第4話 受付番号は存在しない
少し修正
木曜日、午前八時五十二分。
深町由紀は、スマートフォンのアラームを止めた。
勤務開始は午後三時。
本来なら、まだ眠っていても構わない時間だった。
それでも昨夜、由紀は午前八時五十分にアラームを設定した。
理由は一つ。
『次回受付:木曜日 午前九時』
昨日、職場のパソコンに勝手に表示された通知だ。
あれが本当に実行されるのか、確かめておきたかった。
もっとも、確かめるために何をすればいいのかは分からない。
第三会議室は使用停止中。
榊原からも、近づかないよう言われている。
由紀自身、行くつもりはなかった。
目覚ましが鳴るより少し前に一度目が覚め、麦茶を用意したものの、ほとんど口をつけないまま机に置いていた。
机の上には、ノートとペン。
スマートフォン。
それから、冷めかけた麦茶。
由紀はノートを開いた。
昨夜、眠る前に書いたものだった。
『不明な業務命令への対応』
一、依頼者を確認する。
二、業務内容を確認する。
三、責任者を確認する。
四、確認できるまで引き受けない。
五、記録を残す。
前職で、もっと早く身につけておけばよかったと思うことばかりだった。
由紀は、五番目の項目に丸をつけた。
「……よし」
時計を見る。
午前八時五十六分。
あと四分。
何も起きなければ、それでいい。
できれば、何も起きないでほしい。
由紀はスマートフォンを伏せた。
そして、三秒後に表へ戻した。
「……気になるものは、気になるんだよなあ」
画面には、何の通知もなかった。
ただし、机の引き出しは、今朝も三センチだけ開いていた。
鍵はかかったままだ。
昨日の朝から、隙間の幅は変わっていない。
引き出しの中には、旧市民会館の使用許可証の控えがある。
月曜日の夜、覚えのない自分の名前が印字されていた書類。
火曜日の夜には、裏面に新しい一行まで増えていた。
『次回の会議も、楽しみにしております』
その書類を引き出しにしまい、鍵をかけた。
それ以来、引き出しは閉まりきらない。
由紀は、そちらを見ないことにした。
*
同じころ。
カルコサの執務室では、ハスターが一枚の黒い紙を睨んでいた。
『次回受付:木曜日 午前九時』
『受付場所:未定』
『受付担当者:深町由紀』
昨日から、表示は変わっていない。
ハスターは、すでに地上側への不当な業務指示を禁止していた。
深町由紀にも、正式な指示が確認できない限り対応しないよう回答している。
第三会議室も使用停止中だ。
それでも、この紙だけは残っていた。
「……午前九時か」
ハスターは時計を見た。
地上時間で、午前八時五十七分。
あと三分。
彼は黒い紙の横に、別の書類を置いた。
『未登録案件に関する調査記録』
昨日作成したものだ。
発行元不明。
受付経路不明。
担当者指定の根拠不明。
受付成立の記録なし。
そして、現時点で確認できるのは、あくまで担当者として名前が表示されているという事実だけだった。
正式な任命が行われた記録はない。
本人が承諾した記録もない。
「……何を受け付けるつもりだ」
問いかけても、紙は答えなかった。
ハスターは通常の申請書へ目を向けた。
『召喚儀式における花粉症対策について』
「…………」
春先の儀式に参加する信者が、くしゃみで詠唱を中断してしまうらしい。
ハスターは朱筆を取った。
『健康状態に配慮し、無理のない実施計画を立てること』
押印。
次。
『花粉症対策として儀式会場を海底へ変更したい』
「……やめろ」
『安全性を確認できないため、変更を認めない』
押印。
次。
『海底が不可の場合、月面は使用可能か』
ハスターは書類を伏せた。
「……なぜ地上で対策しない」
返事はない。
彼は黒い紙へ視線を戻した。
残り一分。
今度ばかりは、目を離すわけにはいかなかった。
*
午前九時。
由紀のスマートフォンが震えた。
『受付時間になりました』
由紀は息を止めた。
続いて、もう一件。
『担当者の到着を待機しています』
「……でしょうね」
行っていないのだから、当然だ。
しかし、通知はそこで終わらなかった。
『待機票を発行します』
画面が白くなる。
中央に、大きな数字が現れた。
『000』
由紀は、眉をひそめた。
「……ゼロ?」
その下には、さらに文字が並んでいた。
『受付番号:000』
『受付対象:未登録』
『受付状況:待機中』
由紀はノートに書き込んだ。
『9:00 受付番号000が表示』
画面が変わる。
『待機人数:1』
由紀の手が止まった。
「……人数?」
誰かが待っている。
少なくとも、この画面はそう主張している。
何を待っているのか。
どこで待っているのか。
本当に誰かが存在しているのか。
何一つ分からない。
『待機人数:2』
数字が増えた。
『待機人数:3』
さらに増えた。
由紀は、思わずスマートフォンを机に置いた。
「……ちょっと待って」
誰も受付していない。
場所も決まっていない。
それなのに、待機人数だけが増えている。
『待機人数:4』
『待機人数:5』
由紀は、震える指で画面を撮影した。
そのとき。
スマートフォンから、小さな音がした。
ちん。
昨日、榊原が話していた卓上ベル。
その音に、よく似ていた。
もう一度。
ちん。
画面に、新たな一行が現れる。
『順番をお守りください』
由紀は、誰もいない部屋を見回した。
順番。
誰の。
何の。
そして。
誰に向かって言っているのだろう。
*
午前九時二分。
カルコサの執務室。
黒い紙に、数字が表示されていた。
『待機人数:17』
ハスターは、その数字を見つめた。
「……十七?」
一分前には、三人だった。
その前は、一人。
受付場所は未定。
担当者は不在。
それなのに、待機人数だけが増えている。
ハスターは管理台帳を開いた。
申請者名。
なし。
申請内容。
なし。
受付日時。
未確定。
受付番号。
『000』
「…………」
通常、受付番号は案件が登録された時点で付与される。
未登録案件に番号が発行されることはない。
まして、ゼロ番など存在しない。
ハスターは朱筆を取った。
『受付番号の発行根拠を照会する』
文字は残った。
黒い紙が震える。
『照会を受け付けました』
続けて。
『受付番号をお知らせください』
ハスターは、黙った。
紙の中央には、すでに番号が表示されている。
『000』
彼は、その数字を書き込んだ。
『該当する受付番号は存在しません』
「…………」
ハスターは、ゆっくりと朱筆を置いた。
「……では、何を表示している」
返事はなかった。
代わりに、待機人数が増えた。
『待機人数:28』
*
午前九時五分。
由紀は、榊原へ電話をかけていた。
『深町さん?』
「おはようございます。すみません、また例の通知が来ました」
『……今日も?』
「はい。受付番号が出て、待機人数が増えてるんです」
電話の向こうで、何かを置く音がした。
『今、何人になってる?』
由紀は画面を確認した。
『待機人数:41』
「……四十一と表示されています」
『四十一?』
「はい。待機人数って書いてあります。でも、誰が待っているのかは分からなくて」
榊原は少し黙った。
『第三会議室には、誰もいないよ』
「確認されたんですか?」
『入口の前まで行ってみたけど、扉は閉まっているし、物音もしない』
由紀は、胸を撫で下ろしかけた。
しかし、榊原は続けた。
『ただね』
「……はい」
『廊下に、番号札が落ちていたんだ』
由紀は息を止めた。
「番号札?」
『白い紙でね。受付番号が印字されていた』
「……何番ですか」
短い沈黙。
『ゼロ番』
由紀は目を閉じた。
「……同じです」
榊原が、低い声で言った。
『深町さん。今日も、何もしなくていい。こちらから正式な指示が出るまで、近づかないで』
「……分かりました」
『記録だけ残しておいてくれる?』
「はい」
電話が切れた。
由紀はノートに書き込んだ。
『9:05 榊原さんより連絡。第三会議室付近に受付番号000の番号札を確認』
そのとき。
スマートフォンの画面が変わった。
『待機人数:42』
続けて。
『受付担当者へお知らせ』
『待機者から苦情が寄せられています』
「……苦情?」
画面に文章が現れた。
『いつまで待たせるつもりですか』
由紀は、思わず声を漏らした。
「……知らないよ」
次の文章。
『受付時間を守ってください』
さらに。
『こちらにも予定があります』
どれも、どこかで見たことのある言葉だった。
前職の問い合わせメール。
受付窓口への苦情。
納期が遅れたときの催促。
文章だけなら、何もおかしくない。
しかし。
送り主が分からない。
待っている場所も分からない。
そもそも、何を受け付けてほしいのかすら分からない。
由紀はノートを見た。
一番上に書いた項目。
『依頼者を確認する』
彼女は、もう一度スマートフォンを操作した。
『お問い合わせ』
入力欄が開く。
由紀は文章を打った。
『受付対象と待機者の情報が確認できません。安全確認が完了するまで、受付業務は開始できません』
送信。
しばらくして、返事が届いた。
『お問い合わせを受け付けました』
『回答予定:未定』
由紀は、天井を見上げた。
「……またそれか」
*
午前九時八分。
カルコサの執務室。
ハスターの机に、問い合わせが届いた。
『受付担当者より問い合わせ』
彼は内容を確認した。
『受付対象と待機者の情報が確認できません。安全確認が完了するまで、受付業務は開始できません』
「……そのとおりだ」
ハスターは即座に回答を書き込んだ。
『受付業務を開始してはならない』
『待機者の身元および受付対象が確認できるまで、現地への接近を禁止する』
押印。
回答書が消える。
その直後。
黒い紙が震えた。
『待機者より再照会』
ハスターは書類を開いた。
『受付担当者が不在の場合、代理人による対応は可能ですか』
「……不可」
押印。
次。
『受付担当者が不在の場合、受付窓口を変更できますか』
「……不可」
押印。
次。
『受付担当者が不在の場合、待機者が直接担当者のもとへ移動してもよいですか』
ハスターの手が止まった。
待機者が、直接担当者のもとへ移動する。
つまり。
相手が深町由紀の居場所を把握している可能性がある。
あるいは、把握する手段を探っている。
どちらにせよ、許可できる話ではなかった。
ハスターは書類を机に置いた。
「……それは認めん」
朱筆を取る。
『待機者による担当者への直接接触を禁止する』
押印。
しかし、書類は消えなかった。
表面に、新たな一文が現れた。
『直接接触とは、どの範囲を指しますか』
「……どの範囲?」
続けて文字が現れる。
『対面』
『音声』
『文書』
『夢』
『記憶』
『その他』
ハスターは動きを止めた。
夢。
記憶。
その二つが、何気なく並んでいる。
人間の業務連絡に使う項目ではない。
ハスターは朱筆を握り直した。
『すべて禁止』
さらに、対象を明記する。
『待機者および未登録案件に関係する者による、深町由紀への直接接触を、対面、音声、文書、夢、記憶その他すべての方法において禁止する』
押印。
黒い紙が震えた。
『承知しました』
そして。
『禁止以前に実施された接触については、対象外となります』
ハスターは書類を見つめた。
「……以前?」
禁止以前に、何かが行われたというのか。
それとも、そう思わせるための文言なのか。
この紙が主張しているだけでは、判断できない。
「……実施記録を出せ」
しかし、黒い紙は答えなかった。
*
午前九時十分。
由紀のスマートフォンに、管理担当からの回答が届いた。
『受付業務を開始してはならない』
『待機者の身元および受付対象が確認できるまで、現地への接近を禁止する』
由紀は、ほっと息を吐いた。
「……よかった」
今回も、管理担当はまともな判断をしてくれた。
少なくとも、自分を無理に現場へ行かせようとはしていない。
由紀はノートへ記録した。
『9:10 管理担当より受付業務禁止の指示』
そのとき。
スマートフォンが震えた。
『待機人数:43』
由紀は画面を見つめた。
増えている。
業務は禁止されたはずなのに。
しかし、次の瞬間。
数字が減った。
『待機人数:42』
由紀は息を止めた。
さらに減る。
『待機人数:41』
『待機人数:40』
「……帰ってる?」
誰かが、待機をやめたのだろうか。
由紀は少しだけ安心しかけた。
だが。
画面に、新しい通知が現れた。
『待機者の一部が、順番待ちを終了しました』
続けて。
『理由:受付担当者への接触を完了したため』
由紀の背筋が凍った。
「……え?」
接触。
完了。
誰が。
いつ。
どこで。
由紀は部屋を見回した。
誰もいない。
玄関の鍵はかかっている。
窓も閉まっている。
何も変わっていない。
少なくとも、彼女が確認できる範囲では。
それなのに。
スマートフォンには、はっきりと表示されていた。
『接触完了』
三件分の待機記録が減った。
その理由として、そう記されている。
だが、それは画面上の表示にすぎない。
本当に三者が接触したのか。
接触したとして、何をもって完了としたのか。
由紀には確かめようがなかった。
彼女は、震える指で画面を撮影した。
そのとき。
背後から、紙の擦れる音がした。
かさり。
由紀は、ゆっくりと振り向いた。
机の引き出し。
昨日から、鍵をかけたまま三センチ開いている場所。
そこから、一枚の紙が突き出していた。
白い紙だった。
由紀は、立ち上がれなかった。
紙の先端が、少しずつ外へ滑り出してくる。
誰も触れていない。
引き出しは、鍵がかかったままだ。
紙は、机の上へ落ちた。
ぱさり。
由紀は、しばらく動けなかった。
それから、ようやく立ち上がった。
近づく。
紙の表面には、数字が一つ。
『000』
由紀は喉を鳴らした。
その下には、短い文章があった。
『受付番号をお呼びください』
「…………」
由紀は紙を見つめた。
呼ぶ。
誰を。
何のために。
答えは、どこにも書かれていなかった。
ただ、紙の一番下に、小さな文字があった。
『お呼びいただくまで、こちらでお待ちしております』
由紀は、反射的に紙から離れた。
そして、スマートフォンを握りしめた。
榊原へ電話をかける。
指が震えて、何度も押し間違えた。
ようやく発信する。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
繋がった。
『深町さん?』
「……榊原さん」
自分の声が、思っていたより小さかった。
『どうしたの?』
「……家に」
言葉が詰まる。
『家に?』
「……番号札が、出てきました」
電話の向こうが静かになった。
由紀は必死に続けた。
「引き出しから……勝手に……」
榊原は、すぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
『深町さん。触らないで』
「……はい」
『そこから離れて。できれば、部屋の外へ』
由紀は頷いた。
電話越しでは見えないと分かっていても、頷いた。
「……分かりました」
『こちらでも記録して、管理側へ連絡する。写真は、安全な場所に出てからでいい』
「……お願いします」
由紀は玄関へ向かった。
靴を履く。
鍵を手に取る。
扉を開ける。
その直前。
部屋の奥から、小さな音がした。
ちん。
由紀は、振り向かなかった。
*
午前九時十三分。
カルコサの執務室。
ハスターの机に、緊急通知が届いた。
『黄昏の聖餐会より、安全上の異常に関する報告』
報告者は、榊原。
内容は、深町由紀から電話で伝えられたというものだった。
『担当者の居住地に、受付番号000と表示された紙片が出現』
『施錠された引き出しから移動したとの申告あり』
『本人には接触を避け、室外へ退避するよう指示済み』
ハスターは、書類を見つめた。
「……自宅にまで現れたのか」
第三会議室は使用停止中。
待機者による直接接触も禁止した。
それでも、番号札と同じ表示を持つ物品が由紀の自宅に現れたという。
まだ、待機者そのものが移動した証拠はない。
だが、危険が自宅に及んでいる可能性は、無視できなかった。
ハスターは台帳を開いた。
待機者一覧。
そこには、名前がなかった。
住所もない。
所属もない。
ただ、番号だけが並んでいる。
『000』
『000』
『000』
『000』
『000』
ハスターは手を止めた。
「…………」
表示上の待機記録は四十件。
それなのに、確認できる受付番号は一種類しかない。
いや。
正確には、その番号自体が正規の制度には存在しない。
ハスターは管理規程を開いた。
受付番号は、登録済み案件に対して発行される。
未登録案件には発行されない。
同一番号の重複発行も認められない。
ゼロ番は欠番。
そのはずだった。
「……規則を無視しているのではない」
ハスターは低く呟いた。
「……少なくとも、こちらの規則では動いていない」
通常の受付停止命令が通じない理由も、そこにあるのかもしれない。
ただし、仕組みが分かったわけではない。
発行元は依然として不明。
待機者の正体も不明。
そして、深町由紀の名前が指定された理由も分からない。
ハスターは朱筆を取った。
『未登録案件に関する調査を緊急対応へ変更』
押印。
次に、地上側への通知を作成する。
『深町由紀に対し、受付番号の読み上げを禁止する』
『未登録物品への接触を禁止する』
『当該物品のある場所から退避し、安全な場所で待機すること』
書き終えたところで、ハスターは手を止めた。
受付番号を呼ぶ。
それだけで、何かが起きるのか。
まだ分からない。
だが、分からない以上、試させるわけにはいかない。
ハスターは印章を押した。
『緊急送信』
通知が消えた。
その直後。
黒い紙に、新たな一行が現れた。
『受付番号000の呼び出しを確認しました』
ハスターは凍りついた。
「……何?」
続けて。
『受付担当者による呼び出しではありません』
さらに。
『代理呼び出しを記録しました』
ハスターは、黒い紙を見つめた。
代理呼び出し。
誰が。
誰の代わりに。
そして、何を呼んだ。
彼は台帳を開いた。
受付記録の欄に、新しい項目が増えていた。
『呼出者:未登録』
『呼出場所:未登録』
『呼出時刻:木曜日午前九時十三分』
その下。
『受付成立:未了』
ハスターは、ようやく息を吐いた。
少なくとも、記録上は受付成立が確認されていない。
由紀が業務を引き受けた事実もない。
しかし。
何者かによる呼び出しが記録された。
「……代理受付は認められないはずだ」
ハスターは黒い紙へ目を戻した。
そこには、答えがあった。
『代理受付ではありません』
『代理呼び出しです』
「…………」
ハスターは、しばらく動かなかった。
そして、低い声で呟いた。
「……言葉遊びをするな」
*
午前九時十六分。
由紀は、アパートの外にいた。
建物から少し離れた場所で、スマートフォンを握っている。
榊原からの連絡を待っていた。
画面が震えた。
『管理担当からの緊急指示』
由紀は、すぐに開いた。
『受付番号の読み上げを禁止する』
『未登録物品への接触を禁止する』
『当該物品のある場所から退避し、安全な場所で待機すること』
由紀は、ゆっくりと息を吐いた。
「……よかった」
少なくとも、部屋から出た判断は間違っていなかった。
そのとき。
背後で、誰かが咳払いをした。
由紀は振り向いた。
誰もいない。
アパートの入口。
駐輪場。
道路。
人の姿はなかった。
ただ、足元に。
小さな紙が落ちていた。
白い番号札だった。
『000』
由紀は動かなかった。
さっき、部屋の机に落ちていたものと同じ番号。
同じ大きさ。
同じ字体。
しかし、これが同じ紙なのかどうかは分からない。
由紀は後ずさった。
一歩。
二歩。
三歩。
紙は動かない。
それでも、由紀は近づかなかった。
そのとき。
どこからともなく、声が聞こえた。
『……まだですか』
男とも女とも分からない声だった。
近くで聞こえたようでもあり、遠くから響いたようでもあった。
由紀は息を止めた。
声は続いた。
『ずっと、待っているんです』
由紀は唇を噛んだ。
返事をしてはいけない。
そんな確信があった。
理由は分からない。
だが、昨日から続く通知の中で、何度も繰り返されている言葉がある。
受付。
担当者。
待機。
呼び出し。
そして、業務開始。
相手は、自分に何かをさせようとしている。
それだけは分かる。
由紀はスマートフォンを握り直した。
「……私は」
声が震えた。
それでも、言った。
「……その仕事を、引き受けていません」
沈黙。
風が吹いた。
足元の番号札が、少しだけ揺れた。
そして。
声が、静かに答えた。
『存じております』
由紀は目を見開いた。
『ですから』
声は、ひどく丁寧だった。
『正式な受付を、お待ちしております』
次の瞬間。
足元の番号札が、裏返った。
由紀は、そこに書かれた文字を見た。
『待機者:未登録』
その下。
『待機開始日:不明』
そして、最後に。
『待機終了予定:なし』
由紀は、ゆっくりと顔を上げた。
何もいない。
何も見えない。
ただ、誰かが。
そこに立っているような気がした。
*
午前九時二十分。
カルコサの執務室。
ハスターは、黒い紙を前にしていた。
待機人数として表示されているのは四十。
受付番号は、すべてゼロ。
受付成立は、未了。
地上側への直接接触は、禁止した。
それでも、待機記録は消えない。
ハスターは机の上の時計を見た。
地上時間、午前九時二十分。
たった二十分で、これだけの問題が発生している。
「……何なんだ、これは」
彼は書類を閉じた。
そして、椅子から立ち上がった。
通常の受付処理では、これ以上進展しない。
発行元を特定できなければ、止めることもできない。
ならば。
調べるしかない。
ハスターは、机の奥にある保管庫へ向かった。
普段は使わない棚だった。
現行の管理規程から外された古い記録類が、そこに収められている。
何世代も前の文書。
現在の手続きとは形式が異なり、参照する機会もほとんどない。
ハスターは一冊を取り出した。
表紙には、文字がなかった。
長い年月を経て、角が擦り切れている。
いつ、誰が収めたものなのか。
少なくとも、表紙からは分からない。
彼は本を開いた。
最初のページ。
何も書かれていない。
二ページ目。
同じく白紙。
三ページ目。
そこに、一行だけ文字があった。
『未登録案件』
ハスターの手が止まった。
「…………」
その下には、日付らしきものが記されていた。
しかし、文字が欠けている。
年月日を示すはずの欄が、黒く塗りつぶされていた。
ハスターはページをめくった。
次のページにも。
『未登録案件』
さらに次。
『未登録案件』
何十枚も。
何百枚も。
同じ文字が続いていた。
ハスターは、黙ってページをめくり続けた。
そして、最後のページで手を止めた。
そこには、短い文章があった。
『受付担当者が決定するまで、案件は保留される』
その下に、別の一行。
『受付担当者が決定した場合、待機者は呼び出しを開始できる』
ハスターは文字を見つめた。
「……担当者が決定した場合?」
さらに下。
『ただし、受付担当者の承諾がない限り、受付は成立しない』
ハスターは、ゆっくりと息を吐いた。
黒い紙の挙動と、表面上は似ている。
担当者の名前が表示されている。
待機者の呼び出しが記録されている。
しかし、受付成立は未了のまま。
ただし、それだけだった。
この本が現在の案件と同じ制度について記したものかは分からない。
そもそも、正式な規則なのかどうかも不明だ。
まして、深町由紀の任命が正当に成立した証拠にはならない。
「……記録の形式が似ているだけかもしれん」
ハスターは本を閉じかけた。
そのとき、最後のページにもう一行あることに気づいた。
『受付担当者の承諾は、明示的である必要はない』
ハスターの触手が止まった。
続けて。
『業務の遂行をもって、承諾とみなす場合がある』
「…………」
ハスターは、本を見つめた。
これは危険だった。
正規の規則でなくとも、何者かがこの解釈を利用しようとしている可能性はある。
番号を呼ぶ。
待機者を案内する。
問い合わせに応じる。
そうした行為の一部を、勝手に業務遂行とみなす。
そして、本人の承諾があったと主張する。
だが。
「……誰が、そんな解釈を認めた」
ハスターは低く言った。
本人の意思を確認しないまま、承諾を作り出す。
それを許せば、あらゆる業務命令が成立してしまう。
ハスターは朱筆を取った。
『深町由紀による未登録案件の受付業務の遂行を禁止する』
『問い合わせ、拒否、異議申し立てを業務承諾として扱ってはならない』
押印。
文字は残った。
ハスターは、少しだけ安堵した。
だが、次の瞬間。
黒い紙に、新たな通知が現れた。
『受付担当者より、新しいお問い合わせが届いています』
ハスターは書類を開いた。
そこには、短い文章があった。
『声をかけられました。返事をしてしまった場合、受付したことになりますか』
ハスターは、即座に朱筆を取った。
『ならない』
押印。
さらに書き込む。
『問い合わせ、拒否、異議申し立ては、業務の承諾に該当しない』
押印。
その下に、もう一文。
『受付番号を呼ばず、待機者からの要求に応じず、安全な場所で待機すること』
送信。
書類が消えた。
ハスターは、深く息を吐いた。
「……まったく」
人間一人を守るために、こんなに書類を書いたのは久しぶりだった。
いや。
考えてみれば、いつも似たようなことをしている。
誰かが、勝手な願いを出す。
誰かが、勝手な儀式を始める。
誰かが、勝手に世界を滅ぼそうとする。
そして、そのたびに。
ハスターが、止める。
確認する。
訂正する。
却下する。
今日もまた、同じだった。
ただし。
今回の相手は、まだ姿を見せていない。
それが、ひどく気に入らなかった。
*
午前九時二十五分。
由紀は、アパートから少し離れた公園のベンチに座っていた。
スマートフォンには、管理担当からの回答が表示されている。
『問い合わせ、拒否、異議申し立ては、業務の承諾に該当しない』
由紀は、その文章を何度も読み返した。
「……よかった」
声が漏れた。
自分が何かを言ったせいで、取り返しのつかないことになるのではないか。
ずっと、それが怖かった。
しかし、少なくとも管理担当は、そうではないと言っている。
由紀はスマートフォンを握りしめた。
それから、少し考えた。
誰が回答しているのか。
名前は分からない。
所属も分からない。
けれど、その相手は。
昨日からずっと、自分に無理な仕事をさせないようにしてくれている。
由紀は問い合わせ欄を開いた。
そして、短い文章を入力した。
『ご対応ありがとうございます。助かりました』
送信。
画面に、いつもの文字が現れた。
『お問い合わせを受け付けました』
由紀は、少し笑った。
「……お礼まで問い合わせ扱いなんだ」
そのころ。
カルコサの執務室では。
ハスターが、一枚の書類を見つめていた。
『受付担当者より問い合わせ』
『ご対応ありがとうございます。助かりました』
ハスターは、しばらく動かなかった。
そして、朱筆を取った。
『了承』
押印。
書類が消えた。
ハスターは椅子に深く腰掛けた。
「……礼など、いらん」
小さく呟く。
机の上には、まだ黒い紙が残っている。
待機記録、四十件。
受付成立、未了。
発行元、不明。
そして、接触完了と表示された三件についても、実際に何が起きたのかは確認できていない。
問題は何一つ解決していない。
それでも。
少なくとも、一人の人間は、今のところ無事だった。
ハスターは、次の書類へ手を伸ばした。
『儀式用ろうそくの色について』
「……またか」
朱筆を取る。
『安全基準を満たすものであれば、色は問わない』
押印。
次。
『ろうそくの色を決めるための委員会設置について』
ハスターは書類を見つめた。
「…………」
そして、低い声で呟いた。
「……委員会を増やすな」
世界は、今日もまだ終わらない。
ただし。
どこにも存在しない受付窓口では。
正体も数え方も分からない四十件の待機記録が、まだ消えずに残っていた。
仕事は増えていく




