスターは即座に命令を入力した。
『検索中止』
返答。
『検索を継続します』
「中止しろ」
『検索を継続します』
「命令だ」
『検索を継続します』
ハスターの触手が、机の上でゆっくりと広がった。
「……なるほど」
声は、静かだった。
だが、執務室の空気が変わった。
「私の命令を無視するということか」
『検索を継続します』
ハスターは椅子から立ち上がった。
窓の外で、二つの黒い太陽がわずかに揺れた。
「ならば、こちらも手続きを変える」
彼は、机の奥から一冊の帳簿を取り出した。
表紙には、古い文字でこう記されている。
『権限照合原簿』
召喚管理局の通常業務では、ほとんど使われない記録だった。
業務を行う者の名前ではなく、その業務を成立させる権限そのものを確認するためのもの。
誰が命令したか。
誰が許可したか。
その許可は、どこから来たのか。
必要であれば、権限の根拠をどこまでも遡る。
神格であっても例外ではない。
ハスターは表紙を開いた。
「……発注者がいないのなら」
頁が、ひとりでにめくられた。
「発注する権限が、どこから生じたのかを調べるまでだ」
帳簿の文字が、ゆっくりと浮かび上がった。
『照合対象:受付業務』
『発注権限:未登録』
『承認権限:未登録』
『業務成立根拠:未登録』
ハスターは眉を寄せた。
その下に、新たな文字が現れる。
『ただし、受付待機は継続中』
「……またそれか」
彼は、思わず呟いた。
待機者がいる。
だから受付が必要だ。
受付が必要だから、担当者を決めなければならない。
担当者を決めるためには、誰かが命令しなければならない。
しかし、命令する権限を持つ者は確認できない。
それでも、待機記録だけは消えない。
ハスターは、帳簿を閉じた。
「……循環しているな」
少なくとも、現状の記録はそう見えた。
業務の必要性だけが、根拠を持たないまま主張されている。
その必要性が、次の必要性を生む。
誰かが対応しようとするたびに、その行為が新しい理由として利用される。
終わりのない手続き。
始まりのない仕事。
そして、責任者のいない責任。
ハスターは、ゆっくりと息を吐いた。
「……実に腹立たしい」
*
午後二時六分。
由紀のパソコンに、榊原宛ての回答が届いた。
差出人は、見慣れない名称だった。
『召喚管理局』
由紀は画面を見つめた。
「……これ、役所ですか?」
榊原は、少し考えてから答えた。
「まあ、役所のようなものだね」
「ようなもの」
「うん」
由紀は、それ以上追及しなかった。
今週に入ってから、「ようなもの」という説明には慣れてしまった。
榊原が回答を開く。
二人で内容を確認する。
『発注者:未確認』
『承認者:未確認』
『受注者:未確定』
由紀は、ゆっくりと息を吐いた。
「……やっぱり、誰も分からないんですね」
「そうみたいだね」
「じゃあ、どうして私の名前が出てくるんでしょう」
榊原は答えられなかった。
由紀は、机の上のメモ帳を見た。
六つの項目。
六つとも、答えがない。
それなのに、何かが動いている。
何かが待っている。
何かが、自分に仕事をさせようとしている。
由紀は、少しだけ笑った。
笑わなければ、泣いてしまいそうだった。
「……前の会社よりひどいですね」
榊原が顔を上げた。
「え?」
「前の会社でも、誰が頼んだのか分からない仕事はありましたけど」
由紀はメモ帳を指で叩いた。
「少なくとも、誰かが勝手に仕事を増やしたんだろうなってことは分かったので」
榊原は、しばらく黙っていた。
そして、申し訳なさそうに笑った。
「……それは、そうだね」
「今は、その誰かすらいないんですよね」
「うん」
由紀は椅子の背もたれに寄りかかった。
天井を見上げる。
白い蛍光灯。
空調の低い音。
どこにでもある事務所。
その中で、由紀は静かに呟いた。
「……仕事って、誰も頼まなくても増えるんですね」
榊原は、何も言えなかった。
*
午後二時十九分。
カルコサの執務室に、再び三度のノックが響いた。
ハスターは顔を上げた。
「……今度は何だ」
扉の向こうから、あの声がした。
『発注者の検索が完了しました』
ハスターは、静かに目を細めた。
「……誰だ」
『候補者が一名、確認されました』
「名前を言え」
しばらく沈黙があった。
やがて、声が答えた。
『ハスター』
執務室の空気が止まった。
ハスターは、ゆっくりと立ち上がった。
「……私だと?」
『はい』
「根拠は」
『受付に関する問題を継続して処理しているためです』
ハスターは、しばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
それは、人間が聞けば背筋を凍らせるような笑いだった。
「……なるほど」
黄色い霧が、足元から立ち上る。
「私が受付の異常を調査しているから、発注者だと言うのか」
『業務の必要性を認めています』
「受付業務を行った事実はない」
『問題の処理を継続しています』
「異常の拡大を防いでいるだけだ」
『継続して対応しています』
「対応と発注を混同するな」
返答はなかった。
ハスターは、一歩、扉へ近づいた。
「事故を防いだ者が、事故を起こした責任者になるという理屈か」
『確認中です』
「火事を消した者を、放火犯にするつもりか」
『確認中です』
「……便利な言葉だな」
ハスターの声は、低かった。
「都合が悪くなると、何でも確認中か」
『確認中です』
「それもか」
黄色い霧が、扉の隙間から廊下へ流れ出した。
「よいか」
ハスターは告げた。
「必要性を認めることと、発注することは違う」
『……』
「問題に対処することと、問題を作り出すことも違う」
『……』
「そして、他者を守るために動いた者へ、その問題の責任を押しつけることは――」
扉の前で、足を止めた。
「断じて認めん」
しばらく沈黙があった。
やがて、声が答えた。
『候補者の選定を再開します』
ハスターは目を細めた。
「……先ほど、選定そのものを禁止したはずだ」
『承知しました』
「ならば、なぜ続ける」
『必要なためです』
「誰が必要だと決めた」
『確認中です』
ハスターは、ゆっくりと息を吐いた。
「……やはり、話にならんな」
影が消えた。
ノックも止んだ。
執務室には、再び静寂が戻った。
ハスターは机へ戻り、椅子に腰を下ろした。
机の上には、四十件の待機記録。
そして、新しい警告が表示されていた。
『代替発注者の選定を継続中』
『次候補:未確定』
ハスターは、それを見つめた。
誰が選ばれるのか。
何を根拠に選ばれるのか。
まだ分からない。
だが、今回のやり取りから、一つの可能性が浮かび上がっていた。
この異常は、単に受付担当者を探しているのではないのかもしれない。
受付という仕事を成立させるため、足りない役割を後から埋めようとしている。
もしそうなら、担当者だけでなく、発注者も、承認者も、いずれ選定の対象になるだろう。
そして、選定の根拠として利用されるのは、本人が実際に行った行為とは限らない。
問い合わせた。
調査した。
止めようとした。
ただ、それだけの行為が、役割を押しつける口実にされる。
もっとも、それが怪異の本当の目的なのかは、まだ分からなかった。
分かっているのは、こちらが拒否しても、選定を続けようとしていることだけだ。
ハスターは、静かに目を閉じた。
「……厄介なものに目をつけられたな」
そして、机の端に置かれた予定表へ視線を移した。
『三連休取得計画』
その文字は、今日も変わらず残っていた。
ハスターは、しばらくそれを眺めていた。
「……せめて、一日でいい」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
その瞬間、机上の記録が小さく光った。
『新規申請を受信しました』
ハスターは顔を上げた。
『申請区分:休暇』
『申請者:ハスター』
『希望日数:一日』
『申請作成者:未登録』
『承認者:未登録』
『審査状況:受付待機』
「…………」
長い沈黙。
ハスターは、ゆっくりと天井を見上げた。
「……誰が申請した」
返答はない。
ただ、机の上に一枚の紙が現れた。
そこには、丁寧な文字でこう記されていた。
『休暇の取得には、後任者の選定が必要です』
ハスターは紙を見つめた。
一度。
二度。
三度。
自分が一日の休暇を望んだことと、この申請が現れたことに関係があるのか。
それとも、偶然を装っているだけなのか。
判断できる材料はなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
ハスター自身は、この申請を提出していない。
「……勝手に人の休暇まで申請するな」
書類は答えない。
ハスターは、机の端に置かれた三連休取得計画を見た。
それから、目の前の一日休暇申請を見た。
「……しかも、三日から一日に減っているではないか」
そのころ、カルコサのどこかで。
黒いスーツの男が、楽しそうに紅茶を飲んでいた。
「さて」
ニャルラトホテプは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「次は、どなたが選ばれるのでしょうね」
彼は微笑んだ。
まるで、これから始まる余興を心待ちにする観客のように。
その笑みが、今回の異常にどこまで関係しているのか。
今はまだ、誰にも分からない。
金曜日の午後は、まだ終わらない。
そして、黄衣の王の休日は、今日も遠かった。
休日って欲しいよね




