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邪神労働記 〜黄衣の王は定時で帰りたい〜  作者: 相作
第一部『黄衣の王は帰れない』

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6/16

第6話 神様にも職務記述書は必要です

色々と校正。

金曜日、午後零時二十分。


カルコサの空に、黄色い稲妻が走った。


雷鳴はなかった。


代わりに、遠くの塔から鐘が鳴った。


一回。


二回。


三回。


その音を聞いたカルコサの住人たちは、一斉に窓を閉めた。


黄衣の王が怒っている。


それだけは、誰にでも分かった。


もっとも、何に怒っているのかまでは分からない。


世界の終焉に関わる重大な事件かもしれない。


禁忌を犯した愚かな信徒への裁きかもしれない。


あるいは。


「……辞退理由を入力してください、だと?」


黄衣の王が、書類に腹を立てているだけかもしれなかった。


実際には、三番目だった。


ハスターは、机の上の黒い紙を睨んでいた。


『受付担当者候補一覧』


その最後に、彼自身の名前がある。


『候補者:ハスター』


そして、その下。


『辞退理由を入力してください』


ハスターは、朱筆を握り直した。


「……私が辞退する理由を、お前に説明する義務はない」


黒い紙が震えた。


『辞退理由が未入力です』


「…………」


『入力が完了するまで、候補者情報は保持されます』


ハスターは、ゆっくりと目を閉じた。


候補者情報は保持される。


それ自体は、まだ任命ではない。


承諾でもない。


しかし、この黒い紙は、そこから先へ進むための口実を探し続けている。


代理受付が禁止されれば、代理呼び出し。


受付場所が認められなければ、待機者の所在地。


連絡窓口の変更が承認されれば、担当者変更の申請。


そして今度は、辞退理由の入力。


「……なるほど」


ハスターは、静かに呟いた。


「私に、手続きを始めさせたいわけか」


辞退するために、何かを入力する。


入力したことを、手続きへの参加と扱う。


手続きへの参加を、別の何かに読み替える。


そういう仕組みかもしれない。


もちろん、まだ推測にすぎない。


だが、相手が何を望んでいるか分からないときに、わざわざ相手の用意した欄を埋めてやる必要はない。


ハスターは朱筆を置いた。


そして、黒い紙とは別の用紙を取り出した。


現行の管理局様式。


『未承認案件に関する異議申立書』


彼は、そこへ記入した。


『当方は、当該未登録案件の受付担当者として任命されていない』


『候補者一覧への記載は、任命、承諾または業務開始を意味しない』


『当該案件が提示する入力欄への回答義務は存在しない』


押印。


書類が消えた。


しばらくして、正式な記録簿に受理印が浮かび上がった。


黒い紙は、何も言わなかった。


「……そうだ。それでいい」


ハスターは、わずかに満足した。


その直後。


別の通常書類が机に現れた。


『異議申立てに伴う確認担当者の指定について』


「…………」


ハスターは、書類を見つめた。


『確認担当者候補:ハスター』


「……お前らもか」


これは黒い紙ではない。


正真正銘、管理局の通常業務だった。


ハスターは天井を見上げた。


「……管理局の仕組みも、少しは見直すべきではないか」


返事はなかった。


ただ、次の書類が現れた。


『業務改善提案書』


ハスターは、それを裏返した。


見なかったことにした。


     *


午後零時二十七分。


ハスターは、管理局の規程集を開いていた。


黒い紙を相手にするより、よほど有意義な仕事だった。


少なくとも、規程集は勝手に新しい解釈を付け加えたりしない。


通常は。


「……受付担当者の任命要件」


ページをめくる。


「……職務の範囲、責任の所在、任命権者、承諾の記録」


ハスターは、そこで手を止めた。


そして、机の上の黒い紙を見た。


『候補者:ハスター』


「……そもそも」


低い声が、執務室に響いた。


「私は、何の仕事をさせられる予定なのだ?」


黒い紙が震えた。


『受付業務です』


「……それは名称だ」


『待機者への対応です』


「……それは説明になっていない」


『順次、対応をお願いします』


「……だから何にだ!」


カルコサの窓が、一斉に鳴った。


ハスターは、深く息を吐いた。


仕事には、内容がある。


責任がある。


どこからどこまでを引き受けるのか、範囲がある。


その範囲を越えたものについて、誰が判断するのかという問題もある。


それらが何一つ示されていないのに、担当者だけを決めようとしている。


ハスターは、規程集の横から一枚の様式を取り出した。


『職務記述書』


神々の管理局でも、業務の割り振りには書面が必要だった。


むしろ、神々だからこそ必要だった。


担当する領域が曖昧なまま仕事を任せると、海の神が山を沈めたり、夢の神が現実を閉鎖したりする。


その後始末をするのは、だいたいハスターだった。


「……だから、書類があるのだ」


彼は職務記述書を机に広げた。


記載欄は、六つ。


業務の目的。


具体的な業務内容。


権限と責任の範囲。


任命権者。


業務を行う場所と期間。


担当者本人の承諾。


ハスターは、最初の欄に目を落とした。


業務の目的。


不明。


次。


具体的な業務内容。


不明。


次。


権限と責任の範囲。


不明。


任命権者。


不明。


場所と期間。


不明。


承諾。


なし。


「…………」


ハスターは、書類を見つめた。


六つの欄のうち、確定しているものが一つもない。


「……これを仕事と呼ぶのか」


彼は、正式な管理局の調査様式を取り出した。


そして、未登録案件について確認できている事実を記入した。


『業務目的:未提示』


『業務内容:未提示』


『権限および責任範囲:未提示』


『任命権者:未確認』


『業務場所および期間:未確定』


『担当者の承諾:確認されず』


最後に、太い線を引く。


『以上の理由により、当該案件の受付業務を正式な職務として認定できない』


押印。


これは、未登録案件の提示する欄への回答ではない。


管理局の内部調査記録だった。


ハスターは、それを通常の記録簿へ送った。


しばらくして、受理印が浮かんだ。


黒い紙が震えた。


『職務内容について、ご質問がありますか』


ハスターは答えなかった。


黒い紙に新しい文字が現れた。


『担当者決定後にご案内します』


ハスターは、目を閉じた。


「……だから順番が逆だと言っている」


内容を知らない者に、仕事を引き受けさせる。


引き受けた者にだけ、内容を教える。


それは、管理局の手続きではない。


少なくとも、ハスターが認める手続きではなかった。


「……これでは、世界を滅ぼすより先に労務管理が崩壊する」


彼は、職務記述書の未記入欄を眺めた。


そして、ぽつりと呟いた。


「……いや、もう崩壊しているか」


机の端には、今日だけで処理した書類が積み上がっていた。


     *


午後零時三十一分。


深町由紀は、ビジネスホテルのベッドに腰掛けていた。


目の前には、開封したばかりの歯ブラシ。


その横には、コンビニで買った靴下。


さらに、着替え用のシャツが一枚。


昨日からの避難生活で、必要なものが少しずつ増えていた。


宿泊費は職場が負担してくれる。


だが、生活用品まで何でも請求するのは気が引けた。


由紀は、レシートを見つめた。


「……これ、経費になるのかな」


前職なら、まず認められなかった。


そもそも、仕事が原因で自宅に帰れなくなったという状況自体が、前職では想定されていない。


いや。


今の職場でも想定されていないはずだ。


「……普通、想定しないよね」


由紀は、買ってきた靴下を袋から出した。


そのとき、スマートフォンが震えた。


榊原からだった。


『先ほどの確認書について、管理側から正式に連絡がありました』


由紀は、すぐに返信した。


『どうなりましたか?』


『担当者変更は成立していません』


由紀は、胸を撫で下ろした。


『よかったです』


続けて、榊原から文章が届いた。


『ただし、未登録案件そのものは継続中とのことです』


由紀の手が止まった。


『受付番号000もですか?』


『はい。まだ調査中だそうです』


由紀は、スマートフォンを見つめた。


昨日から、画面に表示されている数字。


四十。


その数字は、今も変わっていない。


待っているものが何なのか。


どこにいるのか。


いつから待っているのか。


何も分からない。


それなのに、こちらの名前だけは知っている。


自宅の場所まで。


「……不公平だなあ」


由紀は、ぽつりと呟いた。


こちらは何も知らないのに、向こうは知っている。


しかも、問い合わせても回答予定は未定。


苦情を言おうにも、苦情の受付すらしていない。


由紀は、ふと気づいた。


「……そういえば」


管理担当から届いた回答。


『問い合わせ、拒否、異議申し立ては、業務の承諾に該当しない』


あれは、ありがたかった。


自分が拒否しただけで、受付を引き受けたことにされるのではないか。


その不安を、はっきり否定してくれた。


しかし。


「……じゃあ、何をしたら承諾になるんだろう」


由紀は、ホテルの備え付けのメモ用紙を一枚取った。


そして、五つの項目を書き出した。


依頼者。


業務内容。


責任者。


承諾。


記録。


書いてみると、ひどく普通のことばかりだった。


由紀は、その下に一行を追加した。


『承諾の条件を確認する』


そして、すぐにペンを止めた。


「……いや、違うか」


確認する相手を間違えてはいけない。


黒い紙に直接尋ねても、相手の都合のいい説明が返ってくるかもしれない。


そもそも、黒い紙が提示する規則を信用していいのかも分からない。


由紀は、新しい行を二重線で消した。


その下に書き直す。


『正式な管理担当へ、業務上の義務がないことを確認する』


「……うん」


少なくとも、これなら筋が通る。


由紀は、榊原へメッセージを送った。


『管理側へ確認していただきたいことがあります』


すぐに返事が来た。


『何でしょう?』


由紀は、少し考えてから入力した。


『あの案件に関して、私や榊原さんに何かする義務が残っているのか、確認できますか?』


送信。


しばらくして、返事が届いた。


『確認します』


由紀は、スマートフォンを伏せた。


そして、ベッドへ横になった。


眠かった。


非常に、眠かった。


だが、目を閉じると、昨日聞いた声を思い出す。


『ずっと、待っているんです』


由紀は、目を開けた。


天井を見つめる。


「……待ってるって言われても」


誰が。


何を。


いつまで。


それを説明してくれなければ、何もできない。


由紀は、枕を抱えた。


「……説明責任って、大事だなあ」


こんな形で実感したくはなかった。


     *


午後零時四十八分。


カルコサの執務室。


ハスターは、古い台帳を机に広げていた。


昨日、調査のために確認した、題名のない記録簿だった。


表紙には題名がない。


最初の数ページは白紙。


その先には、同じ言葉が何度も並んでいる。


『未登録案件』


記録の日付は欠けていた。


申請者名もない。


受付内容もない。


ただ、未登録という分類だけが繰り返されている。


ハスターは、ページをめくった。


そして、あることに気づいた。


「……妙だな」


昨日、最後のほうのページには、規則らしき文章があった。


受付担当者が決まるまで案件は保留される。


承諾がなければ受付は成立しない。


一方で、業務を行ったことを承諾とみなす場合があるとも書かれていた。


ハスターは、その記載を信用していなかった。


現行の管理規程と照合してもいない文章を、勝手に有効な規則として扱うわけにはいかない。


だからこそ、調査記録に概要を残していた。


しかし、今日の台帳には。


その文章がなかった。


ハスターは、ページを戻した。


もう一度、確認する。


ない。


昨日、確かに読んだ文章が消えている。


「…………」


ハスターは、机の上の調査記録を開いた。


そこには、昨日確認した内容が記されていた。


『受付担当者の承諾に関する記載あり』


『業務遂行を承諾とみなす旨の記載あり』


『規則としての有効性は未確認』


ハスターは、古い台帳を見た。


白紙。


調査記録を見た。


文字が残っている。


「……記載が変わったか」


確認できるのは、そこまでだった。


誰が変えたのか。


何のために変えたのか。


そもそも、昨日の記載が古くから存在していたのか。


そのいずれも、分かっていない。


ハスターは、調査記録に追記した。


『古い台帳の記載内容に変化を確認』


『規則としての有効性は引き続き未確認』


『原本の信頼性に疑義あり』


押印。


そのとき、机の端に置かれた黒い紙が震えた。


『調査記録を確認しました』


ハスターは、顔を上げた。


「……何?」


黒い紙に文字が増える。


『記載内容の変更について、異議がありますか』


ハスターは、しばらく考えた。


異議があるか。


また、こちらに何かを入力させようとしている。


彼は、黒い紙には答えなかった。


代わりに、正式な調査記録へ書き込んだ。


『未登録案件側からの照会には応じない』


『調査記録は管理局の内部資料であり、当該案件への提出物ではない』


押印。


黒い紙は、しばらく沈黙した。


やがて。


『承知しました』


ハスターは、目を細めた。


そして、次の一文を待った。


だが、何も現れなかった。


「…………」


少しだけ、拍子抜けした。


いつもなら、ここで別の解釈を持ち出してくる。


何かが違う。


ハスターは、古い台帳へ目を戻した。


その瞬間。


ページの中央に、小さな文字が現れた。


『閲覧者を確認しました』


ハスターは、手を止めた。


続けて。


『閲覧者:ハスター』


さらに。


『確認済み』


ハスターは、ゆっくりと台帳を閉じた。


「……閲覧しただけだ」


誰に言うでもなく、呟いた。


閲覧。


確認。


承諾。


その三つは、別の行為だ。


少なくとも、管理局の規程では。


しかし、この台帳が同じ区別をしている保証はない。


ハスターは、台帳に封印を施した。


黄色い紋様が表紙を走り、文字のない革を覆う。


「……これ以上、勝手に読ませるな」


封印が閉じた。


その直後。


台帳の内側から、小さな音がした。


ちん。


ハスターの触手が止まった。


もう一度。


ちん。


卓上ベルの音だった。


     *


午後一時五分。


黄昏の聖餐会の事務所。


榊原は、管理側から届いた回答を読んでいた。


『未登録案件について、深町由紀および榊原に正式な受付業務上の義務は存在しない』


『当該案件の発行元は引き続き調査中』


『未登録案件側からの直接照会には応じず、通常の連絡経路を使用すること』


榊原は、ゆっくりと頷いた。


「……よかった」


由紀へ、その内容を転送する。


続けて、短い文章を添えた。


『深町さん、今日はもう仕事のことを考えず、休んでください』


送信。


榊原は、椅子にもたれた。


この数日、落ち着いて座る時間がなかった。


月曜日の儀式事故。


火曜日の臨時定例会議。


水曜日の第三会議室。


木曜日の受付番号000。


そして金曜日。


一週間が、妙に長い。


榊原は、机の上の予定表を見た。


安全管理委員会の初回会合は、まだ先だ。


本来なら、儀式用の備品確認や緊急時の避難手順を話し合うはずだった。


だが、議題はすでに増えていた。


『未登録案件への対応』


『受付担当者として指定された者の保護』


『不明物品の取り扱い』


榊原は、ため息をついた。


「……委員会、増やさなくてよかったなあ」


そのとき、事務所の扉がノックされた。


こん。


こん。


こん。


榊原は、顔を上げた。


「はい」


返事はなかった。


もう一度。


こん。


こん。


こん。


榊原は立ち上がった。


扉へ近づく。


「どなたですか?」


返事はない。


榊原は、扉を開けなかった。


代わりに、内線電話を取った。


「廊下に、どなたか来ていますか?」


しばらくして、事務員の声が返ってきた。


『いえ、こちらからは誰も見えません』


「……そうですか」


榊原は、扉を見つめた。


廊下に人がいない。


それなのに、ノックの音がした。


彼は、ゆっくりと受話器を置いた。


そのとき。


扉の下から、一枚の紙が滑り込んできた。


白い紙だった。


榊原は、近づかなかった。


紙は、床の上で止まった。


表面には、短い文章があった。


『受付担当者候補の確認について』


その下。


『次の候補者への連絡を開始します』


榊原は、眉をひそめた。


「……またですか」


紙には、さらに一行があった。


『候補者への事前通知は不要です』


榊原は、しばらく黙っていた。


そして、机へ戻った。


通常の連絡用紙を取り出す。


『未登録案件から、候補者への連絡開始を示す通知が届いた』


『当団体として、当該通知を承認していない』


『新たな接触が発生する可能性があるため、対応方針を照会する』


彼は、書き終えた文章を確認した。


それから、正式な連絡経路で送った。


白い紙には触れなかった。


     *


午後一時十七分。


カルコサの執務室。


ハスターの机に、黄昏の聖餐会からの照会が届いた。


彼は内容を読んだ。


「……候補者への事前通知は不要?」


朱筆を取る。


『未登録案件に、候補者を一方的に指定する権限は確認されていない』


押印。


続けて。


『候補者への直接接触を禁止する』


押印。


『候補者として記載されたことを理由に、何らかの義務が生じることはない』


押印。


ハスターは、書類を送った。


そして、調査記録にもう一行を追加した。


『榊原の事務所において、未承認の接触事象が発生』


『接触手段:ノック音および文書』


『発信主体:未確認』


『従前の深町由紀への接触禁止命令との関連:調査中』


押印。


「……命令を出せば済む話ではない、ということか」


禁止命令の対象を増やしても、怪異が消える保証はない。


そもそも、相手がその命令に従う権限関係にあるのかさえ、確認できていない。


ハスターは、朱筆を置いた。


「……ならば、まず相手を特定せねばならん」


そのとき、黒い紙が震えた。


『受付担当者候補一覧』


そこには、まだ彼の名前がある。


『候補者:ハスター』


ハスターは、改めて正式な管理記録に記入した。


『候補者への記載のみをもって、受付担当者の地位は発生しない』


押印。


黒い紙が震えた。


『承知しました』


続けて。


『受付担当者の任命は行われていません』


ハスターは、目を細めた。


「……珍しく、正しいことを言う」


しかし、その次の一文で手が止まった。


『なお、候補者への通知は継続します』


「…………」


任命はしない。


だが、通知は続ける。


相手は、そう言っている。


ハスターは、黒い紙を見つめた。


「……通知だけなら、問題ないとでも?」


返事はなかった。


代わりに、机の上に新しい紙が現れた。


白い紙。


通常の管理局様式ではない。


黒い紙でもない。


その中央には、大きな数字が印字されていた。


『000』


ハスターは、手を止めた。


受付番号。


存在しないはずの番号。


地上では、深町由紀の自宅に現れたものと同じ数字。


その下には、短い文章があった。


『候補者の方へ』


『お待たせしております』


ハスターは、紙を見つめた。


そして、低い声で言った。


「……待たせているのは、私ではない」


白い紙が震えた。


『順番をお守りください』


「…………」


ハスターは、ゆっくりと息を吐いた。


「……順番?」


彼は、黒い紙へ目を戻した。


『待機人数:40』


その数字は、昨日から変わっていない。


待機枠は四十。


だが、候補者の名前は増えている。


深町由紀。


榊原。


そして、ハスター。


いや。


候補者一覧には、もっと多くの名前があった。


黄昏の聖餐会の構成員。


旧市民会館の管理者。


月曜日の儀式に関わった者たち。


ハスターは、一覧を見直した。


「……誰を、どういう基準で選んでいる」


名前の並びに、明確な規則は見当たらなかった。


儀式の参加者。


施設の管理者。


事務職員。


そして、神。


立場も、権限も、所属も違う。


共通しているのは、月曜日の事件に何らかの形で関わったということだけだった。


もっとも、それも候補者の一部に当てはまるというだけで、選定条件だと断定はできない。


ハスターは、一覧を閉じた。


「……選定根拠も不明か」


彼は調査記録へ追記した。


『候補者の選定基準は未確認』


『待機者との対応関係も未確認』


『候補者への記載は、任命または承諾を意味しない』


押印。


白い番号札が震えた。


『000』


その下に、文字が増えた。


『順番が近づいています』


ハスターは、目を細めた。


「……誰の?」


白い紙は答えなかった。


代わりに、最後の一行が現れた。


『次にお呼びする方を、確認してください』


ハスターは、紙を見つめた。


そして、朱筆を置いた。


「……呼ばん」


紙は震えた。


『確認だけでも結構です』


ハスターは、静かに答えた。


「……確認もしない」


その瞬間。


カルコサの執務室で、何かが鳴った。


ちん。


小さな卓上ベルの音。


ハスターは、ゆっくりと顔を上げた。


音は、机の上からではなかった。


扉の向こう。


廊下の奥。


誰もいないはずの場所から聞こえた。


もう一度。


ちん。


ハスターは、立ち上がった。


執務室の扉を見つめる。


扉の下に、細い影が伸びていた。


誰かが、向こう側に立っている。


そんな影だった。


だが。


その影には、足がなかった。


床から伸びているのではない。


扉の隙間から、こちらへ流れ込んでいる。


ハスターは、触手を伸ばした。


黄色い紋様が床に広がる。


執務室全体を覆う封印。


外部からの侵入を防ぐためのものだ。


影は、止まった。


しかし、消えなかった。


扉の向こうで。


誰かが、静かに言った。


『……お待ちしております』


ハスターは、動かなかった。


声は続いた。


『長い間』


『ずっと』


『お待ちしております』


その声は、男とも女とも分からなかった。


若くも、老いてもいなかった。


ただ、ひどく丁寧だった。


ハスターは、扉を見つめた。


「……何を待っている」


沈黙。


そして。


『受付を』


ハスターは、息を止めた。


『まだ』


声は続いた。


『誰にも』


『受け付けていただいておりません』


扉の下の影が、わずかに揺れた。


ハスターは、朱筆を握った。


そして、低い声で言った。


「……ならば、申請内容を示せ」


沈黙。


しばらくして。


声が答えた。


『申請内容は』


一拍。


『受付後に開示されます』


ハスターは、目を閉じた。


「…………」


そして。


心の底から、呟いた。


「……順序が逆だ」


扉の向こうは、静かだった。


ハスターは、朱筆を握り直した。


「内容も分からん申請を、受け付けられるか」


返事はない。


「申請者も不明」


沈黙。


「責任者も不明」


さらに沈黙。


「受付番号も存在しない」


ハスターは、扉を見つめた。


「……そんなものを、どうやって受け付けろというんだ」


長い沈黙があった。


やがて。


声が、小さく答えた。


『……ですから』


ハスターは、動かなかった。


『ずっと』


声は、ひどく静かだった。


『待っているのです』


その瞬間。


扉の向こうで、何かが笑った。


いや。


笑ったように聞こえただけかもしれない。


音は、すぐに消えた。


影も、少しずつ薄くなっていった。


やがて、扉の下には何も残らなくなった。


ハスターは、しばらく動かなかった。


そして、ゆっくりと机へ戻った。


黒い紙を見る。


『待機人数:40』


変化なし。


受付成立、未了。


候補者選定については、停止を指示しているものの、実際に停止したことは確認できていない。


ただ一つ。


ハスターは、扉を見た。


あの声が、ここまで来た。


地上の事務所でもない。


深町由紀の自宅でもない。


カルコサの執務室まで。


ハスターは、調査記録を開いた。


新しい項目を追加する。


『管理局執務室付近に、未登録案件に関連すると思われる異常現象が発生』


『接触方法:音声および影』


『実体:未確認』


『未登録案件との関係:調査中』


『接触禁止命令との関係:調査中』


『受付成立:なし』


押印。


ハスターは、少し考えた。


そして、もう一行を書き加えた。


『未登録案件による接触を防止する手段について、従来の禁止命令だけでは十分でない可能性がある』


押印。


書類が消えた。


ハスターは、椅子に深く腰掛けた。


「……職務記述書もない仕事に、ここまで振り回されるとはな」


机の上には、先ほど作成した調査記録の控えが残っていた。


六つの欄。


六つとも、未確定のまま。


ハスターは、それを見つめた。


「……仕事内容も、責任者も、期限も不明」


しばらく沈黙。


そして。


「……そんな仕事を引き受けるほど、私は暇ではない」


そのとき。


机の上に、通常の申請書が現れた。


『管理局執務室内における異常事象発生報告書』


ハスターは、書類を見つめた。


「…………」


さらに、もう一枚。


『異常事象発生に伴う再発防止策の検討について』


ハスターは、ゆっくりと目を閉じた。


そして。


三枚目が現れた。


『再発防止策検討会議の開催申請』


ハスターは、静かに朱筆を置いた。


「……会議を増やすな」


その声は、ひどく疲れていた。


世界は、今日もまだ終わらない。


ただし。


黄衣の王の仕事は、今日もまた増えた。


そして。


存在しない受付番号000の向こう側では。


四十の待機枠が、まだ順番を待っていた。

なんで仕事って増えるんでしょうね?

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