第1話 月曜日、世界はまだ終わらない
諸々修正してます。2
月曜日という概念を発明した者が誰なのか、ハスターは知らない。
もし知っていたなら、とうの昔に存在ごと消し去っていただろう。
もっとも、曜日という制度が生まれる以前から、彼の仕事は存在していた。そう考えると、月曜日そのものに罪はないのかもしれない。
だが、だからといって許せるわけではなかった。
カルコサの朝は、いつも薄暗い。
空には二つの黒い太陽が浮かび、どちらも光を放たない。湖面に映る星々は実際の空とは異なる配置を描き、遠くの塔は見る者が瞬きをするたびに本数を変える。
この都に、人間が知る意味での朝は存在しない。
それでも午前八時五十分になると、ハスターは執務室へ入る。
理由は単純だった。
九時が始業時刻だからである。
「……三百四十二件」
黄色いスーツの袖口を整え、机に積まれた書類を見下ろす。
昨日の退勤時には百九十七件だった。
一晩で百四十五件増えた計算になる。
「人間どもは、夜になると暇なのか」
誰に聞かせるでもなく呟いたが、返事はない。
執務室には彼一人しかいなかった。
壁際の書棚には、羊皮紙や石板、電子記録媒体に加え、人類がまだ発明していない形式の記憶装置まで収められている。
部屋の中央には巨大な執務机。その上に並ぶのは三つの印章と、湯気の立たない黒い飲み物が一杯。
窓の向こうには、いつも午後五時の空が広がっていた。
かつて、仕事の終わりを視覚的に意識すれば業務効率が上がるのではないかと考え、窓の景色をその時刻に設定したことがある。
結果は失敗だった。
午後五時の空を眺めながら、午前九時から働くことになっただけである。
設定を変更する時間さえ惜しく、今もそのままになっていた。
椅子に腰を下ろすと、背もたれが彼の存在に合わせて静かに形を変えた。
数千年前に献上された品である。
献上者はすでに滅び、その文明が存在した惑星さえ残っていない。それでも椅子だけは、今日も問題なく使えていた。
地上から取り寄せた事務機器も、これくらい長持ちすればいいのだが。
そんなことを考えながら、最初の申請書を手に取る。
『申請区分 神格召喚』
『対象 黄衣の王』
『希望日時 本日午後三時』
『申請理由 人類文明の完全終結』
「……またか」
添付資料を開いた。
申請者は日本在住の四十七歳男性。職業は会社員。
昨日、競馬で大敗していた。
「却下」
書類を閉じ、印章を押す。
紙面に赤い文字が浮かび上がった。
『却下理由 個人的な経済的損失は文明終結の正当な根拠とならない』
書類は灰となって消えた。
次の申請。
『希望日時 本日午後四時』
『申請理由 上司が理不尽』
しばらく、その文字を見つめる。
「……気持ちは分からんでもない」
だが、却下した。
申請者の怒りが正当であることと、世界を滅ぼしてよいことは別問題だ。
その区別がつかない人間は多い。
神格の側にも、少なくない。
次の書類へ手を伸ばす。
今度は、失踪した猫の捜索依頼だった。
『対象 ミケ。三歳。去勢済み』
『特徴 右耳に小さな切れ込み』
『最後に確認された場所 自宅の庭』
『お願いです。あの子を返してください』
申請書には写真が添えられていた。
窓辺で眠る三毛猫。片方の前足を顔に乗せ、ひどく満足そうな顔をしている。
写真を見つめたあと、ハスターは視線をわずかに横へ動かした。
執務室の壁が透ける。
カルコサの宮殿が消え、無数の星々が視界を横切った。
距離という概念が、一瞬だけ意味を失う。
日本の、とある住宅街。
古びた集合住宅の床下で、三毛猫が一匹、近所の老婦人にもらった煮干しを食べていた。
健康状態に異常はない。
ただし、帰宅する意思もなさそうだった。
「……まったく」
視線を戻し、申請書の余白に書き込む。
『対象の所在を確認。自宅から東へ約二百メートル、集合住宅床下。健康状態は良好。神格召喚の必要なし』
差戻印を押すと、書類が消えた。
これで申請者には、何らかの形で情報が届く。
夢かもしれない。偶然目にした張り紙かもしれない。あるいは、ふと思い立ってその集合住宅を覗き込むのかもしれない。
そこまでの経路を、いちいち指定する必要はない。
彼の仕事は、迷子の猫を飼い主の腕に抱かせることではなかった。
少なくとも、建前上は。
「……次」
時刻は午前八時五十七分。
始業前に、すでに七件処理した。
順調である。
そう思った瞬間、机の上に新たな書類が一枚現れた。
続いて二枚。
三枚。
十枚。
百枚。
乾いた音を立て、紙の束が積み上がっていく。
ハスターの手が止まった。
壁の時計が午前九時を告げる。
新規申請、百八件。
「…………」
頭部の下半分から伸びる触手が、一本だけぴくりと震えた。
「まだ月曜日の朝だぞ」
書類の山は答えない。
代わりに、一番上の申請書がひとりでに開いた。
『申請理由 月曜日が憎い』
静かに目を閉じる。
「……それは私もだ」
それでも、印章を手に取った。
世界を終わらせないための仕事は、今日も始まってしまったのである。
*
深町由紀が目を覚ましたのは、午前九時二十二分だった。
目覚まし時計は九時半に設定してある。つまり、八分だけ早く起きてしまったことになる。
布団の中でしばらく天井を眺めた。
六畳の寝室。白い壁紙。端の少し剥がれたカーテン。そして、昨日畳まずに椅子へ掛けた洗濯物。
何の変哲もない、一人暮らしの部屋だった。
枕元のスマートフォンが震える。
職場からの連絡だ。
『本日二十三時より奉納祭を実施します。担当者は二十二時までに会場へ集合してください』
「……また夜か」
画面を見つめ、ため息をついた。
深町由紀、二十八歳。独身。職業は事務員。
勤務先は宗教団体『黄昏の聖餐会』。
ただし、一般的な宗教団体とは少し違う。
会員は全員、黄色を神聖な色として扱い、集会では見慣れない文字を唱える。月に一度、参加者が全員同じ夢を見たという報告が上がることもあった。
由紀自身は、その夢を見たことがない。
報告を集計するのが仕事だった。
そして、備品倉庫には開けてはいけない扉がある。
そんな奇妙な話を日常的に耳にする職場だが、担当業務はごく普通の事務仕事である。
会費の入金確認。備品の発注。会員名簿の更新。会場予約。交通費の精算。
前職である食品卸売会社の営業事務と、やっていることは大差ない。
少なくとも、伝票処理に関しては。
スマートフォンを置き、ゆっくりと起き上がる。
台所へ向かって電気ケトルのスイッチを入れた。
冷蔵庫には卵が二つと、半分残ったキャベツ。
食パンは昨日でなくなった。
「……帰りに買わないと」
そう呟いてから、今夜の勤務が終わるのは日付が変わってからだと思い出した。
スーパーは閉まっているだろう。
コンビニなら開いている。
しかし、コンビニの食パンは少し高い。
由紀は真剣に考えた。
人類が宇宙の真理を解き明かしたとしても、食パンの値段は下がらないのではないか。
そんなことを考えながら、インスタントコーヒーを淹れる。
転職して三か月。
この職場に決めた理由は、待遇だった。
前職では月末になると残業が続いた。
取引先からの無理な納期変更。営業担当の記入漏れ。届かない発注書。合わない在庫数。
誰かが間違えた数字を、別の誰かが残業して直す。
それが当たり前になっていた。
今の職場は、少なくとも残業代を支払う。休日出勤には手当がつき、有給休暇の申請も通る。
面接のとき、由紀は思わず聞き返してしまった。
「本当に、残業代は出るんですか?」
面接官だった初老の男性は、妙に真剣な顔で頷いた。
「もちろんです。我々は、捧げるべきものと捧げてはならないものを区別しております」
その言葉の意味は、今でもよく分からない。
ただ、給与明細は正確だった。
だから余計なことは考えないようにしている。
人間、生活がある。
家賃も払わなければならないし、冷蔵庫だっていつか買い替える必要がある。
多少変わった職場でも、きちんと給料が出るなら悪くない。
そう思っていた。
少なくとも、今夜までは。
*
午前九時二十六分。
カルコサの執務室に、三度のノックが響いた。
「失礼します」
ハスターは顔を上げなかった。
「帰れ」
「まだ何も申し上げていませんよ」
「声で分かる」
扉が開いた。
黒いスーツを着た長身の男が、銀色の盆を手に入ってくる。
整った顔立ちに、穏やかな微笑。指先まで行き届いた、無駄のない動作。
一見すれば、どこにでもいる上品な紳士だった。
もっとも、その姿を見た者が無事でいられる保証はない。
彼には千の貌がある。
人間の姿も、獣の姿も、光り輝く異形も、名を持たない影も。
どれが本当の姿なのか。
あるいは、本当の姿など存在するのか。
それを知る者は少ない。
ニャルラトホテプ。
這い寄る混沌。
神々の使者。
そして、ハスターにとっては極めて厄介な訪問者だった。
「おはようございます、ハスター。今日はダージリンをお持ちしました」
「頼んでいない」
「ええ、存じています」
「ならば持ち帰れ」
「せっかく淹れたのに」
ニャルラトホテプは少し残念そうに眉を下げた。
その表情だけを見れば、親切を断られた善良な人間にしか見えない。
だが、ハスターは知っていた。
この男の表情は信用してはならない。
悲しんでいるように見えるときほど、何かを楽しんでいる。
怒っているように見えるときほど、別のことを考えている。
そして心から楽しんでいるときには、驚くほど無邪気に笑う。
「……何をした」
「お茶を淹れました」
「それ以外だ」
「ずいぶんなご挨拶ですね」
「お前が理由もなく茶を持ってくるはずがない」
「理由ならありますよ」
「言え」
「あなたが、どんな顔をするのか見たかったんです」
ハスターは顔を上げた。
ニャルラトホテプは微笑んでいた。
「……それだけか」
「ええ」
「それだけのために、わざわざ?」
「あなたは今朝、七件の申請を処理したあと、月曜日を憎んでいましたね」
触手の動きが止まる。
「……見ていたのか」
「少しだけ」
「勝手に覗くな」
「ですが、実に興味深かった」
ニャルラトホテプは盆を机に置いた。
「あなたは世界を滅ぼす力を持ちながら、世界を滅ぼしたいという人間の願いを却下している。しかも、その理由が実に事務的です」
「何が言いたい」
「面白いと思いまして」
「……面白い?」
「ええ。人間はあなたを恐れている。あなたの名を唱えるだけで、精神を失う者もいる。それなのに、あなた自身は、彼らの書類に不備がないか確認している」
楽しそうに言葉を続ける。
「恐怖の象徴が、書類の誤字を直しているんですよ」
「必要な仕事だ」
「そうでしょうね」
「放置すれば事故が起こる」
「ええ」
「事故が起これば、後始末が必要になる」
「そのとおりです」
「だから事前に処理している」
「合理的ですね」
ニャルラトホテプは微笑んだ。
「ですが、あなたがいなければ、どんなことが起こるのでしょう」
ハスターは黙った。
その問いに、好奇心以外の感情が含まれていないことを知っていたからだ。
ニャルラトホテプは、誰かが苦しむことを楽しむ。
しかし、苦痛そのものだけを求めているわけではない。
希望を与え、その希望が裏切られる瞬間を見ることも好む。
恐怖に震える人間が思いがけず勇気を見せれば、それにも興味を示す。絶望の中で笑う者がいれば、なぜ笑ったのかを知りたがる。
彼にとって、他者の感情は尽きることのない娯楽だった。
そこに善悪の判断はない。
善悪を理解していないのではない。
理解したうえで、判断の基準にしていないのだ。
「……用件を言え」
ニャルラトホテプは待っていましたとばかりに、一枚の書類を差し出した。
「こちらです」
申請書には、日本の地方都市で行われる儀式の情報が記載されていた。
『儀式名称 黄衣の王への奉納祭』
『実施場所 日本国某県・旧市民会館』
『実施日時 本日午後十一時』
『参加予定人数 十二名』
「黄昏の聖餐会か」
「ご存じで?」
「小規模な結社だ。儀式の質は高くないが、近年は目立った問題を起こしていない」
「よく覚えていらっしゃる」
「担当案件だ」
「素晴らしい」
ニャルラトホテプは、もう一枚の書類を置いた。
『儀式名称 大いなる眠れるものへの覚醒祈願』
『実施場所 日本国某県・旧市民会館』
『実施日時 本日午後十一時』
『参加予定人数 十八名』
ハスターは目を細めた。
「……深海の福音団」
「ええ」
「クトゥルフへの接触を試みる結社だな」
「そのようです」
「同じ会場、同じ時刻か」
「はい」
二枚の書類を並べる。
召喚管理局が記録するのは、神格への接触を試みる儀式の内容と、その影響である。
人間社会の会場予約までは管理していない。
結社からの儀式申請が受理されても、記載された日時と場所での実施まで認められるわけではなかった。
今回、二つの結社はそれぞれ儀式の申請を済ませていた。
だが、双方が使用する建物の予約は、今朝になってようやく確定した。
午前九時十四分。
二件の使用許可が、同一の管理番号で発行された。
その情報が各結社の申請記録に反映された結果、召喚管理局の照合機構が重複を検知したのである。
「……なぜ今になって重複が分かった」
「人間側の会場予約が、今朝確定したからでしょうね」
「今朝?」
「午前九時十四分です」
「……詳しいな」
「少し調べましたので」
ニャルラトホテプは、実に自然な笑顔を浮かべた。
ハスターはしばらく彼を見つめた。
「……お前が関わっているのか」
「どうでしょう」
「答えろ」
「少なくとも、こちらの二件は正式に受理された申請ですよ」
「質問に答えていない」
「ですが、問題はこれから起こるかもしれません」
二枚の書類を指で軽く叩く。
「同じ場所で、異なる神格を呼ぶ儀式が行われる。実に興味深い状況ではありませんか」
ハスターは書類を見下ろした。
片方は黄衣の王への奉納祭。
もう片方はクトゥルフへの覚醒祈願。
どちらも、目的を達成できる可能性は高くない。
だが、問題は成功するかどうかではない。
異なる儀式陣が重なり、異なる対象への呼びかけが同時に行われた場合、意図しない干渉が生じることがある。
しかも、儀式の影響は正式な祈祷が始まる瞬間だけに限られない。
準備の段階で描かれた紋様や、配置された供物、繰り返された予行の祈りが、すでに周囲へ作用している場合もある。
不完全な儀式なら安全だと考えるのは間違いだった。
扉を開けることに失敗しても、扉の隙間が生じないとは限らない。
そして、その隙間の向こうにいるものが、必ずしも呼びかけた相手とは限らない。
「……中止勧告を出す」
「おや。すぐに?」
「当然だ」
「人間たちは、従うでしょうか」
「従わなければ現地で調整する」
「自ら?」
「放置する方が面倒だ」
ニャルラトホテプは微笑んだ。
「あなたらしい」
ハスターは二枚の申請書に調整保留の印を押した。
申請の受理そのものは取り消さない。
ただし、記載された日時と場所での実施は認めず、再調整を求める。
その通達が、双方の結社へ送られた。
返答期限は午後八時。
それまでに双方が儀式の変更に応じれば、現地へ赴く必要はない。
書類を閉じる。
「……用件は終わりだな」
「ええ」
「ならば帰れ」
「お茶は?」
「置いていけ」
ニャルラトホテプは嬉しそうに笑った。
「お気に召しましたか」
「喉が渇いただけだ」
「それは何よりです」
男は一礼し、執務室を後にした。
扉が閉まる。
ハスターはしばらく、その扉を見つめていた。
嫌な予感がした。
しかも、その予感には十分な根拠がある。
ニャルラトホテプが楽しそうにしている。
それだけで、警戒する理由としては十分だった。
紅茶に手を伸ばす。
香りは悪くない。
温度も適切だった。
毒も入っていない。
ただし、カップの底には小さな文字が刻まれていた。
『本日もよい一日を』
ハスターは無言でカップを伏せた。
*
午後三時。
由紀は黄昏の聖餐会の事務所に出勤した。
事務所は、駅から徒歩十分ほどの場所にある雑居ビルの三階に入っていた。
一階には不動産会社。
二階には学習塾。
三階には、宇宙的存在を崇拝する秘密結社。
建物の外観から、その違いを見抜くことは難しい。
入口のガラス扉には、控えめな文字で『黄昏文化研究会』と書かれている。
対外的には、その名称を使用していた。
社員証をかざし、事務所に入る。
「お疲れさまです」
「おお、深町さん。お疲れさま」
奥の席から、初老の男性が顔を上げた。
黄昏の聖餐会の事務局長、榊原だった。
白髪交じりの髪に、穏やかな目元。いつもきちんとアイロンのかかったシャツを着ている。
見た目だけなら、町内会の役員にしか見えない。
実際、町内会の役員も兼ねていた。
「今夜の準備は順調ですか?」
由紀が尋ねると、榊原は少し困った顔をした。
「それがね、会場のことで少々」
「会場?」
「管理側から、儀式の中止勧告が来ているんだ」
「管理側というと、市民会館の?」
「いや、もっと上の方から」
「市役所ですか?」
「……まあ、そんなところだね」
榊原は曖昧に笑った。
由紀は嫌な予感がした。
この職場で「上の方」という言葉が出ると、ろくなことがない。
以前、会計処理の確認を頼んだ際にも、榊原は「上の方に聞いてみる」と言っていた。
翌日、由紀の机には訂正済みの帳簿が置かれていた。
数字は完全に一致していた。
ただし、帳簿の余白に、誰のものとも分からない手形が残っていた。
その件については、深く考えないことにした。
「中止勧告が出ているなら、延期した方がいいんじゃないですか?」
「そうしたいところなんだけどね」
榊原は眉を下げた。
「代表が、どうしても今夜やると言っていて」
「……そうですか」
「深町さんには、いつも迷惑をかけるね」
「いえ、仕事ですから」
笑顔で答えたものの、本音を言えば延期してほしかった。
夜中まで働かずに済む。
帰りにスーパーへ寄れる。
食パンも買える。
だが、決定権は自分にはない。
鞄を置き、パソコンを起動する。
まず会場の予約確認。
次に参加者名簿。
供物の購入履歴。
交通費精算。
いつもどおりの仕事を始めた。
その途中で、一枚の発注書に目が留まる。
『黄金の果実 七個』
納品された品目の欄には、『ミカン 六個』と書かれていた。
「……あれ?」
数が合わない。
しかも、品目も違う。
「榊原さん」
「はい?」
「供物の発注、これで合ってますか?」
榊原は伝票を覗き込んだ。
「ああ、それね」
「黄金の果実が七個なのに、ミカンが六個になってるんですけど」
「一個は、代表が自分で用意すると言っていたよ」
「そうなんですか?」
「うん」
「じゃあ、発注書に追記しておきますね」
由紀はペンを取り、書き加えた。
『不足分一個は代表者持参予定』
それから、少し考える。
「……ちなみに、黄金の果実ってミカンでいいんですか?」
榊原はしばらく黙った。
「……色は、黄金に近いからね」
「なるほど」
由紀は頷いた。
納得したわけではない。
ただ、それ以上追及しても仕事が進まないと判断しただけだった。
この職場では、そういう判断が必要になる。
午後六時。
参加者名簿の確認が終わった。
午後七時。
供物の搬入が完了した。
午後八時。
代表者から、予定どおり儀式を実施するとの連絡が入った。
同時に、榊原からも管理側への回答が送られた。
『神意を確かめるまでは延期できない』
由紀は文面を確認し、思わず眉を寄せた。
「……神意を確かめるための儀式なのに、神意が分からないから延期できないんですね」
榊原は苦笑した。
「まあ、そういうことになるね」
それ以上、何も言わなかった。
そのころ、召喚管理局にはもう一件の回答も届いていた。
深海の福音団からだった。
内容は、予定どおり儀式を実施するというもの。
こちらも日時や会場を変更する意思はなかった。
午後八時の期限が過ぎても、双方から譲歩の申し出はない。
ハスターは二件の回答を確認し、現地での調整が必要だと判断した。
由紀は、そんなやり取りが行われていることなど知らなかった。
午後九時を過ぎるころには、必要な書類をまとめ、会場へ向かう準備を終えていた。
窓の外では、街の明かりが夜の色を濃くしている。
帰宅する人々が駅へ向かって歩いていた。
その光景を、由紀は少し羨ましく思った。
*
午後十時四十分。
旧市民会館のロビーは、異様な緊張に包まれていた。
「だから、我々が先に予約したと言っているでしょう!」
「何を言う! こちらには正式な使用許可証がある!」
「こちらにもあります!」
二つの秘密結社が、互いに睨み合っていた。
黄昏の聖餐会。
深海の福音団。
前者は黄色い紋様を胸に刻み、後者は緑色の装飾品を身につけている。
どちらも真剣だった。
彼らにとって、今夜は神聖な儀式の日なのだ。
しかし、由紀にとっては違った。
単なる会場トラブルだった。
少なくとも、この時点では。
「あの、すみません」
由紀は、黄昏の聖餐会が設置した臨時受付机の前に立ち、声をかけた。
この机は、当日の参加者確認や資料配布に使うため、結社が持ち込んだものだった。会館の予約を管理する受付窓口とは関係がない。
「予約確認書を見せていただいてもよろしいでしょうか」
深海の福音団の代表者が振り向いた。
「貴様、何者だ」
「黄昏の聖餐会で事務を担当している深町です」
「我らの神聖なる儀式を妨げるつもりか!」
「いえ、そうではなくて」
できるだけ穏やかな声を保つ。
「会場の使用申請が重複しているようなので、管理事務所に確認を取りたいんです」
「愚かな! 我らは深海に眠る偉大なる存在の覚醒を――」
「それは分かりましたので」
由紀は笑顔を崩さなかった。
「予約番号を教えていただけますか?」
代表者は言葉を失った。
背後の信者たちがざわめく。
由紀は双方から提示された使用許可証を見比べた。
どちらも正式な書式で発行されている。
同じ会場。
同じ午後十一時からの使用予定。
そして、同じ管理番号。
「……これ、どういうことなんでしょう」
思わず呟き、電話を取り出した。
「管理事務所に連絡してみます」
「今からか!」
「はい」
「儀式まで二十分しかないぞ!」
「だから急いでいるんです」
しかし、管理事務所にはつながらなかった。
営業時間は午後五時まで。
当然だった。
「……困ったな」
すでに双方の団体は、大ホールで準備を進めていた。
由紀は二枚の使用許可証を手にしたまま、臨時受付机を離れた。
ロビーから大ホールへ続く扉をくぐる。
同じ床に、別々の儀式陣が描かれていた。
最初は互いに距離を取っていたらしい。
だが、ホールの中央を譲らなかったため、紋様の一部が重なっている。
黄色い円環と、緑色の幾何学模様。
本来なら交わらないはずの線が、床の中央で不自然な形を作っていた。
由紀はそれを見て、清掃が大変そうだと思った。
塗料が落ちなかったら、原状回復費用を請求されるかもしれない。
会場の使用料より、そちらの方が高くつく可能性もある。
そんな現実的な心配をしていた。
そのとき、背後から声がした。
「お困りのようですね」
振り向くと、黒いスーツの男が立っていた。
整った顔立ちに、柔らかな微笑。
どこか品のある雰囲気だった。
「ええ、まあ……少し」
「会場の予約が重複してしまったとか」
「そうなんです。どうして同じ時間に二件も予約が入っているのか……」
「それは大変ですね」
男は心から同情しているような表情を浮かべた。
「管理番号は確認されましたか?」
「はい。同じ番号なんです」
「なるほど」
少し考えるように首を傾げる。
「では、受付担当者も確認した方がいいかもしれませんね」
「受付担当者ですか?」
「ええ。同じ番号が発行されているなら、誰が処理したのか気になりませんか?」
由紀は手にした書類へ目を落とした。
確かに、そのとおりだった。
「ありがとうございます。確認してみます」
「どういたしまして」
男は穏やかに微笑んだ。
「それでは、良い夜を」
彼が立ち去ったあと、由紀は二枚の使用許可証を見比べた。
受付日時は、どちらも本日午前九時十四分。
管理番号も同じ。
ただし、一枚目には会館の管理事務所の担当者名が印字されているのに、二枚目は空欄になっている。
その代わり、備考欄に小さな文字があった。
『担当者不在につき、代理処理済』
「……代理?」
今朝九時十四分。
自分はまだ、自宅で眠っていた。
もちろん、この会場の予約処理に関わった覚えはない。
そもそも、会館の予約を受け付ける権限など持っていなかった。
それなのに、なぜか嫌な予感がした。
書類をもう一度確認しようとした、その瞬間。
会館の照明が、一斉に消えた。
*
午後十時五十九分。
旧市民会館の大ホールに、黄色い霧が流れ込んだ。
誰も扉を開けていない。
それにもかかわらず、霧は壁の隙間から、床の継ぎ目から、天井の照明器具から、静かに滲み出してくる。
黄昏の聖餐会の信者たちが歓喜の声を上げた。
「おお……!」
「我らの祈りが届いた!」
「黄衣の王!」
一方、深海の福音団の信者たちは恐怖に震えていた。
彼らが求めたのは、海底に眠る神格だった。
黄色い霧など、儀式の手順書には書かれていない。
やがて、霧の中心に人影が現れた。
黄色いスーツ。
人間とは異なる頭部。
顔の下半分から伸びる、複数の触手。
その姿を目にした瞬間、黄昏の聖餐会の信者たちは、自分たちが崇めてきた存在の名を理解した。
しかし、理解したのは名前だけだった。
目の前に立つものが何であるか。
その全貌を、人間の思考で捉えることなどできない。
空間が軋む。
壁の向こうから、存在しないはずの鐘の音が響く。
会館の床に刻まれた儀式陣が、ひとりでに発光を始めた。
黄衣の王が、ゆっくりと口を開く。
「――静粛に」
声は大きくなかった。
しかし、全員の耳に届いた。
いや、耳ではない。
声は思考の奥底に直接響いていた。
誰も動けない。
誰も言葉を発せない。
由紀も、大ホールの入口付近で立ち尽くしていた。
ロビーへ戻ればいい。
頭では分かっている。
だが、振り返ることができなかった。
背後にあるはずの扉が、急に遠くなったような気がした。
何だ。
あれは何だ。
人間ではない。
着ぐるみでもない。
黄色いスーツの男が立っている場所だけ、奥行きがおかしい。
遠くにいるようで、目の前にいる。
正面を向いているはずなのに、背中が見える。
視線を逸らそうとしても、どこを見れば逸らしたことになるのか分からない。
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
肺が動かないのではない。
呼吸の仕方を、一瞬だけ思い出せなくなったのだ。
由紀は扉の枠に手を伸ばした。
指先が冷たい。
心臓だけが、場違いなほど速く脈打っている。
初めて理解した。
この職場は、少し変わっているのではない。
何かが根本的におかしいのだ。
「本日の儀式について、確認事項がある」
黄衣の王が告げた。
「まず、黄昏の聖餐会」
「は、はい!」
代表者が床に額を擦りつけた。
「貴様らの申請は受理されている。だが、同時刻に別の儀式が登録されている」
「も、申し訳ございません!」
「謝罪は不要だ。予約上の不備は貴様らの責任ではない」
代表者は顔を上げた。
黄衣の王は、次に深海の福音団へ向き直った。
「次に、深海の福音団」
「ひっ……!」
「貴様らの儀式は、対象神格が異なる」
「は、はい……!」
「クトゥルフへの覚醒祈願を、この場所で実施する予定だったな」
「お、おお……! その御名を!」
「騒ぐな」
静寂。
「貴様らの儀式に必要な星辰の条件は、今夜のこの時刻には満たされていない」
「……え?」
「手順書が古い。記載された星図は、現在の観測位置と一致していない」
代表者の顔から血の気が引いた。
「そ、そんな……!」
「そもそも、使用している祈祷文も誤っている」
「なっ……!」
「第三節の古語の解釈が逆だ。あのまま唱えれば、覚醒を願うどころか、眠りの継続を祈願することになる」
信者たちがざわめいた。
黄衣の王は淡々と続ける。
「もっとも、それによってクトゥルフの眠りが左右される保証もない。貴様らが扱っているのは、その程度の存在ではない」
誰も反論できなかった。
「したがって、本日の覚醒祈願は中止とする。手順書を再確認し、改めて申請せよ」
「し、しかし……!」
「異議があるか」
空間が、ほんのわずかに歪んだ。
代表者は即座に首を横に振った。
「ご、ご指導ありがとうございます!」
「よろしい」
黄衣の王は、今度は黄昏の聖餐会へ向き直った。
「貴様らの儀式についても、一点だけ修正が必要だ」
「何なりと!」
「供物の指定に誤りがある」
「……供物、でございますか?」
「申請書には『黄金の果実を七つ』とある」
「はい!」
「添付された写真は、ミカンだ」
「…………」
「しかも、六つしかない」
沈黙が落ちた。
代表者は、そろそろと榊原を見た。
榊原は困ったように眉を下げた。
「代表。七つ目は、ご自身でお持ちになると……」
「……忘れた」
由紀は、大ホールの入口でその言葉を聞いた。
こんな状況でなければ、思わず突っ込んでいたかもしれない。
いや、今でも少しだけ思った。
だから確認したのに。
黄衣の王は静かに告げた。
「数を数えろ」
誰も何も言えなかった。
だが、ハスターの注意はすでに供物から離れていた。
床に描かれた二つの儀式陣。
黄色い円環と、緑色の幾何学模様。
それらの交点に、黒い染みが浮かんでいた。
まだ儀式の開始時刻には達していない。
正式な祈祷も始まっていない。
しかし、準備のために描かれた紋様には、それぞれの結社が長い時間をかけて意味を与えていた。
供物を置き、灯をともす。
手順を確かめるため、短い祈りを唱える。
それらの行為が、二つの陣をわずかずつ目覚めさせていた。
不完全な儀式同士が、互いの欠落を埋めるように重なっている。
そして、重なった先には、どちらの結社も意図しなかった空隙が生じていた。
黒い染みは、床に落ちた影ではなかった。
そこには奥行きがあった。
底の見えない穴が、床の表面に貼り付いている。
穴の奥から、何かがこちらを見ていた。
信者の一人が、その存在に気づいた。
「……あ」
声が漏れる。
穴の奥で、無数の瞳が一斉に瞬いた。
その瞬間、由紀の耳から音が消えた。
誰かが叫んでいる。
口の動きは見える。
しかし、何も聞こえない。
視界の端で、ホールの壁が内側へ曲がった。
ありえない方向に。
まるで、建物そのものが何かの口の中へ折り畳まれようとしているかのように。
由紀は逃げようとした。
足が動かなかった。
床の穴が、こちらを見ている。
目が合った。
いや、違う。
あれには、目を合わせるという概念がない。
見られた瞬間、自分がどこにいるのか分からなくなった。
旧市民会館。
日本。
地球。
そんな言葉が、意味を失っていく。
そのとき、黄衣の王が片手を上げた。
「閉じよ」
それだけだった。
黒い染みが消えた。
床の線がほどけ、儀式陣はただの塗料へと戻った。
曲がりかけていた壁が、何事もなかったかのように元の位置へ収まる。
由紀の耳に、音が戻った。
誰かの荒い呼吸。
床に膝をつく音。
遠くで落ちた金属製の器が、何度か跳ねる音。
そして、自分の心臓の音。
ハスターは、穴が消えた場所をしばらく見つめていた。
完全に閉じた。
残留する干渉もない。
周辺の空間に、拡大する異常は認められなかった。
それを確認してから、信者たちへ向き直る。
「貴様らが呼ぼうとしていたものではない」
誰も答えない。
「儀式とは、望む相手に必ず声が届く仕組みではない。聞きつけるものが、ほかにいないとは限らぬ」
黄衣の王の声が、ホールに響いた。
「次に同じことをすれば、私が間に合うとは思うな」
信者たちは、一斉に頭を下げた。
先ほどまで会場の使用権を争っていた二人の代表者も、今は互いを見る余裕さえなかった。
深海の福音団の代表者が、震える声で尋ねた。
「……本当に、あれは……」
「貴様らの望んだ神格ではない」
「で、では、何だったのでしょうか」
ハスターは答えなかった。
答えを与える必要がないと判断したからだ。
知ることで危険が増すものもある。
そして、今夜の彼らには、すでに十分すぎるほどの経験があった。
「儀式は中止だ。双方とも撤収せよ」
反論する者はいなかった。
*
午後十一時十二分。
事態は収束した。
深海の福音団は、儀式の再検討を約束した。
黄昏の聖餐会も、供物と手順を確認し直したうえで、後日改めて申請することになった。
二つの儀式陣の干渉は発生したものの、ハスターの介入によって異常は封鎖され、周辺への拡大も阻止された。
確認できる範囲で、身体的な被害はない。
ただし、信者たちの精神状態については別の話だった。
ある者は泣いていた。
ある者は、何もない床を見つめ続けていた。
またある者は、自分が何を見たのかを必死に思い出そうとして、そのたびに顔色を失っていた。
由紀は大ホールの入口付近で、壁に手をついたまま立ち上がれずにいた。
膝が震えている。
指先に力が入らない。
何度か深呼吸を試みたが、息を吸うたびに、あの穴の奥にあったものを思い出してしまう。
思い出したくない。
なのに、忘れられない。
「深町さん」
榊原の声がした。
顔を上げる。
「……はい」
「大丈夫かい?」
大丈夫。
そう答えようとした。
だが、声が出なかった。
榊原は、いつもの穏やかな表情を浮かべた。
「今日はもう、無理をしなくていい。片付けは私たちでやるから」
由紀は小さく首を横に振った。
「……書類だけ、確認します」
「しかし」
「確認しないと、明日……困るので」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
仕事だから。
いつもの手順だから。
それを終えれば、今日という一日が終わったことになる気がした。
目の前で世界の形が変わっても、書類の確認方法だけは変わらない。
そう思わなければ、自分が今どこに立っているのかさえ分からなくなりそうだった。
榊原はしばらく由紀を見つめ、それから静かに頷いた。
「分かった。でも、無理はしないでくれ」
由紀は返事の代わりに、もう一度頷いた。
そのころ、ハスターは会館の廊下で小さく息を吐いていた。
「……まったく」
黄色い霧が、足元でゆっくりと揺れる。
現場の危険は取り除いた。
双方の結社にも、再申請を指示した。
あとは記録を整理すれば、現場対応は終わる。
しかし、まだ気になることがあった。
会場の重複予約。
同じ管理番号。
そして、代理処理という記載。
単なる人間側の事務ミスにしては、妙な点が多い。
「お疲れさまでした」
背後から声がした。
振り向かなくても分かる。
「……ニャルラトホテプ」
「見事な対応でしたね」
「お前、何か知っているな」
「何についてでしょう?」
「会場の重複予約だ」
「ええ。知っていますよ」
あまりにもあっさりした返答だった。
ハスターは振り向いた。
「……何?」
「私が手配しましたので」
沈黙。
廊下の蛍光灯が、じり、と音を立てた。
「…………お前が?」
「はい」
「両方とも?」
「ええ」
「……なぜだ」
ニャルラトホテプは、少し考えるように首を傾げた。
「どちらの団体も、会場を探して困っていたんですよ」
「それで?」
「同じ場所を紹介しました」
「同じ時間にか?」
「はい」
「わざとか?」
「もちろん」
ハスターの触手が、ゆっくりと持ち上がった。
廊下の壁に、黄色い亀裂が走る。
「……ニャル」
「はい」
「貴様、何を考えている」
「いえ、少し興味がありまして」
「何にだ」
「互いに異なる神格を信仰する方々が、同じ会場を予約したらどうなるのか」
「…………」
「最初は譲り合うかと思ったんですが、予想以上に揉めましたね」
「お前な……!」
「ですが、結果的には良かったではありませんか。古い手順書の誤りも見つかりましたし」
「それとこれとは別問題だ!」
「そうでしょうか?」
ニャルラトホテプは本当に不思議そうな顔をした。
ハスターは彼を睨みつけた。
「管理番号まで同じだったのは、どういうことだ」
「人間の予約台帳に、少し手を加えました」
「……少し?」
「ええ。両方の予約が正式に受理されるように」
「受付担当者は?」
「本来、二件目を処理するはずだった職員は、その時間、席を外していたそうですよ」
「ならば誰が処理した」
ニャルラトホテプは微笑んだ。
「代理の方でしょうね」
「……貴様だな」
「さて」
否定しない。
ハスターは、これ以上問い詰めても無駄だと悟った。
ニャルラトホテプは嘘をつくこともある。
だが、真実を告げる方が面白いと思えば、あっさり認める。
今回の会場重複については、すでに十分楽しんだのだろう。
「一歩間違えれば、周辺一帯が消滅していたぞ」
「ええ」
「分かっていてやったのか」
「当然です」
その声には、悪びれた様子が微塵もなかった。
「ですが、あなたなら対処できると思っていましたよ」
「私が来なければどうするつもりだった」
「それはそれで、興味深い結果になったでしょうね」
ニャルラトホテプは微笑んだ。
ハスターは言葉を失った。
この男は、本当にそう思っている。
数十人の人間が命を落とそうが、都市の一部が異界へ飲み込まれようが、それを特別な悲劇として扱うことはない。
かといって、破滅そのものを望んでいるわけでもない。
ただ、見てみたかったのだ。
人間たちがどう反応するのか。
そして、ハスターがどう動くのか。
それだけだった。
「……貴様という奴は」
「はい?」
「いつか必ず、痛い目を見るぞ」
「それは楽しみですね」
心底、楽しそうだった。
ハスターは天を仰いだ。
天井には、何の変哲もない蛍光灯が並んでいる。
少なくとも、今は。
「……帰る」
「おや。もうですか?」
「仕事が残っている」
「それは大変ですね」
「誰のせいだと思っている!」
ニャルラトホテプは、少しだけ笑った。
「さて。どなたでしょう」
*
深町由紀が旧市民会館のロビーへ戻ったころには、日付が変わろうとしていた。
信者たちの大半は、すでに帰宅している。
会館の照明も元に戻った。
床に描かれた奇妙な紋様は、清掃担当者が丁寧に拭き取っていた。
由紀は臨時受付机に残された書類を、一枚ずつ確認していた。
手が震えて、紙の端をうまく揃えられない。
何度か深呼吸をする。
机の上には、いつもと変わらない事務用品が並んでいた。
ボールペン。
クリップ。
使用許可証。
領収書。
それらが、妙に遠いものに思えた。
さっきまで、自分は何を見ていたのだろう。
黄色いスーツの、異様な存在。
床に開いた、底のない穴。
あの奥から向けられた視線。
思い出そうとすると、胃の奥が冷たくなる。
目を閉じ、書類へ意識を戻した。
今は考えない。
考えるのは、家に帰ってからでいい。
「……帰ろう」
確認を終えた書類を鞄にしまう。
そのとき、受付机の上に一枚の紙が残っていることに気づいた。
会場の使用許可証だった。
例の、重複予約の書類である。
「……あれ?」
紙を持ち上げた。
先ほどまでは、受付担当者の名前が空欄だったはずだ。
しかし、今は違う。
そこには、確かに名前が記載されていた。
『受付担当者 深町由紀』
「…………え?」
由紀は目を瞬いた。
自分は、この予約を受け付けていない。
そもそも、今朝九時十四分には自宅で眠っていた。
出勤は午後からだったのだ。
会館の予約受付業務を任されたこともない。
誰かが間違えて名前を入力したのだろうか。
そう考えて、書類の下部に目を移す。
そこには、小さな備考欄があった。
『担当者不在につき、代理処理済』
由紀はしばらく、その文字を見つめていた。
そして、ゆっくりと紙を裏返した。
裏面には、手書きの文字があった。
『本日はお疲れさまでした。次回もよろしくお願いいたします』
丁寧な筆跡だった。
誰が書いたのかは分からない。
ただ、どこかで見たような気がした。
由紀は、黒いスーツの男を思い出した。
親切に受付担当者の確認を勧めてくれた、あの男性。
名前を聞きそびれてしまった。
「……変な人だったな」
そう呟いてから、自分の声が震えていることに気づいた。
今夜は、変な人どころの話ではなかった。
使用許可証の控えを鞄にしまう。
明日、榊原に確認しよう。
それで説明がつくなら、そうしたかった。
会館を出ると、夜風が頬に触れた。
街灯が道路を照らしている。
遠くで車が走っている。
自動販売機の明かりが、いつもと変わらず白く光っていた。
世界は、何事もなかったかのように続いている。
そのことが、由紀には少しだけ恐ろしかった。
彼女はまだ知らない。
自分の名前が記されたその書類が、いつ書き換えられたのか。
まして、あの黒いスーツの男が、なぜ自分にその書類を確認させたのかなど。
*
翌朝。
カルコサの宮殿。
ハスターは執務室の椅子に座り、昨日の業務報告書を確認していた。
『案件番号 召喚調整第七七四二号』
『発生原因 会場予約の重複、および儀式陣の干渉』
『対応結果 双方の儀式を中止。再申請を指示』
『身体的被害 確認されず』
『精神的影響 要経過観察』
『空間異常 発生。現地にて封鎖済み』
『周辺への異常拡大 阻止』
『原因関係者 ニャルラトホテプ』
最後の項目を見つめる。
そして、赤い文字で追記した。
『再発防止策 ニャルラトホテプを信用しない』
少し考え、さらに一文を追加する。
『ただし、信用しなくても問題は発生する』
その二行をしばらく眺めていた。
改善策として有効かどうかは疑わしい。
だが、事実ではあった。
提出印を押す。
書類が消滅した。
これで、昨夜の現場対応に関する報告は終わった。
双方の儀式は中止され、空間異常も封鎖済み。周辺への拡大は阻止されている。
ただし、会場予約の処理経緯には、まだ確認すべき点が残っていた。
同じ管理番号で発行された二通の使用許可証。
そして、担当者不在による代理処理。
ニャルラトホテプは予約台帳への介入を認めたものの、実際に誰が二件目を処理したのかについては明言していない。
「……まったく」
確認できた事実と、確認できていない事実を混同するわけにはいかない。
後者は、別途調査する必要がある。
もっとも、今すぐあの男を問い詰めたところで、素直に答えるとも思えなかった。
椅子に深く腰掛け、壁の時計を見る。
午前八時五十九分。
始業まで、あと一分。
机の上には、すでに二百八十七件の召喚申請書が積まれていた。
「…………」
静かに目を閉じる。
それから、机の端に置かれた小さな予定表へ視線を移した。
そこには、黄色い文字で一つの予定が書かれていた。
『三連休取得計画』
休息を望むようになってから、幾千年。
三日続けて仕事から解放されるというささやかな願いだけは、いまだに実現していなかった。
しばらく予定表を眺める。
「……今年こそは」
誰に聞かせるでもなく呟いた、その瞬間。
扉が三度叩かれた。
「おはようございます、ハスター」
穏やかな声。
聞き覚えのある声。
聞きたくもない声。
「本日は、少し面白いお話を持ってきました」
ハスターは天井を見上げた。
そして、心の底から呟いた。
「……ニャルの野郎」
時計が午前九時を告げた。
火曜日の始まりだった。
世界は、今日もまだ終わらない。
もっとも、黄衣の王の仕事が終わる見込みもなかった。
ニャル様が楽しそうで何よりです。
ハスター様、お疲れ様です。




