第15話 お預かりしたものがございます
土曜日、午前九時四十二分。
召喚管理局の執務室で、ハスターは一枚の申請書を処理していた。
申請者の氏名。
担当部署。
申請目的。
承認経路。
どれも正しく記載されている。
「……美しい」
黄衣の王は、しみじみと呟いた。
最近、正常な書類を見るだけで心が安らぐようになっていた。
あまり健全な精神状態ではない。
もっとも、健全な精神状態とは何かと問われれば、ハスターにも明確な回答は難しかった。
少なくとも、休暇を申請した本人が、休暇を取るために追加の業務を処理しなければならない状態は、健全ではないと思う。
「……三日」
ハスターは小さく呟いた。
三日間。
連続した三日間の休暇。
それが、彼の望みだった。
世界の支配でもなければ、信徒の増加でもない。
まして、誰かを恐怖で震え上がらせたいわけでもなかった。
ただ、三日ほど仕事をせずに過ごしたかった。
「……実に慎ましい願いではないか」
そう言って、申請書に承認印を押す。
こん。
処理済みの束へ移す。
次の書類を引き寄せる。
そのときだった。
机の端に置かれた、出所不明の帳簿の表紙が、わずかに浮いた。
「……」
ハスターは筆を止めた。
その帳簿は、管理局の正規の記録ではない。
誰が作成したのかも、どのような権限で置かれているのかも確認できていない。
出所不明の記録に、勝手な処理を認めてはならない。
その方針は変わらない。
だが、変化があったなら記録する必要がある。
彼は時刻を確認した。
午前九時四十四分。
出所不明の帳簿の表紙が、ゆっくりと開く。
紙が擦れる音がした。
ぱらり。
開かれたページには、見覚えのある項目が並んでいた。
『受付番号:000』
『待機数:40』
『接触完了:3』
そして、その下に。
新しい一行があった。
『預かり品:1』
「……」
ハスターは、しばらく文字を見つめた。
預かり品。
一。
「……何を預かった」
当然の疑問だった。
しかし、問いを口にしたところで回答が得られるとは限らない。
彼は、正規の保全記録用紙を引き寄せた。
『09:44 出所不明の帳簿に「預かり品:1」と表示』
『預かり品の名称、数量の単位、預託者、保管場所、受領者は未確認』
そこまで書いて、筆を止める。
「……いや」
もう一行、加えた。
『実際に物品が存在するかも未確認』
これでよい。
預かり品が一つあると表示された。
だからといって、何かが実際に預けられているとは限らない。
まして、自分が預かったことになるわけでもない。
「……私は何も受け取っておらんぞ」
ハスターは、出所不明の帳簿へ向かって告げた。
返答はなかった。
「受領印も押しておらん。保管場所も指定しておらん。預かり証も発行しておらん」
沈黙。
「……そもそも、何を預かったというのだ」
帳簿は何も答えなかった。
ハスターは深く息を吐いた。
「……預かり品があるなら、まず預けた者の名前を書け」
それは、ごく普通の要求だった。
物を預かるには、預ける者がいる。
受け取る者がいる。
預けた物がある。
そして、返すための手続きがある。
それらが揃って、初めて預かり業務として成立する。
「……まったく」
黄衣の王は、帳簿から視線を外した。
これ以上、相手にしても仕方がない。
彼は通常業務の申請書へ戻った。
その直後。
ちりん。
扉の向こうで、ベルが鳴った。
「……」
ハスターは顔を上げた。
今度は、はっきり聞こえた。
時計を見る。
午前九時四十七分。
彼は記録用紙へ手を伸ばした。
だが、書き始める前に、扉の向こうから声がした。
『お預かりしたものがございます』
ハスターは、静かに目を閉じた。
「……だから、何をだ」
『お預かりしたものがございます』
「聞こえておる」
『お受け取りになりますか』
「ならん」
即答だった。
扉の向こうが静かになる。
ハスターは、椅子の背にもたれた。
「預けた者も、物の内容も、保管場所もわからん。そんなものを受け取れるか」
少しの沈黙。
それから。
『お受け取りにならない場合は、お預かりいたします』
「……」
ハスターは目を開けた。
「……今、何と言った」
『お預かりいたします』
「すでに預かっているのではなかったのか」
返答はない。
「受け取らなければ預かる。だが、すでに預かっている。では、現在の保管状態は何なのだ」
沈黙。
「……説明してみろ」
『お預かりしたものがございます』
ハスターは、額に手を当てた。
「……最初に戻るな」
黄衣の王は、心から疲れた声を出した。
*
土曜日、午前十時三分。
深町由紀は、ホテルの一階にある食堂を出たところだった。
朝食は、思っていたよりもおいしかった。
温かいパン。
卵料理。
小さなサラダ。
そして、何杯でも飲めるコーヒー。
「……いいなあ、ホテル」
由紀は、少し幸せそうに呟いた。
誰かのために朝食を用意する必要がない。
食べ終えた皿を、自分で洗う必要もない。
何より、食事の途中で給与明細の確認を頼まれることがない。
素晴らしい環境だった。
「……住みたい」
口にしてから、少し笑う。
さすがに、それは無理だ。
宿泊費は榊原が手配してくれたものだった。
休養のための滞在である。
ここで暮らし始めたら、それはそれで問題になる。
由紀はエレベーターへ向かった。
ボタンを押す。
扉が開く。
乗り込む。
宿泊階のボタンを押す。
静かな機械音とともに、エレベーターが上昇した。
「……今日は、何しようかな」
仕事をしない一日。
それだけのことが、妙に難しかった。
近くの公園を散歩する。
映画を見る。
買い物をする。
部屋で寝る。
どれも悪くない。
「……とりあえず、散歩かな」
そう決めたところで、エレベーターが止まった。
ちん。
小さな音が鳴る。
由紀は、反射的に顔を上げた。
扉が開く。
普通の廊下だった。
「……」
彼女は、少しだけ苦笑した。
「もう、ベルの音にまで反応してどうするの」
ホテルのエレベーターが到着を知らせる。
何もおかしくない。
それを不気味に感じるのは、最近の出来事に神経質になっているからだろう。
少なくとも、今の音については、それ以上の意味を考える必要はなかった。
由紀は部屋へ戻った。
カードキーをかざす。
扉を開ける。
室内は、出かける前と同じだった。
ベッド。
机。
椅子。
バッグ。
そして、昨夜から置いたままの手帳。
「……」
由紀は、手帳を見つめた。
「……いや」
首を振る。
「今日は仕事しない」
自分に言い聞かせる。
机から視線を外す。
そのときだった。
こん、こん。
扉が二度、叩かれた。
由紀は振り返った。
「……はい?」
『失礼いたします。フロントでございます』
女性の声だった。
由紀は、扉の前まで歩いた。
すぐには開けず、のぞき穴から廊下を確認する。
制服姿の女性が立っていた。
手には、小さな封筒を持っている。
「……はい。何でしょうか」
扉越しに尋ねる。
『お客様宛てのお預かり物について、確認に伺いました』
由紀は、動きを止めた。
「……お預かり物?」
『はい。フロントでお預かりしているものがございまして』
「誰からですか」
『それが、差出人の記載が確認できておりません』
由紀は、しばらく黙った。
ホテルで、差出人不明の預かり物。
それだけなら、単なる手違いかもしれない。
だが、今の彼女には、軽く受け取れない言葉だった。
「……すみません。私、何かを預けてもらう予定はありません」
『承知しております』
「それ、私宛てだと確認できているんですか」
廊下の向こうで、女性が少し言葉を探した。
『お部屋番号が記載されております。ただ、お客様のお名前はございません』
「……部屋番号だけ?」
『はい』
由紀は、扉の鍵に手をかけなかった。
「それなら、受け取れません」
『かしこまりました』
女性は、落ち着いた声で答えた。
『フロントで保管を続けます。内容とお届け先を確認いたしますので、お客様にはお手数をおかけいたしません』
「……ありがとうございます」
『失礼いたしました』
足音が遠ざかる。
由紀は、しばらく扉を見つめていた。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……何なの、もう」
彼女は部屋へ戻った。
ベッドの端に腰を下ろす。
スマートフォンを見る。
時刻は午前十時七分。
由紀は、手帳へ視線を向けた。
「……いや、でも」
記録しておいた方がいい。
そう思った。
しかし、すぐに別の考えが浮かぶ。
差出人のない預かり物。
部屋番号だけの封筒。
ホテル側が確認中。
それだけなら、普通の配送間違いかもしれない。
「……仕事、じゃないよね」
由紀は、小さく呟いた。
けれど、気になった。
あまりにも。
*
土曜日、午前十時十二分。
榊原は、自宅の食卓で新聞を読んでいた。
庭には、朝の光が差している。
湯呑みからは、まだ薄く湯気が立っていた。
穏やかな休日だった。
少なくとも、今のところは。
「……ふむ」
榊原は新聞を折り畳んだ。
昨日、管理局から届いた照会事項を思い出す。
旧市民会館の利用許可証。
同一管理番号。
代理処理。
発行担当者。
そして、深町由紀の名前。
月曜日になれば、市役所へ確認する予定だった。
土曜日の今、通常の窓口へ連絡しても、正式な回答を得られるとは限らない。
だから、準備だけをしておく。
確認事項を整理し、問い合わせ先を調べる。
それ以上は、月曜日に回す。
榊原は、そう決めていた。
「……」
彼は、湯呑みを持ち上げた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
深町由紀。
「……」
榊原は、少しだけ眉を寄せた。
休ませたはずだった。
しかし、連絡が来た以上、無視するわけにもいかない。
通話に応じる。
「榊原だ」
『あ、お休みのところすみません』
「どうした」
『ホテルで、ちょっと変なことがありまして』
榊原は、湯呑みを置いた。
「……何があった」
由紀は、扉の前にホテルの従業員が来たことを説明した。
自分の部屋番号が書かれた封筒があること。
差出人の名前がないこと。
受け取る予定はないこと。
そして、受け取りを断ったこと。
榊原は、最後まで聞いた。
「……なるほど」
『これ、普通の手違いかもしれないんですけど』
「その可能性はある」
榊原は即答した。
「だが、今の状況では慎重に扱って構わん」
『……ですよね』
「封筒には触れていないな」
『はい。扉も開けていません』
「中身は見ていない」
『見ていません』
「差出人も不明」
『はい』
「わかった」
榊原は、静かに頷いた。
「ホテル側の確認を待とう。君が受け取る必要はない」
『……ありがとうございます』
「それと、今の段階で、あの許可証や管理局の件と関係があるとは考えないことだ」
『はい』
「関係があるかもしれない。ないかもしれない。それ以上は、まだわからん」
『……そうですよね』
由紀の声が、少し落ち着いた。
榊原は続けた。
「ホテルの方にも、通常の手続きで確認してもらえばいい。君が調査する必要はない」
『わかりました』
「今日は休みだ」
『はい』
「休みというのは、仕事をしない日のことだ」
『……知ってます』
「知っているなら、実践してくれ」
電話の向こうで、由紀が小さく笑った。
『……努力します』
「努力目標では困るんだがな」
榊原も、わずかに笑った。
通話が終わる。
彼はスマートフォンを置いた。
そして、少し考えた。
差出人不明の封筒。
部屋番号だけの宛先。
それだけなら、ホテルで起こり得る手違いだった。
だが、今週はすでに、名前のない担当者や、承認記録のない代理処理が問題になっている。
だからこそ、似た出来事を見たときには注意が必要だった。
似ていることと、同じ原因であることは違う。
榊原は、手元のメモを開いた。
『土曜日 ホテルで差出人不明の預かり物』
続けて書く。
『深町本人は受領せず』
『ホテル側で確認中』
『既存案件との関連性は未確認』
そこで筆を止めた。
「……これでよし」
記録は残した。
あとは、ホテルからの回答を待つ。
榊原は、再び新聞を開いた。
しかし、先ほどまで読んでいた記事の内容は、すっかり頭から抜け落ちていた。
*
土曜日、午前十時二十一分。
召喚管理局。
ハスターは、未登録の帳簿を前にしていた。
『預かり品:1』
表示は変わっていない。
扉の向こうからの声も、あれ以来聞こえていない。
「……」
彼は、通常の物品管理規程を開いた。
預かり品の取扱い。
受領の確認。
保管責任。
返却手続き。
必要な事項が、整然と並んでいる。
「……実に素晴らしい」
ハスターは頷いた。
管理局にも、きちんとした制度はある。
それが、今の状況に適用できるかは別として。
彼は、預かり品の項目を読み進めた。
そして、一つの箇所で手を止めた。
『預託者および受領権限者が確認できない物品については、正式な受領を行わず、必要に応じて保全措置を講じる』
「……そうだ」
黄衣の王は、静かに頷いた。
「そういうことだ」
誰が預けたのかわからない。
誰が受け取るべきなのかわからない。
何を預かったのかもわからない。
ならば、受領してはならない。
当然のことだった。
「……まったく」
ハスターは規程集を閉じた。
そして、正規の保全記録へ一行を加えた。
『預かり品の存在を示す表示について、正式な受領の事実を確認できず』
続けて。
『管理局は当該物品の保管責任を承認していない』
そこまで書いて、筆を置く。
「……よし」
これで、少なくとも管理局の立場は明確になった。
しかし。
ハスターは、出所不明の帳簿を見つめた。
『預かり品:1』
その数字は、消えなかった。
「……」
彼は、少し考えた。
これまでの異常な記録は、待機者や受付担当者を探しているように見えた。
しかし、今回は預かり品である。
もし本当に何かが預けられているなら、その物はどこにあるのか。
管理局の中か。
扉の向こうか。
それとも、まったく別の場所か。
「……場所がわからんのでは、保全もできんな」
ハスターは、低く呟いた。
そのとき。
机の端に置かれた出所不明の帳簿が、ぱらりと音を立てた。
ページが一枚、めくれる。
ハスターは、動かなかった。
新しいページには、文字があった。
『保管場所:確認中』
「……」
ハスターは、しばらく黙っていた。
「……貴様も知らんのか」
返答はない。
「預かり品があると言っておきながら、保管場所が確認中とはどういうことだ」
沈黙。
「……それは預かっているとは言わん」
ハスターは、深くため息をついた。
そして、時刻を確認した。
午前十時二十四分。
正規の保全記録へ書き込む。
『10:24 出所不明の帳簿に「保管場所:確認中」と表示』
『実際の保管場所は未確認』
さらに、一行。
『預かり品の存在自体も未確認』
彼は筆を置いた。
「……さて」
これ以上、帳簿を眺めても仕方がない。
通常業務へ戻ろうとした。
そのときだった。
こん。
正規の受信箱から、通知音が鳴った。
ハスターは顔を上げた。
今度は、登録済みの通信経路だった。
送信者を確認する。
榊原。
「……おや」
彼は通知を開いた。
件名は、『宿泊施設における預かり物について』。
本文を読む。
深町由紀が宿泊しているホテルで、差出人不明の封筒が確認された。
封筒には部屋番号が記載されているが、宛名はない。
由紀は受け取っていない。
ホテル側で確認中。
既存の未登録受付案件との関連性は未確認。
「……」
ハスターは、文章を二度読んだ。
それから、机の端にある出所不明の帳簿を見た。
『預かり品:1』
『保管場所:確認中』
もう一度、榊原からの報告へ視線を戻す。
差出人不明の封筒。
ホテルの預かり物。
「……ふむ」
ハスターは、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
同じ時間帯に、似た表現が現れている。
しかし、それだけでは因果関係を示せない。
ホテルの封筒が、帳簿に表示された預かり品であるとは限らない。
むしろ、そう決めつける方が危険だった。
「……だが」
彼は、低く呟いた。
「確認すべき対象は、増えたな」
今まで、管理局の未登録受付は、主に記録上の表示として現れていた。
地球側にも、不審な書類や通知が存在する。
しかし、今回の報告には、少し違う特徴があった。
封筒という、具体的な物品が存在している。
少なくとも、ホテルの従業員は、そのような封筒を持って由紀の部屋を訪れた。
由紀も、のぞき穴から従業員を確認している。
もっとも、由紀自身は封筒の記載内容を直接確認していない。
部屋番号が書かれているという情報は、従業員の説明によるものだった。
「……まずは、そこを分けねばならんな」
ハスターは、正規の保全記録用紙を引き寄せた。
『地球側宿泊施設における差出人不明の封筒』
『確認者:宿泊施設従業員』
『深町由紀への受領依頼あり』
『深町由紀は受領せず』
『封筒の記載内容および内容物について、管理局による直接確認なし』
『未登録受付との関連性は未確認』
書き終える。
そして、榊原へ返信した。
『報告を受領した。深町由紀に当該物品を受領させる必要はない。宿泊施設の通常手続きによる確認を優先されたい』
送信する。
ハスターは、出所不明の帳簿を見た。
『預かり品:1』
数字は、変わっていない。
「……」
黄衣の王は、静かに呟いた。
「……もし同じ物なら、こちらで受け取る必要もないということだ」
返答はなかった。
「そして、違う物なら、なおさら受け取る必要はない」
彼は頷いた。
「……完璧だ」
その瞬間。
ちりん。
扉の向こうで、ベルが鳴った。
「……」
ハスターは、ゆっくり目を閉じた。
「……完璧だったはずなのだがな」
*
土曜日、午前十時三十九分。
ホテルのフロントでは、二人の従業員が一枚の封筒を確認していた。
白い封筒だった。
特別な装飾はない。
封も、普通の糊付けで閉じられている。
表面には、部屋番号が印字された小さなラベルが貼られていた。
差出人の記載はない。
宛名もない。
「……これ、どこから来たんでしょう」
若い従業員が尋ねた。
年上の女性は、封筒を見つめた。
「それを今、確認しているところ」
「配送業者の記録は?」
「今朝の受領記録にはないわ」
「じゃあ、昨日の分ですかね」
「それも調べているけれど、今のところ見当たらないの」
女性は、封筒を机へ置いた。
「ただ、記録にないからといって、誰も受け取っていないとは限らないでしょう」
「……そうですね」
「まず、勤務していた人に確認しましょう」
若い従業員は頷いた。
ホテルでは、荷物の預かりは珍しくない。
宿泊客宛ての配送物。
忘れ物。
フロントでの一時保管。
それぞれ、決まった手続きがある。
しかし、今回の封筒には、必要な情報が足りなかった。
「……中、確認します?」
若い従業員が尋ねた。
女性は首を振った。
「まだ開けないわ。まず、持ち込まれた経路を確認しましょう」
「はい」
「それと、お客様には、確認が済むまでお渡ししないこと」
「わかりました」
女性は、封筒を保管用の箱へ移そうとした。
そのとき。
「あれ?」
若い従業員が声を上げた。
「どうしたの」
「このラベル……」
彼は、封筒の表面を指差した。
部屋番号が印字されたラベル。
その下に、小さな文字があった。
「……さっき、こんなのありましたっけ」
女性は、目を凝らした。
そこには、確かに文字があった。
『受領確認:未了』
「……」
女性は、少し考えた。
「ラベルを貼ったときからあったか、確認できる?」
「すみません。僕、最初に見たときは部屋番号しか確認していません」
「そう」
女性は、静かに頷いた。
「じゃあ、最初からあったかどうかはわからないわね」
「……はい」
「写真を撮って、保管記録へ添付しましょう」
「わかりました」
若い従業員は、業務用の端末を取り出した。
封筒の表面を撮影する。
画像を確認する。
部屋番号。
そして、小さな文字。
『受領確認:未了』
「……何の確認なんでしょうね」
女性は、答えなかった。
わからないものは、わからない。
そのことを、二人とも理解していた。
*
土曜日、午前十時四十八分。
榊原は、管理局からの返信を読み終えた。
深町由紀に封筒を受け取らせる必要はない。
ホテル側の確認を優先する。
妥当な判断だった。
「……よし」
榊原は、返信を保存した。
それから、由紀へ短いメッセージを送る。
『管理局にも報告しました。封筒は受け取らず、ホテル側の確認を待ってください。今日は休養を優先すること』
送信する。
その直後、スマートフォンが震えた。
由紀からの返信だった。
『了解しました。ありがとうございます。今度こそ休みます』
榊原は、少し笑った。
「……今度こそ、か」
何度目だろう。
少なくとも、今日だけですでに二度は聞いた気がする。
彼はスマートフォンを置いた。
そして、庭へ出た。
植木鉢の土を確かめる。
少し乾いている。
じょうろを取りに行く。
水を入れる。
植物へ、ゆっくりと水を注ぐ。
「……」
水が土へ染み込んでいく。
何も起こらない。
誰も、確認を求めない。
誰も、代理処理を始めない。
植木鉢は、ただ水を受け取っている。
「……素晴らしい」
榊原は、小さく呟いた。
自分でも、少しおかしかった。
最近、普通のことが普通に進むだけで、妙に安心するようになっていた。
どうやら、それはハスターだけではないらしい。
*
土曜日、午前十一時二分。
召喚管理局。
ハスターは、扉の向こうからの声を聞いていた。
『お預かりしたものがございます』
「……それは聞いた」
『お受け取りになりますか』
「ならん」
『確認が必要です』
「何の確認だ」
『受領の確認です』
「誰の受領だ」
沈黙。
ハスターは、椅子の背にもたれた。
「……受領者が決まっておらんのか」
『確認が必要です』
「それは質問への回答ではない」
返答はなかった。
ハスターは、正規の保全記録用紙を引き寄せた。
発話の内容。
時刻。
質問に対する応答。
それぞれを、順番に書き込む。
そして、ふと筆を止めた。
「……待て」
黄衣の王は、扉を見た。
これまでの異常な受付は、誰かを待たせていた。
待機数四十。
接触完了三件。
受付担当者候補。
確認行為。
だが、今回は違う。
受領の確認。
預かり品。
そして、受け取るかどうかという質問。
「……」
ハスターは、しばらく考えた。
物を預ける者がいる。
受け取る者がいる。
受領の確認が必要になる。
そこまでは、普通の手続きだった。
しかし、今回の表示には、預けた者も受け取る者も記載されていない。
「……貴様らは、誰に渡したいのだ」
扉へ向かって尋ねる。
少しの沈黙。
それから。
『お受け取りになる方へ』
「……だから、それが誰だと聞いておる」
『確認中です』
ハスターは、天井を見上げた。
「……そうか」
静かな声だった。
「……貴様らも、受け取る者がわからんのだな」
返答はない。
「預けた者もわからん。預かった物もわからん。保管場所もわからん。受け取る者もわからん」
一つずつ、指を折る。
「……それで、何をしておるのだ」
沈黙。
黄衣の王は、深くため息をついた。
「……仕事とは、何なのだろうな」
誰も答えなかった。
*
土曜日、午前十一時十九分。
深町由紀は、ホテルの部屋で靴を履いていた。
今度こそ、外へ出るつもりだった。
近くの公園まで歩く。
少し散歩する。
帰りに、何か甘いものでも買う。
それでいい。
「……よし」
バッグを持つ。
スマートフォンを確認する。
榊原からの新しい連絡はない。
ホテルからも、何も届いていない。
由紀は、部屋の扉へ向かった。
そのときだった。
部屋の電話が鳴った。
りりりり。
「……」
由紀は、ゆっくり振り返った。
「……また?」
少し迷う。
しかし、ホテルの内線電話を無視するわけにもいかない。
受話器を取る。
「はい、深町です」
『フロントでございます。先ほどは失礼いたしました』
女性の声だった。
「はい」
『お預かり物の件で、追加の確認が取れましたので、ご連絡いたしました』
由紀は、背筋を伸ばした。
「……はい」
『まず、こちらの封筒ですが、今朝の受領記録には該当するものがございませんでした』
「そうですか」
『昨夜の記録についても確認しておりますが、現在のところ、持ち込まれた経路を特定できておりません』
「……わかりました」
『また、封筒の表面に、通常の荷物管理ラベルとは異なる記載がございました』
由紀は、少しだけ息を止めた。
「……何と書いてありますか」
『「受領確認:未了」と記載されております』
「……」
由紀は、受話器を握り直した。
受領確認。
未了。
「……それ、ホテルで使う表記ですか」
『現在、担当部署へ確認しております』
「そうですか」
『ただ、現時点では、当ホテルの通常の預かり物管理で使用する表記とは確認できておりません』
「……わかりました」
由紀は、静かに頷いた。
「その封筒、私が受け取らないといけないんでしょうか」
『いいえ。お客様に受領をお願いする段階ではございません』
「……ありがとうございます」
『こちらで確認を続けますので、ご滞在中は通常どおりお過ごしください』
「はい」
通話が終わる。
由紀は、受話器を戻した。
そして、しばらく動かなかった。
受領確認。
未了。
どこかで聞いたような気がする。
だが、正確には思い出せない。
「……」
彼女は、手帳を取り出した。
新しいページを開く。
『土曜日 11:19』
『ホテルより追加連絡』
『封筒の持込経路は未確認』
『封筒表面に「受領確認:未了」と記載』
『ホテル通常業務での使用表記かは確認中』
そこまで書いて、ペンを止めた。
「……よし」
手帳を閉じる。
バッグへ戻す。
そして、スマートフォンを手に取った。
榊原へ連絡するべきか。
少し迷った。
休めと言われている。
だが、追加の情報がある。
しかも、今度は封筒の表面に、具体的な文字列が確認された。
「……これは、報告だけ」
由紀は、自分に言い聞かせた。
短いメッセージを作成する。
『ホテルから追加連絡がありました。封筒の持込経路は未確認で、表面に「受領確認:未了」と書かれているそうです。ホテル側で引き続き確認中とのことです。私は受け取っていません』
送信する。
それから、スマートフォンをバッグへしまった。
「……今度こそ」
由紀は、扉を開けた。
廊下には、誰もいなかった。
彼女は部屋を出る。
鍵を確認する。
そして、エレベーターへ向かった。
今度は、途中で電話が鳴ることもなかった。
*
土曜日、午前十一時三十一分。
榊原は、由紀からのメッセージを読んでいた。
『受領確認:未了』
その文字列を、二度読み返す。
「……」
彼は、机の上にある記録用紙を引き寄せた。
ホテルの預かり物。
差出人不明。
宛名なし。
部屋番号のみ。
受領確認未了。
持込経路不明。
そして、由紀は受け取っていない。
榊原は、ゆっくりと筆を置いた。
「……なるほど」
この情報だけで、異常な事件だと断定することはできない。
ホテルの管理上の不備かもしれない。
誰かが誤って置いたものかもしれない。
ラベルの印刷ミスかもしれない。
しかし、今週の出来事と無関係だと断定することもできなかった。
榊原は、管理局への報告文を開いた。
追加情報を記載する。
『封筒表面に「受領確認:未了」との記載あり』
『ホテル側の通常管理表記との一致は未確認』
『持込経路は未確認』
『深町由紀は受領していない』
そして、最後に一行。
『現時点で、当該封筒と未登録受付との関連性は確認されていない』
榊原は、文章を読み直した。
余計な推測はない。
事実と伝聞も区別できている。
送信する。
こん。
正規の通信が、一件送られた。
榊原は、椅子の背にもたれた。
「……さて」
月曜日の照会事項が、また増えた。
もっとも、ホテルの封筒について、市役所に問い合わせる理由はない。
別の施設の別の出来事である。
だから、調査も分ける必要があった。
旧市民会館の許可証は、市役所へ。
ホテルの封筒は、ホテル側へ。
管理局の未登録受付は、管理局へ。
それぞれの確認結果が揃って初めて、関係があるかどうかを検討できる。
「……順番だな」
榊原は、静かに呟いた。
「何事も、順番だ」




