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邪神労働記 〜黄衣の王は定時で帰りたい〜  作者: 相作
第一部『黄衣の王は帰れない』

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2/16

第2話 秘密結社にも定例会議はある

整合性の修正

深町由紀は、秘密結社にも定例会議があることを知っている。


入会しているわけではない。


勤務しているからだ。


月に一度、第三会議室で開催される定例会議。


議題は会費の収支報告、備品の購入状況、会員の活動報告、次回儀式の日程調整など。


前職の営業会議と比べても、内容に大きな違いはない。


ただし、議事録に記載される単語が少々特殊だった。


『深淵への奉納費用』


『供物調達に係る予算執行』


『黄衣の王への接触状況』


『世界終末に関する中長期計画』


最後の項目だけは、何度見ても慣れなかった。


それでも由紀は、会議のたびに議事録を作成する。


誰が発言したか。


何が決まったか。


次回までに誰が何をするのか。


それらを正確に記録することが、彼女の仕事だった。


そして、昨日の夜。


由紀は、記録できないものを見てしまった。


*


火曜日、午前十一時四十八分。


由紀は、自宅の布団の中で目を覚ました。


昨夜、帰宅したのは午前一時を過ぎてからだった。


シャワーを浴びた。


髪を乾かした。


それから、なかなか眠れなかった。


目を閉じると、旧市民会館の床に開いた黒い穴が浮かんでくる。


穴の奥にあった、無数の瞳。


あれが何だったのか、由紀には分からない。


分かりたくもなかった。


ようやく眠れたのは、空が白み始めたころだった。


枕元のスマートフォンを手に取る。


職場から連絡が三件。


一件目。


『昨日は遅くまでお疲れさまでした。本日の出勤は十五時でお願いします』


二件目。


『本日十五時三十分より、臨時定例会議を開催します』


三件目。


『議題:昨日の奉納祭について』


由紀は、画面を見つめた。


「……臨時定例会議?」


声に出してみても、意味が分からない。


臨時なのか、定例なのか。


どちらかにしてほしい。


しばらくして、榊原から追加の連絡が届いた。


『通常の定例会議を前倒しして開催することになりました。急な変更で申し訳ありません』


由紀は、ようやく納得した。


納得はしたが、出勤したくはなかった。


布団を頭まで引き上げる。


昨日の光景が、まぶたの裏に浮かんだ。


黄色いスーツ。


人間ではない顔。


そして、あの声。


『数を数えろ』


「…………」


由紀は布団の中で目を開けた。


なぜだろう。


あれほど恐ろしいものを見たのに、真っ先に思い出す言葉がそれだった。


黄金の果実、七個。


実際に用意されたミカン、六個。


代表者が持参するはずだった一個は、忘れられていた。


由紀は伝票を確認した。


不足分を指摘した。


備考欄にも記載した。


それなのに、最終的には足りなかった。


「……だから確認したのに」


誰もいない部屋で呟く。


すると、昨日から胸の奥に居座っていた恐怖が、ほんの少しだけ別の感情に変わった。


腹立たしさだった。


神様が本当にいるかどうかなど、由紀には分からなかった。


いや、昨日見たものを神様と呼ぶのなら、いるのだろう。


しかし、それと発注書の確認不足は別問題だ。


人間の仕事には、人間の責任がある。


由紀は布団から起き上がった。


「……とりあえず、議事録の準備しよう」


そう口にすると、少しだけ落ち着いた。


自分にできることを考える。


それは、昨夜から何度も繰り返している行為だった。


*


同じ日の正午過ぎ。


カルコサの執務室では、ハスターがその日三百九十一件目の申請書を処理していた。


『申請理由:元恋人を取り戻したい』


添付資料を確認する。


申請者は二十六歳の男性。


交際期間、二年三か月。


別れた理由は、度重なる約束の反故。


連絡の無視。


そして、浮気。


ハスターは資料を閉じた。


「……却下」


印章を押す。


『却下理由:相手方の自由意思を尊重すること』


書類が消える。


次の申請。


『申請理由:元恋人を取り戻したい』


ハスターは眉間に相当する部分へ触手を伸ばした。


申請者は先ほどと同じ男性だった。


「……再申請か」


内容を確認する。


『前回の申請が却下されたため、願いを変更します』


「ほう」


『元恋人に新しい恋人ができないようにしてください』


「却下」


即決だった。


次の書類が現れる。


『申請理由:元恋人に新しい恋人ができないようにしてください』


同じ申請者。


ただし、今回は追記があった。


『どうしても駄目なら、世界を滅ぼしてください』


ハスターは書類を見つめた。


長い沈黙。


やがて、机の引き出しを開けた。


中から、通常の却下印とは異なる印章を取り出す。


『同一内容の反復申請につき、一定期間受付停止』


押印。


書類が消えた。


ハスターは椅子に深く腰掛けた。


「……なぜ最後に世界を滅ぼそうとする」


恋愛相談から世界終末までの距離が、あまりにも近い。


人間の感情とは、そういうものなのかもしれない。


理解できないわけではない。


だが、理解できることと、認めることは別だった。


机の隅に置かれた時計を見る。


午後零時十三分。


まだ昼だった。


ハスターは、ほんの一瞬だけ休憩という概念を思い浮かべた。


そして、すぐに忘れた。


机の上には、未処理の書類が積まれている。


書類の束の間から、新たな一枚が滑り出した。


『申請区分:活動報告』


『申請団体:黄昏の聖餐会』


『内容:前夜の奉納祭に関する事後報告』


ハスターは手を止めた。


「……もう提出したのか」


報告書を開く。


昨日の儀式中止について、団体側が作成したものだった。


『神聖なる御姿を拝する栄誉に浴した』


『参加者一同、深甚なる感銘を受けた』


『儀式運営上の不備について、厳粛に反省する』


ハスターは無言で読み進めた。


『次回は供物の数量確認を徹底する』


そこまではよかった。


問題は、その次だった。


『なお、今回の降臨は奉納祭の成果として評価できるものと考える』


「…………」


ハスターは、もう一度読み返した。


『奉納祭の成果として評価できる』


彼は書類を机に置いた。


「……中止勧告を無視した結果だぞ」


誰も答えない。


「しかも、儀式の干渉が発生した」


沈黙。


「私が来たのは、事故処理のためだ」


それでも書類の文面は変わらなかった。


ハスターは深く息を吐いた。


人間は、事実を自分に都合のよい形で解釈する。


それ自体は珍しくない。


しかし、今回の報告をそのまま受理すれば、次回以降の儀式で同じ判断が繰り返される可能性がある。


中止勧告を無視する。


異常が発生する。


神格が介入する。


そして、それを成功例として記録する。


最悪の前例だった。


「……訂正を求める」


ハスターは朱筆を取った。


『降臨の目的は儀式の承認ではなく、危険な干渉の停止である』


続けて書き込む。


『中止勧告を無視した行為を、成功要因として扱ってはならない』


さらに一文。


『次回の実施計画には、供物の数量確認だけでなく、会場使用権の確認および他団体との重複防止策を含めること』


書き終えたところで、ハスターは手を止めた。


そして、少し考えた。


『なお、黄金の果実とミカンは同義ではない』


追記。


「……よし」


訂正要求を送信する。


書類が消えた。


ハスターは次の申請書へ手を伸ばした。


だが、その直前。


机の端に、小さな通知が現れた。


『黄昏の聖餐会より、訂正要求を受領』


続いて、もう一件。


『同団体、本日十五時三十分より会議を開催予定』


ハスターは通知を見つめた。


「……会議?」


人間たちが何を話し合おうと、通常なら彼の知るところではない。


しかし、今回に限っては事情が違う。


昨日の事故を、成功として扱おうとしている。


訂正要求を出した直後に、会議が開かれる。


嫌な予感がした。


非常に、嫌な予感だった。


ハスターは通知を閉じた。


「……余計なことを決めるなよ」


もちろん、その願いが届く保証はなかった。


*


午後三時二十分。


黄昏の聖餐会の第三会議室には、十三脚の椅子が並んでいた。


会員用が十二脚。


議事録を取る由紀のために、もう一脚。


長机が四つ。


ホワイトボードが一枚。


壁には黄色い布。


そして、部屋の中央には、なぜか小さな祭壇が置かれている。


由紀は、その祭壇を見ないようにしていた。


昨日までは、少し変わったインテリアだと思っていた。


今は違う。


布の皺の一つ一つが、何かの文字に見える。


見つめていると、読めないはずの文字が頭の中で意味を持ちそうになる。


それが怖かった。


「深町さん、大丈夫?」


声をかけられ、由紀は顔を上げた。


榊原だった。


「……はい。ありがとうございます」


「顔色があまり良くないね」


「ちょっと、寝不足で」


「昨日は大変だったからね」


榊原は申し訳なさそうに言った。


「本当は休んでもらいたかったんだけど、今日は議事録を取れる人がいなくて」


「大丈夫です」


由紀は答えた。


大丈夫ではなかった。


しかし、仕事をしている方が、余計なことを考えずに済む気がした。


机の上にはノートパソコン。


横には筆記用具。


水の入ったペットボトル。


いつもどおりの準備だった。


由紀は画面を開き、議事録のひな形を呼び出した。


『黄昏の聖餐会 定例会議議事録』


『開催日時:火曜日 十五時三十分』


『開催場所:第三会議室』


『議長:代表者』


『記録担当:深町由紀』


ここまでは普通だった。


問題は、議題欄である。


『第一号議案:昨日の奉納祭に関する総括』


『第二号議案:供物調達手順の見直し』


『第三号議案:神格降臨の成果評価』


『第四号議案:今後の布教活動について』


由紀は、第三号議案を見つめた。


神格降臨の成果評価。


昨日のあれを、評価するのか。


何を基準に。


どうやって。


由紀は一瞬だけ、昨夜の光景を思い出した。


黄色い霧。


人間の形をしていない存在。


そして、床に開いた黒い穴。


指先が冷たくなった。


由紀はペットボトルを開けた。


水を一口飲む。


喉を通る感覚を確かめる。


冷たい。


普通の水だ。


それだけで、少し安心した。


午後三時三十分。


代表者が立ち上がった。


「それでは、定例会議を始めます」


十二人の会員が、一斉に姿勢を正した。


由紀はキーボードに指を置いた。


「まずは、昨日の奉納祭について」


代表者は、重々しく口を開いた。


「我々は、ついに黄衣の王の御姿を拝することができました」


会議室に、静かな感動が広がった。


何人かが頷く。


目頭を押さえる者もいた。


由紀は、黙って入力した。


『代表者より、昨日の儀式において対象神格の出現を確認した旨の報告あり』


「これは、我々の長年の信仰が認められた証であります」


由紀の指が止まった。


認められた。


そうなのだろうか。


昨日の存在は、確かに姿を現した。


しかし、喜んでいたようには見えなかった。


むしろ、ひどく迷惑そうだった。


「……あの」


由紀は、思わず声を上げた。


会議室の視線が集まる。


「深町さん?」


代表者が不思議そうに尋ねた。


由紀は、一瞬だけ後悔した。


自分は事務員だ。


議論に参加する立場ではない。


だが、記録する以上、確認しなければならないことがある。


「すみません。議事録の記載について確認したいんですが」


「どうぞ」


「昨日の儀式は、中止になったんですよね?」


「……うむ」


「それで、あの方は、儀式の干渉を止めるために来られたとおっしゃっていましたよね」


代表者の表情が、わずかに曇った。


「それは……そうだが」


「でしたら、『信仰が認められた』というのは、会としての解釈ということでよろしいでしょうか」


沈黙。


由紀は、できるだけ穏やかに続けた。


「議事録には、確認された事実と、皆さんのご意見を分けて記載したいので」


榊原が頷いた。


「深町さんの言うとおりだね」


代表者は少し考えた。


それから、咳払いをした。


「……では、そのように記録してくれ」


「承知しました」


由紀は入力した。


『代表者より、対象神格の出現を信仰の成果と捉える意見が示された』


続けて、別の一文。


『なお、当該儀式は安全上の理由により中止された』


これなら、少なくとも事実と意見が混ざることはない。


会議は続いた。


第二号議案。


供物調達手順の見直し。


榊原が資料を配布した。


「今回、供物の数量に不足がありました」


代表者が、申し訳なさそうに頭を下げる。


「私が七つ目を忘れたことが原因です」


「いえ、私の方でも最終確認ができていませんでした」


榊原も頭を下げた。


由紀は、二人を見つめた。


この場面には、見覚えがある。


前職でも、何度となく見てきた光景だった。


誰かが謝る。


別の誰かも謝る。


それで会議が終わる。


そして、翌月には同じことが起きる。


「……すみません」


由紀は、もう一度手を挙げた。


代表者が顔を上げる。


「何でしょう」


「次回から、供物の準備状況を一覧表で管理しませんか?」


「一覧表?」


「はい。必要な品目、数量、購入担当者、持参担当者、最終確認者を記載するんです」


由紀は、ノートパソコンの画面を回した。


前職で使っていた発注管理表を、簡単に作り直したものだった。


「今回みたいに、代表が一個持ってくる予定だった場合も、誰がいつ確認するのか決めておけば防げると思います」


榊原が感心したように頷く。


「なるほど。いいね」


代表者も、真剣な表情で画面を見つめた。


「……これは、神聖なる儀式の準備にも役立つのか」


「はい。少なくとも、数の間違いは減らせます」


「素晴らしい」


代表者は深く頷いた。


「採用しよう」


由紀は入力した。


『供物管理表の導入を決定。次回儀式より運用開始』


続けて、担当者欄に自分の名前を入力しかけた。


そして、手を止めた。


「……あの、最終確認は私だけでなく、持参する方にもお願いしたいです」


「もちろんだ」


代表者が頷く。


由紀は、ほっとした。


責任の所在を明確にする。


それも、事務の大切な仕事だった。


しかし。


第三号議案が始まった瞬間、会議室の空気が変わった。


「さて、次に神格降臨の成果評価についてですが」


代表者が、資料を一枚持ち上げた。


「今回の経験を踏まえ、我々の活動をさらに発展させる必要があると考えています」


会員たちが身を乗り出す。


「具体的には?」


「次回の奉納祭では、参加人数を増やしたい」


由紀は顔を上げた。


「……増やすんですか?」


「うむ」


「昨日、あんなことがあったのに?」


代表者は、真剣な顔で頷いた。


「だからこそだ」


由紀は、言葉を失った。


代表者は資料をめくった。


「現行の十二名から、三十名程度まで拡大することを考えている」


「三十人……」


榊原が呟く。


「具体的な人数まで決めているんですか?」


「いや、まだ案だ。まずは神意に照会したい」


代表者は祭壇へ向き直り、一枚の申請用紙を取り出した。


そこには、あらかじめ必要事項が記入されていた。


『活動計画変更に関する事前照会』


『次回奉納祭における参加人数の拡大について』


由紀は、その用紙を見た。


事前照会。


決定前に問い合わせる。


手順としては正しい。


ただし、問い合わせ先が神格であることを除けば、の話だった。


代表者は用紙を祭壇に置いた。


「黄衣の王よ。我らの計画について、お導きを」


黄色い布が、かすかに揺れた。


申請用紙の表面から文字が薄れていく。


やがて、紙は白紙になった。


由紀は息を呑んだ。


昨日のような圧迫感はない。


だが、確かに何かが起きた。


代表者は満足そうに頷いた。


「これで照会は届いたはずだ」


由紀は、ノートパソコンに目を戻した。


『参加人数拡大案について、神格への事前照会を実施』


指が震えていた。


それでも、記録はできた。


*


午後三時四十八分。


カルコサの執務室に、新たな通知が届いた。


『黄昏の聖餐会:活動計画変更の事前照会』


ハスターは書類を開いた。


『次回奉納祭における参加人数の拡大について』


「…………」


嫌な予感が、的中した。


申請内容を確認する。


『現行会員数:十二名』


『次回目標参加人数:三十名』


ハスターは、書類を机に置いた。


「……増やすな」


もちろん、その声が地上へ届くことはない。


書類は続いていた。


『前回の神格降臨を契機として、信仰活動のさらなる発展を目指す』


「……だから、あれは事故処理だ」


ハスターは朱筆を取った。


『前回の出現は、信仰活動の成果を認定するものではない』


書き込む。


『参加人数の拡大については、現行の安全管理体制を確認したうえで再検討すること』


さらに、補足。


『会場の収容人数、避難経路、他団体との使用重複の有無を確認すること』


そこまで書いて、ハスターは手を止めた。


三十人。


十二人から三十人。


二倍以上だ。


参加人数が増えれば、儀式の準備も増える。


申請書も増える。


問い合わせも増える。


そして、何かが起きたときの被害も増える。


「……仕事を増やすな」


低い声が、執務室に響いた。


そのとき、扉が三度叩かれた。


ハスターは顔を上げなかった。


「帰れ」


「まだ何も申し上げていませんよ」


「帰れ」


「今日は、お茶ではありません」


「ならばなおさら帰れ」


扉が開いた。


黒いスーツの男が、いつもの笑顔で入ってくる。


ニャルラトホテプだった。


「お忙しそうですね」


「お前のせいでな」


「昨日の件なら、もう終わったのでは?」


「終わっていない」


「おや」


ハスターは書類を持ち上げた。


「見ろ」


ニャルラトホテプは、差し出された書類に目を通した。


そして、楽しそうに微笑んだ。


「なるほど。信者を増やすのですか」


「増やすなと言っている」


「しかし、彼らにとっては大きな出来事だったのでしょう」


「危険な出来事だ」


「ええ」


「事故だ」


「そうですね」


「なのに、なぜ成功したと思う」


ニャルラトホテプは、少し考えた。


「人間は、自分にとって意味のある出来事を、意味のある物語にしたがるものですから」


ハスターは黙った。


「昨日、彼らはあなたを見た」


ニャルラトホテプは続けた。


「それまで書物の中にしか存在しなかったものが、目の前に現れた。彼らにとって、それは人生を変える経験だったのでしょう」


「だからといって、事実が変わるわけではない」


「もちろん」


ニャルラトホテプは頷いた。


「ですが、事実が同じでも、受け取り方は変わる」


彼は机の上の書類を指で軽く叩いた。


「あなたは事故を防いだ」


「そうだ」


「彼らは神を見た」


「……そうだな」


「どちらも事実です」


ハスターは、黙っていた。


ニャルラトホテプの言葉は、間違っていない。


間違っていないからこそ、厄介だった。


「……それで?」


「何がです?」


「お前は、何を楽しんでいる」


ニャルラトホテプは微笑んだ。


「人間たちが、これから何を選ぶのかを」


ハスターは彼を見つめた。


「また何か仕掛けたのか」


「いいえ」


即答だった。


「今回は、まだ何も」


その言い方が、ハスターには気に入らなかった。


「……まだ?」


「ええ」


ニャルラトホテプは、楽しそうに笑った。


「今のところは」


*


午後四時十分。


黄昏の聖餐会の定例会議は、思いがけない方向へ進んでいた。


「三十人というのは、少し多すぎるのではないでしょうか」


榊原が慎重に意見を述べた。


「現在の会員数は十二名です。準備体制も、今の人数を前提にしています」


「しかし、我々の信仰を広める好機ではないか」


代表者は熱心だった。


「昨日、黄衣の王は確かに現れた。あの奇跡を、我々だけのものにしてよいのだろうか」


会員たちの間から、賛同の声が上がる。


由紀は、議事録を取りながら考えていた。


三十人。


今の倍以上。


参加者が増えれば、会場の手配も変わる。


備品の数量も変わる。


受付担当者も増やさなければならない。


参加費の管理も複雑になる。


そして何より。


昨日のようなことが起きたら、どうするのだろう。


由紀は、思い切って手を挙げた。


「……あの」


代表者が振り向く。


「深町さん。何か?」


「参加人数を増やす場合、会場の安全管理はどうされますか?」


「安全管理?」


「はい。昨日みたいなトラブルが起きたとき、三十人をどう避難させるのか、事前に決めておいた方がいいと思います」


代表者は、少し驚いたような顔をした。


「……確かに」


「それと、会場の予約確認も、今回は当日まで重複に気づけませんでした」


由紀は資料を見た。


「次回は、予約完了時点で管理事務所に確認して、担当者名も控えるようにしたいです」


榊原が頷いた。


「それは必要だね」


「あと、儀式の中止勧告が出た場合の対応も、あらかじめ決めておきませんか?」


会議室が静かになった。


代表者は、少し困ったように眉を寄せた。


「しかし、神意を確かめるためには……」


「昨日は、その神様から中止するように言われましたよね」


由紀は、静かに言った。


誰も答えなかった。


由紀自身、言いながら怖くなった。


昨日の存在を思い出したからだ。


声を聞いた瞬間、身体が動かなくなった感覚。


あれが本当に神様だったとして。


その神様が、中止しろと言ったのなら。


なぜ、人間の方が勝手に続けようとするのだろう。


「……私は、専門的なことは分かりません」


由紀は続けた。


「でも、危険だからやめろと言われたなら、まずはやめた方がいいと思うんです」


榊原が頷いた。


「……そうだね」


代表者は、黙っていた。


それから、深く息を吐いた。


「深町さんの言うことは、もっともだ」


由紀は顔を上げた。


「我々は、昨日の出来事に浮かれていたのかもしれない」


代表者は、会員たちを見渡した。


「確かに、黄衣の王は現れた。しかし、我々の行動を褒められたわけではない」


静寂。


「むしろ、叱責された」


その言葉に、何人かが俯いた。


代表者は続けた。


「次回の奉納祭については、まず安全管理体制を整える。そのうえで、参加人数の拡大を検討しよう」


榊原が頷く。


「賛成です」


ほかの会員たちも、次々に頷いた。


由紀は議事録へ入力した。


『参加人数の拡大は継続審議とする』


『安全管理体制の整備を優先する』


『中止勧告を受領した場合は、原則として儀式を延期し、内容を再確認する』


入力を終えたとき、由紀は少しだけ肩の力が抜けた。


よかった。


少なくとも、昨日と同じことを繰り返すつもりではないらしい。


そのとき。


会議室の中央に置かれた祭壇が、かすかに震えた。


由紀は顔を上げた。


黄色い布が、風もないのに揺れている。


会員たちも気づいたらしい。


ざわめきが広がった。


「……これは?」


榊原が呟く。


祭壇の上に置かれていた一枚の紙が、宙へ持ち上がった。


誰も触れていない。


紙は空中で静止した。


そして、その表面に赤い文字が現れた。


『活動計画変更に関する事前照会 回答』


代表者が息を呑んだ。


「……上からの通知だ」


由紀は、思わずノートパソコンを見た。


メールではない。


紙が浮いている。


赤い文字が、何もない場所から浮かび上がっている。


昨日の光景が脳裏をよぎった。


喉が詰まる。


しかし、今度は逃げ出さなかった。


震える指で、机の縁を掴んだ。


紙には、先ほどの事前照会への回答と、午前中に送られた事後報告への訂正要求がまとめられていた。


『参加人数の拡大については、安全管理体制を確認したうえで再検討すること』


『会場使用権の確認、避難経路の確保、供物の数量確認を徹底すること』


そして、最後に。


『なお、黄金の果実とミカンは同義ではない』


沈黙。


代表者が、榊原を見た。


榊原も、代表者を見た。


由紀は、なぜかその場面にだけ妙な既視感を覚えた。


「……やっぱり」


小さく呟く。


「勝手にミカンで済ませちゃ、駄目だったんだ」


誰も笑わなかった。


しかし、由紀は少しだけ笑いそうになった。


恐ろしい。


昨日のあれは、確かに恐ろしかった。


けれど。


あの存在は、わざわざ供物の種類まで訂正してくれたのだ。


世界を歪めるほどの力を持っているのに。


そんなことまで。


由紀は、もう一度紙を見た。


赤い文字は、静かに消え始めていた。


やがて紙は祭壇の上に落ちた。


会議室に、重い沈黙が残る。


代表者は、口を開いた。


「……次回から、供物の指定は厳密に確認しよう」


「はい」


榊原が答える。


由紀は議事録に追記した。


『供物の代用品使用については、事前確認を必須とする』


その一文を入力したとき。


由紀は、ふと思った。


神様にも、確認する仕事があるのだろうか。


*


午後四時二十三分。


カルコサの執務室。


ハスターは、黄昏の聖餐会から届いた会議の途中経過を確認していた。


この結社では、議決された事項が会議終了を待たずに活動記録へ反映される。


そのうち、神格への接触計画や儀式の安全管理に関係する変更だけが、召喚管理局へ通知される仕組みだった。


『参加人数の拡大:継続審議』


『安全管理体制の整備:優先』


『中止勧告への対応:原則延期』


『供物管理表:導入決定』


ハスターは、書類を閉じた。


「……ふむ」


予想よりは、まともな結果だった。


少なくとも、昨夜の事故を無条件の成功として扱うことは避けられたらしい。


人間も、話せば分かることがある。


そう思った。


ほんの一瞬だけ。


机の上には、別の団体から届いた申請書が積まれていた。


『儀式用ろうそくの色彩変更について』


『祭壇の向きに関する問い合わせ』


『祈祷文の改行位置について』


ハスターは、その一枚を手に取った。


「……改行位置?」


書類を開く。


申請者は、儀式の効果を高めるため、祈祷文の三行目を二行に分けたいらしい。


ハスターは内容を確認した。


「……意味が変わるぞ」


朱筆を取る。


『改行位置の変更により、祈祷対象が変化するおそれあり』


続けて書き込む。


『現行の記載を維持すること』


押印。


書類が消える。


次の申請。


『祈祷文の句読点について』


ハスターは、しばらく動かなかった。


「……句読点」


そして、静かに呟いた。


「……なぜ、そこまで私に聞く」


*


午後四時三十五分。


黄昏の聖餐会の会議室では、第四号議案の審議が続いていた。


「安全管理のため、専門の委員会を設置してはどうでしょうか」


提案したのは、会員の一人だった。


中年の男性で、普段は製造業の品質管理部門に勤めている。


昨日の事故を受け、危険要因の洗い出しと再発防止策の検討が必要だと考えたらしい。


「委員会、ですか」


榊原が尋ねる。


「はい。担当者を決め、定期的に会議を開き、議事録を残す。改善事項の進捗も確認します」


「なるほど」


「月に二回ほど開催するのがよいかと」


代表者が頷いた。


「それは有意義だ」


由紀は、黙って議事録を取っていた。


委員会。


月二回。


議事録。


その三つの言葉に、嫌な予感がした。


「……すみません」


由紀は手を挙げた。


「深町さん?」


「委員会の議事録も、私が作成することになりますか?」


榊原は、少し考えた。


「そうなるかもしれないね」


由紀は、笑顔を保った。


「……承知しました」


内心では、まったく承知していなかった。


定例会議が月一回。


新しい委員会が月二回。


会議の回数は、合計で月三回になる。


しかも、委員会を設置すれば、資料の準備や報告書の作成も必要になる。


安全管理は大切だ。


昨日のことを思えば、必要性は十分に理解できる。


しかし、仕事は確実に増える。


由紀は、思わず小さくため息をついた。


その瞬間。


なぜか、昨日の黄色いスーツの存在が頭に浮かんだ。


あの方も、同じようなため息をつくのだろうか。


そんなことを考えてしまい、由紀は慌てて首を振った。


代表者が、会員たちを見渡した。


「それでは、神聖儀式安全管理委員会の設置について、賛成の方は挙手を」


十二人の会員のうち、十一人が手を挙げた。


残る一人も、反対ではなく、委員会の具体的な運営方法を確認したいだけだった。


質疑のあと、改めて採決が行われた。


今度は、十二人全員が手を挙げた。


「では、委員会の設置を決定します」


代表者が宣言した。


由紀は議事録に入力した。


『神聖儀式安全管理委員会の設置を決定』


『開催頻度:月二回』


『委員会規程および運営体制については、次回会議までに案を作成する』


続けて、議事録作成担当の欄に自分の名前を入力しかける。


そこで、由紀は手を止めた。


「……あの、担当者の決定は次回でよろしいでしょうか」


「そうだね」


榊原が答えた。


「今日は設置だけ決めて、具体的な分担は改めて相談しよう」


「ありがとうございます」


由紀は、ようやく息を吐いた。


まだ仕事が増えると決まったわけではない。


その事実だけで、少し気が楽になった。


*


午後四時四十八分。


カルコサの執務室。


ハスターの机に、新たな書類が現れた。


『神聖儀式安全管理委員会 設置決定通知』


ハスターは、それを見つめた。


「…………」


次の書類。


『委員会設置に伴う承認申請』


さらに一枚。


『委員会運営規程の確認依頼』


もう一枚。


『委員会議事録様式の事前照会』


ハスターは、目を閉じた。


「……なぜ仕事が増える」


そのとき、扉の向こうから、聞き慣れた声がした。


「おや。委員会ができたのですか?」


ハスターは答えなかった。


「素晴らしいですね。人間たちも、少しずつ成長しているようです」


沈黙。


「それにしても、委員会というのは興味深い制度ですね」


ハスターの触手が、ぴくりと動いた。


「問題を解決するために集まり、問題について話し合い、問題を整理する」


扉の向こうで、男が楽しそうに笑った。


「そして、問題を整理するための新しい仕事が生まれる」


ハスターは、静かに立ち上がった。


「……ニャル」


「はい?」


「今すぐ帰れ」


「ですが、まだ何も――」


「帰れと言っている!」


執務室の壁が、わずかに軋んだ。


扉の向こうで、軽い笑い声が響く。


「それでは、また明日」


足音が遠ざかっていく。


ハスターは、扉を睨みつけていた。


そして、椅子に戻った。


机の上には、未処理の書類が積まれている。


世界を滅ぼす力があっても、書類は勝手には減らない。


いや、減らすこと自体はできる。


だが、書類を消したところで、書類が扱っていた問題まで消えるわけではない。


だから、処理するしかない。


一件ずつ。


確認し、判断し、必要な指示を出す。


それが、彼の仕事だった。


ハスターは、最初の申請書を手に取った。


『神聖儀式安全管理委員会 設置承認申請』


「…………」


そして、低い声で呟いた。


「……せめて、会議は一回にまとめろ」


*


午後五時十分。


黄昏の聖餐会の定例会議は、ようやく終了した。


由紀は議事録を保存し、ノートパソコンを閉じた。


会議室には、まだ数人の会員が残っている。


今後の活動について、熱心に話し合っていた。


由紀は、その様子を横目で見ながら資料を片付けた。


昨日までは、彼らのことを少し変わった人たちだと思っていた。


今は、どう見ればいいのか分からない。


彼らが信じているものは、本当に存在した。


それは、間違いない。


しかし、だからといって、彼らの考えがすべて正しいわけではない。


昨日の存在は、明らかに迷惑そうだった。


そして今日も、わざわざ訂正の通知を送ってきた。


由紀は、ふと思った。


あの存在は、怒っているのだろうか。


それとも、困っているのだろうか。


あるいは。


「……疲れてるのかな」


思わず、声に出してしまった。


「何が?」


榊原が振り向いた。


由紀は慌てて首を振る。


「いえ、何でもありません」


「そうかい」


榊原は微笑んだ。


「今日はありがとう。深町さんのおかげで、会議がまとまったよ」


「いえ、そんな」


「本当に助かった」


その言葉に、由紀は少しだけ救われた気がした。


昨日からずっと、現実が足元から崩れていくような感覚があった。


それでも、仕事は仕事として残っている。


誰かが資料を作り、誰かが確認し、誰かが決める。


その積み重ねが、少なくとも人間の生活を支えている。


由紀は鞄を持ち上げた。


「……榊原さん」


「うん?」


「昨日の、あの方なんですけど」


榊原の表情が、わずかに変わった。


「黄衣の王のことかい?」


「はい」


由紀は、言葉を探した。


あの存在を思い出すだけで、胸が苦しくなる。


それでも、聞いておきたかった。


「……あの方って、普段は何をされているんですか?」


榊原は、黙っていた。


そして、穏やかな声で答えた。


「我々には、計り知れないことだよ」


「……そうですよね」


「人間の理解を超えた存在だからね」


由紀は頷いた。


それ以上、聞かなかった。


だが、心の中には一つの疑問が残った。


人間の理解を超えた存在。


世界を歪めるほどの力を持つもの。


そんな存在が、なぜ。


ミカンの数を数えていたのだろう。


由紀は、まだ知らない。


黄衣の王が、今日も書類に追われていることを。


そして、その書類の中に、自分が作成した会議資料も含まれていることを。


*


その夜。


由紀は帰宅すると、鞄の中から昨日の使用許可証を取り出した。


月曜日の夜、旧市民会館から持ち帰った、あの使用許可証の控えだった。


『受付担当者:深町由紀』


印字された名前は、消えていなかった。


裏面の文字も、そのままだった。


『本日はお疲れさまでした。次回もよろしくお願いいたします』


ただ、その下に。


由紀がまだ見ていない、小さな一行が増えていた。


『次回の会議も、楽しみにしております』

楽しいですねぇ

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