第5話 苦情の受付は行っておりません
金曜日、午前十時二十一分。
深町由紀は、自分のアパートの向かいにある電柱の陰で、建物を見つめていた。
不審者だった。
自分でも、そう思う。
昨日の朝、自宅の引き出しから受付番号000の紙が現れた。
誰もいない場所から声が聞こえた。
その後、管理担当から、未登録物品への接触を避け、安全な場所へ退避するよう指示が届いた。
由紀はそれに従い、榊原へ連絡して、近くのビジネスホテルへ避難した。
宿泊費は職場で負担してもらえることになった。
『業務に関連して起きたことだからね』
榊原は、そう言ってくれた。
ありがたかった。
非常に、ありがたかった。
しかし。
「……着替えがない」
昨日は必要最低限の荷物だけを持って部屋を出た。
財布。
スマートフォン。
鍵。
鞄。
それだけだった。
着替えも、化粧品も、充電器の予備もない。
ホテルの備品でどうにかなるものもある。
だが、どうにもならないものもある。
何より、部屋に置いてきた仕事用の資料が気になっていた。
「……いや、駄目だ」
由紀は首を振った。
管理担当からの指示は、まだ解除されていない。
部屋へ戻ってはいけない。
危険が確認されていない以上、勝手に入るべきではない。
そう判断した。
判断したのだが。
「……洗濯物も干しっぱなしなんだよなあ」
人間の生活というものは、世界の危機に対して驚くほど無関心だった。
由紀はスマートフォンを取り出した。
画面には、昨日から変わらない通知が残っている。
『受付状況:待機中』
『待機人数:40』
四十。
昨日の朝、表示は四十三まで増えた。
その後、三つの待機枠が消えた。
理由として表示されたのは、受付担当者への接触完了。
ただし、その数字が本当に四十人の人間を表しているのかどうかさえ、分かっていない。
由紀自身は、誰の受付もしていない。
あの三つの待機枠は、いったい何だったのだろう。
考えても答えは出なかった。
分からないことを、勝手に決めつけない。
それは、ここ数日で身についた数少ない教訓だった。
スマートフォンが震えた。
榊原からだった。
『深町さん、今どこにいる?』
由紀は、少し迷った。
そして、正直に返信した。
『自宅の前です。中には入っていません』
すぐに返事が来た。
『入らないでね』
『はい』
『できれば、建物からも離れておいて』
『分かりました』
由紀は電柱の陰から出た。
そして、アパートに背を向けた。
そのときだった。
背後で、小さな音がした。
ちん。
由紀は足を止めた。
振り向かない。
昨日も聞いた音だった。
卓上ベル。
受付開始を告げるような、澄んだ音。
もう一度。
ちん。
由紀は歩き出した。
早足になる。
角を曲がったところで、ようやく息を吐いた。
「……もう、勘弁してよ」
スマートフォンが震えた。
『受付担当者へお知らせ』
由紀は、恐る恐る画面を開いた。
『待機者より苦情が寄せられています』
「……また?」
続けて。
『受付場所が変更されたため、待機者が混乱しています』
由紀は、思わず立ち止まった。
「……変更?」
受付場所は、昨日から未定のままだったはずだ。
画面を確認する。
『受付場所:担当者所在地』
「…………」
嫌な予感がした。
非常に、嫌な予感だった。
そして、その予感は当たった。
『現在地を受付場所として登録しますか?』
画面の下には、二つの選択肢。
『はい』
『いいえ』
由紀は、どちらも押さなかった。
選択肢を押すこと自体が、何らかの手続きとして扱われるかもしれない。
昨日、管理担当からは、問い合わせや拒否を承諾として扱ってはならないという回答が届いていた。
だが、だからといって、この正体不明の画面を信用していい理由にはならない。
それに、昨日の管理担当からの指示では、待機者による直接接触は禁止されていたはずだ。
それなのに、こうして通知が届いている。
禁止命令が解除されたという連絡は、受けていない。
由紀は画面を撮影した。
そして、榊原へ電話をかけた。
*
カルコサの執務室。
金曜日、午前十時二十四分。
ハスターは、黒い紙を前にしていた。
『受付場所:担当者所在地』
「……誰が許可した」
黒い紙は答えない。
代わりに、別の通知が現れた。
『待機者より苦情』
『受付場所が頻繁に変更されるため、待機に支障が生じています』
ハスターは、その文章を読み終えた。
「……知らん」
朱筆を取る。
『当該案件の受付場所は未確定であり、変更申請も承認されていない』
押印。
続けて。
『担当者所在地を受付場所として扱ってはならない』
押印。
黒い紙が震えた。
『承知しました』
ハスターは、目を細めた。
昨日から、この返答を何度も見ている。
承知しました。
その言葉が、何の保証にもならないことも。
新しい一文が現れた。
『受付場所の指定を解除しました』
「……よし」
さらに一文。
『なお、待機者の所在地については制限されていません』
ハスターは朱筆を置いた。
「…………」
まただ。
受付場所と待機場所。
業務命令と問い合わせ。
代理受付と代理呼び出し。
この黒い紙は、一つの行為を禁止されるたびに、別の名称を持ち出してくる。
しかも、言葉の上では命令に従っている。
「……実に腹立たしい」
ハスターは調査記録を開いた。
『未登録案件』
発行元不明。
受付経路不明。
担当者指定の根拠不明。
待機人数四十。
受付成立、未了。
そして、昨日の接触記録。
ハスターは、そこに目を止めた。
昨日の朝、彼は深町由紀への直接接触を禁止した。
対面。
音声。
文書。
夢。
記憶。
いずれの手段も認めないと、明記した。
それにもかかわらず、禁止命令の後に、由紀は声を聞いている。
『まだですか』
『ずっと待っているんです』
しかも、受付番号000の代理呼び出しまで記録された。
今朝も、由紀の端末には未登録案件から通知が届いている。
少なくとも、禁止命令が徹底されているとは言い難かった。
ただし、通知や音声の発生元が未確認である以上、誰がどの命令に違反したのかまでは断定できない。
ハスターは、昨日の報告を読み直した。
「……命令が守られていない可能性がある」
これまでにも、黒い紙は手続きの解釈をすり替えてきた。
しかし、今回はそれだけではない。
禁止したはずの接触に該当し得る事象が、現実に報告されている。
『接触禁止命令後の音声事象および通知の発生を確認』
『当該事象に対する管理局の許可記録なし』
『発生経路および接触主体は未確認』
ハスターは、調査記録に追記した。
押印。
さらに、黒い紙へ向けて命じる。
『深町由紀への直接接触禁止は継続する』
『待機者の所在地に関する記載を、接触許可と解釈してはならない』
押印。
黒い紙が震えた。
『承知しました』
ハスターは、すぐには安心しなかった。
「……承知したなら、守れ」
返事はなかった。
ハスターは、机の上の古い本を見た。
昨日見つけた、題名のない記録。
そこには、受付担当者が決まるまで案件が保留されることや、業務遂行を承諾とみなす場合があることなど、規則らしき文章が記されていた。
だが、その記載が本当に有効な規則なのかは分からない。
出典も、作成者も、効力も確認できていない。
ハスターは、現行の管理規程を開いた。
そこには、当然のことが書かれている。
『受付担当者は、当該業務の内容と責任範囲を確認したうえで任命される』
「……当たり前だ」
黒い紙へ目を戻す。
『受付担当者:深町由紀』
任命の記録はない。
承諾の記録もない。
それなのに、名前だけが決まっている。
ハスターは朱筆を握り直した。
『担当者指定の根拠を開示せよ』
黒い紙が震えた。
『照会を受け付けました』
続けて。
『開示には受付担当者の確認が必要です』
ハスターは、目を閉じた。
「……その受付担当者が、誰に決められたのかを聞いている」
返事はなかった。
しばらくして、一文が現れた。
『ご意見として承りました』
ハスターは机を叩いた。
執務室の壁が、低く軋んだ。
遠くで何かが悲鳴を上げた。
しかし、黒い紙は消えなかった。
「……苦情窓口はどこだ」
黒い紙が震えた。
『苦情の受付は行っておりません』
ハスターは、しばらく動かなかった。
そして、低い声で呟いた。
「……私もだ」
*
午前十時三十二分。
黄昏の聖餐会の事務所では、榊原が電話を握っていた。
「……分かった。深町さん、今は職場に来なくていいから」
『でも、今日も午後から勤務が……』
「今日は休んで」
『……いいんですか?』
「もちろん。今は安全を優先しよう」
電話の向こうで、由紀が小さく息を吐いた。
『ありがとうございます』
「それと、ホテルの延泊もこちらで手配するよ」
『すみません……』
「謝らなくていいよ」
榊原は、机の上の資料を見た。
第三会議室の使用停止。
不明物品の出現。
未登録案件。
受付番号000。
そして、深町由紀への業務命令。
どれも、昨日までの常識では説明できない。
しかし、説明できないからといって、何もしなくていいわけではない。
榊原は電話を切った。
そして、事務所の奥にある小さな会議室へ向かった。
第三会議室ではない。
普段、職員の面談に使う部屋だった。
中には、二人の職員が待っていた。
一人は、火曜日に設置が決まった安全管理委員会の委員に選ばれた女性。
もう一人は、備品管理を担当する男性だった。
安全管理委員会の初回会合は、まだ開かれていない。
今日は、その会合でもない。
深町由紀の安全確保について、必要な職員にだけ相談するための短い打ち合わせだった。
榊原は二人に向かって頭を下げた。
「急に集まってもらって、すみません」
女性が首を振った。
「大丈夫です。それで、深町さんは?」
「今日は休んでもらいました」
男性が、ほっとしたように頷いた。
「それがいいと思います」
榊原は、机の上に資料を置いた。
「今朝、新しい通知が出ました」
二人が資料を覗き込む。
『受付場所:担当者所在地』
女性の表情が変わった。
「……これ、深町さんの家ってことですか?」
「そういう意味にも読めます」
「でも、第三会議室は使用停止ですよね」
「はい」
「それなのに、今度は自宅を受付場所に?」
榊原は、ゆっくりと頷いた。
「そう表示されました。深町さんは登録を承諾していません」
男性が腕を組んだ。
「……勝手すぎませんか」
「私も、そう思います」
榊原は苦笑した。
だが、すぐに表情を戻した。
「そこで、今日は皆さんに相談があります」
女性が顔を上げる。
「何でしょう」
榊原は資料の最後のページを開いた。
そこには、一つの提案が書かれていた。
『未登録案件に関する連絡体制の変更』
女性が、目を細めた。
「……連絡体制?」
「はい」
男性が、嫌な予感がしたように言った。
「……それ、また委員会を増やす話ですか?」
榊原は、慌てて首を振った。
「いえ、違います」
「本当に?」
「本当です」
榊原は、少しだけ声を強めた。
「これ以上、会議を増やすつもりはありません」
二人が、ほっとしたように息を吐いた。
「ただ」
榊原は続けた。
「深町さん一人に、問い合わせや通知が集中する状況は避けたいんです」
女性が頷いた。
「それは、そうですね」
「管理側への連絡は、今後できるだけ私が行います。記録の整理も、こちらで引き受けます」
男性が資料を見つめた。
「つまり、深町さんを担当から外す?」
榊原は、そこで首を振った。
「正確には、違います」
「違うんですか?」
「深町さんは、最初からあの案件の担当者ではありません。私たちが任命した事実はないんです」
榊原は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「だから、担当者を変更するのではなく、本人への連絡を止めてもらうよう申し入れます」
女性が、静かに頷いた。
「……なるほど」
「そして、私が引き受けるのは、団体としての連絡窓口だけです」
榊原は、資料を指で押さえた。
「正体の分からない受付業務を、代わりに引き受けるつもりはありません」
男性が、大きく頷いた。
「それなら、賛成です」
女性も続いた。
「深町さんを守るための連絡体制、ということですね」
「はい」
榊原は、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
そして、資料を閉じた。
「では、管理側へ正式に連絡しましょう」
*
午前十時四十七分。
カルコサの執務室。
ハスターの机に、青い書類が現れた。
『黄昏の聖餐会より事前照会』
ハスターは、黒い紙から視線を外した。
通常の申請だった。
それだけで、少し気が楽になった。
書類を開く。
『未登録案件への対応について』
「……またそれか」
気は楽にならなかった。
しかし、内容を読み進めるうちに、ハスターの手が止まった。
『当団体は、深町由紀を未登録案件の受付担当者として任命していない』
『本人からも、当該業務を引き受けた事実は確認されていない』
『本人への直接の業務指示および問い合わせを停止するよう求める』
『今後、当団体からの連絡については、管理責任者である榊原が窓口を務める』
そして、最後に一文。
『なお、上記の連絡窓口変更は、未登録案件の受付担当者変更を意味しない』
ハスターは、その一文をもう一度読んだ。
「……ほう」
まともだった。
非常に、まともだった。
しかも、肝心な部分が明記されている。
連絡窓口と受付担当者は別。
それを、わざわざ書いてある。
ハスターは朱筆を取った。
『方針を支持する』
押印。
続けて。
『深町由紀への直接指示を停止し、団体側からの連絡窓口を榊原とすることを認める』
押印。
さらに。
『この承認は、未登録案件の受付担当者の変更を意味しない』
ハスターは、念を押すように二重線を引いた。
そして、もう一文。
『ただし、未登録案件の発行元は不明であり、当該案件そのものが停止する保証はない』
最後に。
『本人の安全を最優先とすること』
押印。
書類が消えた。
ハスターは椅子に深く腰掛けた。
「……ようやく、話の分かる連中が出てきた」
そのとき。
背後から、声がした。
「おや。珍しいことを言うね」
ハスターは、振り向かなかった。
「……ニャル」
黒いスーツの男が、執務室の入口に立っていた。
ニャルラトホテプ。
月曜日の旧市民会館で、予約重複を仕組んだと認めた男。
少なくとも、あの騒動については関与が確認されている。
しかし、今の未登録案件については違う。
黒い紙の発行元は、まだ分からない。
「今日は何の用だ」
ハスターは、低い声で尋ねた。
ニャルラトホテプは、にこやかに答えた。
「少し様子を見に来ただけさ」
「帰れ」
「つれないなあ」
「帰れ」
「二回言ったね」
「三回目が必要か」
ニャルラトホテプは、楽しそうに笑った。
そして、机の上の黒い紙を見た。
「……へえ」
ハスターは、その視線を見逃さなかった。
「知っているのか」
「何を?」
「とぼけるな」
ニャルラトホテプは肩をすくめた。
「黒い紙?」
ハスターは黙っていた。
ニャルラトホテプは、机へ近づいた。
黒い紙を覗き込む。
『未登録案件』
『受付担当者:深町由紀』
『待機人数:40』
彼は、しばらく文字を眺めた。
そして、ぽつりと言った。
「……まだ四十も残っているんだ」
ハスターの触手が止まった。
「……残っている?」
ニャルラトホテプは顔を上げた。
「ん?」
「今、残っていると言ったな」
「言ったかな」
「言った」
「そうだったかもしれない」
ハスターは机を叩いた。
「……何を知っている」
ニャルラトホテプは、笑みを浮かべたまま答えなかった。
しばらくして、黒い紙へ目を戻した。
「ねえ、ハスター」
「何だ」
「君は、受付って何だと思う?」
ハスターは、眉間に相当する部分を押さえた。
「……質問の意味が分からん」
「難しい話じゃないよ」
ニャルラトホテプは、机の端に腰掛けた。
「誰かが来る。何かを頼む。誰かがそれを受け付ける」
「……それがどうした」
「受け付けてもらえなかったものは、どうなるんだろうね」
ハスターは黙った。
ニャルラトホテプは続けた。
「却下された願い。届かなかった祈り。書類の不備で戻された申請」
「…………」
「そういうものは、どこへ行くんだろう」
ハスターは、黒い紙を見つめた。
未登録案件。
受付番号000。
待機人数四十。
そして、古い本に並んでいた無数の未登録案件。
何かが、頭の中で繋がりかけた。
しかし。
「……それを、お前が説明するつもりか」
ハスターは、ニャルラトホテプを見た。
ニャルラトホテプは笑った。
「さあ?」
「……知っているなら言え」
「知らないことまで、知っているとは言えないよ」
「では、何を知っている」
ニャルラトホテプは、少しだけ首を傾げた。
「……君の仕事が、また増えそうだってことかな」
ハスターは立ち上がった。
執務室の空気が、重く沈む。
ニャルラトホテプは、楽しそうに両手を上げた。
「おっと。怒らないでよ」
「……出ていけ」
「はいはい」
彼は扉へ向かった。
そして、出ていく直前。
ふと、振り返った。
「そうだ、ハスター」
「……まだ何かあるのか」
「一つだけ、忠告しておくよ」
ニャルラトホテプは、笑っていなかった。
「受付を閉じることと、待っているものを消すことは、同じじゃない」
ハスターは何も答えなかった。
ニャルラトホテプは、再び笑みを浮かべた。
「じゃあね」
扉が閉まった。
静寂。
ハスターは、しばらくその扉を見つめていた。
そして、黒い紙へ目を戻した。
『待機人数:40』
「…………」
彼は、低く呟いた。
「……だから何だというんだ」
返事はなかった。
*
午後零時十三分。
由紀は、ビジネスホテルの部屋で昼食を食べていた。
コンビニで買ったおにぎり。
サラダ。
温かいお茶。
昨日から、まともに食事を取れていなかった。
今日は、少しだけ食欲が戻っていた。
スマートフォンが震えた。
榊原からだった。
『管理側から正式な回答が届きました』
由紀は、すぐに画面を開いた。
『深町さんへの直接指示を停止する方針が承認されました』
由紀は、思わず声を上げた。
「……本当に?」
続けて。
『今後、団体からの連絡は原則として私が担当します』
由紀はスマートフォンを握りしめた。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
昨日から、ずっと自分の名前が表示されていた。
受付担当者。
深町由紀。
誰が決めたのかも分からない役割。
引き受けた覚えのない仕事。
それが、ようやく終わるかもしれない。
由紀は返信を打った。
『ありがとうございます。本当に助かります』
送信。
そして、おにぎりを一口食べた。
「……おいしい」
久しぶりに、ちゃんと味がした。
しかし。
そのとき。
スマートフォンが、もう一度震えた。
職場の連絡システムではない。
見覚えのない通知だった。
『受付担当者変更申請のお知らせ』
由紀は手を止めた。
「……え?」
画面を開く。
白い背景。
黒い文字。
『受付担当者の変更申請を受け付けました』
『変更前:深町由紀』
由紀は息を止めた。
その下に。
『変更後候補:榊原』
「…………」
由紀は画面を見つめた。
榊原。
自分を守ろうとしてくれた上司。
今朝、団体の連絡窓口を引き受けてくれた人。
その名前が。
受付担当者の変更先として表示されていた。
「……違う」
由紀は呟いた。
「それは、違う」
榊原が引き受けたのは、団体から管理側への連絡だ。
あの正体不明の受付業務ではない。
しかも、管理担当は直接の業務指示を停止する方針を承認したばかりだ。
それなのに、また通知が届いている。
由紀は、画面を撮影した。
画面の下には、さらに文字が並んでいた。
『変更申請:受理済み』
『変更承認:未了』
『本人承諾:未確認』
由紀は、少しだけ息を吐いた。
少なくとも、変更が成立したとは表示されていない。
だが。
『承諾確認を開始します』
その一行を見た瞬間、由紀の手が冷たくなった。
榊原へ電話をかける。
繋がらない。
もう一度。
繋がらない。
三度目。
呼び出し音が、途中で止まった。
そして。
スマートフォンの画面に、新しい文字が現れた。
『新しい候補者へ、確認を開始しました』
由紀は立ち上がった。
「……榊原さん!」
*
カルコサの執務室。
午後零時十五分。
ハスターの机に、黒い紙が現れた。
『受付担当者変更申請』
ハスターは書類を開いた。
『変更前:深町由紀』
『変更後候補:榊原』
ハスターは、文字を見つめた。
「……何?」
変更申請。
そんなものは承認していない。
黄昏の聖餐会から届いたのは、連絡窓口の変更に関する照会だった。
しかも、受付担当者の変更ではないと明記されていた。
ハスターは朱筆を取った。
『当該照会は、受付担当者の変更申請ではない』
押印。
続けて。
『榊原を受付担当者として指定する根拠はない』
押印。
黒い紙が震えた。
『承知しました』
続けて。
『変更申請は受理済みです』
ハスターは、目を閉じた。
「……またか」
申請の受理と、変更の承認。
別のものとして扱っている。
そもそも、誰が申請したのかも分からない。
団体からの正式な照会が、別の手続きへ転用された可能性はある。
だが、現時点では、それさえ確認できていなかった。
ハスターは、さらに書き込んだ。
『本人の承諾がない限り、担当者変更は成立しない』
押印。
文字は残った。
黒い紙が震えた。
『承知しました』
そして。
『現在、本人の承諾を確認しています』
ハスターは、ゆっくりと顔を上げた。
「……確認?」
嫌な予感がした。
台帳を開く。
『変更申請:受理済み』
『変更承認:未了』
『承諾確認:進行中』
その下に。
『確認方法:直接照会』
ハスターは朱筆を握りしめた。
「……やめろ」
押印。
『未登録案件から榊原への直接照会を禁止する』
文字は残った。
しかし、黒い紙は消えなかった。
表面に、新たな一行が現れる。
『照会は、すでに開始されています』
ハスターは立ち上がった。
「……ふざけるな」
その声は、執務室の壁を震わせた。
机の上の書類が、一斉に浮き上がる。
遠くで、何かが割れる音がした。
しかし。
黒い紙には、さらに文字が現れた。
『承諾確認中』
『回答待ち』
ハスターは、その文字を見つめた。
そして、低く呟いた。
「……榊原」
地上の、あの穏やかな男。
深町由紀を守ろうとしていた人間。
その男の名前まで、今度は受付担当者候補として表示されている。
正式な任命はない。
承諾もない。
それでも、何者かが手続きを進めようとしている。
ハスターは朱筆を取った。
『緊急警告』
書き込む。
『榊原に対し、未登録案件の受付業務を引き受けないよう警告する』
『業務内容が不明な確認には応じないこと』
『問い合わせ、拒否、異議申し立ては承諾に該当しない』
押印。
書類が消えた。
ハスターは、深く息を吐いた。
しかし、机の上の黒い紙は、まだ残っていた。
『承諾確認中』
その文字を見つめながら、ハスターは呟いた。
「……今度は、間に合え」
*
午後零時十七分。
黄昏の聖餐会の事務所。
榊原は、机の前に座っていた。
目の前には、一枚の白い紙がある。
いつの間にか、そこに置かれていた。
『受付担当者変更に関する確認書』
榊原は紙を見つめた。
変更前。
深町由紀。
変更後候補。
榊原。
そして、最後に。
『上記業務を引き受けますか』
その下には、二つの選択肢があった。
『はい』
『いいえ』
榊原は、しばらく考えた。
そして、静かに呟いた。
「……これは、困ったなあ」
紙は何も答えなかった。
榊原はペンを取った。
その瞬間。
机の上の電話が鳴った。
榊原は受話器を取った。
『榊原さん!』
由紀の声だった。
「深町さん?」
『その書類、何も書かないでください!』
榊原は手を止めた。
「……どうして?」
『受付担当者が、榊原さんに変更されようとしてるんです!』
榊原は、目の前の紙を見た。
『変更後候補:榊原』
「……なるほど」
彼は静かに頷いた。
「そういうことか」
『榊原さん?』
「大丈夫。まだ何も書いていないよ」
『……よかった』
由紀の声が、少しだけ震えていた。
榊原は紙を見つめた。
そして、ゆっくりとペンを置いた。
「深町さん」
『はい』
「一つ、確認してもいいかな」
『……何でしょう』
榊原は、穏やかな声で尋ねた。
「私たちが、これまでずっとやってきたことなんだけどね」
『……はい』
「分からない仕事は、引き受けなくていいんだよね?」
由紀は、すぐに答えた。
『……はい』
榊原は少し笑った。
「そうだね」
そのとき。
机の上に、別の紙が現れた。
白ではない。
淡い青色の、見慣れた様式だった。
『管理担当からの緊急警告』
榊原は、その内容を読んだ。
そして、静かに息を吐いた。
「……なるほど。管理側も、同じ判断みたいだ」
『えっ?』
「引き受けないように、って」
榊原は、目の前の白い確認書へ視線を戻した。
その二つの選択肢には触れなかった。
代わりに、手元のメモ用紙を一枚取り出した。
そして、そこに書いた。
『当団体の連絡窓口を務めることと、未登録案件の受付業務を引き受けることは別である』
『当団体は、榊原を当該受付業務の担当者として任命していない』
『本人も、当該業務を引き受けない』
榊原は、その文章を確認した。
「……これでいいかな」
『はい。それがいいと思います』
由紀の声が、少しだけ落ち着いた。
榊原は、正式な連絡用紙に同じ内容を記した。
そして、管理側への通常の連絡経路で送った。
白い確認書には、一切触れなかった。
しばらくして。
白い紙が、わずかに震えた。
『回答を確認しました』
榊原は、息を止めた。
続けて。
『回答内容:辞退』
そして。
『担当者変更は成立しませんでした』
榊原は、ゆっくりと息を吐いた。
「……よかった」
電話の向こうで、由紀が泣きそうな声を出した。
『……本当に、よかったです』
榊原は少し笑った。
「うん」
しかし。
紙には、最後の一行が残っていた。
『次の候補者を選定します』
榊原は、その文字を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……まだ、終わらないんだね」
*
カルコサの執務室。
午後零時十九分。
ハスターの机に、通知が届いた。
『担当者変更申請:不成立』
『理由:本人辞退』
ハスターは、その文字を見つめた。
そして、深く息を吐いた。
「……間に合ったか」
少なくとも、今回は。
榊原を担当者として変更する手続きは、不成立と表示された。
もっとも、正式な変更申請が存在したのかどうかさえ、まだ不明だ。
その表示が、何者かによる一方的な処理結果である可能性も残っている。
しかし。
黒い紙には、新たな一行が現れていた。
『次の候補者を選定します』
ハスターは朱筆を取った。
『候補者の選定を停止せよ』
押印。
文字は残った。
黒い紙が震えた。
『承知しました』
そして。
『なお、候補者の選定は、すでに開始されています』
ハスターは机を見つめた。
「…………」
しばらくして。
低い声で呟いた。
「……お前は、どこまで仕事を増やすつもりだ」
返事はなかった。
ただ。
机の上に、新しい書類が現れた。
『受付担当者候補一覧』
ハスターは、ゆっくりと手を伸ばした。
書類を開く。
そこには、名前が並んでいた。
黄昏の聖餐会の構成員。
旧市民会館の管理者。
月曜日の儀式に関わった者たち。
その誰にも、受付業務を引き受けた記録はない。
ハスターは、一人ずつ確認した。
そして。
最後の一行で、手が止まった。
「…………」
そこには、こう記されていた。
『候補者:ハスター』
しばらくの沈黙。
やがて、黄衣の王は静かに言った。
「……断る」
黒い紙が震えた。
『辞退理由を入力してください』
ハスターは天井を見上げた。
「…………」
そして、心の底から叫んだ。
「私の仕事を、これ以上増やすなァァァ!」
カルコサの空が、大きく揺れた。
世界は、今日もまだ終わらない。
ただし。
黄衣の王の定時退勤は、今日もまた遠ざかった。
仕事は無限に増えるものですので




