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邪神労働記 〜黄衣の王は定時で帰りたい〜  作者: 相作
第一部『黄衣の王は帰れない』

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3/16

第3話 身に覚えのない業務命令

水曜日、午前八時四十七分。


深町由紀は、玄関の前で立ち尽くしていた。


出勤するには、まだ早い。


本来の勤務開始は午後三時だ。


それでも靴を履き、鞄を持ち、鍵まで手にしている。


昨夜から続く異変を、榊原に相談しようと思ったのだ。


電話で説明するより、直接会って話した方がいい。


そう考えて家を出る支度をしたものの、最後の最後で足が止まってしまった。


問題は、部屋の中にあった。


机の引き出し。


昨夜、確かに鍵をかけた場所だ。


今朝、その鍵は開いていた。


いや。


正確には、鍵がかかったまま、引き出しだけが三センチほど開いていた。


「…………」


由紀は、もう一度確認した。


鍵穴は施錠された状態だった。


取っ手を引いても、それ以上は動かない。


押しても閉まらない。


三センチの隙間だけが、そこにある。


昨夜の使用許可証の控えは、その中に入っている。


由紀は、隙間へ目を向けた。


暗い。


たった三センチの隙間なのに、奥が見えない。


机の引き出しというものは、こんなに深かっただろうか。


「……もう、やだ」


小さく呟く。


昨日までは、こういうときにどうすればいいのか知っていた。


鍵が壊れたなら、管理会社へ連絡する。


家具が歪んだなら、修理する。


それで済む話だった。


しかし、今は違う。


この引き出しの奥に何があるのか、由紀には分からない。


何より、知りたくなかった。


由紀はスマートフォンを取り出した。


画面を開き、職場の連絡先を表示する。


榊原。


いつも穏やかで、相談しやすい上司。


昨日も、自分の意見を聞いてくれた。


電話をかけようとして、指が止まる。


何と言えばいいのだろう。


『机の引き出しが、鍵をかけたまま開いています』


それだけなら、家具の故障だ。


『中に、勝手に文字が増える書類が入っています』


そこまで説明したら、どうなる。


由紀は、画面を閉じた。


「……やっぱり、直接話そう」


今朝の異変については、写真も撮ってある。


まずは榊原に見せて、相談する。


それから考えればいい。


由紀は玄関を出た。


扉を閉める。


鍵をかける。


いつもより丁寧に、二度確認した。


そして、階段を下り始めた。


三段目で、スマートフォンが震えた。


職場からの通知だった。


『本日、午前九時より臨時業務があります』


由紀は足を止めた。


続きが表示される。


『担当:深町由紀』


『業務内容:受付』


「……受付?」


今日、来客の予定はなかったはずだ。


しかも、九時からなら、もう間に合わない。


慌てて連絡を開く。


送信元は、黄昏の聖餐会の業務連絡システム。


ただし、差出人欄が空白だった。


『受付対象:未登録案件』


『受付場所:第三会議室』


『受付時刻:午前九時』


『担当者変更:不可』


由紀は、最後の一行を見つめた。


担当者変更、不可。


そんな権限を持つのは、通常なら代表者か榊原だ。


だが、二人とも、こんな書き方はしない。


まして、事前の相談もなく担当者を決めることなどなかった。


由紀は、すぐに榊原へ電話をかけた。


三回目の呼び出しで、繋がった。


『おはよう、深町さん』


「おはようございます。すみません、今届いた業務連絡なんですが」


『業務連絡?』


「九時から第三会議室で受付をするようにって……」


電話の向こうが静かになった。


『……今日は、そんな予定はないはずだけど』


由紀は、背中が冷たくなるのを感じた。


「ですよね」


『誰から来たの?』


「差出人が空白なんです」


『空白?』


「はい。担当者変更不可って書いてあって」


榊原は少し考えた。


『深町さん、今どこ?』


「自宅を出たところです」


『なら、急がなくていいよ。九時からの勤務は指示していないし、今朝の連絡は一度こちらで確認する』


「……ありがとうございます」


『それと』


榊原の声が、少し低くなった。


『その通知、消さずに残しておいて』


由紀は、スマートフォンを握り直した。


「……はい」


電話が切れる。


時刻は、午前八時五十五分。


由紀は階段の踊り場に立ったまま、通知を見つめた。


受付対象。


未登録案件。


何を受け付けるのか。


誰が来るのか。


そして、なぜ自分なのか。


画面の一番下に、さっきまではなかった文字が現れていた。


『受付開始予定まで、あと五分』


*


カルコサの執務室。


水曜日、午前八時五十九分。


ハスターは、前夜から続く申請書の山を処理していた。


昨日設置された神聖儀式安全管理委員会については、まだ運営規程が確定していない。


正式な委員会活動も、まだ始まっていない。


それにもかかわらず、問い合わせだけは増えていた。


『委員会の議長は誰が務めるべきか』


『議事録の保管期間について』


『委員会名に「神聖」を含めることの適否』


ハスターは最後の書類を持ち上げた。


「……好きにしろ」


朱筆を取る。


『名称の選定は団体内部で協議すること』


押印。


次。


『委員会設置記念の奉納祭について』


「……開催するな」


『現時点では実施を推奨しない』


押印。


次。


『委員会設置記念奉納祭の中止に伴う代替行事について』


ハスターは、書類を見つめた。


「…………」


少し考えた。


『行事の実施自体を再検討すること』


押印。


書類が消えた。


ハスターは時計を見た。


午前九時。


今日も、世界はまだ終わっていない。


それだけは喜ばしいことだった。


しかし、机の上には新しい書類が現れていた。


黒い紙だった。


ハスターの手が止まる。


通常、召喚管理局へ届く申請書は、内容によって色が異なる。


白は一般申請。


青は事前照会。


赤は緊急対応。


黒は。


「……何だ、これは」


黒い紙など、規定に存在しなかった。


表面には、銀色の文字が浮かんでいる。


『案件番号:未登録』


『受付区分:未分類』


『担当者:深町由紀』


ハスターは、その名前を見つめた。


深町由紀。


昨日の会議記録にあった人間だ。


黄昏の聖餐会の事務担当者。


一昨日の事故に居合わせた、一般人。


彼女に神格の権限はない。


召喚管理局の職員でもない。


当然、管理局の案件を受け付ける立場にもない。


「……なぜ、ここに人間の名前がある」


ハスターは書類を裏返した。


何も書かれていない。


表へ戻す。


文字が増えていた。


『受付開始予定:地上時間 水曜日午前九時』


『受付場所:第三会議室』


『受付担当者の変更は認められない』


ハスターの触手が、机を叩いた。


「……誰が認めないと言っている」


黒い紙は答えない。


彼は書類を持ち上げ、縁を確認した。


正式な申請印はない。


発行元の記載もない。


通常の登録番号もない。


にもかかわらず、管理局の受付台帳には、同じ内容が表示されていた。


ハスターは台帳を開いた。


『未登録案件』


確かに、記載はある。


だが、正式な登録処理が行われた形跡はない。


申請者の欄は空白。


受付経路も不明。


承認者も不明。


ただ一つ。


『担当者:深町由紀』


それだけが、明瞭に記されていた。


ハスターは、黒い紙を机に置いた。


「……これは、私の管轄だ」


人間の名前が書かれているからではない。


管理局の台帳に、出所不明の記録が現れている。


それ自体が問題だった。


しかも、担当者の変更を禁じる文言まで付いている。


「……勝手に決めるな」


ハスターは朱筆を取った。


『担当者指定の根拠不明。受付を一時停止し、発行元を確認すること』


書き込む。


しかし。


赤い文字は、黒い紙に吸い込まれた。


跡形もなく消えた。


ハスターは、動きを止めた。


もう一度書く。


『受付停止』


消えた。


三度目。


『処理保留』


やはり消えた。


ハスターは、ゆっくりと朱筆を置いた。


「…………」


この書類には、通常の処理命令が通らない。


少なくとも、そう見えた。


そして、次の瞬間。


黒い紙に、新たな一行が現れる。


『受付時間になりました』


続けて。


『担当者の到着を待機しています』


ハスターは、文字を見つめた。


「……待機?」


受付時間にはなった。


しかし、受付が成立したことを示す記録はない。


むしろ、この書類自身が、担当者の到着を待っていると主張している。


ハスターは、もう一度担当者欄を見た。


深町由紀。


人間の事務員。


彼女の到着を条件に、何かを始めようとしているのか。


だとすれば、なおさら行かせるわけにはいかない。


ハスターは、黒い紙を台帳の横へ置いた。


「……まずは、担当者を外す」


通常の命令が通じないなら、別の手続きを探す必要がある。


それは面倒だった。


非常に、面倒だった。


*


午前九時。


黄昏の聖餐会、第三会議室。


部屋には、誰もいなかった。


長机が四つ。


椅子が十三脚。


壁には黄色い布。


中央には、小さな祭壇。


昨日の会議で使われた資料は片付けられ、ホワイトボードも消されている。


ただし。


一番奥の机に、見覚えのないものが置かれていた。


小さな卓上ベルだった。


銀色の、古いベル。


ホテルの受付に置かれているような形をしている。


その隣には、紙が一枚。


『受付はこちら』


誰もいない会議室で、ベルが鳴った。


ちん。


澄んだ音が、部屋に響く。


誰も来ない。


しばらくして、もう一度。


ちん。


それでも、誰も来ない。


三度目の音が鳴る直前。


会議室の扉が開いた。


入ってきたのは、榊原だった。


彼は、机の上のベルを見つめた。


「……これは」


ちん。


ベルが鳴った。


榊原は、その場に立ち尽くした。


手を伸ばしかける。


だが、途中で止めた。


昨日、黄衣の王から届いた通知を思い出したのだ。


安全管理。


危険要因の確認。


不明なものに、むやみに触れない。


それは、昨日の会議で確認したばかりの方針だった。


榊原はスマートフォンを取り出した。


由紀へ連絡する。


『深町さん、第三会議室に見覚えのない物がある。今日は会議室に入らないで』


送信。


直後。


机の上の紙に、文字が増えた。


『代理受付はできません』


榊原は、息を呑んだ。


文字は続いた。


『担当者をお待ちしています』


*


午前九時十二分。


由紀は、駅前のベンチに座っていた。


榊原からの連絡を読み、返事を打つ。


『承知しました。今日は通常どおり出勤します』


送信。


その直後、別の通知が届いた。


『受付担当者が不在です』


差出人は、やはり空白だった。


由紀は、通知を消そうとした。


しかし、指が動かなかった。


画面の下に、新しい項目が現れている。


『受付を終了しますか?』


その下に、二つの選択肢。


『はい』


『いいえ』


由紀は、しばらく画面を見つめた。


受付を終了する。


それができるなら、そうしたい。


だが、何の受付なのか分からない。


終了したら、何が起きるのかも分からない。


何より、自分は受付を始めた覚えがない。


始めてもいない業務を、終了させる権限などあるのだろうか。


由紀は、スマートフォンを膝の上に置いた。


考える。


前職では、こういう場面がよくあった。


上司から突然、仕事を振られる。


説明はない。


資料もない。


締切だけが決まっている。


『とにかくやって』


そう言われる。


そして、問題が起きれば担当者の責任になる。


由紀は、あの頃の自分を思い出した。


分からないまま引き受けた仕事。


確認せずに進めた処理。


後から発覚した間違い。


そのたびに、もっと早く質問すればよかったと思った。


だから。


今回は、質問する。


由紀は画面を操作した。


選択肢の下に、小さな入力欄があった。


『お問い合わせ』


由紀は、そこを押した。


キーボードが表示される。


指先は震えていた。


それでも、一文字ずつ入力した。


『業務内容、依頼者、責任者、受付対象が不明です。正式な指示を確認できるまで、業務を開始できません』


送信。


画面が暗くなった。


由紀は、息を止めた。


何も起きない。


一秒。


二秒。


三秒。


やがて、画面に文字が浮かんだ。


『お問い合わせを受け付けました』


続けて。


『回答予定:未定』


「…………」


由紀は、思わず空を見上げた。


青い空だった。


雲が流れている。


駅前では、自転車に乗った高校生が通り過ぎた。


どこにでもある、水曜日の朝。


その中で、由紀は呟いた。


「……回答予定、未定って」


不親切にもほどがある。


恐怖より先に、苛立ちが湧いた。


「そっちが呼んだんでしょうが……」


その言葉を口にした瞬間。


スマートフォンが、再び震えた。


『お問い合わせ内容を上位管理者へ転送しました』


由紀は、画面を見つめた。


上位管理者。


誰だろう。


代表者か。


榊原か。


それとも。


一昨日、黄色いスーツを着ていた。


あの存在だろうか。


*


午前九時十四分。


カルコサの執務室。


ハスターの机に、黒い紙がもう一枚現れた。


『受付担当者より問い合わせ』


ハスターは、それを開いた。


『業務内容、依頼者、責任者、受付対象が不明です。正式な指示を確認できるまで、業務を開始できません』


ハスターは、文章を読み終えた。


そして、もう一度読んだ。


「……当然だ」


実に、当然の質問だった。


依頼者が分からない。


責任者が分からない。


業務内容が分からない。


それで仕事を始めろという方が、おかしい。


ハスターは、書類を机に置いた。


「……まともな人間だな」


感心したように呟く。


少なくとも、一昨日の儀式を強行した者たちよりは、ずっと慎重だった。


ハスターは黒い紙を開き直した。


『問い合わせへの回答』


欄が現れる。


彼は朱筆を取った。


『当該案件は正式な受付手続きを経ていない。担当者に業務遂行義務はない』


書き込む。


今度は、文字が消えなかった。


ハスターは手を止めた。


「……ほう」


続ける。


『依頼者および受付対象の確認が完了するまで、対応を保留すること』


文字は残った。


そして、黒い紙が小さく震えた。


表面に、新たな一文が現れる。


『回答を担当者へ送信しますか?』


ハスターは、ためらわずに印章を押した。


『送信』


問い合わせへの回答書が消えた。


しかし、最初の黒い紙は残っている。


ハスターは、それを見つめた。


『受付時間になりました』


『担当者の到着を待機しています』


表示は変わらない。


人間への回答は送れた。


だが、受付そのものが取り消されたことを示す記録はない。


そもそも、正式な受付が始まった記録さえないのだ。


ハスターは、椅子に深く腰掛けた。


「……なるほど」


問い合わせへの回答と、未登録案件の待機表示は、別々に動いているらしい。


少なくとも、片方を処理しても、もう片方は消えない。


それならば、問題はまだ終わっていない。


ハスターは、最初の黒い紙を机の中央へ置いた。


「……勝手な業務命令を出した者を、まず特定する」


*


午前九時十六分。


由紀のスマートフォンに、新たな通知が届いた。


『お問い合わせへの回答』


由紀は、恐る恐る開いた。


『当該案件は正式な受付手続きを経ていない。担当者に業務遂行義務はない』


『依頼者および受付対象の確認が完了するまで、対応を保留すること』


由紀は、画面を見つめた。


そして、ゆっくりと息を吐いた。


「……よかった」


誰が答えたのかは分からない。


それでも、少なくとも、この回答を書いた相手は無理に仕事をさせようとしていない。


由紀は、通知の下を確認した。


『回答者:管理担当』


それだけだった。


名前はない。


所属もない。


だが、文章には不思議な安心感があった。


必要なことが、簡潔に書かれている。


曖昧な指示もない。


責任を押しつける言葉もない。


由紀は、思わず呟いた。


「……ちゃんとした人だ」


もちろん。


相手が人間である保証は、どこにもなかった。


*


午前九時二十分。


黄昏の聖餐会、第三会議室。


榊原は、卓上ベルの前に立っていた。


ベルは、もう鳴っていない。


紙に書かれていた文字も、消えていた。


『受付はこちら』


その一文だけが残っている。


榊原は、スマートフォンを確認した。


由紀からの連絡。


『上位管理者から、業務保留の回答が届きました』


榊原は、胸を撫で下ろした。


「……そうか」


しかし、机の上のベルは消えていない。


誰が置いたのかも分からない。


触れてよいのかも分からない。


榊原は、しばらく考えた。


それから、会議室の扉を閉めた。


鍵をかける。


扉の外に、一枚の紙を貼った。


『第三会議室 使用停止中』


その下に、もう一行。


『原因確認が完了するまで立入禁止』


これは、会場の正式な使用停止申請ではない。


職場として、不審な物品がある部屋への立ち入りを止めるための応急措置だった。


榊原は、貼り紙を見つめた。


昨日の会議で決めた安全管理方針。


早速、役に立った。


少しだけ、誇らしい気持ちになった。


しかし。


扉の向こうから、小さな音が聞こえた。


ちん。


榊原の表情が凍った。


もう一度。


ちん。


そして、三度目。


ちん。


音が止まる。


静寂。


榊原は、扉を見つめた。


中には、誰もいないはずだった。


それなのに。


扉の下の隙間から、一枚の紙が滑り出してきた。


白い紙だった。


榊原は、身を屈めた。


紙には、短い文章が印字されていた。


『使用停止の申請を受け付けました』


その下に。


『審査結果が出るまで、使用停止は認められません』


榊原は、しばらく動かなかった。


申請などしていない。


貼り紙をしただけだ。


それを、誰かが勝手に申請として扱っている。


しかも、使用停止を認めないという。


「…………」


やがて、静かに呟いた。


「……それは、困るなあ」


榊原は紙に触れず、スマートフォンで写真を撮った。


そして、会議室から離れた。


*


午前九時三十一分。


カルコサの執務室。


ハスターは、別件の申請書を処理していた。


『儀式用ろうそくの長さについて』


「……規定内なら好きにしろ」


押印。


次。


『祭壇の布の色について』


「……黄色でなくても構わん」


押印。


次。


『第三会議室の使用停止申請』


ハスターの手が止まった。


「……またか」


書類を開く。


申請団体の欄には、黄昏の聖餐会と記されていた。


申請理由は、不明な物品の出現。


受付対象不明。


担当者不明。


危険性未確認。


ハスターは、眉間に相当する部分を押さえた。


「……今度は何だ」


添付資料を確認する。


銀色の卓上ベル。


『受付はこちら』と書かれた紙。


そして、使用停止を認めないという通知。


ハスターは、資料を見つめた。


「…………」


申請者の署名がない。


提出経路も記録されていない。


団体側が正式に申請したことを示す情報は、どこにもなかった。


それなのに、書類は通常の使用停止申請の形式を取っている。


「……誰が申請した」


答えはない。


ハスターは、記録を確認した。


第三会議室の扉に貼られた使用停止の告知。


その直後に現れた、使用停止を認めないという紙。


そして今、管理局へ届いた申請書。


何者かが、地上で行われた応急措置を、勝手に申請として取り込んだのかもしれない。


だが、その経路を示す記録はなかった。


ハスターは朱筆を取った。


『申請者および提出経路が不明につき、正式な申請としての成立は確認できない』


書き込む。


続けて、別の処理欄を開いた。


申請の有効性とは別に、現地で危険が確認されているなら、安全上の措置は必要だ。


『管理局による安全措置として、当該会議室の使用停止を指示する』


さらに。


『不明物品への接触を禁止する』


『現地の安全が確認されるまで、関係者を立ち入らせないこと』


押印。


書類が消えた。


ハスターは、深く息を吐いた。


これで、正規の管理系統からは使用停止を指示できた。


少なくとも、人間側が会議室を閉鎖する根拠は明確になったはずだった。


だが。


机の上に、最初の黒い紙が再び現れた。


『案件番号:未登録』


『受付区分:未分類』


『担当者:深町由紀』


そして、新たな一行。


『受付待機は継続中です』


ハスターは、書類を見つめた。


「……待機?」


人間側には業務を保留させた。


正規の管理系統では、会議室の使用も停止した。


それでも、この未登録案件だけは待機を続けている。


ハスターの指示が届いていないのか。


届いているのに、無視されているのか。


あるいは、そもそも別の仕組みなのか。


それすら分からない。


「……誰の判断だ」


黒い紙は、答えない。


ハスターは、台帳を開いた。


通常の申請ではない。


正式な受付でもない。


ならば、別の経路から発生している可能性がある。


しかし、経路を特定するには情報が足りない。


ハスターは、黒い紙を机の中央へ置いた。


「……調査案件として扱う」


朱筆を取る。


『発行元不明の業務命令に関する調査』


新たな調査番号が付与された。


黒い紙そのものは消えなかった。


だが、管理局の調査記録には、その書類が監視対象として登録された。


ハスターは、ようやく椅子に座り直した。


「……これでいい」


少なくとも、放置するわけにはいかない。


しかし。


机の上には、さらに一枚の書類が現れた。


『監視対象に関する定期報告書の提出について』


ハスターは、天井を見上げた。


「…………」


そして、低い声で呟いた。


「……報告書は、後にしろ」


*


午後三時五分。


由紀は、いつもどおり黄昏の聖餐会の事務所へ出勤した。


朝は駅前まで出たものの、榊原から急がなくてよいと言われ、そのまま一度帰宅していた。


引き出しの件は、まだ解決していない。


しかし、今朝の不可解な業務命令については、職場で直接相談できる。


榊原が、入口で待っていた。


「深町さん、おはよう」


「おはようございます」


「今朝はごめんね。変な連絡が届いて」


「いえ……」


由紀は、少し迷ってから尋ねた。


「第三会議室は、どうなりましたか?」


榊原の表情が曇った。


「今は使わないことにしたよ」


「そうですか」


「管理側からも、使用停止の指示が届いた」


由紀は、ほっとした。


「……よかったです」


榊原は、頷いた。


「昨日、深町さんが言ってくれたことが、さっそく役に立ったね」


「私が?」


「危険なことが起きたら、まず止める。確認が済むまで進めない」


榊原は、少し照れくさそうに笑った。


「当たり前のことなんだけどね。私たちは、忘れかけていたのかもしれない」


由紀は、黙って頷いた。


その言葉を聞いて、少しだけ気が楽になった。


一昨日の出来事は、確かに恐ろしかった。


今日も、不可解なことが起きている。


それでも、何もできないわけではない。


分からないことは、確認する。


危険なことは、止める。


必要な記録は、残す。


それは、由紀にもできることだった。


「……あの、榊原さん」


「うん?」


「今朝の通知なんですが、記録として残しておいた方がいいですよね」


「そうだね」


「スクリーンショットを保存してあります」


「助かるよ」


由紀は鞄からノートパソコンを取り出した。


机に置く。


電源を入れる。


いつもの業務画面が表示された。


メール。


予定表。


会員名簿。


備品管理。


その中に、一つだけ見覚えのない項目があった。


『未登録案件』


由紀の指が止まった。


昨日までは、なかったはずだ。


「……榊原さん」


「どうしたの?」


「この項目、前からありましたか?」


榊原が画面を覗き込む。


「……いや、初めて見るね」


由紀は、項目をクリックしなかった。


代わりに、画面を写真に撮った。


「……触らない方がいいですよね」


「そうだね」


榊原が答える。


「管理側に確認しよう」


由紀は頷いた。


しかし、その瞬間。


画面の中の項目が、勝手に開いた。


『未登録案件』


白い画面。


中央に、一行だけ文字がある。


『受付担当者:深町由紀』


由紀は、息を呑んだ。


マウスには触れていない。


キーボードにも触れていない。


それなのに、画面が切り替わった。


さらに文字が増える。


『本日の業務、お疲れさまでした』


由紀は、椅子から立ち上がった。


榊原も、画面を見つめている。


業務。


由紀は、何も受け付けていない。


問い合わせを送っただけだ。


それなのに、画面は仕事が終わったかのように告げている。


『次回の受付予定をお知らせします』


由紀の喉が、ひゅっと鳴った。


画面の中央に、新たな文字が現れた。


『次回受付:木曜日 午前九時』


『受付場所:未定』


『受付対象:未登録』


そして、最後に。


『担当者:深町由紀』


由紀は、震える声で言った。


「……また、私?」


画面は、何も答えなかった。


*


その夜。


カルコサの執務室。


ハスターは、未登録案件の調査記録を確認していた。


地上では、もう日付が変わろうとしている。


だが、彼の机の上にある時計は、まだ別の時刻を示していた。


窓の外には、相変わらず午後五時の空が広がっている。


ハスターは、黒い紙を持ち上げた。


『案件番号:未登録』


『受付区分:未分類』


『担当者:深町由紀』


文字は変わっていない。


ただし、裏面に新たな記載があった。


『次回受付:木曜日 午前九時』


『受付場所:未定』


ハスターは、その一文を見つめた。


「……またか」


人間側には業務を保留させた。


会議室も使用停止にした。


それでも、次回の予定が表示されている。


この案件は、通常の申請処理では終わらない。


ハスターは、台帳を開いた。


未登録案件。


発行元不明。


受付経路不明。


担当者指定の根拠不明。


調査対象。


それらの文字が並んでいる。


彼は、朱筆を取った。


『当該案件に関する地上側への業務指示を禁止する』


書き込む。


文字は残った。


続けて。


『深町由紀に対し、正式な雇用関係または委任関係のない業務を強制してはならない』


押印。


黒い紙が震えた。


表面に、新たな一文が現れる。


『承知しました』


ハスターは、手を止めた。


「…………」


承知しました。


その言葉が、妙に気に入らなかった。


誰が承知したのか。


誰が、この書類を読んでいるのか。


そして、本当に指示を受け入れたのか。


何一つ、確認できていない。


彼は、ゆっくりと黒い紙を裏返した。


そこには、さっきまでなかった文字があった。


『なお、次回の受付は予定どおり実施されます』


ハスターは、黙っていた。


しばらくして、朱筆を置いた。


「……ふざけるな」


執務室の空気が、重く沈んだ。


机の上の書類が、かすかに震える。


遠くで、何かが軋んだ。


それでも、黒い紙は消えなかった。


ハスターは、その紙を見つめ続けた。


そして、低い声で呟いた。


「……誰だ」


答えはなかった。


ただ。


執務室の扉が、三度叩かれた。


こん、こん、こん。


ハスターは、顔を上げなかった。


「……ニャルか」


返事はない。


もう一度、三度。


こん、こん、こん。


ハスターは、椅子から立ち上がった。


扉へ向かう。


取っ手に触れる。


そして、扉を開けた。


廊下には、誰もいなかった。


ただ、床に一枚の紙が置かれていた。


白い紙だった。


そこには、短い文章が印字されている。


『本日はお疲れさまでした』


ハスターは、紙を見つめた。


そして、次の一行を読んだ。


『次回もよろしくお願いいたします』


一昨日、旧市民会館の使用許可証の控えに現れた文面。


ハスターがそのことを知るはずはなかった。


彼は、紙を拾い上げた。


裏面には、何も書かれていない。


発行元もない。


署名もない。


ただ、最後の一行だけが、ゆっくりと浮かび上がった。


『受付担当者は、すでに決定しております』


ハスターは、その文字を見つめた。


「……誰が決めた」


返事はなかった。


代わりに、彼の手の中で紙が小さく震えた。


最後の一行の下に、新たな項目が現れる。


『決定者:未登録』


ハスターは、紙を握りしめた。


「……私の知らないところで、勝手に仕事を増やすな」


その声は、静かだった。


しかし、カルコサの空が、わずかに暗くなった。


世界は、まだ終わらない。


ただ、黄衣の王が知らない業務だけが、確実に増えていた。

……何だこれ?

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